アゴラまでまだ少し 第5回
とろみを終えて、その身を超えて葛生賢治

携帯電話会社auのコマーシャル、これを読んでいる人の多くが知っているだろう。桃太郎やら浦島太郎、乙姫様たちが登場し「みんな英雄」という例のシリーズ。今年の正月からは新シリーズになった。「やってみよう」というテーマで、登場人物たちがどんどん新しいことに挑戦していくというもの。やったことないことでも、やってみよう。最初はみんな初心者なんだから、恐れずやってみよう。画面には桃太郎たちが大凧に乗り、愛の告白をし、楽器を演奏し、踊る姿。はち切れんばかりの笑顔。正しいことより楽しいことさ。やってみよう。

気持ち悪くて鳥肌が立った。虫唾(むしず)が走った。正月に食べていたお雑煮が一気に不味くなった。なんなんだ、この気色悪さは。この違和感は。寒々しさは。人を一瞬にして不機嫌にさせるこのCMの威力は逆にすごい、とまで思った次第。

最終ゴール地点で待っていた、あんかけ

僕はauに対して何の恨みも無いし、CMで流される企業イメージやメッセージをいちいち取り上げてうんぬんするのは意味が無いことかもしれない。所詮は企業が利益向上とイメージアップを狙った広告「戦略」なのだし、モノを売るための宣伝にすぎないと言われれば、それまでかもしれない。広告代理店が天下を取った80年代ならまだしも、2017年の今、企業広告に「創造性」を見出したり、その裏に「時代の気運」を読み取ることにどれだけの意味があるのか、という声すら聞こえてきそうだ。

でも、である。この「やってみよう」CMには何か特別な違和感を感じた。何かがある、と。「若者層をターゲットにした商品販売のため、その層に人気のあるタレント、受けの良い音楽をフィーチャーし、ポップで楽しいイメージ作りをした」という「企業として当たり前の仕事」という説明に収まりきらない何か。そこからはみ出す何か。繰り返しになるが、僕はauを、そしてこのCMを作った広告代理店をディスっているわけではない。彼らが良かれと思って取った企業戦略の「良かれ」の中に、我々の日常の「良いもの」の中に、既に何かが含まれているような気がした。言うなれば、コンビニで売られているポテトチップスに異物が混入していたからといって、コンビニの店員を責めるのはお門違いなわけで。さらに言えば、ポテチに異物が入っているわけではない。ポテト自体に何か異変が起きているような気がしたのだ。日本人全てが食べているイモに何かが起きている、と。このCMはそのイモを鮮明に映し出しただけである、と。

異変を浮かび上がらせるために、もうひとつ別の例をあげよう。70年代初頭に『飛び出せ!青春』というドラマが放送されていた。村野武範演じる太陽学園高等学校の新人教師・河野武が、持ち前の情熱で落ちこぼれ生徒たちにぶつかっていき、皆をやる気にさせていく学園青春物語。熱血先生の情熱とそれに応える生徒たち。青春のきらめき。1965年に放送された『青春とはなんだ』に始まり、1980年に終了した『あさひが丘の大統領』まで、この「学園を舞台にした教師と生徒の熱い青春もの」の系譜は日本のテレビドラマのいちジャンルを確立させた。

『飛び出せー』の第1話で河野が生徒の前で黒板に書いてみせる言葉が、このジャンルの全作品に共通するテーマを言い当てている。「Let’s begin!」。やる気の無い生徒へ向けられたメッセージはそのまま、テレビの前の若者へのメッセージだ。自分に自信を失い、大人が作り上げた社会に辟易し、虚無感に包まれた若者たちに向かって、さあ何かを始めよう!と語りかける。何でもいいさ、とにかく何かを始めてみようよ。自分の中だけでもんもんとしていても何も変わらない。さあ、何かを変えてみようよ、やってみようよ、と。

いつの時代でも斜に構えてしか世間を見れない人間というのは一定数存在するから、このドラマ群を指して「当時の若者は皆、こんなにピュアで熱かった」「あの頃は良かった」と昔を美化するのは、もちろん短絡的だろう。でも、この青春シリーズが15年にも渡ってシリーズ化されたこと、このジャンルの最も有名な作品とも言える『スクール☆ウォーズ 〜泣き虫先生の7年戦争〜』が平均視聴率17%以上だったこと、同じく熱血教師ドラマ『3年B組金八先生』が断続的にではあるが32年間に渡って放送されていたことをふまえれば、多くの日本人にとって「熱い学園青春ドラマ」が好意的に受け入れられ、その本質的メッセージが伝わっていたと言える。要するに日本人は「青春もの」が好きだ。「始めよう」が成功した時代は存在した。

生粋のあまのじゃくで心が歪んでねじくれ曲がった僕はこの青春ものですら苦手であったが、だからと言ってこれら一連のドラマに先の「ポテトの異変」を感じたことは一度も無かった。苦手うんぬんというのは単なる好みの問題だ。でもauの「やってみよう」は何かが違う。ポテトが違う。僕個人の苦手意識がどうだという次元を超えて、明らかに奇妙なモノが存在している。青春ドラマの「Let’s begin!」と桃太郎たちの「やってみよう」との根本的違いとは何か?

「やってみよう」と呼びかけるものが個人の快楽の追求でしかないのである。

青春ドラマが「Let’s begin!」と若者を励ましていたのは、言わば成人となるため、成熟した自己を持つ個人になるための苦悩と試練の旅を始めよう、ということ。舞台はそもそも学校という教育機関だ。確かに若い世代からすれば全てはウザいし、出来上がっちゃった大人はクソだし、社会なんて基本的に全て嘘だ。でも、そうやって斜に構えてるだけでは何も始まらない。全てが嘘だったら、その嘘をぶち壊すためでも何でもいい。とにかく何かを始めてみよう。場合によっては教師をぶん殴ったって、教室を燃やしたっていいかもしれない。ぶん殴るために立ち上がるだけでいいかもしれない。そもそも「自己の確立」とは前の世代を「殺し」て、乗り越えて初めて成し遂げられるのだ。とにかく、何かを始めてみよう、と。

それに対して桃太郎たちの「やってみよう」は、乗り越えるとか自己の成熟とか、大人の世代がどうとか、どうでもいい。そんなこと問題にならない。君らの前にはこんなに楽しいこと、快楽をもたらしてくれるモノたちが並んでいるよ。さあ、やってみよう。楽しもう。何を選んでもいい。何をどう楽しんでもいい。楽しもう。それだけ。そこに見えてくるのは、個人が何の足かせも何の障害も感じず、純粋に、「自由」に、思うがままに選択肢から好きなものを選び取れる、という姿だ。

これは前回の話とも関係してくるが、「何でもできる」「何をしても構わない」「何を選んでも良い」「どんな快楽でも追求して問題ない」という、あらゆるストッパーの外れた「絶対的自由」なるものがあったとして、それが「それぞれ個人すべて」に与えられるなら、それはそのまま個人から自由を奪う抑圧の力になるのである。なぜか?

論理的に言ってそもそも「全てが自由」という考え自体が、矛盾をはらんでいるのである。確かに「個人がそれぞれ自由を謳歌する」のは素晴らしい。でも、本当に「全て」が完全に自由となることはない。「全ての人間にとっての完全なる自由」は「どれでもオッケー」ということ。どれでもオッケーというのは「全てがどれでも同じ」ということ。奴隷の解放も難民受け入れも、同性愛も中絶も、同性愛差別も一夫多妻制も、白人至上主義も幼児虐待も、ヒットラーもマザーテレサも、ボブ・ディランもハリウッドザコシショウも、揚げ出し豆腐もシン・ゴジラも、バーニャカウダも溜池山王も、全て、本当に「全て」が「等しく価値がある」世界とはどんなものだろう。全てが同時に無価値になるのだ。「どれでもいい」というのはつまり、「どうでもいい」と同義なのだ。

そんな抽象的なヘリクツ並べてどうするの?という声も聞こえてきそうだが、これは本質的なポイントである。まず、「全てがオッケー」なんてことありえない。小学生でも分かりそうな当たり前の矛盾があるから。これまでそんな絵空事は誰も相手にしなかった。けれども今や、「自由」の名の下、個人の自由を極限まで肯定する世の中がその受け皿を用意してくれた。成長やら社会やらをどうこう言う前に、そういうことよりももっと大事な次元に、個人の快楽の追求がある。人生楽しんだ者勝ちだよ、と。「正しい」ことより「楽しい」こと。「楽しい」が「正義」と一致し、「日本を笑顔にする良きこと」として我々の日常を浸しているのである。ひたひたに。文字どおり「全て」が「いいね!」と許容される社会。君はそういう考えなんだ。うん、それもいいね。君は学校さぼってずっとニコ生見てたんだね。そういう生き方もあるよね。君は35歳で実家に住んで親の年金で養ってもらっているんだね。親に寄り添ってて偉いね。君はISに入りたいんだ。アグレッシブでいいね。社会全体を「うん、そうだね」が、中華丼のあんかけのようにとろっとろでソフトで舌触りのなめらかな、優しい「自由」が覆っている。我々は史上初めて、原則として全てに「いいね!」を押せる民主主義を実現させた。

そもそもが絵空事だから、砂糖菓子のように甘くソフトでふわっとしたその「自由」は、現実化すると非常にタチが悪い。そのハチミツのようなとろみでもって、シャープでクリティカルな視点、日本刀でズバッと世界を切断するような批判の全てを無効にする。映画「ターミネーター2」に出てきた液体金属の新型ターミネーター「T-1000」のように、切っても切っても再生するのだ。うん、そうだね。君の批判も分かるよ。うん、そういう意見もあるよね。僕も個人的には賛成だよ。さあ、僕らは仲間だ。スクラム組もうよ。「真綿で首を絞める」という言葉があるが、いま我々を抑圧するのは他でもない「あんかけ自由」だ。あんかけの中を歩くような世界では、機敏に、「自由」に動くことは不可能である。

誤解なきように。頑固オヤジが「最近の若い奴らは軟弱でけしからん!」と説教しているわけではない。それはまったくの的外れ。僕はなにも「本来、自由というものはこれこれこうあるべきで、それが間違った形で流布しているから正しい自由を確立すべきだ」と言っているわけではない。

「自由の正解」が「あんかけ自由」だったのである。

自由そのものに潜む本質的な「負」の部分を、フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルは次のように表現している。

Men are condemned to be free.
(人間は自由の刑に処せられている。)

サルトルが問題としたのは、神のような「絶対にこうでなければならない・こうでなければおかしい」という「頑固オヤジの絶対説教」が消滅した後の世界で、ストッパーが完全に外れた「自由」の実現した世界で人間はどう生きていけるのか、ということだ。民主主義の最終形が「全ての人間の自由」だとすれば、それ自体がそもそもヤバいことではないか、と。

「自由」のジレンマ

「何かを始めよう」をどんどん推し進めたら「全てにいいね!する社会」となり、何かを始めようとしても全てが嘘っぽくなる現実。
いま世界中でリベラリズム(自由主義)が直面している問題の本質はここにある。「合理主義」と「民主主義」という2トップがゴールを決め、近代のサッカーチーム「FC自由」は優勝した。暴君は倒れ、悪しき独裁者の銅像はガラガラと音を立てて崩れ落ちた。我々は個人の自由を手にいれた!と湧き上がるFC自由サポーターたちの歓声。自由を邪魔する者は消え去った。しかし邪魔者が消え去るということは、自由の本質である「邪魔からの自由」という意味をも消し去ることとなった。自由の「敵」を失うことで、自由の意味が空洞化する。「さすがにISに入りたいとか言ったらダメだろ!」という意見はすぐさま「個人の選択の自由を邪魔する敵」とみなされ、抹殺され、「うん、そうだね」へと変換される。全ては肯定され、あらゆる「敵」はシュガーコートされた言葉へ生まれ変わる。ストッパーを失った自由は、次の段階へと進化した。進化した自由の最終形態、「ドラゴンボール」のセル完全体のような最終にして最強の自由とは、何をやっても肯定されて、何をしたところでさして違いがなく、なおかつそれを人間の尊厳として笑顔で迎え入れる現実だった。個人の快楽の追求が、どの快楽の追求をも諦めさせるあんかけのダルさと共に現実化されたのだ。

だからと言って、今さら「不自由時代」に戻るわけにはいかない。グローバルに広がるあんかけ自由主義の世界で「不自由」の亡霊を蘇らせたのがトランプ大統領である。現代においてマンガ並みに「絵に描いたような暴君」を出現させるとああなるのだ。

じゃあ、どうする? 今から何か新しい道を探そうとすれば、「Let’s begin!」とはならず、「やってみよう」となるだけなのか。我々は何かを始められるのか? 何を始められるのか?

楽団の旋律を止めて、そして始めて

コール・ポーターが1935年に作詞・作曲したジャズ・スタンダードナンバーに「ビギン・ザ・ビギン」という曲がある。1938年にアーティ・ショーのアレンジで大ヒットした後、現在までに数々のアーティストによってカバーされた名曲。80年代にはフリオ・イグレシアスによるカバーも世界中で大ヒットした。タイトルの「Begin the Beguine」、2つ目のビギン(Beguine)はカリブ海に浮かぶフランス領マルティニーク発祥のダンスの名前で、当時パリで流行していた。「ビギンを始めよう」が「始めようを始めよう」と同じに聞こえるという洒落になっている。

僕はこの曲に「始める」の本質を見る。30年代のジャズナンバーだからと言って、古き良き時代の遺産、お気楽な世の中だった時代への懐古趣味などでは決してない。始めるということは、「ビギン・ザ・ビギン」なのだ。

こんな歌詞。

Begin the Beguine
Written and composed by Cole Porter

When they begin the beguine(ビギンの曲が始まると)
 It brings back the sound of music so tender(あの優しい旋律がよみがえる)
 It brings back a night of tropical splendor(熱帯のきらめく夜がよみがえる)
 It brings back a memory ever green(永遠に鮮やかな記憶がよみがえる)

I'm with you once more under the stars(星空の下、君ともう一度いて)
 And down by the shore an orchestra's playing(海辺には楽団の音楽が流れ)
 And even the palms seem to be swaying(椰子の葉すらその音に揺れるようで)
 When they begin the beguine(ビギンの曲が始まると)

To live it again is past all endeavor(やり直したくても、それは叶わない)
 Except when that tune clutches my heart(でもあの音が僕の心を掴めば)
 And there we are, swearing to love forever(ほら僕らは永遠の愛を誓っている)
 And promising never, never to part(決して別れることはないと)

What moments divine, what rapture serene(なんと神々しい瞬間、なんとうららかな喜び)
 Till clouds came along to disperse the joys we tasted(けれど雲が立ちこめ、喜びは散り去った)

And now when I hear people curse the chance that was wasted(幸運を台無しにしたと皆が僕に叫ぶ)
 I know but too well what they mean(その意味が今になり痛いほどわかった)

So don't let them begin the beguine(だからビギンを始めないで)
 Let the love that was once a fire remain an ember(かつて燃え上がった愛の炎は残り火のまま)
 Let it sleep like the dead desire I only remember(死んだ欲望のように記憶の中に眠らせて)
 When they begin the beguine(ビギンの曲を始めるときには)

Oh yes, let them begin the beguine, please make them play(そうだ、ビギンを始めてくれ、あのビギンの曲を)
 Till the stars that were there before return above you(もう一度君の上に星が輝くまで)
 Till you whisper to me once more, “Darling, I love you”(もう一度君が「愛してる」と僕にささやくまで)

Then we suddenly know what heaven we're in(そうすればほら、僕らはまたきらめく世界の中)
 Whey they begin the, begin the, begin the beguine(ビギンの曲が、ビギンの曲が始まると)
 When they begin the, begin the, begin the beguine(あのビギンが、ビギンの曲が始まると)
 When they begin the beguine(ビギンの曲が始まると)

ビギンを始めようというこの曲、決して過去を振り返るノスタルジーを歌ってはいない。主人公は恋人に出会えた幸運を台無しにし、すべては消え去ってしまったのだ。もう思い出の中にしか彼女は存在しない。だからビギンを始めないで、と彼は歌う。死んだ欲望は永遠に眠らせておいてくれ、と。今さらビギンを始めたところで記憶の中に閉じこもるだけだ、と言わんばかりに。「やってみよう」と言われていろんなことをビギンしたところで、その最終地点に待っているのは甘ったるくシュガーコートされた偽りの「自由」なわけで、お花畑の中を生きるだけだ、と言わんばかりに。それならいっその事、ビギンしなければいいだろう、と。

それでも彼は言う。そうだ、ビギンを始めてくれ。「始める」を始めてくれ。

何かを始めることには2つのレベルが存在する。ひとつは「何かのために」始めること。勉強すれば良い大学に進める。良い仕事につける。貯金をすればいつか車が買える。自分を磨けばあの人に振り向いてもらえる。ダイエットすればかっこよくなれる。要するに人は、皆それぞれが一本のレールの上を前に進むイメージで人生を捉えている。「始める」というのはすなわち、自分の人生にこの「レールのピクチャー」を導入することに他ならない。レールを進む中で、目の前に障害物が現れると人はそれを「不自由」と感じ、障害物が消えれば「自由」と感じる。結局のところ今までここで考えてきた「自由」の問題とは、レール上の障害物をどこまで取り除けるかという話だったのだ。そして、特定の人間だけがレール上をスムーズに進めたり、残りの人間は障害物を取り除けない、さらにはレールが分断されているなんてことがあれば、それは健全な社会とは言えない。全員に平等にレールを与えよう、そして全員がレール上の障害物を取り除けるようにしよう、というピクチャーで「健全な社会像」が構築された。けれども、そのピクチャーが現実のものとなった今、我々は驚くほど矛盾と偽善に満ちた「甘いとろみの自由」の中に生きていることに気づく。世界の全てに「いいね!」をしながら、どこかに響く差別の罵声に気づかないふりをして。レール的世界観、言い換えれば生きることを「道」と捉える人生観、それを導入する一つ目の「始める」が行き詰まったのだ。

だからこの「始める」を一度やめよう、と彼は言う。ビギンを始めないで、と。
そしてもうひとつの「始める」は、「始めることを始める」という道。Begin the beginである。これはトートロジー(同義語反復)ではない。一つ目の意味の「始める」の次元を超えるということ。レール的ピクチャーで捉えた「始める」を超えること。一本の道を進み始めるイメージの「始める」から外れること。抽象的に説明すると、外れることは「始める」がダブルになることだ。一つ目のビギン、そしてそれから外れるビギン。ダブルになることは、最初の「始める」をやめることでもある。けれども、やめていながら同時にそれも「始める」になっている、そんな次元へ進みだすこと。だからビギンを超えて、それでもなおビギンする。ビギン・ザ・ビギン。理論的にはこうなるが、要するに「やってみよう」的な甘いメッセージから脱出することだ。脱出することで「始める」のである。僕は哲学者として確信する。そもそも「始める」ということ自体、一本の直線では捉えられない。正確に言えば、一本の直線「だけ」では捉えられない。ゴールにたどり着くために道を歩き「始める」こともある意味、我々をわくわくさせることではあるが、道に迷うこと、道を歩く世界観そのものから抜け出すことも、より深いレベルで我々をわくわくさせる。突然、予想もしない方向へと跳躍すること。道を超えること。つまり、ブレイクである。何か事件が起きることを英語でブレイク・アウト(break out)という。そう、本当に何かが始まる瞬間とは事件なのである。今いる地点からの根源的なブレイク。最もラディカルなブレイク。これがもうひとつの、超越するという意味での「始める」だ。「今までに無い新しいコトを始める」ということではない。スノーボードに飽きたからカヤックを始める、サラリーマンをクビになったからラーメン屋を始める、というのではない。カヤックもラーメン屋も、「AでなくてB」と選択されれば、そこからまた一本のレールで描かれるだけである。その選択の次元すら、ブレイクするのである。

そして、ブレイクへ

そんな抽象的なこと無理だって? そうだろうか。「始める」の意味をラディカルに疑うとき、我々は今まで個人がそれぞれ主体的に、「自由に」何かを選び取る態度でしか「始める」を理解していなかったことに気づくだろう。auのCMは「個人の快楽の追求」を高らかに歌い上げていなかったか。何でも自分の好きなことをやってみよう、と。ここで言うラディカルなブレイクとは、その「誰からも邪魔されずに、この私が純粋に、主体的に、自由に選ぶ」からブレイクすること。そしてそれが「始める」ことを意味し、そのまま「自由」を意味する、そんな次元のこと。

それを愛と呼ぶのである。

哲学の根本的な意味に立ち返ってみよう。哲学は「哲」の「学」ではない。古代ギリシャ語「フィロソフィア(philosophia)」の訳である。フィロ(philo)は「愛」、ソフィア(sophia)は「知恵」。哲学とは知恵を愛することそのものなのだ。愛は「選ぶ」ものではない。Fall in loveという言葉の通り、「落ちる」ものなのである。恋愛という狭い意味の愛に限らず、愛とはそもそもブレイクだ。ある日突然、心が鷲づかみにされ、日常からブレイクしてどこかへ落ちる。それまで考えたことも感じたこともなかったことが目の前に広がる。なぜ今までこれに気づかなかったのだろう、と不思議な感覚に包まれる。何も変わっていないのに、何かが確実に変わってしまう。事件が起きた。何かが「始まった」のだ。同じ場所にいながら、自分はいま違う場所にいる。哲学者に対してよく「何故そんな終わりのないものをグダグダといつまでも語っているのか」という疑問を持つ人がいるが、答えは簡単である。哲学には「始まり」しか存在しないのだ。「そうだ、ビギンを始めてくれ」と最後にもう一度言った彼には、何かが起きた。何かが始まった。そのためには一度、ビギンを止める必要があったのだ。その意味で「ビギン・ザ・ビギン」は究極の愛の歌であり、ラディカルな自由の賛歌だ。

こう考えられないだろうか。究極の「始める」は、自分が誰にも邪魔されずに何かを自由に選ぶのではなく、何かに「選ばれる」ことである、と。選ばれる、といっても何か超越的な存在に対して受身になったり服従するということではない。最後にきて答えはスピリチュアル系だった、としたらもはや笑えないほど悪質な冗談だ。「選ばれる」とは、自分のコントロールを超えたレベルの事件を起こすこと。そのために、当たり前のものとして世間の隅々にまで浸透しているピクチャーを問い直すのである。自分も含めた社会全体がどっぷりと浸かっていて、確実に行き詰まってしまったピクチャーを。「自分が選ぶことこそ自由」「レールをスムーズに進めることこそ自由」「自分が主体的に始められるからこそ自由」と、誰もが疑いもなく受け入れている「自由」。それが実際のところ様々に破綻していることを暴き立てること。そしてそれから解放されること。夢の中にいながら、それが夢だと気づくことで夢の外へ出られるように、目の前にある「当たり前のこと」の限界を見極めてそれを超えていくのである。ブレイクは容易ではない。ブレイクを「始めよう」とすれば、すぐさま「レールのピクチャー」に組み込まれてしまう。常に足元をすくいにかかる「自由」の矛盾からクリティカルに距離をとり、「自由」を疑い、ラディカルな次元へと解放されるまで、事件が起きる日まで「自由」の意味を問い続けるのである。自由、って本当に自由か?と。

自由の刑に処された我々は、「自由に始める」の牢獄からブレイクすることができるだろうか。再び海辺で楽団の奏でる旋律を聴くために、ビギンを終えることができるだろうか。

葛生賢治(くずう けんじ)
1970年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒用後、サラリーマン生活を経て渡米。2000年ボストンカレッジ大学院哲学科修士課程終了。2007年ニュースクール大学院哲学科博士課程終了。ニューヨーク市立大学哲学科非常勤講師を経て、現在東京にて執筆活動中。フリーウェブ雑誌「OUR」チーフエディター。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。趣味は駄洒落づくり。代表作は「オジー・オズボーンの叔父におスボーン履かせてちょうだい」。