バター抜きは「ドライ」 第5回 ピザにまつわるエトセトラ、あるいは矛と盾のラプソディー葛生賢治

ニューヨークで坂本龍一さんと握手したことがある。

「坂本龍一さん」なんて気安く呼ぶと、まるで僕があの世界のサカモトと知り合いのような印象を受けるかもしれないけれど、そんなことは全くなくて。ニューヨークにある日本人組織「ジャパンソサエティー」で開かれた「教授」とジョン・ゾーンのジョイントコンサートに行って、運良く公演後に出てきた彼を追っかけて握手してもらった、というだけの話。我ながらかなりのミーハーである。

でも特筆すべきなのは、どこの誰でもない僕なんかが教授と握手できてしまったシチュエーションである。日本だったらあんなビッグネームを「出待ちして握手」なんて絶対無理なわけで。ジャパンソサエティーという団体が開く文化イベントは大都会ニューヨークに住む日本人たちの交流促進のため、という目的もあって、坂本龍一コンサートなんかでもかなりお手ごろな値段でチケットが購入できた(確か日本円で2-3千円くらいだった)。彼にしてはありえないくらい少人数のホールでの演奏だったし、楽屋から出てきてロビーを横切って車に乗るところを追いかけて握手できてしまうほど、小じんまりとしたライブだったのだ。要するに、アメリカという場所であるがゆえ、そしてお互い日本人であるがゆえ、世界的アーティスト坂本龍一と一般人の僕の距離が近くなってしまったというわけ。

以前にテレビでダウンタウンの松ちゃんが、彼の映画初作品「大日本人」を出品してカンヌ映画祭を訪れたときのことを話していた。初めてのカンヌ、世界映画界の最高峰へ身を置いた彼はその不安から、同じくカンヌ入りした北野武監督と会場でばったり会ったとき、「おもわず抱きしめたくなった」らしい。日本お笑い界のトップに上りつめた松本人志でさえ、カンヌでは無名の新人映画監督になってしまうし、日本ではめったにありえない「ビートたけしとダウンタウン松本のツーショット」なんてもの実現してしまう。場所が変われば本国での位置関係が大きく変わる、という例である。

人種のるつぼ、と呼ばれることが多い大都会ニューヨークはやはり、様々な人種・文化的バックグラウンドを持つ人たちがごっちゃになって暮らしているけれど、本当に「ごっちゃに」なっているわけではない。ハーレムやブロンクスなど、アフリカ系アメリカ人たちが昔から多く住んでいる(または、住まされている)地域から、イタリア人街「リトル・イタリー」や韓国人街「コリアンタウン」、そして巨大なチャイナタウンにいたるまで、結構はっきりと分かる形で人種の「住み分け」が行われている。もちろん、最近ではブルックリンなどニューヨークの中でも昔からアフリカ系・中南米系の人たちが住んでいた地域へ巨大な資本が流れ込み、おしゃれなカフェができたり高層マンションが立ったり、それによって「地元」の人たちが郊外のほうへ追いやられる、なんて動きはあるものの(僕はブルックリンに住んでいて、近所のビルに落書きで「White kids are coming.(白人のガキどもがやってくるぞ)」と書かれていたのを見たことがある)。

異なる外見、文化、考え方等をもつ人種がひとつのところに集まると、無意味な衝突を出来るだけ避けるための手段として有効なのは、それぞれが集まって自分たちのコミュニティーを形成する、ということだろう。そこでどうしても避けられないのは他人種に対するステレオタイプ・先入観が発生する、ということだ。そして、自分たちのコミュニティーの対岸にある「異」なるコミュニティーを眺める形で、それまでそれほど近しくなかった本国の者同士が強制的に近い場所に置かれてしまう。松ちゃんはいとも簡単にビートたけしと並んでカメラのフラッシュを浴び、「世界のサカモト」と一般日本人がたやすく握手できてしまう。それがどれほど「不自然」な現象であっても。

僕が通っていたボストンカレッジでも、ニュースクールでも、新入生のためのオリエンテーションというのがまずあり、様々な説明会やらワークショップやらが催された。世界各国から集まった留学生のための説明会もあり、参加すると「お互い早く親睦を深めるためにも、自分の国の文化などを紹介しあいましょう」なんて時間もあった。エジプトからの留学生は自国の風土やら文化、自分の好きなエジプトの音楽を語り、イタリア人は「僕の趣味はパスタ作りです」と自己紹介し、という具合。まるで自己啓発セミナーにでも参加してるような違和感。僕は「日本人」なわけで、日本文化なんてものを紹介しつつ、自分のアイデンティティーを語ったり。いったい何の意味があるんだこれ、と思った。

ワークショップを主催したのは哲学科ではなくて大学のもっと統括的な部署だから、まあ気持ちは分かる。要するに世界はピザのようになっている、と言いたいのだろう。ピザのホールパイがあって、この一切れはマルゲリータピザになっていて、その隣はペペロニピザ、そしてその隣はほうれん草とマッシュルーム、という。それぞれがそれぞれのピザの違いをリスペクトしつつ、お互いに敬意を払って自分の一切れを美味しくいただきましょう。ぱくぱく。世界に平和と愛を。好きな言葉は「ありがとう」。

なんだかなあ、としか言いようがない。いや、もちろん文化的多様性を重んじるとか、いわゆるダイヴァーシティーというものに全く異論は無い。それはそれで素晴らしい概念である。でも、ひとたびピザ的世界観を受け入れた瞬間から、様々な問いが放出するのを避けることは出来ない。ペペロニピザとマルゲリータは同じ大きさでいいの?ペペロニの塩分量とほうれん草&マッシュルームのそれを比べたら差があるけど、それぞれ同じ面積なわけ?ペペロニでもほうれん草でもない、マリファナを乗せたピザ一切れが登場したらどうなる?コカインを具にした一切れがあったら?それをピザとして尊重すべき?排除すべき?排除するときの「理由」は?ピザの具に「正解」はあるの?無いとしたら、そもそも「ピザ」自体に正解は存在するの?等々。

つまり、多様性という「みんなそれぞれ多種多様でいいじゃん」的考え方、これ自体がかなりあやふやな地盤の上に成り立っているのである。

パッと見、多様性って素晴らしいアイデアだ。「○○こそ絶対だ!これを認めない奴はバカだ!」って頭から湯気立てて「自分の絶対」に固執してる人に向かって、「まあまあ、そんなに凝り固まらないで、人それぞれ、違っていいじゃありませんか」とやさしく肩をたたく。ひとつじゃなくていいじゃん。ばらばらでいいじゃん。人間だもの。チンゲン菜に刃物。

でもこれって、「日本人はお箸でご飯を食べるけど、西洋人はナイフとフォークで食べる」とか「私はゆでたまご嫌いだけど、坂東英二さんがゆでたまご好きでも一向に構わない」とか、文化や好き嫌いのレベルでのみ問題なく通用する話。

「牛と豚と鶏はおいしく食べていいけど、犬やクジラを食べるなんて人として間違っている」

「一夫多妻制こそが男女がもっとも平和に共存できるシステムだ。男1対女1の結婚なんてナンセンスだ」

「同性と恋愛するなんて、『自然の摂理』に反している」

「神の存在を認めないなんて、脳に欠陥がある」

「女子が成人になる儀式として女性器の一部を切除することはわが国の『文化』であって、外国からとやかく言われる筋合いは全く無い」

これら全て「みんなそれぞれ正しいんだから、全部『正解』ってしようよ」でオッケー?

多様性って、「全てを等しく認める」という意味ではない。と同時に「全てがばらばら、みんな好き勝手やって良い」という意味でもない。「どこまで多様性を認めるべきか」「多様性とは何か」「なぜ多様性が良いのか」という質問に答えなくてはならない。

そんな質問、理性的に答えられるのか?

「正解」を導きだせるのか?

多様性に「ただひとつの真理」は存在するのか?

「そんなの、多様性が良いに決まってるだろう」「現実がそうなってるんだ」「それ以上いちいち聞くな」と答えるだけでオッケー?

目の前にピロピロ教の信者がいるとしよう。ピロピロ教とは、宇宙を支配するピッピロ・ピロピロ4世という神様に従う宗教。この世で起きていることは全てピロピロ4世様のご意思の表れ。毎日ピロピロ体操をすることで、ピロピロ様とリンクすることができ、幸せになれる。

「なぜピロピロ4世様に従うのが正しいんですか?」と、その信者に聞いてみよう。

「そんなの、ピロピロが正しいに決まってるだろう」「現実がそうなっているのだ」「それ以上いちいち聞くな」と答えないだろうか?

多様性という考え方だって、「なぜそれが正しいのか」を理性的に問わなければ、最悪の場合、「多様性こそが絶対なんだから『なぜ?』なんて考えなくていいのだ」という、「多様性こそ神」な宗教が立ち上がることになる。その宗教こそ、多様性がもっとも嫌っているものに他ならない。そもそも盲目的な「絶対」という考え方が危険だから、それから脱するための特効薬が「多様性」であったはずなのに。そして多様性は自殺を遂げる。

じゃあ、ちゃんと理性的に「多様性」を議論しましょう、となるだろう。でも、それも果たして可能だろうか?

どの多様性が良くて、どの多様性が悪いのか?「良い」と「悪い」を分けるのには基準が必要である。そして、その基準は「絶対」でなければならない。なぜって?「イスラム国」は「国ではない」と「絶対」的に言い切らなければ、われわれの求める多様性は確保できないからだ。

でも、結局は「絶対」を導入することになる。なぜ「絶対」が良いのですか?という質問には「それ以上いちいち聞くな」と答えることになる。

民主主義の名の下、ドナルド・トランプが台頭してきたり、中東で「絶対的な神」の名の下に異なる宗教が衝突したり、多様性と絶対性の問題には終わりがない。だから有史以来、同じような争いが繰り返されているのである。そこでは「なぜこんなことが起こるのか?」という問いは的外れである。そもそも多様性は絶対性と切り離せないことがその本質だからだ。言い換えると、表が裏で裏が表のメビウスの輪の一側面を「多様」と呼び、一側面を「絶対」と呼んできただけなのである。それを理解することが、本当に「モノゴトを理解する」ということなのだろう。そもそも論理というものが矛盾と共に生まれているのだ。

何を偉そうに「いるのだ」なんて言い切っているんだこの野郎、と思うかもしれない。でもね、これって僕が言い出したことではないのです。そもそもこうした矛盾にぶち当たることが哲学のスタートなのだから。ソクラテスの対話はそのもっとも革新的な部分に「矛盾と向き合う瞬間」が存在するし、その後の哲学者たちの膨大な量の言葉はみな、ソクラテスやプラトンが開いた「どうしようもならない矛盾の瞬間」との格闘の火花を記録したものにすぎないのだから。

かくして、ピザの世界は失われた。パンドラの箱は開けられてしまった。20世紀後半にアメリカンプラグマティズムという立場で最も大きな議論を呼んだ哲学者リチャード・ローティは「絶対的な『真理』という考え自体がもはや必要なくなった」と言った。彼はモノの考えの定点となる真理、土台となる真理が存在する世界を「失われてしまった世界(The World Well Lost)」と呼んだ。

なんかものすごーく悲観的なこと言ってるように見るかもしれない。でも、それは違う。そもそも「失われた世界」なんていって悲劇の主人公になる人なんていないはずだ。最初からそんな世界は存在しないって、僕らはうすうす分かっているのだから。なぜって?これを読んでる日本人のみなさん、いきなり外国の人から「おー、あなたはニホンジンですねー。フジヤマ、ゲイシャ、テンプラ、ハラキリですねー。わんだほー」って言われたら違和感を感じるでしょう。そこまで極端でなくても、自分に「日本人」としてのアイデンティティーを過剰に求められたら、多かれ少なかれ違和感を感じるはずである。

われわれには、多様性の名の下に「はい、あなたという人はこのピザの人だから、このピザがあなたの全てです」と言って閉じ込められない部分が存在しているからである。あらゆる「フジヤマゲイシャ」的ステレオタイプが絵空事にしか見えないのと同様に、あらゆる「ピザ的世界観」は真実の一部しか言い当ててない、と直感的にわれわれは共有している。ピザからはみ出す部分、どう名前をつけていいか分からない具の部分。自分は日本人だけど、同時に「あんたは100%日本人だ!」って言われると、なぜか残る違和感。あるようで、無いようで、それでもあると言わざるを得ない、そんな「ピザの割り当て(日本人アイデンティティー)からはみ出す何か」を共有しているのである。当たり前だ。ピザはある意味正しくて、ある意味間違っている。正しくて同時に間違っていることを、矛盾と呼ぶのだから。

矛盾によってわれわれは底なし沼に引きずり下ろされ、奈落の底へ落ちる。世界を失う。と同時に矛盾によって救われて、元いた場所へ帰って来る。世界を取り戻す。いや、取り戻せればハッピー、というだけなのだ。

スタート地点とゴール地点が全く同じ、1ミリも違わず同じ地点なのに、もはや同じように世界を見ることが出来なくなるような体験。一辺回って帰ってくる体験。全てが同じなのに、全てが違う意味を持ち始める体験。あれ、なんだこれ?世界ってこんなんだったっけ。こんな感じで今まで来たんだっけ。ていうか、これからこうすりゃいいんじゃね?自分、ちょっと目が覚めたっぽくね?という体験。

「哲学」とはフィロソフィアの日本語訳だけれど、古代ギリシャ語でフィロは「愛」、ソフィアは「知恵」のこと。哲学が知恵を愛する行為そのものだ、とすれば、知恵とは世界が二度と同じように見えなくなる知的体験のことなのかもしれない。僕はニュースクールでのトレーニングでなんとか一辺回って帰ってくることができ、知恵の実を食べることができたかと思うけれど、やる気になれば誰にだってフィロソフィアは可能なのだと思う。世界を失い、取り戻す気さえあれば。

ちなみにニューヨークで、友達に誘われてとある自己啓発セミナーの無料体験レクチャーとやらに潜入したことがある。穏やかそうなおじさんがホワイトボードの前で様々なポジティブシンキングをレクチャーした挙句、「これから先を学びたい人は週末に開かれるセミナーに参加してください。500ドル(5万円以上)です。」と言ってきた。僕はもちろん参加などせず、代わりに自分の住所・氏名・年齢・職業・電話番号・メールアドレス全てをばっちり書いたカードを提出して帰ってきた。あなた方のやってることは僕には1ミクロンも必要ないですが、連絡したければいつでも連絡ください、と。逃げも隠れもしません、と。後日、そのセミナースタッフから電話があった。

「先日はご参加ありがとうございました。あなたはいま何か手に入れたいものはありますか?」と聞かれた。

「はい、僕は哲学者なので『真実』が欲しいです」と言った。

「、、、。そうですか。お話ありがとうございました」と電話を切られた。

やっぱり真実って無いのかなあ。世界は彼らにとっても失われているのか。ピロピロ。

葛生賢治(くずう けんじ)
1970年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒用後、サラリーマン生活を経て渡米。2000年ボストンカレッジ大学院哲学科修士課程終了。2007年ニュースクール大学院哲学科博士課程終了。ニューヨーク市立大学哲学科非常勤講師を経て、現在東京にて執筆活動中。フリーウェブ雑誌「OUR」チーフエディター。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。趣味は駄洒落づくり。代表作は「オジー・オズボーンの叔父におスボーン履かせてちょうだい」。