十分でわかる日本古典文化のキモ 第3回 『古今和歌集』仮名序と『土佐日記』(上)助川幸逸郎

○「日本人の語学下手」は宿命なのか?

「日本人は宿命的に英語が苦手である」――そんな意味の言葉を、私たちは毎日のように耳にします。
曰く、「英語では、動詞の後に目的語が来る。中国語はこの点、英語と同じだが、日本語では動詞より先に目的語が示される。日本語と英語の隔たりは、中国語と英語のそれよりずっと大きい。このことは、日本語ネイティヴが英語を習得するうえで、重度のハンディキャップとなる」
また曰く、「日本語ほど母音の種類に乏しい言語は滅多にない。それゆえ、日本語を母語とする人間は、外国語の発音や聞きとりに苦労する」
しかし、私たちの文化には本当に「英語下手にならざるを得ないDNA」が埋めこまれているのでしょうか?
歴史を紐解けば、必ずしもそうではないことがわかります。
たとえば平安京に都が移されたばかりの9世紀前半。この時期朝廷は、官僚たちの「中国語表現力向上」に力を入れていました。役所や大学で漢籍を読みあげる際には、当時の中国語と同じ発音に拠ることを義務化。それをチェックする「音博士」という役職もありました。
日本で最初の「漢詩アンソロジー」は、751年成立の『懐風藻』です。その中に収められた作品には、「和臭」がきついものが多いとしばしば指摘されます。「和臭」とは、「日本語ネイティヴに特徴的な〈中国語表現の誤り〉」のこと。この「和臭」が、9世紀になって編まれた3つの「勅撰漢詩集=天皇の命で編まれた漢詩の詞華集」にはほとんど認められません。
国際的に通用する「中国語発信力」を、廷臣たちに身に着けさせる――そうした「国策」は成果を上げ、日本人の作る漢詩文は、『懐風藻』から半世紀あまりの間に「本物の中国文」になったのです。

○「天才・空海」を生んだ9世紀の語学教育システム

グローバル・スタンダードに照らして恥ずかしくない漢文を書ける日本人――その筆頭は、真言密教を日本に伝えた空海でしょう。
804年、遣唐使の一員として、空海は大陸の土を踏みます。帝都・長安で、恵果という真言密教の正統を継ぐ僧に師事。空海は恵果に才を認められ、奥義のすべてを伝授されます。
空海への教導を終えて4か月、恵果は世を去りました。弟子たちは、師の功績を称える石碑を建立。そこに刻まれる碑文は、空海が起草しました。
恵果の名声は輝かしく、門人は総計で2000名を超えます。僧侶として道をまっとうするには、相当な教養がなければならない。恵果の弟子たちは例外なく、「中国語を書くこと」に長けていたはずです。空海は、2000人以上の「手ごわいライバル」たちから、「自分たちを代表する中国語使い」と認められたことになります。
空海の天分が、例外的にすぐれていたことは事実でしょう。ただ、彼の遺稿を見ると、唐に渡る以前から、「和臭」のない本格的中国文を書いています。国内にとどまったまま、「外国語で作文する力」を延ばす。それを達成するには、当人の資質だけでなく、学習環境の整備が欠かせません。平安初期の日本には、空海を生み出せるだけの「外国語教育システム」があったのです。

○激変する東アジア情勢と「ガラパゴス化」のはじまり

それにしても、「国際的に通用する中国語表現力」の養成が、どうして「公的な教育目標」になったのでしょうか? 簡単にいうと9世紀前半、唐のような「グローバル国家」を装うことが、国家としての方針だったからです。
「覇権国家」である唐にはかなわないにせよ、渤海や新羅といった「ふつうの東アジアの国」に対しては優位に立ちたい。そのためには、唐以外の「ローカル国家」と、自分たちの違いを鮮明にする必要がある――そこで打ち出された路線が、唐に準ずる「グローバル国家」を標榜することでした。
このころの天皇のキサキや公卿(現在の大臣クラスにあたる高官)には、渡来人系氏族出身者の名前が見えます。「グローバル国家」にふさわしい「他民族体制」を維持していく。当時のわが国は、まがりなりにもそれを原則に動いていました。「中国語の振興」も、そうした「グローバル化路線」の一環に他なりません。
ところが。
9世紀の後半になると、唐では内乱が続発し、「滅亡へのカウントダウン」が始まります。このことは、東アジア全域に激変をもたらしました。
「最強国家」である唐に、「その地の支配者」として認定してもらう。唐を取りまく「ローカル王権」は、そうやって「生き残り」をはかっていました。したがって、「親玉」である唐が力を喪うと、各地の「子分」たちの存立もあやうくなる。事実、907年に唐が滅びた後、926年に渤海が、930年には新羅が、それぞれ倒れています。
唐が衰退した以上、唐に準ずる「グローバル国家」であることを誇っても無意味です。それどころか東アジア情勢は、唐の周辺国でも体制が揺らぐほうに向かっている。この流れに飲み込まれてしまったら、日本の天皇も覆されかねません。朝廷は存続を賭け、「ガラパゴス化」に向けて舵を切りなおします。
この「引きこもり路線」が明確に打ち出されたのは、宇多天皇の治世(887~897)でした。894年には遣唐使を停止。天皇の生活スタイルも大きく改められます。たとえばそれまで、天皇は食事の際、椅子に腰掛けて全国の産物を口にしていました。これは、中国皇帝にならったやりかたです。宇多はこの「中国式」を廃し、床にひろげられた敷物に座って、畿内で摂れたものだけを食べ始めました。以後、この「純日本式」が、帝王の食事法として定着します。
文化面でも、宇多は「ドメスティック革命」を推しすすめました。
幾人かの歌詠みを集め、右と左の2組にわける。主催者が題を出し、それにしたがって右組と左組のひとりずつが和歌をつくる。どちらがすぐれているのか判者が裁定。その後、同様の競作を、題を変えながらつづけていく――これが、「歌合(うたあわせ)」と呼ばれる競技の基本ルールです。この「歌合」を、宇多は奨励しました。「勅撰漢詩集」ならぬ「勅撰和歌集」をつくる目論見を抱いていたためです。作者や作歌事情がつまびらかな和歌が、「歌合」をするとまとまって生み出される。それらは詞華集を編む際に、恰好の「ネタ元」になります。
「唐の威光」を借りない国家運営――これを持続させていくには、「中国製の教養」と対等のステイタスを、「自前の文化」に与えることが欠かせません。「国家公認の和歌秀作撰」をつくり、和歌に漢詩と同じ「重み」があると周知させる。「ガラパゴス化」をすすめるうえで、この課題の達成は必須でした。
宇多が、みずからの第1皇子・醍醐に譲位して8年を経た延喜5年(905)。日本で最初の「勅撰和歌集」である『古今和歌集』は成立します。「唐なしでやっていけるシステム」は、ここに確固たる支柱を得たのです。

○「和文」の誕生と『古今和歌集』仮名序

『古今和歌集』の画期性は、たんに「史上初の勅撰和歌集」という点にとどまりません。その冒頭に掲げられた「仮名序」は、「和文」で書かれた史上初めての「公式文書」です。
「和文」とは、「漢字とかなで表記された日本語の文章」を指します。漢字をくずして作られた「ひらがな」と、漢字の一部を独立させてできた「かたかな」――奈良時代から平安時代初期にかけて、両者は相ついで生まれています。
「かな文字」が成立するまで、「日本語を書くこと」は、たいへんな「難事業」でした。「変則漢文」と「漢字の当て字」を組みあわせ、暗号のような文書を綴っていく――『古事記』や『万葉集』は、そのようなやりかたで記されています。たとえば、次のような具合。

〈此時箸從其河流下、於是須佐之男命、以爲人有其河上而、尋覓上往者、老夫與老女二人在而、童女置中而泣、爾問賜之「汝等者誰。」故其老夫答言「僕者國神、大山津見神之子焉、僕名謂足名椎、妻名謂手名椎、女名謂櫛名田比賣。」〉『古事記』上巻

この部分をどう読むか、「漢字かなまじり表記」であらわすと以下のとおりです。

〈此の時箸其の河より流れ下りき。是に須佐之男命、人其の河上に有りと以(お)為(も)ほして、尋ね覓(もと)めて上り往きたまへば、老夫(おきな)と老女(おみな)の二人在りて、童女(おとめ)を中に置きて泣けり。爾(ここ)に「汝(なれ)等(ども)は誰ぞ」と問ひ賜ひき。故(かれ)、其の老夫答へて言(まを)ししく、「僕(あ)は国つ神、大山津見神の子ぞ。僕が名は足名(あしな)椎(づち)と謂ひ、妻(め)の名は手名(てな)椎(づち)と謂ひ、女(むすめ)の名は櫛(くし)名(な)田(だ)比(ひ)売(め)と謂ふ。」とまをしき〉
 (このとき、箸が河から流れ下ってきた。そこでスサノオの命は、人がこの河上にいるとお思いになって、探しもとめて河をのぼって行かれると、老いた男と老いた女が2人でいて、若い女を間に挟んで泣いている。そこで(スサノオの命は)「おまえたちは誰だ」とお尋ねになった。そこで、その老いた男が応えて申しあげるには、「私は国つ神(=天から降ってきた神ではなく、その地にもともと住んでいた神)であるオオヤマツミの神の子です。私の名をアシナヅチといい、妻の名をテナヅチといい、娘の名をクシナダヒメといいます」と申しあげた)

『古事記』の原文が、「無理に無理をかさねて」紡がれていることがわかります。このように強引に文字化したものだけに、『古事記』や『万葉集』にはところどころ解読不能な部分がある。1000年以上、「どう解釈するべきか」議論されているのに、正解にたどりつけない箇所が残っているのです。
『古事記』のような「無理やりな日本語文」を書くよりも、漢文を書くほうが簡単である。「かな文字」が誕生するまでは、それが日本人の自然な「実感」でした。
漢文で書かれた『日本書紀』と対をなす、「母語で語られた歴史」を書く。それが『古事記』の「制作コンセプト」だったと推測されています。「何としてでも日本語で記されなくてはならない理由」が、『古事記』にはあったのです。その種の「特殊な事情」がない限り、「文書を草する折には漢文で」というのが、平安初期までの「常識」でした。
ところが、「かな文字」が普及し、「和文」という「画期的な書記システム」が生まれ――わが国の「文書」をめぐる環境は一変します。「覚え書き」や「私信」のような「プライベートな性格の文書」を皮切りに、「和文」が急速に浸透。そして、数十年あまりのあいだに、「勅撰和歌集の序文」という「晴れ舞台」に、「和文」は駆けあがりました。

○「日本人の語学ベタ」は紀貫之のせい?

「文章を綴る営み」おいて、「和文」の役割が飛躍的に拡大していった。その背景に、宇多天皇以後の「ガラパゴス化政策」があったことはいうまでもありません。「公式文書」は、「漢文」という「国際共通語」で書かれなくてはならない――この「大原則」を国家が放棄した。だからこそ、『古今和歌集』仮名序は生まれたのです。
「グローバル化路線」を捨てたのちも、「漢文」は貴族社会から追い払われたわけではありません。それぞれの役所が発行する文書の多くは、平安末に至るまで「漢文」で綴られています。
ただし、「ガラパゴス時代」になってから書かれた「漢文」は、空海が草したような「中国語文」とは別モノです。
『古今和歌集』が成立した10世紀前半には、空海の時代とくらべると、外国人と接触する機会は著しく減っていました。異言語を使ってのやりとりは、港で交易の談判をするぐらい。都で「異邦人」を見かける機会はほぼありえない――そういう状況になっていました。
そんな環境において「漢文」を書いても、ほぼ日本語ネイティヴにしか読まれません。空海は、「異国の人間にも通じること」を念頭に置いて「中国語文」を紡いでいました。これに対し、「ガラパゴス化」に向かう時代の「漢文」は、「日本人による・日本人のためのメディア」です。
「これは官庁が発給した文書なのだ」
「これを書いた人間には教養がある」
その種のことを、国内の読者が感じてありがたがってくれれば、「漢文」は役割を果たしたことになる。実際、10世紀になってからの「漢文」は、書き下し文で読まれる前提で作成されていました。それは、「中国風を装った和文」であり、「中国語文」とは似て非なるシロモノです。
外国人と交流するためではなく、国内に向けてアピールするために異言語をまなぶ――そんな「ガラパゴス化」時代の「漢文」のありようが、以後1000年にわたり、日本における語学の基調となった。ここに「日本人の語学ベタ」の第一の理由があると、私は考えます。
以前、私の知人がたいへん興味ぶかいことを言っていました。その人は、アメリカの大手製紙会社に勤務していたこともあり、英語に堪能です。
「留学経験のない、国内だけで教育を受けた〈日本人の秀才〉は揃っておなじような英語を書く。文法的にはまちがっていないし、語彙も豊富。でも、何がいいたいのかさっぱりわからない。」
単語や文法が正確なだけでは、筋のとおった外国語の文章にはなりません。その言語にフィットした論理にしたがって、全体が構成される必要がある。ところが、国内のみで勉強した「秀才」は、もっぱら「日本人からホメられること」を目的に「英語を書く経験」を重ねます。「日本語では通用するが、英語にはそぐわない論理」にもとづく文章であっても、読むのが日本人なら理解できる。かくしてその種の「秀才」は、「日本語の論理で組み立てられた英文」を綴るのが習性になってしまいます。
10世紀に書かれた「漢文」も、現代の「ドメスティック秀才」の英文とおなじ印象を、外国人にあたえたようです。
長徳元年(977)、藤原為時が越前守となり、任地に赴きました。為時は紫式部の父親であり、当時を代表する漢学者です。
このとき越前には、宋の商人が滞在していました。為時は数名の仲間とともに、この宋人と漢詩を詠みかわした。その折の日本側の作品について、『宋史』日本伝はこう評しています。
〈詞甚雕刻膚淺無所取(=表現は非常に凝っているが、うわすべりしていて取柄がない)〉
為時をはじめ、当時の日本人は、「日本人からホメられること」を目的に「漢文を書く経験」を重ねていました。このため、「日本語の論理で組み立てられた漢文」しか綴ることができなかった。にもかかわらず、「漢文の本場」からきた賓客に興奮し、目一杯修辞を凝らした詩を作ってしまった。その結果、「表現は非常に凝っているが、うわすべりしていて取柄がない」作を生み落としたのでした。
日本人の語学の「残念なところ」は、1000年前も今も変わっていません。10世紀に起きた「ガラパゴス化」の影響は、それだけ根深いといえるでしょう。
『古今和歌集』の序文の著者は、紀貫之。彼は、かな文字による日記の始祖・『土佐日記』の著者でもあります。「和文」の確立と普及に貫之が果たした功績は、はかり知れません。
貫之は、漢詩人としても高名でした。それだけに、「ガラパゴス化」を国家が志向するなかで、「漢文」をどうシフトさせるべきかをわきまえていた。
〈「漢文」と「和文」はどういう関係にあるのか〉
〈「漢文」を「日本人のためのメディア」として生きのびさせるには何が必要か〉
貫之はそれを見きわめて、『古今和歌集』仮名序や『土佐日記』に反映させました。彼の実践が成功しすぎたせいで、「『日本語の論理』を引きずったまま外国語を書く伝統」が生まれた。そのせいで日本人は「語学ベタ」になった。そういってしまえるぐらい、貫之の「達成」は画期的であったと私は見ています。
では、『古今和歌集』仮名序と『土佐日記』で、貫之は何を成しとげたのか。そこのところを次回、具体的に見ていきたいと思います。(この項、つづく)

助川 幸逸郎(すけがわ こういちろう
1967年生まれ。東海大学文化社会学部文芸創作学科教授・岐阜女子大学非常勤講師。おもな著書に『文学理論の冒険』・『光源氏になってはいけない』・『謎の村上春樹』・『小泉今日子はなぜいつも旬なのか』・『教養としての芥川賞』(共著)・『文学授業のカンドコロ』(共著)などがある。