楽しく学ぶ倫理学 第5回 神話から哲学へ(西洋古代倫理学小史その一)田上孝一

これまでの連載では、倫理学は行為の選択基準である規範を考察対象とする学問であるとした上で、倫理学と宗教や哲学との関係を説明した。これにより倫理学の中心問題は人間であり、人間による人間のための学問であることが明らかになった。しかし、現代の動物関連科学では、人間を他の動物と絶対的に区別される独自な存在だと前提していた旧来の哲学及び倫理学の基盤を掘り崩すような知見を当然なものとするに至っている。もはや人間は「万物の霊長」ではなく、人間という動物に過ぎないというのが、進化論を前提とする現代科学から導かれる当然の帰結なのである。

ところが、倫理学研究の世界では今でも、人間の特別視は当然の前提であり、人間を相対化した上で規範を考えるという方法論は、一般化していない。このような旧態的な人間中心主義に換わる、新たな非人間中心主義的な倫理学の本格的展開が現代倫理学の中心問題の一つであることを、前回の連載では示唆した。

そのため、本来ならば直ちに動物の権利のような、人間を相対化する議論に移るべきところではあるが、倫理学の基礎を易しく解説するという本連載の主旨からは、そのような応用的問題は暫く後に取っておく必要があるように思われる。

そこでここでは、倫理学という学問の基本をなお一層よく理解できるように、その発生の場面に立ち会って見たいと思う。倫理学がどのように生まれて、そもそも何を問題にしていたのか。その歴史を尋ねることにより、倫理学という学問の性格をよくつかむことができるのではないかと思う。

哲学と倫理学の始まり

何事もその始まりにおいて、最も基本的な姿が示されている。そのため、始まりを尋ねることは、そのものの一番基本的な要素を理解するのに役立つ。倫理学がどのように始まったかを知ることは、倫理学という学問を学ぶ上でも有益である。

倫理学の始まりを問うための前提は、哲学の始まりを知ることである。倫理学は広い意味での哲学の一部だからだ。

哲学とは先に見たように、世界に対する合理的な説明の試みである。だから世界に対する非合理的な説明、例えば、「世界は神が作ったのであり、その理由は人知を超えたもので、言葉で説明することはできず、ただ神を信じる他ない」というような理論は、哲学ではないといえるだろう。こういう説明は哲学ではなく、宗教に属する。宗教と哲学は密接な関係にあるが、それぞれの提起する理論の究極根拠が合理的な説明にあるか、それを超えた信仰にあるかによって区別される。神を信じるかどうかが哲学と宗教の違いではなく、神の実在や存在の必然性をあくまで言葉で説明しようとしている限り、それは哲学であって宗教ではない。

倫理もまた同じである。善とは何かという問いに対して、例えばそれは神の作った秩序だと答えれば、これはアガペー主義という一つの倫理学上の立場になる。しかし、これを理論ではなく、疑う余地のない絶対的真理だと主張すると、倫理学説ではなく宗教信条になる。人はどのような宗教信条を持っても自由であるが、宗教信条を打ち出すだけでは、信条を異にする他者と対話できない。他者との対話のないところに学問もない。従って学問である倫理学も不可能になる。あくまで理論として、間違える可能性のある一つの仮説として提起される限りで、学問は成り立つ。

人類は遥か昔から善悪や幸福や不幸に関して、多くのことを考え語り伝えてきた。しかしそれは宗教と密接不可分な形であった。宗教ではなく、学問としての倫理学の成立は、宗教によってではなく、哲学的に世界を説明することを前提とする。哲学が始まって暫しの後に倫理学も始まったのである。

神話とは何か

人間と動物の伝統的区別は、現代においては揺らいでいる。とはいうものの、明らかに区別される面もある。人間が言語を用い、物語を紡いでいく存在だというのは、その最たるものだろう。その際人間は、自分にとって重要な事柄を、言葉でもって、物語を作って説明し、納得しようとする。その体系が宗教であり、宗教において世界の起源を説明する物語が神話である。人類は哲学的に、そして今日ではむしろ科学的に世界を説明する前に、神話でもって世界を説明しようと試みてきた。従って神話には、哲学以前の哲学のあり方が示されていると言えよう。

神話の役割は、それを信じる人々に、物事の起源に関して説得的な説明を与えることである。この世界はどうして出来たか、何故人は死ぬのか、どうして男女の区別があるのか。あるいはまた、なぜ昼夜が交代し、季節が巡るのか。こういう、人間にとって極めて重要な事柄を説明し、人々に納得させるのが神話である。

神話の神話たるゆえんはこの際、今日における科学的説明とは対照的に、神や精霊といった超自然的な存在の営為によって世界が形作られ、秩序が形成されたとされることである。その営為の特徴としては、物事の起源となる行いのため、一回的な出来事だということである。それと共に、その出来事の結果が、その後の人々に強い規範的な制約を与えるということがある。つまり、神話の中で神的存在は、その後の人々のなすべきこと、してはならないことの究極的な理由を与えるのである。その意味で、神話は哲学以前の哲学であるとともに、倫理学以前の倫理学ともいえよう。

世界に対して古代人なりに納得のゆく説明を与えるということのみが神話の全てだとはいわないが、少なくとも主要な機能の一つであることは疑い得ない。この意味で、人間は常に自らの生の意味を問う存在であり、その意味では人間は常に哲学的であったのである。

哲学の誕生

世界を宗教的にではなく合理的に説明しようとする哲学、人間のなすべき善を宗教的権威とは独立に説こうとする倫理学は、丁度同じ頃に世の東西で発生した。インドでは様々な哲学学派が様々な学説を展開した。仏教の始祖たるゴータマ・シッダッタ(ガウタマ・シッダルタ)も、その中の一人だったのである。古代中国では孔子や荘子、それに墨子といった諸子百家があった。これら東洋哲学の伝統は多様で豊かであるが、現代の哲学と倫理学の直接の源泉となるのは、古代ギリシアの哲学と倫理学である。そこでここでは、古代ギリシアに話を絞りたい。

西洋哲学の誕生した地である古代ギリシア世界はまた、豊かな神話伝承によって名高い。大衆レベルで言えば、古代ギリシア人の殆どがゼウスやアポロンという神々の実在を信じて疑わなかったのであり、ホメーロスやヘシオドスの語る神話世界をそのまま受け入れていたのである。しかしごく一部の人々の中に、旧来の神話的な世界説明では物足りなく感じる、先進的な意識が登ってきた。これらの人々が哲学を始めるのである。

哲学の始まりは、古代ギリシア世界の東側、現在のトルコ半島の先端部に位置する一地方であるイオニアの、ミレトスというポリス(都市国家)にある。アレストテレスによれば、ミレトスのタレスこそが最初の哲学者だとされる。そのためタレスとその後継者によってなる学派を、ミレトス学派という。ではなぜタレスが最初の哲学者なのか?

アリストテレスによれば、タレスは万物のアルケーを問い尋ねた。ために最初の哲学者だという。アルケーというのは起源や根源という意味である。つまりタレスはこの世界が何により始まり、何により成り立っているかを問うたということである。この問いに対して、神話では神が世界を作ったとか、神がこの世界に最初に現れたと説明される。それが最終的な論拠で、どうして神なのか、そもそも神とは何なのかという問いはない。つまり神話においては、今日でいう科学的な仮説の性格がない。それは無条件に信じるべき絶対的真理なのである。ところがタレスは、世界の根源を神話とは違った方法で説明した。タレスは万物のアルケーは水だとしたのである。

ここでいうアルケーには、世界の始原という意味と、世界を構成する基本要素という、両方の意味があると思われる。勿論我々が住み、目の当たりにしている世界は水だけの世界ではない。水がアルケーということは、この世界は始まりにおいては水のみからなり、やがて水があらゆるものに変化してできたのが、この世界ということであろう。この説明は、神話的な世界説明とは質的に異なる。世界の根源は何らかの神という、具体的な超自然的存在ではなく、水という、抽象的で自然的な物質である。従ってアルケーが水だというタレスの説明には、神話のような有無を言わさずに信仰を強要できる余地はない。一つのありうべき世界説明のあり方に過ぎず、仮説的な説明である。あくまでタレスという一個人が世界の本質について、彼なりの合理的な説明をしようとしている。これが哲学であり、哲学的な態度である。つまり哲学とは世界に対する合理的な説明を、仮説的な形で提起しようとする試みである。このような提起を最初にしたのがタレスである。だから最初の哲学者なのだ。

タレスがアルケーを水だと考えた理由は詳らかではないが、水が偏在していることや、柔軟で変幻自在なこと、植物の種を発芽させるような、生命の発生と関係している等のことが念頭にあったのだろうと推測される。そしてタレスが哲学者であるゆえんは、彼の説が後続の人々に批判され、乗り越えられたからである。神話は書き換えられることがあっても、理論的な不備が発見されて乗り越えられるものではない。しかし哲学は、後続の人々が絶えず旧説を乗り越えようと試みるような知的営みである。だからタレスもまた、弟子によって乗り越えられたのである。

次回はタレス以降のミレトス学派の理論展開を追うことにしたい。

田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)