楽しく学ぶ倫理学 第2回 倫理学と宗教との関係田上孝一

人間は何かにつけていい悪いといった価値判断を行い、自分がよかれと思う選択をする。この選択を確固としたものにする原理の探求が倫理学である。いわば、日々の生活を無原則ではなく、原理原則に基づいたものに変えていこうという試みである。

しかしこのように倫理学を規定すると、直ちに疑問がわいてこないだろうか。それは倫理学ではなくて宗教の問題ではないかと。確かに宗教というのは、それを信仰する人の生活を原理的なものにする。その教義が命じるように生きることが善とされ、反するように振舞うのが悪となる。しかも、大抵の宗教において、信者の日常生活において求められるなすべき物事、つまり規範は、倫理学的に見ても適切であることが普通である。

例えばどの宗教でも困っている人に対してはできる限り助けるように信者に指導するだろう。人は人で自分さえよければいいのだから、困っている人がいても直接自分の利害にかかわらない限りは放っておいてよいというように信者を指導する宗教団体は、殆どないはずだ。むしろ多くの教団はボランティア活動に熱心であり、震災地の支援でも、宗教団体の善意は非常に目立つものとなっている。また、宗教は基本的に家族や友人といった、基本的な人間関係を大切にするように教えるのが普通だ。親を敬い、友人を大切にする。誠実であることを信者に勧めるのである。

こうした宗教の教えは、倫理学的にも適切であり、倫理規範としても望ましいものである。だとしたら倫理と宗教は同じであり、ことさら倫理を問題にすることはないのではないか。

確かに倫理と宗教は似かよっている。どちらも人間にふさわしい人生を、善行の勧めを通して提起する。この点で倫理と宗教は同じである。しかしそこには確かな違いもある。

例えば宗教にはタブーというものがある。イスラム教で豚肉食が禁じられているのは有名だが、ユダヤ教でもタブーである。ユダヤ教では他に、肉と乳製品を同時に食べてはいけないというタブーもある。ハンバーガーはいいが、チーズバーガーはダメということになる。しかも単に食品の種類で分けるだけではなく、食べてよい食品でも一定の作法に則らないと食べていい食品にはならないとされる。イスラム教では鶏肉を食べることは問題ないが、どの鶏肉でもいいということにはならない。捌くときの作法があるのだ。鶏の場合はムスリム(イスラム教徒)の処理者が「アッラーフ・アクバル」(アラーは偉大なり)と唱えながら頚動脈を切断して殺処分するのが作法とされる。ちなみにイスラム教には聖職者は存在しないので、誠実なムスリムならば誰がやってもかまわないとされる。こうしたイスラムの作法に則った肉はハラール(許された)フードとされる。現在は日本でもムスリム向けのハラールフードショップが多くできて、各地のムスリムに食材を提供している。

こうして宗教には食のタブーがある場合がある。タブーの中には、カフェインは刺激物で宗教生活の妨げになり、また神から授かった体を害するものだから飲んではならないというような、それなりに合理的な説明が伴うものもある。だがイスラムの豚肉の場合はクルアーン(コーラン)に明記されているからというのが基本的な理由で、体にいい悪いというような合理的な説明はない。また、カフェインにしても、少量ならば体を害さないので、節制せよというのではなくて完全に禁じる教義には、科学的な合理性はない。

しかし宗教の教えというのは往々にしてこのように極端で厳密なものである。ダメなものは有無を言わさずダメであり、その理由は神の命令というような神聖で究極的なものであったりする。このような宗教的タブーに関しては、それの正しさを証明する手段はない。信じる者には真理であるが、信じない者には非科学的な思い込みのように見える。

このような宗教的タブーについてはどう考えればいいか。それは日本国憲法の精神でとらえるべきだということだ。つまり、信教の自由である。信じる者は自由に信じて己の信念に従って行動してよいが、信じないのも自由であり、信仰を強制してはならないということである。また逆に、信仰を抑圧してもならない。非ムスリムがムスリムに豚肉食を強制してはいけない。給食だから残さず食えなどと命令する権利は誰にもない。それは明確な人権侵害である。

では倫理学はどうなのか?倫理学は有神論的でも無神論的でもありえる。無神論的な倫理学の場合は、そもそも神を前提しないから、合理的理由を超えた絶対的規範というのは出てこない。どこまでも人間が自身の責任で提起する理論である。従ってその議論は基本的に合理的で科学的なもの、少なくとも現在の科学的知見と原理的に対立するものにはならない。では有神論的な場合はどうなのか。有神論的であっても倫理学である限りはその議論はあくまで合理的な推論と、常識的な科学的知見の範囲内に収まっている必要がある。

牛肉や羊肉は食べてはいいが、豚肉は食べてはいけないという規範は、科学的な裏づけがえられないものであり、倫理学的な規範として打ち立てるのは不可能である。豚のみを特別視する合理的理由がないからである。また、アルコールやカフェインが体に悪いからといって、それを一切禁ずるという規範は科学的な合理性がないものであり、倫理学的な規範とはなりえない。倫理学的にいえるのは、アルコールやカフェインはなるべく摂るべきではないとか、摂り過ぎないようにしたほうがいいという程度までであって、これらを絶対的に禁ずる合理的理由は存在しない。だから、倫理学にあっては、提起される規範は徹頭徹尾合理的で、常識的な自然科学的知見に反しないものである。神の罰や奇跡というような類は、倫理学には入らないのである。

では有神論的な倫理学はどうなのだろうか?

やはりたとえ神を信じていても、倫理学である限りは合理性を超えた教義を理論の中に持ち込むべきではない。ムスリムの倫理学者であっても、豚肉を絶対に食べてはいけないというのは、個人的な信仰生活及び神学上の問題ととらえるべきで、倫理学理論として正当化を目指すのはおかしい。それはもう倫理学ではない。

では倫理学と宗教は両立しないのであって、倫理学者は必ず無神論者でなければいけないかというと、決してそんなことはない。確かに牛肉はいいが豚肉はダメという理論は倫理学ではない。しかし、理論的にはどの肉も食べてはいいが、個人的には豚肉は食べないというスタンスは可能である。また逆に、豚肉を食べてはいけない合理的な理由として、豚は哺乳類であり、哺乳類は苦痛を感じるから殺すべきではないという理論を立て、豚のみならず牛や羊も食用にすべきではないという規範を提起することもできる。この場合はそもそも肉を食べないベジタリアンになるべきだという理論的提起であって、当然イスラムの教義にもかなっているのである。

このように、倫理学と宗教は人間の生きるべき道を指し示そうという点では同じ方向を向いているが、その拠って立つ原理が異なる。宗教は合理性を超えた信仰であり、倫理学は合理的推論である。人間が生きる意味について、宗教は人知を超えた究極的解答を提出するが、倫理学は人知の範囲での合理的な問題提起に留まる。この意味で、倫理学と宗教は同じ問題に対して異なる次元でアプローチをするものと言えるだろう。

次元が異なるため、宗教の教義と倫理学理論は通常はバッティングしない。仮にぶつかってしまう場合は、あくまで倫理学は理論として、合理性の範囲内に留めて、宗教は理論を超えた個人的信仰の問題としてとらえ返すことによって、両者の調和を図る必要がある。これが倫理学と宗教の基本的な関係である。

ところで、倫理学は宗教と異なり、信仰ではなくて合理的な判断に基づいて善を追求する学問である。そして善とはとりあえず、我々がそれをよりよいと考えて選択するところの何か、選択のための基準だとした。ではそのようなよいもの、つまり善は、どうして善なのだろうか?言い換えれば、何があることを善なるものにするのだろうか?

一つの考え方は、それは事実だということである。事実としてよいからよいということだ。

事実というのは、我々がそれを真実だと思うような事物のあり方である。我々は普通、自らが見たり聞いたりするものを事実だと考えて行動する。外出して歩く際には、信号を守り、クルマに撥ねられないように気を使う。クルマが道路を走っているのを事実だと考えて、この事実に基づいて注意するのである。そしてこの事実は、我々が見ようが見まいが厳然として存在すると考える。赤信号で横断歩道の前に立ち止まっていると目の前にクルマが通り過ぎていく。目を瞑るとクルマが見えなくなるし、耳栓をすれば走行音も聞こえなくなる。だからいって、目を瞑って耳栓をすれば、クルマが消えてなくなるとは思わないだろう。知覚されるものしか存在しないという信念を持つのは自由だが、目を瞑って耳栓をしたらクルマは知覚されないからクルマは存在しないということで赤信号を渡ったら、跳ね飛ばされてしまう。

善というのもこの類のものだと考えるわけである。それは我々が見ようが聞こうが、それに関係なく、それ自体として存在しているのである。つまり善というのは何か客観的なものであり、よい物事というのはその物事に客観的な善の性質が何らかの形で含まれていると考えるのである。この場合、価値判断とは、実は事実判断である。善し悪しに正解がある。善の実像に迫った判断の方が、遠い判断よりも正しい。そして最終的には、善の真相に到達できると考えるわけである。

このような考え方は、善に対する客観主義的な考え方であり、善というものが事実として実際に存在するので、実在論といわれる。倫理学史の伝統では、後に見るプラトンのイデア論が代表だ。現代の倫理学でも、実在をどのように考えるかで意見が多様だが、有力な考え方の一つである。

これに対して、これとは正反対の考え方、善の事実などというものは存在せず、善い悪いとは我々がそう考えるから善いのであり、悪いのだという考え方がある。つまり善い悪いというのは客観的な事実ではなく、我々人間がそう見なすからに過ぎないという考え方である。これは善に対する主観主義的な考え方であり、客観的な善の実在を認めないので、反実在論ということになる。

ではどちらが正解なのであろうか?少し考えれば分かると思うが、誰もが納得できる形ではっきりとこっちが正しいとはいえない問題である。善が客観的な実在だとしても、誰もがはっきりと分かる形で「善そのもの」のようなものがあるとは思えない。いや、それはある。心の目で見ることができるのだと主張してもかまわないが、誰でもそのような心眼を持つことはできないだろう。逆に主観主義の側は、はじめから善を絶対的な真理のようなものとして想定していない。見方を変えれば、疑問の余地なく客観的な善が提示されえないから、善は主観的なものだろうと考えるわけである。

ということは、善を主観的なものと考えるか客観的な善が実在すると確信するかは、各人の前提的な立場に依拠するところが大きい。

例えば宗教を信仰し、神の実在を硬く確信している人は、善とは神の愛であり、神様がよいと定めたものが善であり、それは単なる人間の主観的な感覚や取り決め的ではなく、客観的な真実だと主張することができる。このような考えはアガペー主義といわれるが、これが正しいかどうかは前提となる神の実在にかかっている。しかし神の実在というのは客観的に証明できる事柄ではない。だからもしアガペー主義が正しければ善の客観説が正しいということになるが、これが正しいという保障はどこにもないのである。

こうして、善いものはそれ自体で善いのか、それとも我々が善いと思うから善いものなのかという問いの答えは、どちらとも考えうるということになる。我々は曖昧さよりも明確さを尊ぶべきで、はっきりと答えがある場合は断言したほうがよい。しかし原理的に答えが定まらない場合は、そのようなものとして受け止めて、両論を吟味し、自分が適切だと思うほうを選択する必要がある。善が客観的か主観的かというのはこの種の問題である。つまり、是非はあなた自身が決める問題だということだ。

田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)