アゴラまでまだ少し 第3回
語らない、語れない、カタルシス葛生賢治

M・ナイト・シャマラン監督の映画「ヴィレッジ」(2004)は、ある有名な哲学的問いを中心にストーリーが展開する。

舞台は森に囲まれた小さな村(ヴィレッジ)。ほんのわずかな人口しかないその村の住民は、森に住むと伝えられる怪物の存在を恐れ、自分たちを取り巻くその森を抜けて外界と接触しようとしない。彼らが「我々が語ることのない者(those we don’t speak of)」と呼ぶその怪物は森に入ったもの全てを殺してしまう。それどころか、それは時として森と村の境界線にまで姿を現す。森の監視役からの非常事態警報が流れると村民はみな、自分の家の地下室に隠れてじっと息をひそめる。村の子供達は家の外を通り過ぎる怪物のかすかな物音に戦慄する。幼い頃からその恐怖が刷り込まれ、彼らは大人になると言い伝えをまた子孫へと伝えていく。森には絶対に行くな、と。

物語は、「語ることのない者」という怪物が本当のところ何なのかという疑問を軸に進む。語らない者、語れない者が「恐ろしいモノである」と、そもそもなぜ言えるのか? 哲学的な問いはここにある。我々の理解を超えるものがあったとして、そもそも何故それを恐れたり、怖がったり、もっと言えばそもそも何故それを「語れない者」と名付けることができるのか? 笑い話にあるように、「あの森の中には人食い化け物がいて、森に入る人間すべてを食ってしまう。だから森に入って生還したものは一人もいない」と言うなら、そもそも一人も生還してないのになぜ「人食い怪物がいる」なんて言えるのか、という例の問題。

矛盾が示すように、そもそも本当の意味で語ることのできないものを我々は恐れることが出来ない。語れないくせにそれでも恐れているとしたら、それは結局のところ「語れない」という表面的な説明の裏に何かしらの仕掛けがあるのである。映画はその裏側を暴くことでオチがつくという流れ。

映画のストーリーはいいとして、世に言うスピリチュアル系のものや「宇宙とのコンタクト」がうんぬんというモノ、「科学を超えたあちらの世界」やら桃源郷やら黄泉の国やらパラレルワールドやら、「語ること(科学的証明や公に示すこと)ができないけど存在しているものがあって、私だけはそれにコンタクトできます」的な言説の全ては、この問題、とてもシンプルな矛盾の問題をクリアしていない。そこをおざなりにして、というよりその馬鹿でも分かるレベルのロジックを理解できないで、「いや、これは私の中で全て通じてることだから。頭の理解じゃなくて心だから」と訳のわからない理屈を並べ、私は世界のパワーと交信できるとか前世が見えるとかゴタク並べて弱った人たちから金を巻き上げている人たちが多くいる。みな巻き上げている自分の頭がクラッシュしてることに気づかず、それどころか自分の馬鹿さ加減を拡声器で町中に宣伝してまわっているようにしか見えない。

ここまで強い口調で言うのには理由があって。

1995年3月20日、僕は東京でサラリーマンをしていた。朝の通勤に使う日比谷線に乗ろうと最寄りの駅へいくと、大勢の人だかりが見えた。電車が止まっているという。近くの人に聞いたら、どうやら地下鉄内で爆破事件か何かあったらしい、と。状況が飲み込めないまま、違う路線を使って会社につくと、何が起きていたのかそこで初めて分かった。サリンの被害でパニックになった乗客が車内を逃げまどった地点と伝えられた地下鉄日比谷線の八丁堀駅は会社の最寄駅で、僕は毎朝利用していた。時間こそ僕の利用時間より早かったから被害に会う可能性はそもそも低かったとはいえ、ニュースを聞いたときには戦慄が走った。あの時のなんとも言えない、冷たいものが重く肩にのし掛かるような恐怖を今でもよく覚えている。

もちろん、カルト教団の信者が無差別テロを起こした理由の全てを、上にあげたシンプルな理論上の矛盾にあると片付けることは出来ない。その後多くの社会学者や心理学者、評論家、小説家やジャーナリストたちが様々な分析するなかで明らかなったカルト宗教とそれを生んだ社会的・文化的背景には、様々な要素が複雑に絡み合っている。簡単に片付けてしまうことこそ、危険である。

でも、どこまで問題が複雑に絡み合っているとしても、彼らの「信仰」のもっともコアの部分に、上にあげた「語らない者を、それでも語れる」とするロジック、その矛盾、その矛盾の無理解、ごまかし、隠蔽が存在しているのは否定しえない事実だ。どうやっても否定できない。

語れないモノ、さらには、それが何であるか理解できないモノ、我々の理解を超えるモノ。そういったものに対して我々はどう向き合えばいいのか?

オーストリア出身で20世紀に活躍した哲学者ヴィトゲンシュタインは、その主著「論理哲学論考」の最後を有名な一文で締めている。

Whereof we cannot speak, thereof we must be silent.
(語りえないものについては、沈黙するほかない。)

ヴィトゲンシュタインはそれまで哲学者たちが2000年以上にわたって取り組んできた形而上学の全てを否定する。形而上学とは英語でいうところのメタフィジックス(Metaphysics)の訳で、フィジカルな存在、つまり物理的な物事を「メタした」=「超えた」存在を追求する哲学の分野。ヴィトゲンシュタインに言わせれば、結局のところ哲学者たちは長い間「語りえないもの」なんて言葉でとりあえず何かを想定しておいて、それを「語れない」と分かっていながら「語ろう」としてきただけである。要するに、森に住む怪物の矛盾と同じことなんだ、と。

彼は結論する。科学的な問題、心理学的問題、政治的問題など、世界には様々な問題が存在する。しかし、形而上学的問題なんてものは存在しない。形而上を語ろうという試みそれ自体が、そもそも言葉の使い方の間違いから生じているからだ、と。哲学とは世界の「外側」に出て神の視点から「人間には語れない絶対的真理」を言い当てる学問ではない。この世界に生きる我々がモノゴトを考えるときの道具である言語を分析して、我々の考え方を明確にする「活動」でしかない、と。

要するに「世界の外の世界がどうこう」というときに、

世界の「外」にもう一つ別の「世界」があってそれは最初に行った「この世界」とは別のものだ、

っていうその理屈自体がおかしくね?ってバッサリと切り捨てる。そして言葉の使い方をちゃんとおさえた上で、ちゃんとモノゴト考えるための訓練をうながす運動、それがヴィトゲンシュタインのいう哲学である。映画「ヴィレッジ」に見られるような、語れないモノを嘘を承知で「語れる」と言い切ってしまう考え方を「ヴィレッジ型」思考と呼ぶならば、ヴィトゲンシュタインのそれは真逆だと言える。語れないものは語れない。というより、語れない「もの」って名付けてああだこうだ言う段階で、すでに言葉の使い方を間違えている。矛盾トラップに引っかかっている。そういう矛盾にはいっさい関わらない。いっさい引っかからない。その手の誘惑には乗らない。沈黙するのだ、と。

是枝裕和監督の映画「DISTANCE」(2001)が描き出すのはそうした誘惑への拒絶の態度だ。同監督の作品の中でも柳楽優弥主演「誰も知らない」や福山雅治主演「そして父になる」などのカンヌ映画祭受賞作に隠れるかたちであまり論じられることのないこの作品。こんなストーリーである。

カルト教団「真理の箱舟」の信者たち数名はある日、東京の水道水に新種のウィルスを混入。128名の死者と8000名の被害者を出す。実行犯たちは教団によって殺害され、遺灰は山奥の湖に流された。事故から3年経った日、実行犯の遺族たちは毎年行っている弔いの儀式のために遺灰が流された湖に集まる。ひょんなことから下山できなくなってしまった彼らは、山奥に残された教団信者が使っていたロッジで一晩過ごすことになる。彼らは自問する。自分の最も身近な存在と思っていた兄が、夫が、恋人が、なぜ「あっち」に行ってしまったのか。3年経った今もわからない。それぞれが答えの出ない疑問を心に秘め、死んでしまった家族との記憶をたどり、お互いの思いを語りながら夜が暮れていく。そして朝を迎える。もちろん、いくら考えても答えは出ない。何の解決も訪れない。遺族は山を降り、自分たちの日常へと帰っていく。

タイトルが示すように、遺族たちは自分と「信仰」の名の下に無差別大量殺人を行った自分の家族との間に決定的なディスタンス(距離)を認めている。そしてその距離は決して縮まらない。いくら考えても、残された遺族どうしでどれほど言葉を重ねて語り合っても、その距離は以前と同じように、山奥にぽっかりと口を開けた湖のように広がっている。彼らにできるのは湖の淵まで行き、水平線を見つめ、帰ってくることだけだ。映画の最後に、井浦新(当時はARATA)演じる遺族の一人が湖にかかる桟橋に火をつける。燃え上がる桟橋を背に彼が山を降りるシーンで映画は終わる。「語りえぬもの」はどこまで行っても語りえない。それは我々に語る能力がないからではなく、そもそも「あっち」に答えなど存在しないからなのだ。我々はただ、答えの出ないものに対して答えを求める態度、間違った態度をきっぱりと諦め、「あっち側」にのびているように見える桟橋を焼き払い、山を降りるだけなのである。そもそも「あっち」など存在しない。答えの出ない「もの」というモノすら存在しない。「信者たちはあそこに何かを見ていた」なんて考えない。語るべきものに向き合うことでのみ、我々は正気を保てるのである。

矛盾を犯してまでスピリチュアルだチャネリングだと語ろうとする「ヴィレッジ型」思考と対照的なこの考え方を、仮に「ディスタンス型」思考と呼んでみよう。オウム事件以降の世界を生きる我々には前者より後者のほうが役に立つ態度に見えるかもしれない。時代はヴィレッジではなく、ディスタンスを求めている、と。

果たして本当にそうだろうか?

地下鉄にサリンが撒かれたのは1996年。ニューヨークの世界貿易センターに旅客機が突っ込み同時多発テロが起きたのが2001年。パリの同時多発テロは2015年。2016年3月にはブリュッセルで連続爆破テロ。テロとは別の次元の政治に目を向ければ、昨年はイギリスのEU離脱が決定し、外国人排斥と人種差別と女性差別を堂々と宣言して「女なんてXXをつかんでやりゃいいんだよ!」と言い放った男がアメリカ合衆国大統領に選出された。リベラル派対立候補や並み居る左派勢力、左派知識人、活動家、ジャーナリスト、市民団体による抗議活動、全てをなぎ倒して選出された。

論理的な矛盾に引っかからないようにして正しくモノゴトを考えよう、矛盾トラップから常にディスタンスを保っていこう、と言うだけでこの世界の軌道修正ができるだろうか? 子供でも分かるレベルの矛盾を見破れず「あっちの世界」をしたり顔で語るのは論外だとして、「テロ」「ヘイト」「排斥」という言葉を目にするのが出勤前にテレビで星占いを見るのと同じレベルで日常のひとコマになってしまったこの世界を生き抜くのに、「きちんとした理性の使い方で正解を導き出そう」というスローガンだけで本当に大丈夫か?

昨年、オックスフォード英語辞書は「今年の言葉」に「ポスト真実(post-truth)」を選んだ。我々はもはや真実かどうかが重要となる「後の(ポスト)」時代に生きている。それが本当かどうか、理にかなっているのかどうか、正解かどうか、しっかりと証明することを放棄する態度。どんなに真実からかけ離れていようとも、それが鬱屈した感情をぶちまける引き金にさえなればそれでいい、とする世界。それでいい、というより、ちゃんと正しいことをちゃんと示していけば世界はちゃんと正しい方へ進むという近代国家の理想が全く通用しなくなった世界。ヴィレッジ型でもディスタンス型でもない、新たな態度が求められているとしたらどうだろう。

正解を知ること、正解を正しく伝えることが必ずしも正解を生まない。なぜか?

スロヴェニアの現代哲学者スラヴォイ・ジジェクの政治権力に関する議論に、ひとつのヒントが見える。例えばヒットラーでもいいし、それこそトランプ氏でもいい。政治的な権威として人々を抑圧する存在があるとする。それらに抵抗する左派知識人や革命家たちはその抑圧者の仮面をはがすことで権力に打ち勝つことができると信じてきた。暴君の仮面をはがしてやれば、その裏にある「普通の人間」の素顔を暴いてやれば、そいつの権力なんて嘘っぱちであることが証明される。真実が明らかにされ、「正解」が白日のもとに晒され、革命が達成されるのだ、エイエイオー、と。

でも実際にはその逆の結果が起きる。いや、起きた。トランプ氏がオフレコで女性蔑視発言をしたのが暴露されても、驚くほどの数の女性が彼に投票したし、ジュリアン・アサンジのウィキリークスが「アメリカの裏の顔」を暴露しても中東は変わらず、スノーデンによって世界がジョージ・オーウェルの「1984」のようになっていることが暴露されても、我々は毎日ネットで膨大な量の情報に触れ、同時に個人情報を垂れ流している。

正解を暴くことが、不正解を深める。なぜか?

ヒットラーが悪魔だとして、その悪魔の仮面を剥いで裏にある「我々と同じ人間」が現れたとする。そこで起きるのは、その「我々と同じ人間」は我々と同じだからこそ、仮面自体とは別物であって「あえて」それを被っていた、という逆転の理解なのである。ヒットラーが行ったことはあくまで「ヒットラーの仮面」が行っていたことで、その裏の「生身の人間ヒットラー」がやったことではない、と。人間ヒットラー、僕たちと同じピュアでヒューマンで「逃げ恥」を見て毎週キュンキュンするようなヒットラーおじさんは、その悪魔の仮面とイコールではない。だとしたら、彼が仮面を被ったのには何かしらの理由があったんだろう。悪いのは彼自身ではなく、彼が仮面を被った理由だ、と。第一次世界大戦の敗戦国として膨大な負債を抱えたドイツの国勢が原因だったんだろう、そもそも帝国主義というヨーロッパ全体の問題こそが元凶なんだよ、世界史のどうしようもない流れの中で抵抗できない結果だったんだろうよ、等々。ひとたび「仮面」と「その裏の人間」とを分けた瞬間から、罪を犯した真犯人の存在が消滅するのである。本当の彼がやったんじゃない。仮面がやったんだ。彼はある意味やらされたんだ。だってご覧よ。彼は僕らと同じ人間なんだから。

ここまで来れば、最終段階まであと一歩である。つまり、

「彼だって本当はやりたかった訳じゃないかもしれない。だから許してやろうよ」

悪の肯定。悪の認定。「本当のこと」を暴露することが「抑圧を受け入れる」結果を生むというパラドクス(逆説)だ。悪の裏にある「正解」を暴くことで、悪をさらに強くするという逆説。「王様は裸だ!」と宣言した途端、「そうだよ。王様だって僕らと同じ裸に服を着た人間なんだよ。奴にだっていろいろ事情があるんだよ。本人だってつらいんだよ。暴君っぷりにも目をつむってあげようよ。」と事態が逆に展開する。

ジャーナリズムと科学、そして「正義」のぶち当たっている問題はここにある。

このジジェクの指摘は正しい。そしてトランプ現象のメカニズム(のひとつ、少なくとも大事な部分のひとつ)にはこれと同じロジックが働いていることが分かる。彼の最も巧みな戦術は、「言わないはずのことをぶっちゃける」というものだ。我々は生活する中で数々の「本音と建前」を使い分けている。姑を殺してやりたいと腹の中で思っていても、姑の前では「夫を立てる、できた嫁」を演じることで全てが上手くいくように。親を幻滅させないために「親孝行な息子・娘」を演じることで家族全体を機能させるように。「トランプを失墜させて民主主義を勝ち取るのだ!」と叫んだところで、そもそもその国自体が先住民を虐殺して建国されたものであるように。ひとつもお世話になってない人に向かって「いつもお世話になっております」と言うことでビジネスが成り立つように。嘘は嘘であって、それを文字通りとる者なんていない。そんなこと、みんな知っている。分かった上で、本当であるかのように「あえて」振舞っている。ある意味、それで初めて社会は成立している。誰もが知っている「暗黙の二重構造」を今さら白日のもとに晒したところで、「うん、そうだよ?それが何か?」と言われるだけ。それどころか、暗に認めながらも口に出していなかったうちは大っぴらにできなかった分、真正面から「正式な嘘」だと認められることもなかったことが、ぶっちゃけられることで市民権を持つ。市役所でハンコ押してもらって印紙までつけて、今日からオフィシャルな嘘です宣言。「もともとみんなが嘘だとうすうす気づいてて、それで世の中回ってたんだし、もうぶっちゃけたんだから認めちゃってよくね? そもそも最初から必要悪だったんじゃね? っていうかそれも正義じゃね?」と。

2016年に世界が目撃した悲劇(というよりむしろ喜劇)は、「語ること」に関してひとつの示唆を与えてくれた。語ることには、常に二つの次元が存在する。ひとつは「正解」を語ること。真実のありのままの姿を語り尽くし、隠されている全てを白日のもとにさらすこと。そしてもうひとつは、「語らないことで語る」こと。公の場で口に出さないだけで誰もが暗に認めていることに、あえて触れないことで社会を正常に回すこと。これら二つの次元は常に矛盾し、それが最終的に解消されることはない。なぜか?

最初の次元は、ヴィレッジ型でなくてディスタンス型を推す態度で、科学や論理やジャーナリズムが目指す理想である。「表面の嘘の層」と「その下の真実の層」があって、上を剥ぎ取ることが最終ゴール。二重構造はダメだ、真実はひとつだ、と。

もうひとつの次元は逆に、「あえてヴィレッジ型を演じる」態度といえる。ヴィレッジは「嘘」を広めることで、世間をある一定の平和状態に保つ。「表面の嘘の層」と「その下の真実の層」の二重構造をしっかりと認めた上で、「あえて」下の層が存在しないかのごとく振る舞う。映画「ヴィレッジ」の村の子供たちは、いや大人たちも、嘘を嘘として受け止めるから平和に暮らせていたのである。(ちなみに、この作品がシャマラン映画ファンから不評だったのは、映画のオチが本当に嘘を嘘と暴露する「夢オチ」になっていたからだろう。これ以上はネタバレになるので、興味のある人は映画をご覧いただきたい。)二重構造の全てが偽善として片付けられるものではない。二重構造がなくてはそもそも社会が存在しない場合もあるのだ。

つまり、我々は常に「二重構造はダメだ!」という声と「二重構造がなくちゃダメだ!」という声との矛盾の真っ只中に生きる存在なのである。人間の条件のコアにある矛盾のひとつを、我々はいま再認識しただけなのだ。

様々なメディアがジャーナリスティックに「2016年に世界は終わった」「フィクションの中だけの存在だったディストピアが現実となった」「民主主義が終焉を迎えた」と騒ぎ立てるのは、いまだ表面的な分析にとどまっているからだろう。問題が深く現れれば現れるほど、我々はさらにそれを人間本来の問題として向き合わなければならない。見えてくるのは、より深い次元の人間のあり方そのものだ。

ヴィトゲンシュタインの言葉も、そこでもう一度読み返す必要がある。彼は自分の哲学のことをハシゴに例えている。ハシゴを使って上にのぼり、そこにある景色を眺めることができたら、そのハシゴは捨て去ってしまって構わない。人間存在それ自体が矛盾なのだから、人間が語ることにも常に矛盾が潜む。つまり、最終的に矛盾が無いようには「語れない」。哲学の言葉はその矛盾に引き裂かれた中で何かしらの景色を見るための道具なのだ。景色が見えたら、その言葉は矛盾していて無意味なものとして捨て去られる運命なのである。語る言葉に意味はない。語る言葉が見せてくれた一瞬の景色に意味があるのだ。

「語りえないものについては、沈黙するしかない」

文字通りに「沈黙する」のではなく、矛盾した言葉でしか語りえないもの、二つの声に常に引き裂かれ翻弄される我々の姿そのもの、それをこの一文が言い当てているとしたら? いま何かを語ることは、必ずしもヴィトゲンシュタインの教えに背くことにはならないと思うのだけれど、どうだろうか。

葛生賢治(くずう けんじ)
1970年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒用後、サラリーマン生活を経て渡米。2000年ボストンカレッジ大学院哲学科修士課程終了。2007年ニュースクール大学院哲学科博士課程終了。ニューヨーク市立大学哲学科非常勤講師を経て、現在東京にて執筆活動中。フリーウェブ雑誌「OUR」チーフエディター。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。趣味は駄洒落づくり。代表作は「オジー・オズボーンの叔父におスボーン履かせてちょうだい」。