この連載では、倫理学に関する予備知識が全くなくとも、倫理学とは何か、どのような学問なのかがよくわかるように、できる限り平易に説明する。想定されている読者は、教養科目で初めて倫理学に触れる大学生を中心に、社会に出て様々な経験を積んだことで改めて教養の重要さを痛感しているビジネスパーソン、哲学や倫理学に興味があるが、いきなり古典を読むのは大変なので、とりあえず優しい入門を求めている人々、そして大学での勉強に期待を抱いている高校生等である。このため、大学生はもちろん、高校生でも読んで分かるように書くつもりである。ただし、倫理学という学問の性質上、どうしても一部に抽象的で分かり難いところも出てくくるかもしれない。その場合でもできる範囲内で具体例を用いて、平易に説明することに努める。
さて、では倫理学を学ぶ意義は何なのか?何のため倫理学を学ぶ必要があるのだろうか?
先ず、倫理学を学ぶことによって何か有益な資格が取れるのならば、倫理学を学ぶ意義は分かり易い。確かに倫理学と資格試験は無関係ではない。中学や高校の社会科の教員免許を取る際に、履修が義務付けられている科目の一つではある。特に高校の公民では必須の科目といえるだろう。また、公務員試験の中でも倫理関連の問題が出る場合がある。しかし、こうして列記してみれば分かるように、倫理の勉強が直接資格取得に役に立つ人というのは、ごく一部でしかない。ではこういうごく一部の人だけが勉強すればよいのだろうか。倫理学というのは。
そうではない。もっと広く、言ってしまえば万人にとって学ぶ価値があるのが倫理学という学問なのである。なぜそうなのか?
それは私もあなたも人間であり、倫理学というのは人間の基本的な特性にかかわっているからだ。それはどんな特性か。
それは我々が何につけても「いい」とか「悪い」とか言ったり、考えたりすることにかかわるからだ。
この場合、いいとか悪いというというのを、最も広い、何気ない意味で使われるよう用法で考えてみるとよい。「善」とか「悪」という、重い意味ではなくて、軽く何気なく使う意味での「いい」や「悪い」である。例えば体調がいい、悪い。気分がいい、悪い。感じがいい、悪い。美味しい食事という意味でのいい料理、不味いという意味での悪い料理。よく切れるという意味でいいナイフや鋏。友達のことを褒めるときに、あいつはいい奴だといったりする。こういう日常絶え間なく使う意味でのいい悪いである。
こういうさりげない「いい」や「悪い」は、かしこまった、重たい意味での「善」や「悪」とは必ずしも一緒ではないが、どうも同じような質というか、類似した用法だという気がしないだろうか?
試しに、もし我々がいかなる場合でもいい悪いを考えなくなったらどうなるだろうか?おそらく我々はまともに何かをすることをできなくなってしまうのではないか。というのも、我々は何かをするとき、一々その意味を考えながらやったりすることは少なく、多くは無意識的だったりルーティン的な繰り返しだったりするわけだが、その場で反省するとすぐ分かるように、基本的に自分にとってよい行為をしているから。寝る前に歯を磨くのも、既に習慣化していて、深く考えることもなく行なうことだろうが、反省してみればそうしたほうが「よい」から習慣化したのであり、そうしないことによって虫歯になったりするのは「悪い」と思っているわけだ。つまり我々は基本的に何かしらよいことを行い、悪いことを避けることを基本方針として生きている存在だといえるだろう。
しかしこんな広い意味でいい悪いを言えば、おおよそ行為をする者は全てそうなのではないという疑問が出よう。しかしそうとはいえないだろう。精巧なロボットが作られたとして、外見的には我々と同じように振舞っているように見えても、実は全てプログラムされた通りに動いてきるだけだったとしたらどうか。また昆虫は、ミツバチのダンスのように、傍から見ると緻密に振舞っているように見えても、その実は、我々よりもむしろロボットに近い行動原則に従っているのではないかといわれる。「飛んで火にいる夏の虫」という。我々は自殺願望もないのにわざわざ自分から火の中に飛び込んだりはしないだろう。そんな振る舞いをいいとは思わないからだ。
こうなってくるとどうやら、我々におなじみのいい悪いの意味が見えてくるのではないか。つまりいいとは我々が選択したいものであり、悪いとは我々が選択したくないものなのである。この最大限広い意味でのよいは、英語のgoodでも事情は同じである。グッドもよい同様、道徳的な善を意味するが、それ以前に有用性一般を意味する。複数形のグッズが商品を意味するのは、グッドの一般的な意味が有用性一般であることの一つの証拠だろう。
ここから、倫理学が探求しようとする善悪の問題とは、最も根源的な次元では、人間の基本的な存在のあり方、つまり人間とは常に何かしら選択することによって生きている存在であることに由来する。この際、選択すべき物事がよいことであり、すべきではないことが悪いことになるわけだ。この意味で、倫理学は誰にとっても実に身近な学問ということになるのではないか。誰もが人間であり、人間は選択する存在だからだ。
そして、選択されるものは一般的に有用なものである。それを選択することによって選択しないよりも有用な結果が得られるので、選択するのである。これは考えてみれば当たり前で、分かり易い。この分かり易い常識を原理とした倫理学説が、功利主義である。功利主義がどういう考えなのかは、後で解説する。
人間は選択するものであり、選択するのは有用だからである。だから有用なものを選択せよというのが功利主義なのだが、こういうと、そもそも倫理学というのは功利主義であり、功利主義以外の考え方があるということ自体が不思議に思えるかもしれない。ところが実際には倫理学=功利主義ではなく、他にも様々な考え方がある。特に、まさに功利主義とは逆に、有用なものだから選択しようという人間の自然な傾向に従うことを拒否し、有用性の有無にかかわらず、人間にとって義務なのだからやるべきだという、義務論という考えもある。しかもこの義務論は特殊例外的な理論ではなく、功利主義と並ぶ倫理学上の有力な立場なのである。
このように倫理学とは、物事のよしあしを判断し選択的に行為するという人間の基本的なあり方にかかわる学問である。だからこれを学ぶことは、人間とは何かという、それこそ人間にとって最大の問題を考える際に必須である。また、このような大きな話でなくとも、自分がこれまで意識せず行なってきた善し悪しに基づく選択、つまり価値判断を反省することで、生活に新たな色合いを加えることができるのではないかという気がするのだ。
我々は日常生活のいたるところで価値判断を行なっている。その多くは些細な、重要ではない判断である。しかし中には、自分にとって極めて重要な、ゆるがせにできない判断もある。この場合、深く反省することなく、その場の思いつきで判断するのと、じっくり考えて、これしかありえないというところまで考え抜いて判断するのでは、自ずと意味も違ってくる。後悔せずに納得のいく価値判断をするためには、行き当たりばったりではない判断を、すなわち原理原則に基づいた判断をする必要がある。無原則に行なう判断は危いが、原理に則った判断は確かである。確かな価値判断ができるためには、価値判断に関する学問である倫理学を学ぶ必要がある。これが倫理学を学ぶ最大の「甲斐」というか、倫理学が役に立つゆえんではないかと思う。
これに加えて、物事に対して無原則ではなくて確固とした価値判断を行なえることは、それ自体が大きな楽しみではないかと思う。我々は人間として、価値判断をせずにはおられない存在である。自分は難しいことを考えるのは嫌いだ、深く考えたくないというのは、そのような形で、物事を深く考えるべきではないという価値判断をしているのである。しかしこのような価値判断では、本当にそれでよかったのか、他にありようはなかったのかというようなモヤモヤが付きまとうのではないか。そして物事というのはおおよそ、モヤモヤしてるとすっきりとせずに気分が晴れず、気持ちがよくないのではないか。
これに対して、確固として原理的に価値判断できれば、モヤモヤせずにくっきりと頭の雲が晴れて、すっきりと気持ちいいのではないか。気持ちがいいのは楽しいことだろう。だから倫理学を学ぶことは、人間の本質に迫るような、ためになることというだけではなく、人生を楽しくする一つの秘訣でもあるのではないか。この本では、こうした、人生を楽しくする倫理学を、読者に込み入った議論に耐えてもらって苦しみながらではなく、なるべく平明で、曖昧さの少ない形で分かり易く、それ自体一つの楽しい学びとなるように議論したいと思う。
それを学ぶことが人生を楽しくする倫理学を、楽しみながら学べるように工夫して、倫理学とは何かを解説していきたい。
田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)