楽しく学ぶ倫理学 第6回 ミレトス学派の意義(西洋古代倫理学小史その2)田上孝一

ミレトス学派の展開

ミレトスの地で、タレスを乗り越えたのは弟子のアナクシマンドロスである。アナクシマンドロスは、アルケーが水であるという師の説に、決定的な思考の不足を見出した。そもそもアルケーというのはどういう考えなのか。それはこの具体的で多様な世界の根源を尋ねようとする考え方である。

現在の世界が発生する前は、世界は現在とは異なった姿をしていたはずである。この世界が具体的で多様ならば、この世界が生まれる以前、世界は抽象的で一面的だったはずである。だからアルケーは水ではない。水は確かに基本的で根源的な要素であるが、なお具体的な何かであることには変わりない。アルケーは具体的な何かである以前の存在である。具体的な何物でもないからこそ、それは根源的な原理なのである。それでアナクシマンドロスは、万物のアルケーは水ではなく、ト・アペイロンだとした。このアペイロンというのが何を意味するのかは一様ではない。それは様々に訳されうる。「無限なるもの」というのが最も一般的だと思われるが、むしろ「無規定なもの」というのが、よく意をつかんでいると思う。

この世にあるもの、すなわちアルケーより発生したものは、既に「何らかのもの」である。それは何か名称を持って呼ばれうるものだ。水にせよ火にせよ。ところで、あるものが名を持っているということは、そのものが名称によって規定されているということである。従ってこの世界に存在できる最も基本的な条件は、規定されていることである。だからアルケーそれ自体は、無規定なのである。これがアナクシマンドロスの思考様式である。

このような考え方は、哲学的な思考のあり方をよく表している。それは物事の本質をあくまで言葉でもって説明しようとする精神である。

物事を理解するには、図示や図説等、具体例を挙げての説明が役立つが、このアペイロンに関しては、そのような具体的な例示は不可能である。なぜならそのような具体性が一切捨象された、全くの抽象的な原理だからである。だからこの場合は、あくまで言葉によって、その理論を説明できるようになることが大切であり、説明ができるようになることが理解なのである。ここで学ぶ倫理学においては、可能な限り具体的な説明を試みるが、やはり倫理学も哲学の一部として、具体的例示を許さない場合があることを念頭に置いていて欲しい。

こうしてアナクシマンドロスはタレスを超えている。それは明らかにアナクシマンドロスの方が、世界の起源に関して合理的な説明を与えているからだ。そしてあくまで合理的であろうとするのが、哲学及び倫理学の基本姿勢である。

合理的に物事を突き詰めて考える思索者としてアナクシマンドロスは、様々な興味深い考察を行ったとされる。例えば彼は、大地は宇宙の真ん中にあり、大地には上下はないと考えていたとされる。神話的な思考においては、大地は巨人や動物に支えられているというような説明がなされる。しかし大地を巨人が支えているのならば、その巨人が立っている大地は何に支えられているのだろうか。下には更に下がある。だから、宇宙には上下がないと考える方が合理的である。むしろ大地は既にどこにも落ちようのない下限にある。それは何にも支えられていない。そのような大地がどこになるかといえば、すべての場所から均等な距離にある空間の中心ということになろう。アナクシマンドロスによると、我々はこのような空間の中心位置にある円筒状の大地の両側にそれぞれ乗っかっているという。両大地の人間はそれぞれ下に向かって落ちるはずだが、大地が宇宙の中心に円筒状にあるならば、物が下に落下するというまさにその理由で、人間は大地に立っていることができる。

古代人として、宇宙の実相や物理法則の真実に関してアナクシマンドロスが知っていたことは僅かだった。しかしその僅かな知識、物が下に落下するという、ごくありふれた現象からの合理的な推論だけで、神話とは全く異なる、今日風に言えば科学的な宇宙観を提起することができたのである。

さらに驚くべきことは、アナクシマンドロスが生命の発生に関して働かせた想像力である。彼は最初の人間は今とは違った姿形をしていたという。しかもそれは魚のような姿だったという。どうしてこのようなことを考えたのであろうか?

人間は生まれてからしばらくの間は、養育する者がなければ生きていけない。養育するのは通常、親である。従って人間は、自らを産み育ててくれる、同じ人間である親がいなければ生存できない存在だろう。しかるに、「最初の人間」とは何か。それはこの世界に初めて現れた人間のはずだ。しかし、人間は既に同じ人間の子でなければ、生存できない。従って、人間が今と同じように、生まれてから養育する親がいなければ生きてゆけないのならば、いつまでたっても最初の人間にたどり着けなくなる。だから最初の人間は今の人間と異なり、親が育てなくても死ぬことのないような存在である必要がある。だから今とは違った姿かたちをしていたと考えるわけだ。

ではなぜ魚なのか。実は魚も魚でも、どうやらサメのことを指していたらしい。なぜサメかといえば、サメの中には卵がメスの体内で孵化し、稚魚がメスの子宮の胎盤にへその緒でつながれ、栄養を受けながら大きくなり、体外に出た時点で自立できるような種類がいるからである。つまりアナクシマンドロスは、自ら観察したか人から伝え聞いたか分からないが、実際にそのようなサメがいることを知り、それで人間も同じように、生まれてから親に養育されなくても生きられる生物だったと考えたわけだ。後になって人間は今のような姿に変化したということだ。

これは全くもって驚くべき考えである。つまりアナクシマンドロスは、今風に言えば進化論的な考え方をしていたということになる。このような考えを、観察と合理的推論で導き出したとのである。これは哲学の偉大さを示す事例だと言えるだろう。それとともに、我々にとって興味深いのは、こうした進化論風の人間観が、後の時代に確立する人間中心主義と鋭く対立しているという点である。つまり哲学史には人間中心主義的な主流以外に、人間を相対化するベクトルを持った支流が存在していたのである。しかしこうした流れは本流に飲み込まれ、有効なオルタナティヴ(もう一つ別の選択肢)とは成り得なかった。これに対して、人間中心主義的思考を打破すべき現在では、アナクシマンドロスの異端的な考えこそが、新たに主流となるべき流れの出発点として捉え直される必要があるだろう。

 

仮説の提起と反駁

アナクシマンドロスはタレスの説明の不足を補い、タレスを批判的に乗り越えた。こうした批判的な乗り越えが行われるのが神話ではなく哲学である。だからまた、アナクシマンドロスも、弟子のアナクシメネスによって批判され、乗り越えられたのである。

アルケーをアペイロンという抽象的原理だとしたアナクシマンドロスに対して、アナクシメネスは、アルケーを「アエール」だとした。

アエールは「エア」の語源ということもあり、通常「空気」と訳されるが、実は無味無臭の気体としての空気を初めて明確に捉えたのは、アナクシメネスより後の哲学者のエンペドクレスだとされる。アナクシメネスのアエールは、空気というよりも霧のような物質が想定されていたと思われる。

ではどうして霧がアルケーなのだろうか?それはアナクシメネスがアエールを「プネウマ」と同一視していたことと、深く関係している。プネウマは「気息」と訳されるが、要するに吸って吐く息のことである。呼気が空気と同じではないことは、現在の我々にとっては常識だが、古代人には大気と呼気の成分の違いという点は、明確ではなかった。掌に息を緩く当てると温かく、強く吹きかけると冷たいのは、空気の性質そのものには由来しないのだが、この事態はアナクシメネスには、プネウマであるアエール自体の性質だと思われたのだった。つまりアエールは希薄化すると熱くなり、濃縮すると冷たくなると。緩く吹きかけた呼気が温かいのは、体内で温められているからではなく、アエールが希薄になっているために熱を持つからであり、強く吹きかけると冷たく感じるのは、皮膚の周りの空気が吹き飛ばされて寒気に触るからではなく、アエールが凝縮されて、息自体が冷たくなっているからだと、思われたのだった。

アナクシメネスの考えるアエールは、希薄化することになってやがて火となり、濃厚化することによって水となり、遂には岩となるような、根本元素である。万物はアエールの希薄化と濃厚化によって生み出される。だからアエールがアルケーなのである。

しかしこのような考えが、どうしてアナクシマンドロスを発展的に乗り越えたと言えるのだろうか?アナクシマンドロスはタレスの水のような具体的存在をアルケーとすることに、思考の不徹底さを見出した。ところがアナクシメネスは再び霧であるアエールという具体的な元素をアルケーだとした。これはむしろ思考の後退ではないのか?

ところが、アナクシマンドロスのアペイロンには、それがどうしてそれとは異なる具体的な事物になるのかという、説明がなかったのである。つまりある物が質的に変化して別の物になるということへの解明がなかった。これに対してまさにアナクシメネスは、アエールという単一の元素が濃厚化と希薄化という量的変化によって別の元素へと質的に変化することを説明し得たのである。だからここでアエールという具体者が選ばれたとしても、それによって世界の成り立ちに関する説明の精度が高まったのであり、この意味で哲学的思考は退化したのではなくむしろ進歩したのだと、評することができるのである。

こうして、タレスからアナクシメネスまでの思考の展開は、まさに今日、科学という知的営為が普通に行なっていることの原型であることが見て取れる。それは宗教のように、疑うことのない絶対的真理として信仰を要求するのではない。あくまで一つの仮説として提起されるに過ぎない。だから、説明に不備が発見され、より良い説明方法が見出された場合は、常に変更可能であり、また変更されるべきものとして考えられているのである。

タレスが最初の哲学者であるのは、彼が神話的説明に変えてアルケーという物質的原理で世界を説明しようと試みただけではなく、その説明を、より良い説明に取って変えることのできるような、仮説的な性格のものとして提起し、実際アナクシマンドロスという弟子によって、乗り越えられたからである。

こうした知的継承関係を実現し得たことがミレトス学派の重要性である。この三人の師弟関係は、最初の哲学の展開であるとともに、哲学的な思索のあるべき姿を示す模範である。哲学は先人の教えを継承するとともに、その教えを耐えざる吟味にかけて、より良い説明を作り出すように努めるべき、知的営為だということである。そして倫理学もまた哲学の一部として、同じ精神の下にあるのである。

田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)