楽しく学ぶ倫理学 第7回 最初の倫理学(西洋古代倫理学小史その三) 田上孝一

世界の起源と本質を、神や精霊といったものを持ち出さずに説明しようと試みられるようになり、哲学が始まった。そして、人間が生きる意味や善悪といったものに関して哲学と同じように、人々が神話を持ち出すことを辞めて合理的に説明しようとし始めた時に、最初の倫理学が生まれた。

倫理的な問題関心それ自体は、倫理学という学問の始まりよりずっと古い。人間は何のために生きるのか、なぜ悪いことをしてはいけないのかという問は、人間社会そのものと同じだけ古かろう。そのような問を問うようになった動物の集団が人間社会だからだ。現生人類の直接の祖先ではないが、ネアンデルタール人の間に埋葬の習慣が見られるというのは、今や有名な話だろう。死を思うからこその埋葬であり、死を考えることは生の意味を問うことと密接不可分に結びついている。死者を弔うネアンデルタール人は、全くもって倫理的な存在である。我々の直接の祖先もまた、死を思い生の意味を問う、倫理的な存在であった。

しかし人類史と同じだけ古い人間の倫理的関心は、哲学と同様にずっと長い間、宗教の枠の中で処理されてきた。神話は世界の成り立ちを説明するのみならず、人々に強い規範的な拘束を与える。善いことをすれば死後に報われ、悪いことをすれば死後に罰せられるという信仰は今も昔も、最も強く人々に善行を促す。

しかしこういう宗教的な前提を除いて、人生の意味や善悪に関して合理的な説明を与えようという試みは、哲学に遅れて、哲学が始まった後に始まった。世界を合理的に説明しようとする哲学的な方法がなければ、人生の意味についてもまた、合理的に説明することはできないからである。

 

最初の倫理学者としてのヘラクレイトス

タレスを最初の哲学者とするのは哲学史の常識であり、定説である。これに対して、誰が最初の倫理学者かどうかは諸説あり、定説はない。最も有力なのはソクラテスだという説である、確かにソクラテスは重要な倫理学者であることは間違いなく、最も重要な倫理学者とさえ言える。しかし彼を最初の倫理学者とするのは疑問無しとしない。というのは、彼の倫理思想は、先行学説を批判する形で展開されたのではないかと思われるからだ。既に確固とした倫理学説があったからこそ、それの批判者としてのソクラテスの独自性が浮かび上がる。彼は偉大な倫理学者であるが、決して最初の倫理学者ではなかった。

では誰が最初の倫理学者なのか。我々はそれを、ヘラクレイトスだと考える。どうして彼が最初の倫理学者かといえば、最も古い倫理規範は決定論的な思考であり、ヘラクレイトスが初めて合理的な理論の形で決定論を唱えたからである。

ヘラクレイトスは倫理学者である前に、ミレトス学派の人々同様に、自然哲学者だった。ミレトス近郊のエペソスというポリスの人であったヘラクレイトスは、万物のアルケーを火だと考えた。そしてアナクシメネス同様に、火が水や他の物に転化するという自然観を唱えた。この自然哲学の領域でヘラクレイトスが一歩先に踏み出したのは、アナクシメネスが発見した量から質への転化の問題に関して、運動の「原動力」を提起したことにある。アナクシメネスはアエールという単一の原理が他の元素に転化するしくみを、濃厚化と希薄化というメカニズムで説明したが、では一体何が濃厚化や希薄化をもたらすのかという、運動の原理自体は語らなかった。これをヘラクレイトスは、万物を貫く「ロゴス」だとしたのである。

ロゴスは近代哲学の中心概念であるreasonやVernunftの語源として、通常「理性」と訳される。しかし、ヘラクレイトスのオリジナルな用法ではむしろ、「理法」と訳すと分かり易い。それは世を貫く理(ことわり)である。地球の東西に別れ、直接の影響関係はないはずだが、期せずして、仏教でいう法(ダンマ、ダルマ)に類似した概念である。

このロゴスはヘラクレイトスにとって、誰が作ったものではない。この世はロゴスに従って、「決まっただけ燃え、決まっただけ消える」火の如きものである。ロゴスは時間の前提として、初めから存在し、永遠に存在し続けるのである。後にニュートンが物理現象の前提として永遠の時空を想定するが、ヘラクレイトスのロゴスはこうしたニュートンの絶対時空に類似したものである。それ自体は生成せずに永遠に偏在するが、このロゴスによって物質は生成し消滅する。つまりロゴスは物質の運動を可能にする原動力であるとともに、運動がそれに従う法則である。この世は全て、神ならぬロゴスに支配されているのである。

こうしたヘラクレイトスの自然哲学は、ミレトス派の先を行く合理的な世界説明であるのみならず、ミレトス派にはない倫理的な含意がある。つまり、世界を貫く運動法則として、万物がロゴスに支配されているのならば、人間の生もまた、ロゴスによって予め定められているのではないかということである。「決まっただけ燃え、決まっただけ消える」のは、運動する物質のみならず、人生また同様だということである。人の生死は、予め定まった運命なのである。

 

決定論

物事のあり方は予め決まっているという考え方を決定論という。この考え方を人生に適応すると、倫理的決定論になる。これがヘラクレイトスの考えである。最初の倫理学とは、決定論であった。

ではどうして最初の倫理学が決定論だったのだろうか。これは哲学の母胎である宗教が往々にして決定論的な思考と親和的なのに、関係があると思われる。人生は全て神により予め定められていると唱える宗派は、今もある。仏教は神による決定を説かないが、縁起という考え方は、決定論的な色彩が強い。ヘラクレイトスの属していたギリシア世界では、神々が人間の世界に介入し、人間を翻弄したりするが、その神々ですら、運命の女神が決めた定めには逆らえない。ヘラクレイトスは運命を女神に擬人化することを辞め、世界の根幹をなす抽象的な原理として捉え返した。人生は全て予め決まっている。だから人間は定めに従うべきだ。これがヘラクレイトスの倫理観であり、歴史上最初に現れた倫理思想である。

このような決定論は、一方では人間に自らの運命を切り拓く自由意志を認めない、受動的で生気のない人間観ともいえるが、他方で人間に、下手な期待を抱くことをせず、諦めて現状を受け入れさせることを促す面がある。古代の人々にとっては、自由意志の高唱よりも、諦念を説く決定論のほうが、先に受け入れられたのだった。これはやはり、古代の人々が生きる日々というのが、今日の我々からは想像を絶するまでに厳しいものだったことが大きかろう。

例えば現代日本人の平均余命は80歳を超えている。平均して80年も生きることができるのである。では古代ギリシアはどうだったのか。恐らく20歳程度だったのではないかと言われている。これは全ての人が20歳程度までしか生きないということではなくて、若年期に亡くなる人が膨大な数に上るため、平均するとこんなにも低くなってしまうということである。現代医学の源泉といわれるヒポクラテスの名前で伝えられている文献を紐解くと、医者がなすすべもなく早世してしまうおびただしい数の患者が記録されている。今だったら注射一本で治る病気も、当時は不治の病だったりする。人間はごくあっけなく死んでいたのである。

このように、古代人にあっては、死は身近であった。今の幸せは束の間で、いつ状況が暗転するか全く分からなかったのである。このような深い不安に囚われていた人々にとって、決定論はごく自然に納得できる考えだったのではないか。確かに決定論は積極的な希望を与えない。しかしそれは運命を受け入れる「心の準備」となる。誰の悪意でもなく、神の気紛れでもなく、神さえも従わざるを得ない定めならば、これはもう本当に諦めるしかない。心から諦められることこそが、古代人にとっての最大の慰めだった。これが最初の倫理学が決定論であったことの歴史的背景となっていたのではないだろうか。

 

原子論と決定論

こうして史上最初の倫理学は決定論であった。そしてこの決定論は、古代ギリシア哲学にあって、デモクリトスにおいて完成を迎える。

デモクリトスの哲学は原子論である。原子論は、タレス以来始まった自然哲学の、古代ギリシアにおける最高到達点である。

原子論では、世界の基本的な構成要素はアトムだとする。アトムというのは「それ以上分割できない」という意味で、アトムというのは万物を構成する最小単位の物体ということになる。アトムがどのように万物を形作るかについて、アリストテレスはアルファベットを例示している。アルファベットそれ自体は意味を成さないが、組み合わされることによって単語になる。単語が組み合わさって文になり、文が続いて文章になる。つまり、アトムとはアルファベットのようなものであると。

原子論はこうしてアトムの組み合わせによる世界形成を説くが、もう一つ前提としたのはケノンというものの、実在である。ケノンとは空隙・空虚のことであり、今日的に言えば真空である。

真空とは何もない空間のことであるが、真空が存在するかどうかはデモクリトス当時の自然哲学上の大問題だった。真空は存在せず、空間は物質に満たされているという学説が唱えられていた。確かに空気は透明無色ではあるが、それは存在であって無ではない。空気が偏在しているということは、空間は全て何らかの物質で占められていると考えるわけである。

ただそうすると、満員電車の乗客が容易に移動できないように、空間を占める物質が、それ自体の力で動くことができず、物質を動かす原理を別に想定しなくてはならなくなる。すると、元素自体は物質ではあるが、運動の原理は非物質的な、何らかの精神的な原理だという、折衷的な説明をしなければならないという不整合が起きる。こうした説明は中途半端で、説得力が不足していると受け止められがちだった。

これに対して、原子論では初めて明確に、真空も、真空という形の一つの実在であると提起した。このおかげで、アトムが真空中をアトムそれ自体の力で運動するという、合理的な世界説明が可能になったのである。

こうしてデモクリトスの原子論においては、万物の構成要素は、自ら運動するアトムである。自ら運動するのであるから、運動の原因がアトムそれ自体に含まれていないといけない。デモクリトスによると、アトムは「必然の渦巻き」によって生まれるのだという。そして必然によって生まれるため、アトムの運動それ自体も必然であり、ひいてはアトムによって構成される世界の出来事そのものが、全て必然によって支配されているということになる。人間もまたアトムの集合体である。従って人生もまた、その成り行きは予め必然として定まっているということになる。

この広大な宇宙観だが、この学説が唱えられた古代社会よりもむしろ、現代の我々の方が感覚的に理解し易いかもしれない。つまり、原子論的な世界観は、この世は一つの壮大な「シミュレーション・ゲーム」みたいなものだと見なしているわけだ。登場人物が互いに戦っている対戦ゲームの待受画面があるとする。外から見ればお互いに意思を持って戦っているように見えても、実は全てプログラムで、予め勝敗が決まっている。原子論的な世界観からすれば、我々の人生も同じである。自らの意志で自由に振舞っているように自らは考えている。しかしそれは幻影である。実は全て予め決まっているのだ。選択したことは確かで、自由に選べたのは間違いなかったと思っていても、実はそう選択するように定められていたのである。我々はプログラムされたコンピュータ上の登場人物に等しいのである。これが原子論的な人生観である。それは徹底的な決定論である。

ではなぜデモクリトスはこのような、現在の我々からすればなんとも救いがないと思われる、徹底した決定論を唱えたのか。

意外なことにそれは、人生の目的であるエウテュミアーを実現するためなのだという。エウテュミアーというのは、快活で晴れやかな気持ちだという。つまりデモクリトスは、快活で晴れやかな人生を送ることができるために、このような決定論を受け入れることを求めたのだ。

ここにもまた、ヘラクレイトスと同じ条件がある。つまり、古代人にとっては、偶然こそが最大の恐れなのである。ギリシア神話の神々は気紛れによって人間の人生を狂わす。しかし原子論においては、そのような神々は想定できない。たとえ神がいたとしても、神もまた、必然の運命に支配されている。だから何事もそうならざるを得なかったのである。この諦念こそが、厳しい人生を送る古代人に、確かな慰めを与えてくれたのだった。

しかしこのような決定論には、まさに決定的な欠陥がある。もし全てが予め決定されているのならば、どうして選択肢に真面目に対峙する必要があるのかということだ。

我々は人生において往々にして重要な選択肢の前に立たされる。どちらかを選ばなければならないが、選ぶのは他ならぬ自分であり、選んだ結果は責任を負う必要がある。しかし決定論によれば、考え抜いて選んだように見えても、実はそう選ぶように定められていたのである。一方でこのような考え方をしながら、他方で人生を真剣に生きるというのは、難しいのではないのか。真剣に考え抜いた選択も、適当に選んだ選択も、結局は同じだというのなら、どうして真面目に選択しようとするのか。徹底した決定論の帰結は、適当に受け流すように人生をやり過ごすという処世訓になるのではないか。このような生き方は、人間にふさわしい生き方だろうか?

確かに我々は何もかも自由に選択できるものではない。可能な選択は、様々な条件によって制約される。しかし、選択それ自体は可能であり、選択の結果は予め決まったものではなく、選択によって生み出されたと考えなければ、どうして我々は真剣に生きようとするのか。

選択の基準はよいことであり、善である。善を実現し、悪を退けるのが、人間にふさわしい選択方針である。だからこそ、善悪を考える倫理学が必要とされる。決定論は最初の倫理学であったが、決定論それ自体は倫理学の否定であり、決定論に甘んじることは、倫理学の終焉でもある。発展が閉ざされているのである。

こうして最初の倫理学である決定論は、直ちに批判され、乗り越えられる運命にあった。人間はやはり、決定論では満足できないのである。様々な条件に制約されながらも、自らの選んだ道によって未来を切り開くことができると考えたいのが人間である。そして選択が可能であるという前提の上で、選択のための明確な基準を指し示すこと。これが本来の意味での倫理学の出発点である。

この出発点となったのがソクラテスである。だから、倫理学の始祖はソクラテスだというのは、厳密な意味では間違ではあるが、「本来の倫理学」の始祖という意味では正しい。そこで、次にソクラテスの倫理思想を見るが、彼の思想は論敵であるソフィストとの対比によって浮かび上がる。ではソフィストとはどのような人々か。

田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)