娯楽と中国文化―白話小説のキャラクターたち―第3回
戦うヒロインのその後―十三妹『児女英雄伝』(二)石井宏明

 

一、十三妹、安老爺に再会

安老爺に出会ったとき(正確に言えば、再会したときです)、十三妹は十九歳でした。これは数え年でしょうから、現代風に満年齢で言えば十七~十八歳となるでしょう。また、安老爺が十三妹に語った話のなかで、安老爺と十三妹の父親・何杞は一昨年まで、手紙のやり取りをしていて、最後に手紙をもらって何日もしないうちに何杞の凶報を得たとありますので、十三妹が父親と死別したのは、彼女が数え年で十七歳、満年齢の十五~十六歳のときとなります。十三妹がもし、普通の深窓のお姫様でしたら、父親を亡くした時点で、父のかたきの手にかかるか、露頭に迷うかしていたでしょう。しかし、幸いなことに十三妹を武官である父・何杞は、息子がいなかったことから男の子扱いして育てていました。十三妹自身も男の子の格好をし、幼い頃から刀や槍を振りまわし、武芸の稽古に勤しんでいたのです。このようにして、幼い頃から身につけた武芸をもとに、十三妹は女強盗に身をやつし、二、三年の間、かたきを討つ機会をねらっていたのです。そのような時に、安公子と出会い、そして安老爺と再会しました。そして、前回、見ましたように、かたき討ちに旅立とうとしていた十三妹を安老爺が説得し、結局、十三妹は亡くなった母を弔うために、安家、張家の人々と一緒に北京に向かうことになり、約一年後、北京で十三妹と再会した褚大娘子が「これが一年前青雲山で走り回っていた十三妹なの?」という感想を抱くほど、一年間で十三妹は相手に与えるイメージを大きく変えます。この一年間は、十三妹が安公子と結婚するまでの時期と重なります。次で結婚前までの一年間の十三妹の様子を見てみましょう。

 

二、結婚前

十三妹は自殺を思い止まった後も、安老爺に対して硬い態度で接していましたが、安老爺と話しているうちに、だんだんとその態度が軟化してきます。そして、安老爺は十三妹の祖父は恩師であり、父である何杞は安老爺と義兄弟の契りを結んでいることを語り、十三妹の「抓週児」“抓周儿(zhuāzhōur・ジュワジョウ)”も見ていたことも語りました。この「抓週児」、本稿の本筋とは関係ないのですが、現在でも行われている中国の習慣ですので、我々も安老爺が語った十三妹の「抓週児」の様子を見てみましょう。

  あれはちょうど、あなたが生まれて一年目の誕生日を迎えられたときでしたが、私はあなたのご両親にお祝いを言いに行きました。その日、あなたのご両親は炕の上にたくさん、針や糸や鋏や物差し、紅や白粉や釵や腕輪、筆や墨や書籍、秤やソロバンから金銀銅銭などの類い、さらにはお廟で買ったおもちゃなどをいろいろ並べて、私に入って、「抓週児」を見ませんかと、おさそいになりました。すると、どうでしょう、あなたは炕の上を這い這いして、傍にある針だの糸だの白粉などは全然取らず、お廟で買ってきた刀だの、槍だの、弓だの、矢などといったおもちゃを取り、手に握って大喜びしているんです。それで私は、あなたのお父様に「この姪っ子[1]はいまに、お父さんに代わって従軍した花木蘭[2]のマネをするかもしれませんな。」と笑いながら言ったものです。[3]

ここで、この「抓週児」(または「抓週」)について簡単に説明します。満一歳を迎えた赤ちゃんがいる家庭で、家族内で、或いは極親しい人を招いて行われます。赤ちゃんからちょっと離れたところに何種類かの物を置きます。上では十三妹の両親は針や糸や鋏や物差し、紅や白粉や釵や腕輪、筆や墨や書籍、秤やソロバンから金銀銅銭や武具のおもちゃを並べています。そして、赤ちゃんが這い這いして手にとった物によって、その赤ちゃんの将来を占うのです。例えば、上で赤ちゃん十三妹が書籍は筆等を手に取ったら、両親は「この子は将来、学者になる」と言って大喜びします。秤やソロバンやお金をとったら、「この子は将来、商人になってお金持ちになる」或いは「お金に一生困らない」と言って大喜びします。針や糸などをとったら、「この子は将来、手先が器用で裁縫上手になるに違いない」と喜び、紅や白粉をとったら、「この子は将来、美しい娘に育つに違いない」と大喜びします。これは全く以て私見ですが、つまり、「親バカ祭り」と言ってもいいかと思います。この親バカな習慣は現在でも脈々と受け継がれていて、赤ちゃんが本を取れば、「この子は勉強好きになって、一流大学に入って、出世するだろう」と大喜びし、楽器などをつかんだら、「この子は将来、有名なミュージシャンになるだろう」と大喜びします。

ずいぶん本筋から脱線しましたが、脱線ついでに、もう一つ、上にある炕(kàng・カン)についても、ちょっと触れることにします。炕は台所のカマドとつながっていて、そこからくる熱気を利用して、部屋を暖める暖房器具です。朝鮮半島で使われるオンドルに似ていると思います。違うところは、床全体に熱気が回るのではなく、部屋の中の一部が床より高くなっていて、そこに熱気が来るのです。つまり、この床より高くなっている部分が炕です。人々はこの炕の上にテーブルを出して食事をしたり、布団をしいて寝たりします。空間としては結構大きいので、赤ちゃんが這い這いするのは全く問題ないです。この炕ですが、都市部で使っている家庭はないと思いますが、農村部では現在でも使われているようです。残念なことに、筆者はまだ、実物を見たことはありません。

話がだいぶ脱線しましたが、本筋に戻ります。安老爺は話を続けて、その「抓週児」とき、武器のおもちゃをとった赤ちゃんのころ十三妹にせがまれて、安老爺は赤ちゃん十三妹を抱っこします。しかし、十三妹は粗相してしまい。安老爺にウンチを着けてしまったことも話します。このように、自身も知らない昔話を聞かされ十三妹は、

 十三妹の冷え切った毒気のみなぎっていた顔には、先ほどから頬から耳まで赤味がさして来て、身を起こし、一歩歩み出て、「では、この何玉鳳の、三代にわたる深いおつきあいのある、恩義ある伯父様でいらっしゃいましたのですね!姪である私は、存じ上げてございませんでした。」と言いながら、初めてひざまずいて拝の礼をしようとしました。

十三妹は、女強盗となって以来、ずっと、精神が張り詰めていたことでしょう。非常にありきたりの表現で恐縮ですが、安老爺の言葉は十三妹の氷のような心を溶かし、上のような反応を引き出しました。本来このように頑ななヒロインの心を解きほぐす役は、話の流れとして、ヒロインのパートナーとなる安公子にお願いしたいところです。しかし、十三妹と年齢的に変わらず、また、人生経験は十三妹よりずっと浅い安公子では、十三妹の心を解きほぐすことはできないでしょう。そのような役割を果たすには、この物語のこの時点での安公子では役不足だと思います。安公子がこの場面で安老爺の役割を果たすとしたら、昔のスポーツ漫画やアニメなどに出てくる妙に冷静で洞察力、包容力を有し、人間としての深みがあり、主人公に的確なアドバイスを与え、主人公を導く不自然な中学生や高校生のようになると思います。しかし、現実にはそのような中学生、高校生は先ずは、いないでしょう。筆者は中年真っ只中でありますが、未だに、彼らのような人間としての深みを得ていません。安易に登場人物にそのような不自然な人間としての深みをあたえないところは、リアリティーがあると思います。もちろん、小説ですので、リアリティーを感じさせる描写ばかりではありません。突然ですが、ここで魯迅に登場してもらいましょう。魯迅については、国語の教科書で『故郷』などをお読みになり、ご存じの方も多いかと思います。魯迅について、ついでに少し見てみましょう。

魯迅(一八八一~一九三六)は、「狂人日記」「阿Q正伝」などの作品によって、中国近代文学の父とされる小説家である。………ただ、彼の全作品の中で、小説の量はそれほど多くない。雑文あるいは雑感文と呼ばれる散文や評論がむしろ大多数を占め、それらの主題も、文芸・美術・思想・歴史・民俗・自然科学・社会・時事など多方面にわたっている。と同時に、魯迅はすぐれた文学史家でもあった(『中国小説の歴史的変遷 魯迅による中国小説史入門』p150)。

魯迅は『児女英雄伝』について下のように述べています。

英雄と児女の気概を一身に備えようとしたために、性格や言動の異常を来し、不自然な技巧がいたるところ目に触れる。例えば安驥(筆者注・安公子)がはじめて何(筆者注・十三妹)と宿屋で出会い、彼女が自分の部屋に入って来るのを怖れ、人を呼んで石を担がせ扉を塞ごうとするが、誰も石を動かせない、そこで何(筆者注・十三妹)が逆にそれを中に運び込むのを描写したところなどはその好例である(『中国小説史略』2 p290)。

それに対して、太田辰夫は

もちろん纏足の女が、200餘斤の石を片手でさげられるはずはない。………このローラー(筆者注・石)を100斤とか50斤とか50斤にしなたならば、魯迅はお氣に召したか知れないが、それでは人は驚かない。かりにこれを重い石と置き換えて讀めば、われわれはその話を、さして不自然とは感じないであろう。これは誇張であって、彼女の行動が異常であるであろうとするには當らない。むしろ講釋師[4]が話をおもしろくする技術に感心しながら、われわれは虛構の世界に誘い込まれてしまうのである。………中國では旗人とは限らず、地方官はすべて軍政をも兼ねて掌握していたから、反亂などが起ったときは、知事などが討伐の責を負い、最惡の場合は、その妻まで夫とともに敵と戰わねばならないのである。いやしくも地方官の夫人ぐらいになりたいと思う者には、それだけの覺悟があったわけで、その心構えが十三妹に典型化されたとしても、不自然でも異常でもない(『中国語文論集 文学編』)。

魯迅が批判しているポイントが今一つはっきりしないのですが、もし太田辰夫が述べているところを批判しているというならば、筆者には魯迅が身も蓋もないことを言っているとしか思えません。十三妹の怪力設定を批判するならば、世の中にある多くの物語が否定の対象となってしまうのではないでしょうか。ちなみに清代の一斤は596.82gだそうです(『角川新字源・改訂版』p1228)。現在は一斤=500gです。中国では生活の中で重さを表す場合、この斤を使っています。正式な書類などでは、公斤(=1kg)が使われます。

確かに魯迅の言うように、小説のファンタジーな要素を否定するならば、不自然な設定はありますが、それいても白話小説は、読んでみると、妙なところでリアリティーがあったりします。それはファンタジー塊のような『西遊記』にも言えます。このことは、いずれ、稿を改めて、お話ししたいと思います。

また、魯迅は「性格や言動の異常を来し」と言っています。具体的に何を指しているのか、分かりませんが、筆者には十三妹の性格や言動は変わっているかもしれませんが、異常とは思えません。次回でも引き続き彼女の変化見ていきましょう。且聴下回分解!(この項続きます)

 

石井宏明(いしい・ひろあき)
[出身]1969年 千葉県生まれ
[学歴]中華人民共和国 北京師範大学歴史系(現:歴史学院)博士生畢業
[学位]歴史学博士(北京師範大学)
[現職]東海大学/東洋大学 非常勤講師
[専攻]中国語学(教育法・文法) 中国史 
[主要著書・論文]『東周王朝研究』(中国語)(中央民族出版社・北京、1999年) 『中国語基本文法と会話』(駿河台出版社、2012年) 「昔話を使った発話練習」(『東海大学外国語教育センター所報』第32輯、2012年) 「「ねじれ」から見た離合詞」(『研究会報告第34号 国際連語論学会 連語論研究<Ⅱ>』2013年)