十分でわかる日本古典文化のキモ 第4回 『古今和歌集』仮名序と『土佐日記』(下)助川幸逸郎

○「和歌=自然に湧き出るもの」という幻想
「覇権国家」であった唐の衰退と、それにともなう東アジア情勢の激変――こうした「危機」を乗り越えるため、9世紀後半から10世紀前半にかけて、わが国は意図的に「ガラパゴス化」をはかった。その「国是」を達成するために、「古今和歌集」の編纂や「かな散文」の創設が必要となる。紀貫之は、この両方に関与して、当時の王権を支えた「文学官僚」であった――前回は概ね、以上のようなことを述べました。
それでは貫之は、具体的にどうやって「ガラパゴス化せよ!」というイデオロギーを提唱していったのか。そこのところをこれから見て行こうと思います。
貫之の手になる「古今和歌集」仮名序は、前回もお話ししたとおり、「かな散文」で綴られた最初の「公式文書」でした。次に掲げるのは、その冒頭部分です。

〈やまとうたは人の心をたねとしてよろづの言の葉とぞなれりける。世中にある人ことわざしげきものなれば、心に思ふことを見るものきく物につけていひいだせるなり。花に鳴くうぐひす水にすむかはずの声をきけば、生きとし生けるものいづれか歌をよまざりける〉 
 (和歌は、人の心を種として、さまざまな言の葉となったものである。世の中に生きる人は、ことばをさかんにつかうものだから、心に思うことを、見るものや聞くものに触発されて口にするのである。花の木にとまって鳴くうぐいすや、水辺に住むかえるの声を聴くならば、この世に生きているもので、歌を詠まないものがあるだろうか)

貫之は、「人間が和歌を詠むこと」を、うぐいすやかえるが鳴くのに等しい「自然ないとなみ」としてとらえます。
漢詩をつくるには、中国人でも意識的な努力が必要です。一句の文字数をそろえるだけでなく、句末で韻を踏んだり、平声字と仄声字を規則にしたがって並べたり――そこには複雑なルールがある。それらをマスターして、はじめて漢詩を詠むことができるわけです。
和歌は、そういう人為的なジャンルではない。もっと生きものとしての本能に根ざした表現行為なのだ。貫之は、ここでそう語っています。
「古今和歌集」の仮名序が公にしてから三十年余。老境に至った貫之が著したのが、『土左日記』です。そこにもこんな一節が見えます。

〈かくいひつつくるほどに、「ふねとくこげ。ひのよきに」ともよほせば、かぢとり、ふなこどもにいはく、「みふねよいおふせたぶなり。あさきたのいでこぬさきに、つなではやひけ」といふ。このことばのうたのやうなるは、かぢとりのおのづからのことばなり。かぢとりはうつたへに、われうたよやうなることいふとにもあらず。きくひとの、「あやしく、うためきてもいひつるかな」とてかきいだせば、げにみそもじあまりなりけり〉


 (こんなことを言いながら旅しているうちに、(一行の長が)「船をはやく漕げ。天候がよいから」と催促するので、船頭が漕ぎ手たちに言うことには「ご主人のご命令だぞ朝北の風吹く前に引き綱を引け」という。このせりふが和歌のようになっているのは、船頭が自然と口にした結果である。船頭はわざと、「自分は歌のようなことを言おう」としたわけでもない。これも聞いていた人が「不思議なことに、和歌みたいなせりふを言ったものだ」と書いてみたところ、なるほど30文字あまりになっている)

船頭は、思ったことをそのまま口にした。そうしたら、そのせりふは「5・7・5・7・7」になっていた――貫之はまたしても、「和歌がナチュラルなものであること」を印象づけようとしています。
「土左日記」に記されたこの挿話は、「本当にあったこと」だったのか。真相はたしかめられませんが、作為なく発したことばが「みそひともじ」になることは、私の身近でもときどき起こります。いっぽう、「心に浮かんだことをそのまま言いあらわしたら、完璧な漢詩になっていた」ということは考えにくい。漢詩のこみいった規則を、それと意識せずに踏まえる――そんな「離れ技」は、「教養ある〝漢語ネイティヴ〟」でも不可能だからです。
「外国語」ではなく「母語」による表現メディアである。形式上の「縛り」も、漢詩にくらべるときつくない――一般的な日本人にとって、たしかに和歌は漢詩より「敷居」が低い。ただし、貫之がつくったり、批評の対象としたりしていた和歌は、「船頭の呼びかけ」のような「素朴な発話」とは異なります。

〈霞たちこのめもはるの雪ふれば花なき里も花ぞちりける〉

 (霞が立ち、木の芽がさかんに伸びる春の日に雪が降ったので、桜の花が咲いていないこの里にも桜の花が散っているなあ)

『古今和歌集』に収められた貫之の作です。「張る=さかんに伸びる」と「春」。このふたつを同時にあらわす「掛詞」がもちいられています。また、「雪」と「散る花」を似ていると見なす「表現伝統」が一首の趣向を支えている。そのことを知らないでこの歌に触れても、「散る花を雪と見まちがえるなんて現実味がない」とシラケるばかりでしょう。
高度な修辞技巧や、選ばれた階層のみが共有するコモンセンス。『古今和歌集』の歌の多くは、そうしたものの上に立脚した「文化の結晶」です。かえるやうぐいすの声とは、およそかけ離れています。
「やまとうたのナチュラルさ」に、貫之がくり返し言及する。その真意は、「和歌の実情」を訴えることにはなかったはずです。
「われわれには、〝ありのまま〟つくることのできる和歌がある。無理をして漢詩にいどみ、グローバル・スタンダードに合わせなくてもやっていけるはずだ」
――貫之がアピールしたかったのは、おそらくそのことだったと私は考えます。

○漢詩と和歌の「互換性」
漢詩が独占していた「国家公認の文学」の座を、「やまとうた」にわけあたえる――それが達成されたのちも、漢詩文は宮廷から排除されたわけではありません。「国際的なコミュニケーションの手段」は、ガラパゴス化路線が敷かれたことにより日本には必要なくなった。「文書の公式度」や「書き手の教養」を国内の人びとに向けてしめす――そういう新しい役割を担うことで、漢詩文は貴族社会の中に生きのこったのです(このことについては前回も述べました)。
漢詩文が、このようにして居場所を確保したことには、政治的な背景があります。
遣唐使が廃止されても、大陸からの輸入が途絶えたわけではありません。「天皇家の私貿易」というかたちで、中国製品の買いつけは継続された。そうしてたくわえられた「舶来品」は、即位式などの皇室行事を荘厳するのにもちいられ、王威のアピールに貢献します。
天皇家は、ガラパゴス化した日本において数少ない「外」への窓になったわけです。だからこそ「到来モノ」の投入が、「王家の特権」を見せつけるのに有効であった。外国との交流を縮小するいっぽう、みずからは異国とのパイプを絶やさない――そのようにして日本王権は、国内における優位を強化しようとした。これに成功した結果、わが国の宮廷人にとって中国は「直接つながれないゆえに、かえって憧れをそそる国」となりました。
以上のいきさつを考えるなら、漢詩文が「国内に向けて威張るためのツール」となったのもうなずけます。
それにしても、このような10世紀初頭の言語システムに「正当な根拠」をあたえるのは難事業です。漢詩文はなくても日本はまわる。そのことを提唱するいっぽうで、「漢詩文の価値」も説かなくてはならない。
しかし、希代の「文学官僚」である貫之はそれを成しとげました。次に掲げるのは、『土左日記』の一節です。

〈はつかのよのつきいでけり。やまのはもなくて、うみのなかよりぞいでくる。かうやうなるをみてや、むかし、あべのなかまろといひけるひとは。もろこしにわたりて、かへりきけるときに、ふねにのるべきところにて、かのくにのひと、むまのはなむけし、わかれをしみて、かしこのからうたつくりなどしける。あかずやありけん、はつかのよのつきいづるまでぞありける。そのつきは、うみよりいでける。これをみてぞ、なかまろのぬし、「わがくににかかるうたをなむ、かみよよりかみのよんたび、いまはかみなかしものひとも、かうやうにわかれをしみ、よろこびもあり、かなしびもあるときにはよむ」とて、よめりけるうた、
 あをうなばらふりさけみれなかすがなるみかさのやまにいでしつきかも
 とぞよめりける。かのくにひと、ききしるまじくおもほえたれども、ことのこころを、をとこもじに、さまをかきいだして、ここのことばつたへたるひとにいひしらせければ、こころをやききえたりけん、いとおもひのほかになんめでける。もろこしとこのくにとは、ことことなるものなれど、つきのかげはおなじごとなるべければ、ひとのこころもおなじごとにやあらむ〉

 (二十日の夜の月が出た。山の尾根もないので、月は海のなかから昇ってくる。こんな風な月を見て、昔、阿部仲麻呂といった人は(例の歌を詠んだのだろうか)。中国に渡って、帰ってくるときに、船に乗ることになっている場所で、彼の国の人が餞別を送り、別れを惜しんだので、あちらの国の漢詩をつくったりした。どれほどいっしょにいても飽きたらなかったのだろうか、二十日の夜の月が出る真夜中すぎまでそうしていた。そのときの月は、海から昇ったのだった。これを見て仲麻呂さんが、「わが国ではこんな歌を、神がいらした時代には神もお詠みになり、今は上流・中流・下流といった身分にかかわらず、こんな風に別れを惜しんだり、嬉しいことがあったり、悲しいことがあったりするときには詠みます」といって詠んだ歌、
 青い海原をはるかに見渡すと、春日の里にある三笠の山に出ていたのとそっくりな月が昇ってくる!
 と詠んだ。彼の国の人は、聞いてもわかるまいと思ったけれど、和歌の意味を、漢字で説明したものを書いて、日本のことばがわかる人に教えたところ、まったく思いがけないことに褒めた。中国とこの国では、ことばは異なっているものだけれど、月の姿は同じようであるにちがいないから、人の心も同じようなものなのだろうか)

阿部仲麻呂は、奈良時代初期に、留学生として海を渡った人。そのまま唐の朝廷に仕え、名を朝衡と改めて高位に至りました。一度は帰国をはかったものの海難に遭って失敗。彼の地で生涯を終えています。
仲麻呂は、貫之の時代までに現れた日本人のなかで、もっともグローバルに生きたひとりです。そういう男が、「和歌と漢詩は表現がちがうだけで、いわんとする心はおなじ」と感じていた。この事実を強調すれば、「和歌と漢詩の互換性」を読者に印象づけられる。そこに右のくだりを書いた意図があったと私は推測しています。
和歌と漢詩がとりかえ可能なら、「心」をかたちにするうえで、漢詩は不可欠なものではなくなる。同時に、「和歌の変種」という名目の下、「国内のみを対象とする価値体系」のなかに漢詩を置くことも実現する。
現代の日本において、美容院や洋菓子屋の名前は、ほとんどがフランス語でつけられています。そういうネーミングをするほうが、純和風の屋号を称するよりお洒落である。多くの人が、そう信じているのは確実です。このことを裏側から眺めるなら、翻訳の難しい「外国語固有のニュアンス」に、無頓着ということでもある。「辞書を見る限りこれであってるはずだけど、ネイティヴが見たら笑われちゃうかも」――そういう恐れがないから、フランス語を安直にもてあそぶこともできるわけです。
フランス語に対するこうした感覚は、貫之が提示した「互換性システム」と合致します。外国語に対する接しかたにおいて、われわれは1000年以上昔につくられた枠組みのなかにある。これは、驚くべき事実といえます。

○「貫之の繭」を打ち破る?
十五年ほど前、私は仕事で北京に滞在したことがあります。私にとって、それが初めての「海外」でした。
「わが国では居ながらにして、ゴッホの絵のホンモノを見ることができる。金さえ出せば、アルマーニのスーツもヴィトンのバックも買いたい放題。現地にわざわざ行かなくとも、日本人は充分、海外とつながることができている」
私はずっと、そう信じていました。大方の日本人とおなじく、すっかり「貫之がつくりだした自閉システム」に囚われていたのです。
こうした「思いこみ」は、中国の指揮者とオーケストラが演奏する『展覧会の絵』を、北京で聴いたときに打ち砕かれました。全曲を締めくくる「キエフの大門」が、「京劇の伴奏」そのもののリズムと響きで鳴りはじめた。その瞬間、私は気づきました。
「日本の指揮者とオーケストラの演奏する〝クラシック〟も、これと似たり寄ったりなのだ。リズムにメリハリのない、謡(うたい)のような音楽をやって、ブルックナーやマーラーを〝弾けてるつもり〟になってるだけなのだ」
問題は音楽に限りません。日本人の描く油絵は、色や線そのものの美しさに淫し、画面構成の緊密を欠く。国産メーカーのつくるスーツや靴は、欧米製のそれと比べて立体性にとぼしい。「洋モノ」とおなじものをこしらえるつもりで、「和臭」のしみついたキメラを、われわれは量産している。あたかも「ガラパゴス化」を経たあとの「日本漢文」のような――。
アメリカが超大国としての力を喪い、太平洋地域での覇権を手ばなそうとしている。昨今、そういう流れが顕著になってきています。日本を取り巻く軍事・外交上のパワーバランスは、大きな転回点に差しかかっている。「外」とのつながりを根源から見なおす必要に、私たちは迫られています。
「黒船来航」や「敗戦」など、これまでにも軍事・外交上の危機が幾度かわが国を襲いました。それらはいつも、「天皇に一任する」というかたちで乗りこえられてきた。「外」との向きあいかたを天皇が決め、民衆はそれに従う。「天皇の意志」はもちろん、支配層全体の考えかたを反映したものです。それでも「天皇陛下の仰せだから」という名目ゆえに、「外」との関係のドラスティックな変化を国民は受けいれてきた。
天皇が、限られた「外」との窓口である。天皇を介してのみ、一般人は「外」とつながる。この「貫之の時代に生まれた原則」は、「黒船来航」や「敗戦」によっても揺るがなかったのです。
これから迎える「大転換」も、日本人は「貫之の繭」に包まれたままで乗りきろうとするにちがいない。果たしてそれが可能なのか。もし無理なのだとすれば、どのように繭を打ち破るのか。真摯に考えるべきときが来ているのはまちがいありません。

助川 幸逸郎(すけがわ こういちろう
1967年生まれ。東海大学文化社会学部文芸創作学科教授・岐阜女子大学非常勤講師。おもな著書に『文学理論の冒険』・『光源氏になってはいけない』・『謎の村上春樹』・『小泉今日子はなぜいつも旬なのか』・『教養としての芥川賞』(共著)・『文学授業のカンドコロ』(共著)などがある。