ファッションから見た映画と社会
連載第4回 オードリーとその恋人たち~その4~助川幸逸郎

○衣服で読みとく「ララビー家の男たち」

オードリー・ヘップバーン主演第二作『麗しのサブリナ』は、大富豪であるララビー家が舞台です。

一族の当主・オリヴァーは19世紀の生まれ。保守的で頑迷、「昔ながらのアメリカの金持ち」の典型のように描かれています。

長男のライナスは、堅物の仕事人間です。ビジネスだけが興味の対象で、中年になってもまだ結婚もしていません。ライナスには当初、ケリー・グランドがキャスティングされていましたが、撮影開始直前に出演を辞退。ハードボイルドヒーローを演じて有名だったハンフリー・ボガートが、かわってこの役を引きうけました。

次男のデイヴィッドは、兄と正反対の「遊び人」。離婚と結婚をくり返すこと三回、仕事面でも、一家の経営する会社に籍を置きながら、出勤することさえありません。デイヴィッドを演じたのは、「美男俳優」として鳴らしていたウイリアム・ホールデンです。

ララビー家の3人の男たちのキャラクターは、衣装にも反映されています。

たとえば、日曜日の午前中にオリヴァーが自宅にいる場面。彼の着ているジャケットはツイードです。

ツイードはもともと、狩りをしたり野山を散策したり、「屋外で活動するときに身にまとうもの」でした。

「今日は休みだから、オフィスで仕事するときとも、フォーマルなパーティに出るときともちがう恰好をする」

オリヴァーは、そういうつもりでいる設定なのでしょう。ところが、このシーンで彼がツイードにあわせているシャツはウィングカラー。そこにアスコットタイを巻いています。

ウィングカラーのシャツにアスコットタイ。この組みあわせは、『麗しのサブリナ』が撮影された1954年には、モーニングを着るときだけのものになっていました。

モーニングは、男性の昼間の「最高礼装」です。日本では、園遊会の折などに着用されます。そういう「かしこまった服」にあわせるべきシャツとタイを、ツイードのジャケットにコーディネイトする。この着こなしが「普通」といえたのは、20世紀の初頭まででした。オリヴァーは、半世紀昔の装いをしていることになります。

オリヴァーがこの着こなしで画面にあらわれる前夜、次男のデイヴィッドが、サブリナと結婚すると言い出しました。サブリナは、ララビー家に仕える運転手の娘。オリヴァーはデイヴィッドを叱りつけます。

「私は、運転手のフェアチャイルドを尊敬して、彼の私生活に立ちいらないようにしてきた。おまえもフェアチャイルドの娘に対し、おなじ敬意をはらうべきだ!」

「おかかえ運転手の娘」と息子の仲を、「身分ちがい」を理由に引き裂こうとしたわけです。このときライネスが、こういってデイヴィッドをかばいます。

「本気でサブリナを好きなら結婚しろ。今は20世紀だ。」

これを聴いたオリヴァーは、耐えかねたように叫ぶ。

「20世紀! 最悪の世紀じゃないか!」

オリヴァーは、自他ともに認める「生きる化石」。彼の「半世紀昔の装い」は、それを象徴しているのです。

ララビー家のふたりの息子のうち、ライナスは大学卒業以降、一度も女性うけを気にしたことのないタイプ。サブリナとヨットに乗ろうとして、学生時代のクラブの制服を引っ張りだし、あまりの似あわなさに脱ぎ捨てたりする。長年、プライヴェートで女性と出かける機会がなかった――そのことが、ここだけでありありとつたわってきます。

仕事の際に着ているスーツも、ライナスのそれは古風です。

メンズのジャケットには、前側と後ろ側をつなぐ縫い目が肩の付近にある。このラインが、ライナスの着ているスーツでは、かなり背中側に寄っています。

20世紀のはじめから、ジャケットの肩線は、前側に移っていく傾向がつづきました。1960年代に、「これ以上前には行けない限界」に達し、このトレンドは終わりを迎えます。

男性の上着の丈は、膝にとどくほど長いのが元来の姿。19世紀後半、現在のスーツの原型にあたるラウンジスーツが生まれたことで、「裾のみじかい上着」が普及しはじめます。

膝まで達する裾が、きれいな線を描いてひろがる――そういう服にするためには、背中の側に肩線をとり、そこから肩をつつむように前身頃をのばさなくてはならない。このため、古い時代の「膝丈ジャケット」は、どれも肩線が後ろにあります。

裾が腰のあたりにある「ニュータイプの上着」も、当初は昔の仕様にならっていました。けれども、肩から腰にかけてのラインを整えるだけなら、肩線が背中側にある必要はない。むしろ、前身頃と後ろ身頃のつなぎ目が前にあるほうが、肩にテンションがかからないので「動きやすさ」が得られます。結果、時代の経過とともに、ジャケットの肩線を前寄りにとる傾向がつよまりました。

次男のデイヴィッドの上着を見ると、前後の継ぎ目が肩の頂点より前にあります。この点から、彼が流行を気にかけて服を選んでいるとわかる。ライナスが身にまとう「肩線が背中寄りの、襟幅のひろい上着」は、第2次大戦以前の服を思わせます。ライナスは、「大人になって最初につくったスーツ」とおなじ仕立てのものを、ずっと着ている設定なのでしょう。

パーティの場面で着用するタキシードを見ても、ララビー家の兄弟は対照的です。

ライナスのそれは上下ともに黒。19世紀なかば以降現代に至るまで、オーソドックスな「男性の礼装」はこの色で仕立てられます。

いっぽう、デイヴィッドのタキシードの上着は白。白いジャケットで夜の催しに出る習慣は、1930年代からひろまりました。夏のリゾート地ではじまった着こなしなので、上下黒のタキシードを身につけるより格式ばらない印象になる。そのぶん「白のタキシードの上着」は、その人を「パーティ慣れした粋人」に見せる効果があります。

デイヴィッドのタキシード姿を見て、「19世紀の遺物」であるオリヴァーはぼやく。

「白い上着なんか着よって。理髪師でもあるまいに!」

1930年代に生まれた服は、オリヴァーにとっては当然、「理解の外」だったのです。

(この項、つづく)

助川 幸逸郎(すけがわ こういちろう
1967年生まれ。東海大学文化社会学部文芸創作学科教授・岐阜女子大学非常勤講師。おもな著書に『文学理論の冒険』・『光源氏になってはいけない』・『謎の村上春樹』・『小泉今日子はなぜいつも旬なのか』・『教養としての芥川賞』(共著)・『文学授業のカンドコロ』(共著)などがある。