娯楽と中国文化―白話小説のキャラクターたち―第5回
戦うヒロインのその後―十三妹『児女英雄伝』(四)石井宏明

 

これまでのところ、第一回で十三妹の性格や外見、得意とする武器などの基本設定を見て、前回、前々回で、彼女が女強盗になった時期に関しては、設定上のミスか、二つの時期があると言ったこと、そして物語登場時で、十三妹が数え年で19歳なっていたことなどについて見てきました。しかし、プロフィールにあるごく一般的な項目であろう誕生日についてはまだ、本稿で取り上げていません。そこで今回は、本論に入る前に、毎度、脱線続きで恐縮ではありますが、彼女の誕生日について見てみることにします。

その前に『児女英雄伝』のキャラクターたちの誕生日はどのように設定されているのかを見ようと思ったのですが、全話40回を最初から最後までの眼を通すのは正直、骨が折れます。そこで楽をするために、「中国古典文学」というサイトにある『児女英雄伝』[1]にある「縁起首回」と全40回の「月」という文字を検索してみました。ついでながら、原文の中国語で読んでみたい方は、このサイトで読んでみるのも良いでしょう。検索の結果から見て言えることは、誕生日の設定があるのは十三妹だけのようです。また、設定上のミスなどによって、十三妹の誕生日が複数あるということもないようです。

それで、十三妹の誕生日ですが、3月3日(第十四回)となっています。十三妹のみが誕生日設定があるということから、作者文康は何らかの意図をもって十三妹の誕生日を3月3日にしたのではないか筆者はどうしても思ってしまいます。

これが日本発信の作品中のキャラクターならば、3月3日・雛祭り・お雛様・女の子のお祭りで女の子らしいということになるのではないでしょうか。先日、40年にも及ぶ長期連載を終わらせた『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の両津勘吉のように男性キャラクターの誕生日が3月3日であるという例もありますが、しかし、両津自身はお雛様=女の子で自分の誕生日を嫌っているようです[2]。もちろん、両津勘吉以外でも、誕生日が3月3日という男性キャラクターは存在するでしょうが、それでいても、3月3日が女の子で祭りであり、その日を誕生日とする女性が実際・架空の人物を問わず、女の子らしいとするのは日本国内に限っては可能な考えではないでしょうか。しかし、『児女英雄伝』の舞台は当然、中国ですので、そこにおける3月3日が意味するところは、日本とはやはり事情が違うこととなるでしょう。とは言え、そもそも、日本の雛祭りも、その起こりには中国の影響があるわけでして、そこで、先ずは雛祭りについて確認してみましょう。

中国の古風俗に、三月上巳の日に、水辺に出て災厄を払う行事があり、それが後に曲水の宴となり、桃の酒を飲む風習を生んだ。後には三月三日に行うようになり、重三とも上巳とも、俗にじょうみとも言い、桃の日、桃花節とも言った。日本でもこの風習は古くから上流に伝わり………日本固有の行事としては、巳の日の祓(はら)いと言って、人(ひと)形(がた)(形代(かたしろ)、撫(なで)物(もの))で身体を撫で、身体のけがれを移して、川や海に流した。この祓の具としての人形から、美しく着かざって雛遊びをする風習が宮廷・貴族のあいだに起った。胡粉を塗って作る人形技術が、室町時代に中国から伝わってから、女児のための節供として、男児の端午とならんで盛大となった(『講談社版 カラー図説日本大歳時記』座右版p232)。

とあります。ちなみに、三月上巳の日から三月三日に固定されたのは、三国・魏の時代だそうです[3]。上の引用にある曲水の宴は、三世紀に成立し、その由来はすでに不明となっていたが、わけも判らず三月三日に挙行されていたそうです[4]。曲水の宴とは、屈曲した小川の流れに杯をうかべ、詩を作り酒を飲む宴会です[5]

そうなると、やはり、3月3日が女の子と関係するのは日本固有の風習のとなるでしょう。3月3日に特別な意味はないのでしょうか。では、ここで、雛祭りの起源である上巳の日の習慣の由来について見てみましょう。中島敏夫らは、『拾遺記』にある周の昭王の伝説をその由来としています[6]。では、その『拾遺記』にある昭王の伝説を見てみましょう。

(周の昭王二十四年)東甌の国から二人の女性が献上されました。一人は延娟(えんけん或いはえんえん)と言い、もう一人は延娯と言いました。………この二人は話が上手く、歌に巧みで笑っていました。塵の上を歩いても、足跡が残らず、日中歩いても影がありませんでした。昭王が漢水(河の名前)でおぼれた時、二人も王と船に乗っていて、王を挟んで乗っていて、王と同じく河でおぼれました。故に江漢(長江と漢水)の人々は、今でもこのことを思い、河のほとりに祠を建てました。数十年の間、人々は江漢のほとりで王と二人の女性が水際で舟に乗り、遊んでいるのを見ました。三月の上巳の日に、禊して祠に集まり、旬の果物を蘭ややまなしの葉で包み、河に入れました[7]。(『拾遺記』)

この故事が本当に上巳の日の習慣の由来であるか否か、これについては、筆者には何とも言えません[8]。しかし、ここに出てくる二人の女性、延娟、延娯、この二人の死しても昭王に寄り添うさまは、まるで安公子に寄り添う、十三妹(何玉鳳)と張金鳳を彷彿させるものがあると筆者には思われます。

延娟、延娯も「延」という字を名前に共有していることから[9]、この二人は同じ一族の同世代の女性同士、或いは姉妹なのかもしれません。中国では、徳川家康、家光、家綱といったように、徳川将軍の何名かに「家」の字が引き継がれたように、代々同じ字を名前に使うということはしませんが、同じ一族の世代で同じ漢字を使ったりします。よって兄弟姉妹の名前に同じ漢字が使われることはよくあります。もっとも、この習慣がどの時代にさかのぼれるのか、筆者に分かりません[10]。実の姉妹でも、同じ一族の女性同士でもありませんが、十三妹(何玉鳳)と張金鳳も「鳳」の字を名前に共有しています。さらには、安公子が安老爺に十三妹の顔立ちを説明する時、

顔立ちについて申しますと、不思議なことに、私の嫁(筆者注:張金鳳)とそっくりで、同じ腹の姉妹どころか、双子の姉妹のようです。(第十三回)[11]

と言っているように、十三妹と張金鳳の顔立ちは瓜二つのようです。「鳳」の字を共有し、双子のようにそっくりなことから、想像を逞しくすると、この二人には双子の姉妹のような存在になる運命が定められていて、もしかしたら、張金鳳の誕生日も3月3日という設定が文康によって考えられていたのかもしれないとは考えられないでしょうか。また、この『拾遺記』とは、

東晋の小説。10巻。東晋の方士であった王嘉(字は子(し)年(ねん))の撰。三皇五帝から東晋に至るまでの奇怪な出来事を記し、最後の1巻は崑崙(こんろん)・蓬莱(ほうらい)などの伝説上の山について記す。南朝梁の蕭(しょう)碕(き)の序があり、それによると王嘉の原著は19巻あったが、戦乱により散逸したため、蕭碕が残欠を拾って再び整理したという。今本は内容から見て王嘉の文と蕭碕の加筆が混交していると考えられている(『中国文化史大辞典』p529)。

とありますので、清代の人物である作者文康が『拾遺記』の昭王の伝説に基づき十三妹の誕生日を設定した可能性はあると思います。

ちなみに、周の昭王ですが、実在した人物であり、青銅器の銘文には南の強国である楚を制し、南方への進出を盛んにしたとあります。また、史実であるかどうかはともかく『史記』や『春秋左氏伝』その他の書物にも昭王が漢水で死んだことが伝えられています[12]

それでは、本筋に戻り、物語を読み進めましょう。十三妹を入れた安老爺の一行が北京の郊外、通州まで到着しました。そこで一行は安太太の兄弟の妻、つまり安公子の叔母(以降舅母で統一します)に会います。この舅母は夫に死なれ、子供もいないようです。この舅母と安太太は仲が良く、二人を中心に皆でお喋りを始めます。その席で、十三妹は考えます。

この舅母(おばさま)の気性は、とても私の性にピッタリ合うし、このかたも孤独なら、私も孤独。そうだ、この方と手を組めばいいじゃないの!………私はこの方を正式に義母として認めて、「母さん」と呼ぶことにしよう。(第二十二回)

そして、ここはやはり、さすが十三妹、考えがまとまったら、躊躇したりなどはしません。その場で、

舅母がもし、私をお嫌いでなかったら、私は舅母の娘になりたいと存じます。(第二十二回)

と舅母に言います。このような発言に十三妹が至った理由として考えられるものとして、十三妹が安太太と初めて言葉を交わし、安太太に可愛がられる場面で入れた講釈があります。

気の毒なことに、姑娘(筆者注・十三妹のこと)は年若く父を失い、ちょうど母親に養い育てられねばならないとき、母親は死んでしまったのでございます。………姑娘は、こんなに大切にされ、可愛がられたことがございません。今、安太太と会い、こういった言葉やふるまいや、人への対し方に接して、初めて天下の娘たちが元来持っている世界を知ったのでございます。姑娘は心中、これまでの歓楽辛苦とたいそう違ったものを受け取って、ますます安太太に親しみを感じるのでございました。(第二十回)

恐らくは、十三妹は安太太の優しさに触れ、お母さんが欲しくなったのでしょう。十三妹は女強盗をしていた時、実の母を養っている立場であり、実の母に甘えることはできなかったことでしょう。しかし、その頃十三妹はまだ、少女と言ってもいい年齢、その時、甘えることができなかった分、それを取り返そうとしているように筆者には思われます。ここまで、来ると、女強盗の十三妹は過去のこととなってしまったのでしょうか。それについては、且聴下回分解!

 

参考文献
『児女英雄伝上』中国古典全集第29巻1960年 『児女英雄伝下 鏡花縁』中国古典全集第30巻 訳      奥野信太郎、常石茂、村松暎1961年
『講談社版 カラー図説日本大歳時記』座右版 水原秋櫻子 加藤楸邨 山本健吉 1983年。
『中国古典詩聚花 歳時と風俗』⑥ 中島敏夫、市川桃子、斎藤茂 1985年 小学館。
『角川新字源』改訂版小川環樹 西田太一郎 赤塚忠1994年 角川書店。
『古代中国』貝塚茂樹 伊藤道治 2000年 講談社。
『中国古代の年中行事』第一冊春 中村裕一 2009年 汲古書院。
『中国文化史大辞典』尾崎雄二郎 竺沙雅章 戸川芳郎 2013年 大修館書店。

 

[1] http://www.zggdwx.com/ernv.html
[2] https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E6%B4%A5%E5%8B%98%E5%90%89
[3]『中国古代の年中行事』第一冊春 中村裕一 2009年 汲古書院p640。
[4]同注3p651。
[5] 『角川新字源』。
[6]『中国古典詩聚花 歳時と風俗』⑥ p99。
[7]同注6p99の訳文を参考にして、筆者が訳した。
[8]中村喬は『宋書』礼志二にある三月上巳の起源を『論語』先進編の「暮春…沂に浴す」という文に期限を求める後漢の蔡邕の説を挙げています(『中国の年中行事』p638)。
[9]『拾遺記』の原文では「東甌獻二女,一名延娟,二名延娯」とあり「延」が姓でないと考えました。
[10] ウィキペディアでは後漢時代にはこの習慣が見られるとしてあります。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E8%A1%A8
[11]今回も訳は『児女英雄伝上』中国古典全集第29巻1960年 『児女英雄伝下 鏡花縁』中国古典全集第30巻 訳   奥野信太郎、常石茂、村松暎1961年 平凡社を使用し、一部表記と訳を変えています。
[12]『古代中国』p254~p255。

石井宏明(いしい・ひろあき)
[出身]1969年 千葉県生まれ
[学歴]中華人民共和国 北京師範大学歴史系(現:歴史学院)博士生畢業
[学位]歴史学博士(北京師範大学)
[現職]東海大学/東洋大学 非常勤講師
[専攻]中国語学(教育法・文法) 中国史 
[主要著書・論文]『東周王朝研究』(中国語)(中央民族出版社・北京、1999年) 『中国語基本文法と会話』(駿河台出版社、2012年) 「昔話を使った発話練習」(『東海大学外国語教育センター所報』第32輯、2012年) 「「ねじれ」から見た離合詞」(『研究会報告第34号 国際連語論学会 連語論研究<Ⅱ>』2013年)