アゴラまでまだ少し
第1回 ピューロランドに陽は落ちて葛生賢治

このエッセイでは私のアメリカ・日本での経験をふまえながらも、それから少し離れてより社会的・文化的な現象を語っていければと思います。文化的な現象の中にこそ哲学的な出来事が起きている、との持論からタイトルは「アゴラまでまだ少し」としました。アゴラとは古代ギリシャの市場の名前。哲学者ソクラテスは、大学で教えることはおろか一冊も本を書き残していません。彼はアゴラに行き、そこに居合わせた人たちと会話をすることで哲学しました。彼の弟子であるプラトンはアカデメイアという、知恵を体系的に学ぶ学校を作りましたが、哲学が最初に「起きる」場はいつの世もアゴラなのではないでしょうか。体系的な知に覆われた世界に生きる私は、そもそも哲学が出来事として起きているアゴラを目指します。果たして、辿り着ける日は来るのでしょうか。

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フジヤマ、ゲイシャ、スシ、サムライ。英語圏で耳にする日本語には、ステレオタイプ化された「ジャパン」のイメージがこびりつき、我々日本人にある種の恥ずかしさを味合わせることが多い。他にもキモノ、テンプラ、カブキ、ハラキリ、等々。いわゆる「オリエンタルな」キーワードとして機能するこれらの言葉を聞いていると、映画「悪魔の毒々モンスター2」で東京の街をちょんまげ頭のサラリーマンが闊歩するシーンを思い出してしまう。誤解されたジャパンのイメージだ。

それに対して、最近では誤解されたオリエンタリズムから切り離されて英語圏で使われる日本語もある。例えば「Futon」。布団である。ボストンやニューヨークの家具屋で「Futon」のコーナーに布団が並べられているのを初めて見たときには驚いた。あのふわふわして寝る時に体にかけるものは、少なくともアメリカではFutonとして認識されいた。

同じように認識されている言葉に「Kawaii」がある。これはいまだアメリカにおいては若い世代の、しかも限られた人たちの間だけで知られている言葉ではあるけれど、その認識範囲は広がっているといえる。アジア圏ではすでに広く知られているだろう。日本の70年代以降のサブカルチャー、特にマンガのキャラクターを中心とした「かわいいもの」を起源とするKawaiiは、いまやマンガにとどまらず、ポップソング、アイドル、女の子たちのファッションやメイクのスタイルから生き方にいたるまで、文化的現象と捉えることができる。

2004年にリリースされたグウェン・ステファニーの「Harajuku Girls」は、アメリカにおけるKawaiiの認識を象徴的に表しているだろう。オリエンタルな電子サウンドと日本語なまりの英語が入り乱れる中、マドンナと比較されることもあるブロンドのグウェンが歌うこの曲は、「原宿ファッション」に出会ったアメリカンガールが目をハートにしている姿が浮かび上がる。歌詞にはんなフレーズが続く:

Your look is so distinctive, like DNA
 Like nothing I've ever seen in the USA
 Your underground culture, visual grammar
 The language of your clothing is something to encounter
 A Ping-Pong match between Eastern and Western
 [...]
 Cause it's (super kawaii)
 That means (super cute in Japanese)
(和訳)
 あなたのスタイルはすごくユニーク、DNAレベルで違う
 アメリカでは見たことがないわ
 そのアンダーグラウンドカルチャー、ヴィジュアルの文法
 あなたのファッションコンセプトは新しいモノに出会った感じ
 東洋と西洋のピンポンマッチね
 (中略)
 だってそれは (スーパー kawaii)
 その意味は (日本語でスーパーかわいい)

このグウェンの曲、ライブパフォーマンスや曲調にはいまだフジヤマゲイシャ的オリエンタリズムの影は残るものの、Kawaiiが2000年代において欧米の表舞台に(たとえティーンエイジャー層に限られているとしても)「オリエンタル」なイメージを超えたニュースタイルとして認知されたことを示している。(こうしたメジャーなポップアイコンからKawaiiへのラヴコールはその後、アヴリル・ラヴィーンが「Hello Kitty」の中でアジア系ダンサーをバックに「ミンナ、サイコー、カワイイ!」とシャウトしたり、レディ・ガガが来日の際に少女マンガのようなデカ目メイクするなど、繰り返されている。)

そしてきゃりーぱみゅぱみゅ、である。2011年にアルバムに先行してiTunes上で配信された「PONPONPON」が世界中で話題を呼び、2013年の段階でYouTube再生回数が4500万を突破。まさにインターネット時代、というよりSNS時代のポップカルチャーの形を示した現象だと言える。20世紀にメジャーであったテレビ・ラジオ・新聞・雑誌などからではなく、TwitterやSNS、動画共有サイトを通じて生み出された世界的アンダーグラウンドスターが彼女だった。

僕もニューヨークに住んでいたとき、2013年と2014年のニューヨークライブに行ってきた。アメリカでは彼女はKPPと略され、熱狂的なファンが大勢いる。2100名のキャパシティーがあるマンハッタンのベストバイシアターはぎゅうぎゅう詰めの満員。最初の年のライブではニューヨークに住む日本人客の数が多かったものの、次の年にはほとんどの観客が熱狂的なアメリカ人きゃりーファンだった。

こうしたKawaiiの世界的人気、一過性のファッション現象なのだろうか?

ドイツ人現代哲学者ソーステン・ボッツボーンスタインはKawaiiを近代主義の問題を抜け出す力をもつ現象と捉える。

世界的ポップカルチャー現象としてのKawaiiは、日本語の「かわいい」とは別である。日本語の「かわいい」が意味するのは子猫などの小動物や小さな子供、物体としてサイズの小さなものの形態だろう。小さくてふわふわしていて、もろくて弱そうで守りたくなるような、丸くて愛らしい様子。それと、上にあげたグウェンのミュージックビデオやレディ・ガガのデカ目メイク、きゃりーぱみゅぱみゅ、原宿の女の子たちのファッション、少し前に廃刊になった「Egg」などで取り上げられていたファッションに共通しているものとの、違いとは?

Kawaiiは「かわいい」の過剰である。

ジャラジャラと過度にアクセサリーをつけるスタイル、ピンクやブルーの髪やミニスカート、過度に強調したパステルカラー。本来は「かわいい」女の子やマンガキャラクターの持つ要素が全て過剰に存在し、同居している。「かわいい」度を調節する目盛りというものがあれば、それをぐーっと端まで回しきってしまった状態。Kawaiiとは「かわいい」の度が過ぎて「かわいい」枠からはみ出してしまったものに宿る魅力なのである。

それがなぜ近代主義を問題を超えるのか?

近代主義とは「かわいい」を許さない社会のあり方である。

理性の力で迷信や偏見を打破して真実をつかみ、理性の力で自己責任と行動の自律を確立し、理性の力で独立と自由を民主的に共有する社会。要するに、「しっかりとした責任感のある大人」の社会。「結局のところ答えは神様が決めてしまってる」とか、「この肌の色の人間たちは汚れた血をもっているから排除してかまわないのだ」とか、「この業界は代々こういうしきたりになっているからそれが正しいのだ。それ以上聞くな」とか、そんな世の中を打破するには、全員が理性と責任感という骨の折れる武器を常にフル回転させる必要がある。「近代的」というとき、そのポジティブな面にはそうした意味合いが含まれる。

そんな社会では、人はもはや「かわいい」存在であり続けることを許されない。じゃらじゃらとアクセサリーをつけてピンクの髪をツインテールにしてミニスカートで竹下通りでクレープ食べるのは「いい大人が」することではないのだ。成人になってまで「かわいい」を引きずる者は、いつまでも自律を回避し、親や周りの環境に甘え、同調圧力に屈し、主体性を確立できていない未熟さの典型とされる。

でも、である。

果たして近代主義というものに問題はなかったのか?という問いを突きつけられたのが20世紀の人類だった。二度の世界大戦や「民主主義」の名の下に行われる戦争、「人類の進歩」を約束したはずの科学とテクノロジーが、「自由」の名の下に新自由主義とタッグを組み、あらゆる物を消費の波に飲み込む社会。天文学的数量のデータが手のひらの上のスマートフォンからアクセスできると同時に、あらゆる個人情報が企業に、政府に管理され得る社会。

もちろん、みんな分かっている。そんなことには。

では、どうするか?

問題はここである。いくら「近代主義には問題がある!」と顔を真っ赤にして頭から湯気立てて怒りまくったところで、じゃあ我々は前近代的社会に戻れるのか言えば、そんなことは無理だと誰もが思うだろう。かつて「古い体制から脱却するための希望の社会的あり方」だったものが、いつの間にか自分たちを息苦しくさせる社会を作り上げてしまった。かといって、民族的しきたりと伝統と地域的権威が全てを仕切る社会へと帰ることはできなくて。

問題は、「自由」の旗印だったものが「抑圧」の代名詞になった今、その抑圧とどう戦うかである。

どういう形の権威であっても、その抑圧に対して抵抗する場合、多くの人は権威をふりかざす物と別の態度を取る。悪代官が越後屋から「おぬしも悪よのぉ」と賄賂をもらってるのを批判する者は、悪代官や越後屋とは別の姿だ。身振り、考え方、容姿まで全てくっきり違う。品行方正、理知的で正義感が強く、髪型なんか七三分けでバリッとスーツなんか着て。そう、無所属で初当選した若手国会議員のような感じ。

でもこのスタイルの抵抗や批判では、近代主義の問題を解決できない。なぜって?そもそも近代主義というものがかつてこの七三議員くんだったのだ。かつて悪代官を必殺仕事人みたいに釣り糸でピーンとぶった斬る正義の味方が近代主義の理想だった。でも、それがいまや、悪代官になるどころか、それよりもモノゴトをとてもとても困った方向に持っていっている。

そこでKawaiiである。悪代官がとる態度と、それを批判する七三くんがここでは奇妙に共存する。言い換えれば、悪代官の容姿と身振りをそのままそっくりに真似ることで、悪代官の悪性を内側からパロディー化し、暴露するのである。近代社会においては「かわいい」者は未熟とされる。ならば、あえて自ら「未熟」を演じてみる。そのためには普通の未熟では不十分である。未熟の未熟たる所以を際立たせて演じる必要がある。「かわいい」を過剰にすることによってKawaiiは、近代が「未熟」とレッテルを貼って抑圧する存在に対して、あえてその未熟性を強調することで、レッテルを貼る側のシステムに欠陥があることを暴露するのだ。

ここには消費社会への批判というスパイスも加味される。原宿の竹下通りしかり、西武の堤社長らが作り出した80年代から続く渋谷公園通り的「おしゃれでポップでクールでいけてるカルチャー」の消費主義しかり、Kawaiiは資本主義の毒性に対して、アガサクリスティーばりのメガネかけてパンツスーツ着て「けしからんざます!」と叫ぶPTAのおばさま達のような態度は示さない。その消費主義に「あえて乗る」のだ。キッチュでキュートでファンシーでパステルでふわふわでハッピーでアクセサリーじゃらじゃらで、未熟で甘えてて不真面目で社会に向き合わない態度でもって、そういう「未熟」な姿と、それ生み出し抑圧する力を含めたシステム全体をゆさぶるのである。

ボッツボーンスタインは著書「The Cool-Kawaii」の中で言う:

Kawaii attempt[s] to establish values within crisis-ridden situations by creating inimitable styles while existing at the same time as expressions of the crisis.
(和訳)
カワイイは、危機的状況下にあって、それ自身と危機的状況の両方を同時に表現しながら、その比類なきスタイルを作り上げることで価値を生み出しているのである。

近代が問題のあるシステムだとすれば、そのシステムから自分自身を外に置いて近代にあれやこれやと文句を言うようなことはしない。あえて近代の真っ只中に身を置き、その「過剰さ」の中に独自のユニークなスタイルと近代の問題の両方を体現する、というウルトラCをやってのけるのがKawaiiである。

問題の内にいながら問題を暴き出すことで、問題の束縛から解放される。内にいながらの外への解放。一連のKawaiiファッションやミュージックビデオなどに登場する女の子たちがみな元気で力強く飛び跳ねているのは、枠から解き放たれた解放感を味わっているからだ。

でも、である。

ボッツボーンスタインの指摘は確かに正しい。近代の枠組みを内から批判するスタイルは確かにKawaii現象の中に見受けられるし、それが世界中の若者に認識されつつあるのはポストモダンの新しい形なのかもしれない。

でも、2014年に日本に帰国して最近のきゃりーぱみゅぱみゅを見て、僕は愕然とした。メジャーテレビ局のバラエティー番組でお笑い芸人とからんで笑いを取り、楽曲は初期のものと何ら変わらないコピーを繰り返し、今年5月に放送されたフジテレビ「とんねるずのみなさんのおかげでした」では他のタレントにまじって落とし穴に落ちて笑いを取っていた。この笑いはもちろん、失笑である。

最近バラエティー番組に出まくっている「りゅうちぇる」もKawaiiの発展形だろう。彼にいたっては、もはやパッケージ化された商品としてのキャラクターが画面で笑いを取るだけの存在となり、お茶の間に受け入れられ、お笑い芸人に重宝され、システムの中で上手く機能する駒の役割に徹した存在となっている。

要するにKawaiiを体現する人たちには上のような哲学的な批判や自覚は無いのである。原宿を歩く女の子にとって近代のシステムとかどうでもいいのだ。もちろん批評家や哲学者はそのカルチャーの中に革新的なアイデアを見出すかもしれない。でも、そもそもやってる本人たちが無自覚なのだから、ある時期がきたらいとも簡単にシステムに組み込まれ、消費され、消費を促し、近代の枠組みをさらに強固にする接着剤として機能してしまう。ロシアのプッシーライオットやイギリスのバンクシーのような極めて自覚的にクリティカルな実践として機能するアートとは別物なのである。だからこそ、Kawaiiはそうした欧米特有の「社会批判としてのアート」でもなく、「ただ楽しいだけのカルチャー」でもない第三のものとしてユニークであったのだ。

果たしてこれからKawaiiはどこへ行くのか。世界中が資本主義にすっぽりと覆われ、トランプ氏的排他主義と反知性主義が横行するなかで、キュートでキッチュなものは時代の突破口か、それともデッドエンドか。

葛生賢治(くずう けんじ)
1970年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒用後、サラリーマン生活を経て渡米。2000年ボストンカレッジ大学院哲学科修士課程終了。2007年ニュースクール大学院哲学科博士課程終了。ニューヨーク市立大学哲学科非常勤講師を経て、現在東京にて執筆活動中。フリーウェブ雑誌「OUR」チーフエディター。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。趣味は駄洒落づくり。代表作は「オジー・オズボーンの叔父におスボーン履かせてちょうだい」。