十分でわかる日本古典文化のキモ 第2回 『方丈記』助川幸逸郎

○生々しい「文治地震」の描写

2011年3月11日、東日本の全域を、猛烈な地震が襲いました。地震は津波を呼び、津波の惨禍は未曾有の原発事故まで誘発し――5年の歳月を閲した今も、私たちはその痛手から立ち直りきっていません。

3.11の厄災の直後、『方丈記』にある地震の描写が、「あまりに生々しい」と話題を集めました。そのくだりを、私の現代語訳で掲げると以下のようになります。

〈……激しく大地震が起きたことがあった。その様子といったら尋常ではない。山は崩れて河をうずめ、海は傾いて陸地をひたした。土は裂けて水が湧き出し、岩は割れて谷に転がり落ちる。渚を漕ぎ進む舟は波間で翻弄され、道を走っていく馬は足の踏み場もなく惑乱する。都の近隣、どこを見ても、伽藍・仏塔に無傷なものは一つとてない。ある建物は崩れ、ある建物は倒れている。塵と灰が立ち上って、その勢いの凄いことといったら煙のようだ。地面が動き、家が壊れる音は雷さながらである。家の中にいると、建物はたちまち潰れそうに見える。そこで外に飛び出すと、地面が割れて裂ける。羽がない人間は、空を飛ぶことも出来ない。龍であれば、雲の上にでも逃げるだろうが。「恐ろしいことの中でも、もっとも恐れるべきなのは、他でもなく地震だったのだ」と実感させられた。
 こんな風に激しく揺れることは、少しのあいだで止んだけれども、余震はしばらく絶えなかった。ふだんならびっくりするほどの地震が、20回、30回と起こらない日はない。10日から20日経つと、だんだん間隔が開くようになって、あるときは1日4、5回、2、3回、もしくは1日おき、2,3日に一度など、だいたいその余震は、3か月ほども続いたろうか。4大元素のうち、水・火・風はいつも害をなすけれど、大地というのはこれといった凶事を起こさぬものだった。昔、斉衡(引用者注:854年~857年のあいだに使用されていた元号)のころのことだとか、大地震が起きて、東大寺の大仏の御首が落ちたり、大変なことがあったそうだが、それでも今回ほどではなかったと聞く。
 地震の直後は、人はみんな自分の無力を口にして、心の濁りも薄らいでいるように見えたものの、それから月日が重なり、何年も経た後は、そうしたことを言葉にして話す人もない〉

ここで語られているのは、元暦2年=文治元年(1185)に発生した「文治地震」です。この前の年、壇ノ浦で平家が滅びました。平家の怨霊が世界を滅ぼすため地震を起こした――人々はそう噂したと、『平家物語』は誌しています。

余震の起こり方に関する記述など、私も3.11の少し後に読み、その正確さに驚きました。それから、

「被災した直後は、安穏の上に胡坐をかいていたことを反省していたのに、何年か経ったらみんなすっかり元通り」

という一節も実に鋭い。現在の私自身が叱責を受けているようで、「ゴメンナサイ」とあやまりたい気分になって来ます。

 

○飢饉が平氏を滅ぼした

源平の戦いが始まった治承4年(1180)、日本列島は広い範囲にわたって干害に襲われました。西日本を中心に、農作物は各地で壊滅的打撃を受けます。その影響で発生したのが、あくる養和元年(1181)の大飢饉です。

この「養和の飢饉」についても、『方丈記』に詳しい記述があります。それによると、干害がもたらした不作は2年続きました。疫病などが追い打ちを掛けたこともあって、都の中だけで43200人あまりが亡くなったとか。

〈別れられない夫や妻を持っている者は、愛情がより深いものの方が必ず先に死んだ。その理由は、我が身を二の次にして、相手を気の毒に思っているために、ごく稀に得た食べ物も相手に譲るからである。だから、親と子がいたら、当然のことわりとして、親が先に命を落すのであった〉

飢饉や経済恐慌がもたらす「生存の危機」は、民衆を為政者から離反させる。これは、古今東西変わらない「歴史の原則」です。たとえ為政者が「危機」を助長したわけでなくとも、 生き延びる困難を感じると、人々は別の「救ってくれるボス」を求めます。「養和の飢饉」によって、平氏政権は大きく揺らぎました。

平氏にとってさらに不運だったのは、貨幣経済を広めるべく、宋銭の流通を推し進めていたことです。「養和の飢饉」のころ、平氏は資産の多くを銭のかたちで保有していました。貨幣の効力は、食糧難の折には失われます。たとえば太平洋戦争後の混乱期、農産物をヤミで譲ってもらうには、衣類などの「現物」を用意する必要がありました。平氏は資産を「お金」に換えてしまった故に、飢饉に際しての「食糧調達力」を著しく低下させていたのです。

――平氏に味方して戦うと、満足に食えない――

この「身も蓋もない事実」のため、平氏は多くの配下に背かれることになりました。

 

○「コミュ力」よりも「こだわり」の人・鴨長明

戦乱、飢饉、大地震――1180年代の日本では、何ものかに呪われたかのごとく凶事が起きています。この「厄災の時代」に立ち会った「不平でいっぱいの教養人」が、人生観を語った――ひと口にいえば、『方丈記』はそういう著作です。

筆者である鴨長明は、1150年代半ば、京の下賀茂社に所属する神職の子として生を受けました(正確な生年については諸説あり、万寿2年(1155)説が最有力)。和歌と管弦にすぐれ、1200年前後には、宮廷サロンの主催者であった後鳥羽院に親しく用いられています。

ただし、性格的にはかなりの「気難し屋」でした。

元久元年(1204)、下賀茂社に付属する河合社の禰宜(神主に次ぐ地位の神官)に欠員が生じました。下賀茂社は、長明の父が神職をつとめていた社です。後鳥羽院はこの「空きポスト」を、長明に与えようと図ります。ところが、下賀茂社のトップが「長明には神官としての実績がない」と主張、頑としてこれを受けいれません。困りはてた後鳥羽院は、「次善の策」を提案しました。それまで「官社」に認定されていなかった神社を新たに昇格させ、その禰宜に長明を当てることにしたのです(禰宜は公的なポストなので、「官社」にしか置かれません)。

「代案」を持ちかけられた長明は、「本来の望みを踏みにじられた」と怒り、失踪してしまいます。「父親とゆかりのある地位」に、強烈な思い入れがあったのでしょう(「河合社の禰宜になれそうだ」と伝え聞いた折には、涙を流して喜んでいたそうです)。だからといって、「プランB」をひねり出した後鳥羽院に、少しも感謝のそぶりを見せないのは大人なげなさすぎます。

「わざわざ「官社」を新設してポストを与えようとしてくれているのに、つむじを曲げて姿をくらますとはあんまりだ」

長明と同時代を生きた源家長(1170~1234)も、そう日記に誌しています。

それからまもなく、長明は出家したようです。始めは大原に隠棲し、5年後、『方丈記』というタイトルの由来となった1丈(約3メートル)四方の小屋に移り住みます。この小屋は、解体して車2台に載せて運べるようになっていました。釘を使わず掛け金で資材をつなぎ、屋根も建物の上に載せるだけ、という特殊な工法を採用。設計にも組み立てにも、携わったのは長明ひとりだけです。

和歌や音楽といった、「長い修練が要る道」の第一人者。「希望のポスト」に就けないとなると、権力者の好意を無にして引きこもる。ひとりで隠棲するための、特殊なつくりの小屋を自作する――「こだわり」のあることには粘りづよく熱中する分、空気を読んで「ほどほど」にしておくのが苦手なタイプ。長明の事績をたどっていくと、そういう「技術者気質」の人柄が浮かんできます。現代に生まれていたら、コンピューターソフトの優秀な開発者としてもてはやされていたかもしれません。

和歌や管弦といった「芸事」の世界でも、技術力は重んじられます。ただし、それだけが「求められるもののすべて」ではありません。たとえば、パトロンやお弟子さんたちと、上手に付きあっていくことも必須となる。長明は、そういう「コミュニュケーション力にかかわる条件」を充たせませんでした。このため、和歌や管弦の技能はありながら、当人が納得のいく地位には就けないまま生涯を終えています。

〈そもそも、人は友だちに接する時、裕福な相手を大事にし、世話を焼いてくれる人とのつながりを優先させる。必ずしも情け深い友や性質の良い友を愛するわけではない。だったら、楽器と花、月だけを友にするのが一番だ。人に仕えている人間は、恩賞をたくさんくれて、どんどん引き立ててくれる主人を重んじる。雇い主に対し、愛情をかけて庇護してくれるとか、穏やかで落ち着いた人物であることとかはまったく求めない。だったら、誰のことも雇わずに、自分を召し使うのが一番だ〉
〈今、私はこの一部屋だけの庵を自分では愛している。たまたま都に出ていった時には、自分が物乞い同然となったことを恥ずかしく感じるが、戻ってきてここに居る時は、他人が俗事にあたふたしていることを哀れに思う〉

いずれも、『方丈記』に見える長明の言葉です。「自分を受け入れてくれなかった世間への不信」が滲み出ています。「世捨て人」として暮らしてはいても、半生の間に積もった「評価してもらえない恨み」は消せなかったようです。

 

○実は「不遇」とはいえなかった?

平氏が滅びた後も、政情はなかなか安定しませんでした。

京の朝廷が西国を掌握し、東国は鎌倉幕府が支配する――そんな「二重政権状態」が、承久の乱(1221)まで続きます。朝廷、幕府それぞれの内部でも、激烈な主導権争いがくり返されました。

天候も相変らず乱れがちでした。先にも触れましたが、飢饉の恐怖が迫ると世の中には殺伐とした空気が立ち込めます。反対に、気候が温暖で食糧が足りている時期には人心も穏やかです。

たとえば16世紀は、全国的に気温が寒冷で農業生産も振るいませんでした。だから、充分な食糧を確保するためには余所から略奪してくる他なかった。この時代が「戦国乱世」であったのはそのせいだといわれています。秀吉が台頭するころには、気候が温暖化し、「他人の食い扶持」を盗ってくる必要はなくなっていた。こうなると、「戦争はやめよう」という気運が起こります。「天下統一」は、民衆のお腹がいっぱいになったから実現したわけです。

12世紀末から13世紀にかけて紛争が絶えなかった。その理由の一端は、慢性化した食糧難にあります。天象に運命を狂わされたのは、平氏だけではなかったのです。

鎌倉幕府2代将軍頼家と3代将軍実朝は、いずれも若くして暗殺されました。承久の乱を首謀した後鳥羽院と順徳院は流罪となって、都に戻ることなく生涯を終えています。元久3年(1206)には、歌人としても知られる摂政・藤原良経が38歳の若さで変死。政敵に暗殺された疑いが現在でも払拭されていません。

朝廷でも幕府でも、頂点にいる人物が畳の上で死ねない――この時代は、それほどの混乱期でした。もちろん、彼らに仕える公家や御家人も、激しい浮沈を体験し、予期せず命を落したりしています。

こうした「生きることがロシアンルーレット」という状況では、少しぐらい空気が読めてもサバイバルにはつながりません。ある日ある場所で巧妙に立ちまわった。すると翌日、そのことが原因で惨殺された――そんな類のことが始終起こるからです。

むしろ、どの勢力にも加担しない「傍観者」を貫くほうが、「抗争の時代」を生き抜くには有利かもしれません。誰にも引きたてられなければ、誰からも睨まれない。体制が一変したとしても、「傍観者」が「粛清」の対象とされることは稀です。

長明は、60歳を越えた年齢で病没しました。当時としては、天寿を全うしたといえるでしょう。建暦元年(1211)には、関東に下向して将軍実朝と面会しています。和歌に熱心だった実朝が、「都の一流歌人」の来訪を朝廷に請い、長明が派遣されたのです。そのころ長明は、すでに「方丈の庵」に引きこもっていました。それでもなお、歌詠みとしての名声は高かったことがうかがえます。

長明の生涯は、当人の「不遇感」とは裏腹に、あの時代の文化人としては恵まれていたほうです。特殊技能を持った「傍観者」であった。そのことが幸いして、世間から一目置かれつつ生き残ることができたのでしょう。

冒頭で触れた、震災後数年を経た「民衆の心変わり」に対する明察。あのような「批評眼」に、「傍観者」でなくては持ちえない「シニカルな知性」を私は感じます。それを活かして、『方丈記』のみならず、歌論書の『無名抄』、説話集の『発心集』といった不朽の著述を長明は残しました。

 

○長明に学ぶ「所属しない生き方」

現代では、国内の気象状況によって飢饉が起こることはありません。農作物は輸入できるからです。今日、「生存の不安」は、「不況」や「格差の拡大」によって生じます。

19世紀から20世紀にかけて、先進国の主要産業は重工業でした。そうした状況では、大量の労働力が国内で求められ、雇用は比較的安定します。ところが現在、製造業の拠点は新興国に移り、先進国の経済は情報産業や金融業が支えています。これらの領域では、限られたエキスパートしか必要とされません。

また、IT化の進行によって、「人間がやらなければいけない仕事」は急速に減っています(私が大学生のころはまだ、駅の改札口に駅員が何人も並び、切符にハサミを入れていました)。

先進国の「普通の人々」にとって、「安定した働き口」は「高嶺の花」になりつつあるのです。「格差の拡大」がさまざまな地域で問題になり、ごく限られた富や地位しか、一般の庶民には配分されません。その「ちっぽけなパイ」を必死になって奪いあい、あぶれた人々は、「移民」や「隣国」に矛先を向ける。「ヤツらが不当に奪っているから、われわれは困窮するのだ! 」と考えるわけです。

「生存の不安」と「排外主義」が蔓延する殺伐とした世界。その中で生きのびることを、現代人は強いられています。長明の生きた時代に、「今」は近いのかもしれません。

日本人は、「どの組織に属しているか」で他人を評価するといわれます。そういう性癖を持った仲間に囲まれながら、安定した「働き口=所属」を持たずに生きる。そこには、「生計の見通しが立たない」というに留まらない苦痛があります。「所属を持てない時代」は、日本に住むわれわれにとってとりわけ厄介です。

長明は、「どこにも身を寄せない特殊技能者」として混乱期を生き抜きました。その生涯は、現代の日本人にとってかけがえのない「指針」となる。私はそのように確信しています。

すでに触れたとおり、長明自身、みずからの「所属しない生き方」にどれほど価値があるか、理解していたとはいえません。「父に縁故のある社の神官」という「所属先」に固執していたわけですから。そういう「自分を理解していないところ」も含め、長明のありようには、「人間という存在の面白さ」がぎっしりつまっています。

そして、私個人としては――。「所属しない生き方」の意味を自覚した「世を恨まない長明」。そんな存在になることが目標です。

助川 幸逸郎(すけがわ こういちろう
1967年生まれ。東海大学文化社会学部文芸創作学科教授・岐阜女子大学非常勤講師。おもな著書に『文学理論の冒険』・『光源氏になってはいけない』・『謎の村上春樹』・『小泉今日子はなぜいつも旬なのか』・『教養としての芥川賞』(共著)・『文学授業のカンドコロ』(共著)などがある。