楽しく学ぶ倫理学 第8回 最初の倫理学(西洋古代倫理学小史その四) 田上孝一

人間中心主義者としてのソフィスト

ソフィストというのは「知者」という意味である。彼らは自らの知識を貴族や有力な市民及びその子弟に教授して、収入を得ていた。その主要な科目は、弁論術である。従ってソフィストとは一言でいって、弁論術の教師ということになろう。

ではなぜ弁論術だったのか。これは古代ギリシアのポリス社会の性格によるところが大きい。古代ギリシアのポリスには様々な政体があったと伝えられるが、典型とされているのが、一つにはスパルタ型の軍事国家であり、もう一つはアテナイ型の民主国家である。この内アテナイ型のポリスにおいては、現在主流の間接民主主義ではなく、直接民主主義が施行されていた。勿論民主主義といっても、奴隷や女性には参加資格のない、不完全なものだったが、奴隷ではない成人男子全員が直接の政治執行者だった。そのため、志と能力があれば、政治の世界で大いに名を成し、有力者になれる可能性も、現在のような間接民主制の社会に比べて、各段に大きかった。

そこで重要なのは何よりも自分をアピールできる能力であり、それは雄弁なことであった。また、裁判も市民全員で判決を決めることが行われていたこともあり、弁舌の巧さというのは、非常に重要だと考えられていた。そこで、裕福な家庭では、子弟に一流の講師を付けて、弁論術を学ばそうとする場合が多かった。このニーズに応えたのがソフィストであり、彼らの多くが有力者の求めに応じてポリスを渡り歩いていた。

彼らソフィストの代表者がプロタゴラスである。プロタゴラスは多くの著作をしたとされるが、僅かに断片的な言葉が伝わるのみである。彼は『打倒論法』という著作の冒頭で、「人間は万物の尺度である。──あるということについてはあるということの、あらぬということについてはあらぬということの」と宣言したと伝えられる。これはまさに相手の議論を打倒する方法を論じた著作の言葉であることから、どのような立場にあっても相手を打ち負かすための前提を示した言葉だと、一般には考えられている。万物の真偽は人間とは独立した客観的なものではなく、あくまで個々人それぞれの主観的なものだと主張することにより、相手の主張を相対化しようとする考えであると。この意味では、プロタゴラスが教えたのは、今日風に言えば、絶対負けないディベート術のようなものなのだろう。

ディベートにあっては、物事の真偽や妥当性それ自体は二義的である。あくまで自分が支持する主張に説得力を持たせるのが重要であって、絶対的な真理の確定が目的ではない。真理の基準は個人それぞれだから、誰が主張するかによって真理は変化する。ある料理を美味しいと感じる人もいれば不味いと感じる人もいる。真理とはこのようなもので、人それぞれに相対的であり、人間を離れたそれ自体としての絶対的な真理はない。

こういう相対的な真理観に対して、むしろ真理の絶対性を主張するプラトンが強く反発したのは無理もない。そして皮肉なことに、プラトンの著作がソフィストに関する最大の情報源なのである。このため、ソフィストが真実を蔑ろにし、白を黒と言いくるめる「詭弁家」として後世の人にイメージされるようになったのも無理がないところである。

確かにプロタゴラスやソフィストたちは相対主義的な真理観を説いていたのであろう。この限りではプラトンの批判は正しい。ここでは詳論できないが、事実に対する真偽は相対的ではなく、絶対的に確定されるものだからだ。しかし、プラタゴラスの思想、人間尺度(ホモ・メンスラ)論の射程は、ただ相対主義的な真理観に尽きるものではない。

この点を明確にしたのが、ヘーゲルである。ヘーゲルは人間が万物の尺度であるというのは、まさに理性的な存在である人間が絶対的な尺度であるということを、哲学史上初めて明確にした偉大な言葉だとする。そのヘーゲルにとって人間は、絶対精神である神の目的を実現する世界史の担い手であり、その本質が自然を超えた精神的な存在である点で、神の創った地上世界で最も偉大な存在である。つまりヘーゲルは、全く人間中心主義的な自らの世界観の出発点をプロタゴラスに置いたのである。だからソフィストの思想的真髄は、それが哲学史上初めて明確化された人間中心主義である点にある。

我々はこのヘーゲルの慧眼を批判的にではあるが受け入れることにしたい。批判的なのは我々が人間中心主義を乗り越えられるべき旧弊だと考えているためだが、先に述べたように(第4回 倫理学と人間の関係)、これまでの哲学では人間中心主義が主流になっていたことは疑い得ない。そして倫理学はあくまで「人間の学」であった。この意味で、人間が万物の尺度であるというプロタゴラスの思想は、倫理学においても画期をなすものである。

人間が万物の尺度ならば、善悪の尺度もまた、人間である。従って人間は何が善で何が悪かを自らの基準で決め、自らの責任で善を「選択」しなければならないからである。善はもはや人為の及ばぬ決定論的な法則ではなく、人間が作り、選べるものになったのである。だから我々は選択可能なものとして倫理規範を考え、適切な選択肢を決定しなければならない。そしてこれこそが本来の倫理学である。つまりソフィストにおいて、本当の意味での倫理学、規範倫理学が始まったのである。

だがソフィストにあっては、規範倫理学は挫折する運命にあった。なぜなら彼らは選択の必要性と重要性に気付いたが、しかし明確な選択の基準を提起しえなかったからである。それは彼らがあくまで物事を相対化することで、自らの論を強化する弁論の教師だったことと関係している。彼らにとって必要だったのは、絶対的に正しいと受け止められている常識を相対化することまでで、新たなる真実を発見することではなかったからである。この点がよく表れているのが、彼らが得意とした「ノモスとピュシス」という論法である。

 

ノモスとピュシス

ノモスというのはギリシア語で「慣わし」を意味する。ピュシスはフィジクスの語源で、自然や本性を意味する。この二つを対概念として用いる説明は、ソフィストに限らず広く行われていた。例えばデモクリトスには、ノモスにおいては甘さや苦さ、熱さや冷たさという感覚であるが、ピュシスにおいてはアトム(原子)とケノン(空虚)があるのみだと説明していた。つまり、我々が当然の常識と考える事柄は、あくまでそういうものとして決められた慣習上のことに過ぎないのであって、物事の実相はノモスとは異なるということを、ピュシスとの対比で説明しようとする理論である。

ソフィストたちはこの理論でもって、まさに当時の人々にとって社会の根幹をなす常識を問い質した。古代ギリシアは奴隷制社会であり、奴隷労働によって支えられた社会である。つまりこの社会では、奴隷がいることが常識であり、奴隷がいるのを疑うことのほうが非常識である。これに対してソフィストの中には、自由人や奴隷というのはあくまでノモスでのことであって、ピュシスにおいては全て平等な人間であると主張する者もあった。これは現在の我々からすれば当たり前の常識であるが、当時のギリシア社会では非常識な危険思想であった。

しかしソフィストはこのような議論を、あくまで人を驚かし、常識を揺るがすディベート的な技法の一環として主張したまでで、現代に通ずるような平等の哲学を構築しようと努めたわけではなかった。そのためソフィストは、全く同じ論法で、不平等の非倫理性を告発するのではなく、むしろ反対に、道徳そのものの否定を説くこともあったのである。

古代ギリシアは、自由人は支配者で奴隷は被支配者という不平等社会である。だからといってこの支配は無法なものではなく、理にかなった合法的なものだと人々は思い込もうとした。力ずくで支配するのは獣のすることで、法に従って支配するのが人間だと(ここでも人間と動物を対立させる論理!)いう強固な前提が、広く共有されていた。しかしソフィストは、この建前の欺瞞性を告発した。法というのは、強者が自分の都合の良いように作ったものに過ぎない。あるいはむしろ、弱者が強者から身を守るために法を作ったのだと。この場合、人間はピュシスにおいて平等で友愛的なものではなく、反対に不平等で自己の欲望のままに振舞う残忍な存在だとされるのである。

ソフィストの中にはさらに考察を深めて、神というものも本当は存在せず、野蛮状態にあった人間の間に現れた賢人の統治者が法を作り、掟を破ると罰せられるという恐怖感を被治者に与えて法を遵守させるために作り出したフィクションだと主張する者すら現れた。これは後のホッブスをはるかに先取りした考えである。ここでは人間はピュシスにおいて残忍で暴力的で利己的であるというような、性悪説的な考え方がなされている。

つまりノモスとピュシスという対立軸自体は、何をピュシスとするかいうこと自体が恣意的に設定できるため、常識を突き崩す現状批判の論理にはなり得ても、現状をどう変革していくかという、建設的な議論の前提にはならなかったのだった。それどころかむしろ、人間のピュシスを悪だと捉えることにより、人間を今よりも善い者に陶冶して行くという倫理学の問題設定自体が疑われ、倫理無用論が提起されるにまで至った。必要なのは統治の論理であり、個々人がより善く生きるための倫理は無駄で、いらぬ幻想を若者に植え付けるのはむしろ有害だとの考えが、ソフィストによって提起された。

ここに、ソクラテスの問題意識の焦点があった。ソフィストは人間を万物の中心に据えることによって、運命にただ従うという決定論から離れて、人間自身が規範を選択するという倫理学本来の方向性を示した。しかし彼らは現状を相対化するのみで、変革のための新たな指標を提起することができず、遂には倫理そのものの否定にまで行き着いた。これに対し、選択のための確かな基準を明確にして、倫理学を再び救い出すこと。これがソクラテスに課せられた使命だった。

田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)