アゴラまでまだ少し 第6回
ひび割れたガラスの向こうに葛生賢治

ルパン三世といえば、誰もが知る国民的なアニメである。モンキー・パンチの原作による漫画よりもアニメ化されたテレビシリーズの方が多くの人にとって馴染みがあるだろう。映画化も多くされ、日本アニメ史上に残る名作との呼び声も高い宮崎駿監督の『ルパン三世・カリオストロの城』は海外でも有名だ。それに比べて、1978年公開のアニメ映画『ルパン三世 ルパンVS複製人間』は比較的マイナーな存在かもしれない。こんな話。

峰不二子からの依頼でルパンは次元と共にピラミッドからある石を盗み出す。「賢者の石」と呼ばれるその石は、ファラオの時代から不老不死の力を持つと信じられていた。不二子がその石を欲しがったのは、実はマモーという謎の男との取り引きに応じていたからだった。マモーは1万年前から自らの体をクローン技術で再生し続け、永遠の命を手に入れようとしていた男で、賢者の石も自らの命を永遠にするために必要としていた。核兵器すら思うがままに操り、アメリカをはじめ世界各国首脳たちを脅して最先端の細胞学・遺伝子工学の研究結果を手に入れようとし、自らを「神」と呼ぶマモーだったが、結局のところ賢者の石でも不老不死の命は手に入れることができず、クローンによる完璧な自己の再生も失敗だと悟る。彼は不二子を連れて、地球よりも遥かに文明が発達した他の惑星を見つけようと、ロケットで地球を脱出しようとする。賢者の石を素直に渡さなかったことからマモーに命を狙われ続けてきたルパンは、不二子の裏切りによって全てのトラブルに巻き込まれたにも関わらず、マモーに宇宙へ連れ去られようとする不二子を取り戻しに、マモーの要塞へと乗り込んでいく。いよいよ地球から脱出しようとするマモーは、それまでクローン技術で再生を繰り返してきた体ではない「オリジナルの自分の姿」だけを持ち、ロケットで自らを打ち上げようとする。それは巨大な脳だけがガラスのタンクに入った姿だった。

この「脳だけがガラスの入れ物に入って生き続ける」イメージ、実は哲学では有名な議論で使われている。「水槽の脳 (Brain in a vat)」の議論と呼ばれるものだ。

あなたは今、自分がこのエッセイをスマホの画面かパソコンの画面で読んでいるとする。目の前には自分の手に握られたスマホや、机の上のパソコン。その他もろもろ、コップやノート、リンゴや財布や部屋の壁や床のスリッパや、家や電車や空や風など、様々な物体が自分のまわりに存在し、自分はいまこの現実の中で意識を持ち、服を着て生活をしている。けれども自分がいま、たった今この瞬間、水槽に浮かぶ脳だけの存在だとしたらどうだろう。なにやら怪しげな液体の中に浮かぶあなたの脳にはチューブがつながれていて、五感が現実と感じるような感覚の電気信号を送られ、あなたが「手にスマホを持ってこの文字を読んでいる」と信じるその経験のすべては、実はそのままそっくり脳の中で再現されているだけだとしたら? あなたが「現実」と信じるものの全ては水槽の外にいるマッド・サイエンティストやマザーコンピューターらが作り出したバーチャルリアリティーだとしたら?

2016年3月に死去したアメリカの哲学者ヒラリー・パトナムが80年代に展開したこの思考実験は、そもそも近代哲学の父・デカルトによって17世紀に始められた歴史がある。映画『マトリックス』で有名になった「いま自分の目の前にある現実が、何か別の存在によって作り出されたバーチャルリアリティーではなく本当の現実である、とどうやって証明できるのか?」という問題。それを最初に哲学の問題として取り組んだのがデカルトで、パトナムの議論はそれをより洗練された形に再構築したものだ。その全てを正確に説明するにはスペースが足りないので、厳密さに欠けたり詳細をそぎ落とすことを承知であえてポイントを絞って解説すると、彼が著書『Reason, Truth and History(理性・心理・歴史)』の中で展開するその議論は次のようなもの。

パトナムは、「我々が水槽の中の脳であるこということは、ない」と結論する。何故か? そもそも、我々が水槽の中の脳であるとはどういうことか。我々が「どう考えても現実でしかない」と思う「現実」が、そうでない形で存在している、ということ。そしてその「そうではない形」のほうが本当の現実で、我々が「現実」と呼ぶもの、例えば手の上のスマホ幻想であり、妄想であり、間違いである、ということ。あわれにも水槽の中にブクブク泡を出しながら浮かぶあなたの脳を眺めるマッドサイエンティストから見た「現実」(A) こそ、現実。あなたがいま手の上にスマホを持ってこれを読んでると信じている現実 (B) は、水槽の中でブクブクいってるあなたの脳を外から眺めているサイエンティストによって作り上げられたものだ。パトナムは、(B) の中に完全に閉じ込められた我々が、その中にいながらにして (A) の方が正しいと証明できるか、と問う。証明できれば、我々は本当に水槽の中でブクブクいっている。できなければ、我々の現実 (B) が現実だった、となる。彼は「できない」と結論する。できないどころか、そもそも「我々は水槽の中の脳だ」と言うことすら、考えることすら、正確にはできない。「水槽の脳だ」と考えること自体が矛盾を含むからだ。いわば、「私の言うことは、いまこの発言も含めて全て嘘だ」と言うような矛盾を。

想像力を使って水槽の外を考えてみよう。あなたはマッドサイエンティストと同じ視点に立って、水槽の中の脳を眺めている。それが現実。そして、水槽の中にいる脳は「自分は手にスマホを持っている」と思っているけど、狂った科学者によってコンピュータから脳に直接送られる電気信号によって騙されているだけである。ということは、

(A) と (B) とはまったく別のものであって、共通する部分は絶対に存在しない。

ということだ。「目の前のスマホ」は現実には存在しない。スマホどころか、それを持つ自分の手も存在しない。さらには自分の体も足も、足の下にある地面も、空も空気も自分が聞く音も、全て存在しない。(B) の中のあらゆる存在が、存在していない。そう、「水槽の中の脳」の思考実験の核にあるのは、ブクブク水に浮かんだ脳にとって存在するものの全てが、その存在を否定されるということなのである。「どう考えても絶対に存在する現実」が「絶対的に存在しない」からこそ、この話は哲学の問題となるのだ。どこかで (A) と (B) とがつながっていたら、それはたまたま自分と他人が「同じ現実」を違う風に解釈しているだけ、解釈の仕方に違いはあっても、現実の存在自体は共有していることになる。ある人はキリスト像を「神の精神が宿る聖なる存在」と解釈し、ある人は「かっこいいアート」と解釈する。その2人とも像の存在を共有している。それだけ。アメリカ人は林檎を「アップル」と呼び、日本人は「りんご」と呼ぶのと同じ。

ということは、水槽内の脳が言う言葉「私はいま手にスマホを持っている」は「嘘」の言葉となる。彼の言う「私はいま青いシャツを着ている」も嘘なら、「自分はいま地面に立っている」も嘘。「空には太陽がのぼっている」も「私はいま呼吸している」も「鳥羽一郎は山川豊のお兄さんである」も、全て嘘。そもそも水槽内の脳にとって「経験」というもの全てが存在しないのだ。経験が存在しないことを言い換えたのが「水槽内の脳」というイメージなのである。

そんな脳が「私はいま脳だけの存在で、水槽の中にブクブク浮かんでいる」という言葉が「本当」になるだろうか?

そもそも五感の全てを否定された存在が、「水槽」「脳」「ブクブク」「浮かぶ」「侠気の科学者」など経験があって初めて理解できる言葉を使って、それらを言い当てることができるのか。できない。パトナムの主張のポイントはここにある。そもそも何を言ったところで、何を考えたところで、それが「現実」を言い当てることができないことをもって初めて「水槽の中の脳」と定義されたのだから、その水槽内の脳が今度は「あ、実は自分は水槽の中にいたんだ!」と言ったところで、その脳が主張する「新たに発覚した衝撃の事実」が「本当の現実」であると何故いえるのか? いえないのである。

ここで、視点を先ほどの位置から移動してみよう。マッドサイエンティストのいる研究室から我々の視点を動かして、今度は水槽内の脳の内側に入ってみる。はい、この瞬間から「外の現実」は存在しなくなった。あなたは普段の生活をしている。目に映るもの、手に触るもの、全てがそのまま今までどおり存在している。実際はそれがバーチャルリアリティーだとしても、その「内側」にいる人間にとってはそのバーチャルということすら意味がないレベルで、「内側」しか存在しない。そしていま仮に、狂気の科学者が水槽内の脳のあなたを驚かせてやろうと、コンピュータから特殊な脳に信号を送って「もしもしそこの君。君はいま現実の世界に生きていると思ってるだろうけど、実は水槽の中の脳なんだよ。それが証拠にほら、この映像を見てごらん」と語りかけたとしよう。モーガン・フリーマンのような低音の効いた声が、まるで神の言葉のようにあなたに聞こえる。そして研究室内の映像が、科学者からあなたの脳に直接送られたとしよう。

それが「現実」だと、あなたはどうやって証明できるのか? できないのだ。自分の頭が妄想にとりつかれたと思うだけである。

そもそも「水槽内の脳」にとって、「現実」はあなたがいまこの文章を読んでるというような「ひとつの現実」しか存在しないのである。そしてその中に生きる我々を「水槽内の脳」と仮定することは、我々の現実の全てを「間違い」とすること。我々が五感で経験することのみならず、我々が考えること、我々の思考、想像、論理、言葉、イメージ、感性、直感、それら全てを「間違い」とすることなのだ。だったら、今さら空からモーガン・フリーマンの声(を借りたマッドサイエンティスト)がなんだかんだ言ったとして、それを「現実だ」と証明する方法はあるのか? 「外」は消滅したのだから、いまさら「外」に関して「これが正解だった」といくら言ったところで、その言葉の全てが否定されるのである。だからパトナムは言う、「私は水槽内の脳である」という仮定自体が矛盾を犯さずに考えることができない。ゆえに、我々は水槽内の脳ではない、と。

ここまで読んできてちょっとモヤモヤしている人もいるだろう。こんな反論があるかもしれない。「だって、水槽の中にブクブク浮かんでいる脳って科学的に実現しそうだし、事故にあって植物状態になった人とかの映像も見たことあるし、想像はできるんじゃない? 寝てる人の横に立って、こっち側の現実とその人が夢の中で見てる『現実』は違うって考えることができるから、可能性としてはあるんじゃない?」と。

パトナムの結論に対して反論する人の多くが、このような意見を持つだろう。でも、それは根本的に的外れだ。なぜならその反論の全てが「自分は水槽の外に身を置いている」という前提で始まっているから。この問題の本質はそこではない。ポイントは、

我々が水槽の中の脳だったとして、「我々は水槽の中の脳だ」と証明するために、我々の現実の「外」にたどり着けるのか?

という問題なのである。そもそも、我々が経験し、言葉で表す「外」というものの全ては「人間が五感を通して経験し、人間が『外側』と名前をつけたもの」でしかない。部屋の中にいて窓から部屋の外を見たり、教室の中から廊下を見たり、お笑い番組で箱の中は何だろうと芸人が外から手お入れたり、好きな人の心の中を外から想像してみたり、などなど。「外」や「内」は人間が経験し、人間が使う概念だ。で、「水槽内の脳」という考えは、我々が日々の生活の中で「外」と呼んだり「内」と呼んだりしながらする経験のみならず、あらゆる経験が「間違っている」とした上で、それを超越した「外」の領域を指す。正確に言えば、人間の理解する「外」や「内」をいくらこねくり回して論じても、それらすべてが「間違い」とされること、それが「水槽の中の脳」である条件なのだ。我々の目の前にあるスマホを「嘘」だと否定されたところから話が始まっている以上、どう言って表現したところで、どう議論して証明しようとしたところで、「我々は水槽の中にいる」という言葉は「嘘」なのだ。絶対にたどり着くことは出来ないのである。

それでも、まだモヤモヤする人はいるだろう。そう、このパトナムの議論、これまで様々な反論や議論を呼んできている。果たして我々は本当に「現実」にいるのか? ひょっとして水槽の中にいるのか? 哲学者たちの間でもケンケンガクガクだったりするのだ。

ちょっとここで代表的な反論を紹介しよう。現在ニューヨーク大学哲学科の教授であるトマス・ネーゲルは著書『The View from Nowhere (どこでもないところからの眺め)』の中で言う。

If I accept the argument, I must conclude that a brain in a vat can't think truly that it is a brain in a vat, even though others can think this about it. What follows? Only that I cannot express my skepticism by saying “Perhaps I am a brain in a vat.” Instead I must say “Perhaps I can't even think the truth about what I am, because I lack the necessary concepts and my circumstances make it impossible for me to acquire them!” If this doesn't qualify as skepticism, I don't know what does.
(もしも [パトナムの] 議論を受け入れるとすると、以下のように結論せざるを得ない。水槽の中の脳は自分が水槽の中の脳だと考えることができない、たとえ他の者が考えることができるとしても、その脳はできない、と。そうだとしたら、どういう結果になるか?私は「自分は水槽の中の脳かもしれない」という言葉では私の懐疑論を表現できない、というだけのことなのだ。代わりにこう言わなければならない。「おそらく私は、自分が本当は何であるか考えることすらできない。なぜなら私にはその真実にたどり着くのに必要な考えも、たどり着くための環境も存在しないからだ!」と。これを懐疑論と呼ばずに、他に何を呼べるというのか。)

要するに、「我々は水槽の中の脳だ」という考えが正しくないからといって、「我々は水槽の中にいない」ことが正しいとはならない、ということ。何故か? パトナムの議論のすべてはある前提をもとに積み上げられているが、その前提が正しいとは言い切れないのだ。それは、

我々は水槽の中にいる (B) か、もしくは水槽の外にいる (A) か、どちらかしかあり得ない。

という前提。もしもこれが正しければ、 (A) が間違いとなった瞬間、(B) が正しいと結論できる。けれども、この「(A) か (B) どっちかしかない」なんて、水槽の中にいるとしたらそもそもどうやって証明できるのか?

パトナムの理論の決定的な問題は、「我々がもし水槽の中の脳だったらどういうことになるか」という仮定から始まり、ひとつひとつ議論のステップを経て「我々は水槽の中の脳ではない」という結論にいたるまでの全てが、そもそも我々が水槽の外にいることを前提として行われているのである。まず「(A) か (B) かのどちらかしかない」という考えが議論の土台にあって、その土台を受け入れて理性的に考えればパトナムの言うように理解できる、というだけ。すなわち、「土台」という決して崩すことのできない「真実」がまずしっかりと確保されていて、その上でなんだかんだと理屈を並べて、「水槽の中にいるなんて矛盾してる、だから我々はちゃんと現実を捉えている」と話を決定しているだけなのだ。そもそも「水槽の中」という考えが矛盾しているからといって、つまり「水槽の中」という絵がダメだったからといって、「水槽の外が正解だ」とどうして結論できるのか? 言い換えれば、「水槽の中」が間違いだったとして、水槽の絵が「どう間違っているか」は、パトナムの議論は示せないのである。もはや水槽の例えや「内側」「外側」という論理では捉えられないレベルの、我々の認識と思考を超えた状況こそが真実で、いくら「水槽」の絵を捨て去り「やった!我々はついに外へ出られた!」と言ったところで、その「外」こそがもうひとつの幻想である可能性はないだろうか? パトナムは「そんなことはあり得ない」と言うだろう。論理的に言って、「内」でなければ「外」であるべきだから。グレーゾーンは論理的に排除されるべきだから。でも、その「論理」が現実のありのままにリンクしているなんて、「水槽の中」に居ながらどうやって言えるのか? パトナムの議論はあたかも、「水槽の中」と「水槽の外」が表裏一体になっているということを何故か「水槽の中」に居ながらにして言い当て、それが全ての話の土台であると決めた上で展開する。絶対に間違えることのない「土台」は我々の側にある、とでも言うように。「絶対的な土台」とは「真実」のことだ。つまり、我々は最初から外にいる。ある意味、出来レースの議論なのだ。もしも本当に我々が水槽の中の脳だとしたらどうだろう。我々の論理自体、「(A) か (B) かどちからしか無い」という前提自体が、「いま目の前にスマホがある」と同じように「間違い」とされはしないだろうか。少なくとも「正解とは言い切れない」とはならないだろうか。結局は、我々を「水槽の中の脳」という絵から解放してくれるはずの「論理」すら、「水槽の中の脳」という絵は飲み込んでしまうのだ。ネーゲルの反論のポイントはここにある。

一連の「水槽の中の脳」にまつわる様々な議論から見えてくること、それは「我々のこの現実、どう考えても疑いようのない現実が知らぬ間に何者かによって偽物とすり替えられていて、我々は騙されている」という妄想を払拭することは究極には出来ない、ということ。出来ない、というより「出来ると宣言する理論がその妄想を強くする恐れがある」ということ。払拭できると宣言することは、以下の2つを同時に含むからである。

1.「水槽の中」と「水槽の外」とは絶対的に異なる。ゆえに「水槽の中の脳であることを自覚する脳」という絵はそれ自体が矛盾である。→ 水槽の外に出た!
2.「水槽の中」と「水槽の外」とは絶対的に異なる。ゆえに「水槽の中の脳であることを自覚する脳」という絵はそれ自体が矛盾である。→ 水槽の外に出た!、、、と宣言できたとしたら、それは外にいると分かっている時だけである。水槽の中にいたらそもそもその宣言はできない。→ 結局は水槽の中なのかも。

そもそもこの議論、「水槽の中」と「水槽の外」を完全に分けるところから始まり、分けるからこそ「1」となり、分けるからこそ「2」へと押し戻されるのである。思いっきり遠くへ投げたブーメランが勢い良く帰ってくるように、我々の不安を払拭するために積み上げた議論がやっとトンネルの外へ出ようとした瞬間、また我々は同じ場所へと引き戻される。抜け出したと思ったら闇の中。正解だと思ったら不正解。外だと思ったら中。

古今東西の物語や寓話、例え話や哲学的比喩の中にこの「現実か幻かの不安を払拭できないジレンマ」が繰り返し登場するのは、そもそも我々の存在の根源的な部分にこの矛盾の構造、ブーメランの構造が潜んでいるからではないか。哲学者プラトンの「洞窟の寓話」、荘子の「胡蝶の夢」、映画『マトリックス』、大友克洋の短編マンガ「夢の蒼穹」など、例を挙げたらきりが無いだろう。日本で90年代の終わりに流行った「ドラえもんの最終回」の都市伝説もこの一例だ。マンガとアニメの「ドラえもん」で繰り広げられたエピソードの全ては、実はのび太の見た夢だった。のび太は実は植物人間となっていて、彼の枕元にはドラえもんの形をした人形が転がっていた、というもの。実際にはこのような話は原作者の藤子・F・不二雄によって描かれておらず、ファンたちの間でまことしやかに囁かれていた妄想である。でも、こう問うこともできる。何故この妄想が我々の心を強く掴むのか? 妄想でしかないのに、どうして莫大な数の人間に共有され、記憶に残るのか? どうして同じような話が太古の昔から繰り返し、例え話に登場するのか? 我々の存在の核に「現実をこの手でありありと、疑えないレベルで掴み取りたい。真実を掴み取りたい。でもそれは常に何かに裏切られるかもしえない」という不安が組み込まれているからではないだろうか。これは「恐怖」ではない。恐怖は「真実を絶対に掴めないこと」が決定したときに襲ってくるもの。ジレンマとは「こういう理由で掴める。でも、同時に全く同じ理由でもって、掴めない」という純粋な矛盾に直面するときの動揺である。掴めるのか、掴めないのか、それが掴めない。

問題は、果たしてこれが「不幸なこと」なのか、ということだ。巨大な脳だけの姿になってガラスのタンクに入り、地球を脱出しようと自らをロケットで打ち上げたマモーは、ルパンが仕掛けた時限爆弾によってタンクが破裂し、宇宙空間に投げ出される。ルパンは言う。

「マモー、感謝しな。やっと死ねたんだ。」

永遠の命を手に入れようと莫大な資本と最先端の科学と強大な武力を総動員し、不二子を連れて他の惑星でアダムとイブになろうとまでしたマモーは、神の領域にたどり着こうと1万年間苦悩を繰り返した。いわば、ぐるぐるとジレンマの中を生きる我々の世界を超えて、生命の領域を超えた「絶対的真実」の領域へ、「水槽の外」へ行こうと試みた。彼に残されたのは死による解放だけだった。彼はジレンマに耐えられず、ジレンマを受け入れることができず、「出口」を間違えたのではないか? 我々が本当の意味で解放されるのは、絶対的な「水槽の外」へひとっ飛びに脱出するのではなく、「真実を掴めるのか、掴めないのか、それが掴めない」という奇妙な自分たちの存在を受け入れる時、つまり「絶対的な外へ出る」という欲望から解放される時だとしたらどうだろう。

葛生賢治(くずう けんじ)
1970年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒用後、サラリーマン生活を経て渡米。2000年ボストンカレッジ大学院哲学科修士課程終了。2007年ニュースクール大学院哲学科博士課程終了。ニューヨーク市立大学哲学科非常勤講師を経て、現在東京にて執筆活動中。フリーウェブ雑誌「OUR」チーフエディター。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。趣味は駄洒落づくり。代表作は「オジー・オズボーンの叔父におスボーン履かせてちょうだい」。