ロックと悪魔 第7回 宗教改革と善悪二元論黒木朋興

異端の時代
 前回はヨアキムの思想が現代社会に対していかなる影響を及ぼしたかをみた。
ヨアキムの生きた12世紀以降、異端諸派が次々と出現し勢力を拡大し始める。前回までに触れたカタリ派の他に、ピエール・ヴァルドー(1140頃-1217頃)が創始したヴァルドー派が有名だ。ヴァルドー派の勢力拡大に足並みを合わせて、まさに異端の時代が到来したのである。
ただし、この異端の時代の到来は単に異端の増加したから、という理由とはまた別の視点で説明できることを指摘しておきたい。もちろん異端の活動がこの時期に盛んになったというのは事実だろう。しかし、異端の出現と同時に、ローマ教会の方で異端者をあぶり出すことに力を注ぎ始めたからこそ、異端が数多く見出されるようになった見方もできるのだ。実際、異端審問の審問官の役を担った修道士を数多く輩出することになるドメニコ会が、教皇ホノリウス3世によって認可されるのは1216年のことだ。
カタリ派は確かに異端として名を馳せたが、1209年からのアルビジョワ十字軍によって壊滅させられてしまう。それに対し、それ以降の時代においてキリスト教異端諸派の源流として大きな役割を果たすのがヴァルドー派である。

異端審問から魔女狩りへ
 12世紀より始まった異端審問は15世紀に入ると過激化し、悪名高い魔女狩りという形でヨーロッパの多くの人々の生命を奪うことになる。『悪魔の歴史』のロベール・ミュッシャンブレによれば「一般的に異端を意味していた『ヴァルドー派』という用語が、魔女術を非難する言葉へと変化を遂げるのは1428年前後であり、その後の10年間でこの意味が定着にするに至る」とのことだ。ヴァルドー派は単なる異端というだけではなく、魔女の名を着せられ弾圧の対象となったのである。もちろん、魔女狩りの犠牲者は女性だけであったわけではなく、多くの男性も生命を奪われたことも言い添えておく。
この魔女狩りの地理的な広がりについて見てみよう。魔女狩りを引き起こした「悪魔学のモデルはアルプス地方で生まれ、アラスで成長を遂げ、イタリアから北海までを結ぶ流通経路にのって伝播していった」とミュッシャンブレは言う。つまり、アルプスを挟んだイタリア北部と南仏のサヴォア、ドーフィネ地方を起点として、アルプスを越えスイスのフランス語地域に入りライン川の上流に達すると、そこから流域沿いにフランス北東のアルザス地方をかすめ、フランドル地方、つまり北仏、ベルギーやオランダといった地域に広がっていったのである。大まかに言えば、地中海沿岸の北イタリアや南仏といったヨーロッパの南から発し、ライン川が北海に注ぎ込むフランドル地方へと北上するラインである。ヨーロッパの真ん中を地中海から北海へと南北に貫く地帯と言っても良い。アルプス一帯で育まれた思想が、ライン川流域沿いにオランダの河口にかけて伝播したのである。
1428年以降、魔女狩りの嵐はこの地帯に吹き荒れる。と同時に、ここは12世紀よりヴァルドー派が勢力を伸ばした地域でもあったことにも注意したい。ヴァルドー派が15世紀に悪魔と見做されていた以上、この一致は別段に不思議なことではない。ただ、この地域において異端思想が活性化し、その結果として魔女狩りが盛んに行われるようになったのにはそれなりの理由がある。それはここが人や物の激しく行き交う交易の中心地域であったからなのだ。特に、スイスに発し、リヒテンシュタイン、オーストリアやフランスを抜け、ドイツを横断しオランダに至る国際河川であるライン川の存在が大きいだろう。鉄道のない時代においては、川に船を使って移動するのが大量輸送の重要な手段だったのである。ドイツ史はまさにこの川の流域を主軸にして展開していったと言っても過言ではない。北イタリアに発するルネサンスの知や技術はこのルートを核にヨーロッパ全域に広まったのだ。

交易路と悪魔
 そもそも異端とは何か、と言えば、カトリック教会の意にそぐわない思想であると言える。当然、教会権力は異端が広まらないように取り締まろうとした。そのために教会とは違った教えを唱える人々に悪魔なり魔女なりといったレッテルを貼り、弾圧し取り除こうとしたのだ。ところが、流通の活性化している地域においては、審問官が制限をかけるよりも早く監視の目をかいくぐり情報が伝播していく。そのような地域において、異端思想がはびこることとなり、当然それに応じて弾圧も熾烈になる、というわけだ。
悪魔の活動が活発になった地域というのは、交易が盛んに行われていたところだとも言える。つまり、悪魔と商業活動の親和性が高いということであり、異端思想は交易路を通じてヨーロッパ各地に広まっていったのだ。
ということは、この情報網を通じて運ばれたのは異端思想だけではなかったのである。様々な商品はもちろんのこと、言葉や知識、そして疫病なども交易路を通して各地に伝えられた。大航海時代以前においては、地中海交易の担い手であったイタリアの諸都市こそが、アラビア社会などのヨーロッパ外からやってくる文物の窓口だったことは改めて言うまでもないだろう。アラビアとの交易によってイタリアにルネサンスが到来したことは広く知られている。また、ペストの流行もこのような交易の活性化と関連していることも広く知られている通りである。北イタリアと南仏地域で熟成された文化は、アルプスを超えスイスに入ると、ライン川の流れに乗ってその上流からオランダの河口に向けて各地に浸透していくのだ。

アラビア学芸の世界
 そのように伝わったものに、アラビア数字がある。0, 1, 2, 3…といった私たちが当たり前に使っている数字である。アラビア数字というその名称からわかるように、これはヨーロッパの発明ではない。10進法の数字の体系はインドからアラビア世界に入り、それからヨーロッパにもたらされるのである。それまではヨーロッパ人が使っていたのは、ローマ数字なのだ。では、ローマ数字とアラビア数字の違いは何か? 試しに簡単な計算をしてみよう。「10 + 30 = 40」をローマ数字で書くと「X + XXX = XL」になる。「V × X = L」は「5 × 10 = 50」、「10 × 10 = 100」は「X × X = C」である。圧倒的にアラビア数字の方が計算が楽なのがわかるだろう。
特に、この数字表記が10進法と非常に相性の良い体系であることは改めて指摘するまでもない。更に、10進法は17世紀に数学の世界に導入されたルートや乗数の計算に大いに効力を発揮するものであることも明らかだろう。それが微積分の開発へと繋がり、宇宙の解明に大いに貢献することになることも科学史家の説明の通りである。広大な宇宙を計算するのには掛け算と割り算では十分ではなく、乗数やルートを使った計算が必要であることが判明したのである。
中世と呼ばれる時代においては、ヨーロッパよりもアラビア世界で学術研究が盛んに行われていた。そもそもは431年のエフェソス公会議でネストリウス派が異端認定され、それ以降、彼らが多くの古代ギリシア・ローマ文献を持って東へと移住して行ったことがその大きな要因と言われている。古代文献の読解に基づき発展を遂げたアラビア世界の優れた文化は、地中海貿易を通じてイタリアを窓口として西方へともたらされることになる。そのような文化交流は11世紀の終わりから始まる十字軍が契機となったことは言うまでもない。キリスト教徒たちは攻め込んだ先のイスラーム世界で豊穣な文化が花開いていることに気がついたのである。

印刷技術と宗教改革
 しかし、ヨーロッパにもたらされたアラビア数字はすぐにヨーロッパに広まったわけではない。ヨーロッパの支配者たちは、知識が各地に広まり民衆が独自に力を持つことを恐れていたからである。というわけで、アラビア数字がヨーロッパに広まり定着するのには16世紀を待たなければならない。ルネサンスも後期に差し掛かる時代であり、宗教改革の時代である。
アラビア数字に代表される知が各地に伝播していった16世紀に、宗教改革が起こったのは決して偶然ではない。ここで重要な役割を果たしたのが印刷技術の発達である。12世紀以降、権力者が必死になって伝播を食い止めてきたオリエント発の文化や学芸はこの技術の登場により、ついに堤防から溢れ出しヨーロッパ各地に広がっていくこととなる。その決壊の原動力となったのが、グーテンベルクの名で広く知られている活版印刷技術の開発だった。そしてプロテスタントがカトリックに対して抵抗運動を展開する際に最も強力な武器となったのが、この技術によって印刷された聖書だったことはよく知られている通りである。
そもそも活版印刷はグーテンベルクの発明というわけではない。それは11世紀の北宋の地において実用化されたのである。ところが、アジアではこの印刷技術による書物の流通が知の世界に革命を起こすことはなかった。もちろん26文字しかないアルファベットと違って漢字のシステムが複雑だという理由はあるだろう。それを踏まえた上で敢えて言えば、グーテンベルクの時代においてカトリックに反旗をひるがえすために求められた技術が活版印刷という技術であったからこそ、プロテスタントの信徒の手によってこの技術の開発と実用化が急速に進められたのだとは考えられないだろうか?

宗教戦争と書物
 カトリックの公式な聖書はラテン語のものであった。ミサもラテン語で行われる。となれば、信徒は神の教えを理解するためには教会に行って神父の指導を受ける必要があったのである。また、カトリックは教会でのミサを重要視する。ミサとは神を降臨させ、その神と信徒が聖体のパンを通して一体になるという儀式である。つまり、信徒が神にアクセスするには教会という組織に頼らざるを得なかったのだ。対して、そのような教会の組織としての腐敗を糾弾したのがプロテスタントである。彼らは教会で神父の指導を受けるのではなく、基本的には信徒の一人一人が聖書を読み、聖書を介して神へと向き合い信仰を深めることを提唱した。だからこそ、ルターは聖書をドイツ語に訳したのである。もちろんグーテンベルクが印刷したのはラテン語の聖書であったわけだが、その技術はまさにプロテスタントのルターによって採用され、新教徒がカトリックへ抵抗するための強力な武器となったのである。
印刷物がライン川を動脈とする交易路によって流通していたことは言うまでもないだろう。この交易路は15世紀以降、悪魔の道でもあったことは既に述べた通りである。16世紀に入ると新教徒の聖書が運ばれる道ともなったのだ。もちろん、流通していたのはプロテスタント側の書物だけではわけではない。ミュッシャンブレによれば、ドミニコ会の異端審問官が記した魔女狩りに関する最初の書物『魔女への鉄槌』は「1520年までに少なくとも15の版を数えてい」て、「そのほどんとがライン川流域の諸都市とニュルンベルグで出版されている」という。つまり、弾圧する側もされる側も含めてあらゆる情報がこの交易路を通して流通したのである。
つまり、印刷技術は確かにカトリックにとっても有益なものであったが、その反面、カトリック権力のコントロールが可能な範囲を超え情報が流通を始めてしまい、結果的にカトリックに反旗を翻したプロテスタントの諸勢力に確かな抵抗の武器を与えてしまったということになる。その結果、それまで異端として弾圧を加えることによりカタリ派を壊滅させヴァルドー派を追い詰めていたカトリック教会は、ついにプロテスタントという抵抗勢力が独自の政治的な権力を持つことを許してしまうのである。

黒木朋興(くろき・ともおき)
[出身]1969年 埼玉県生まれ
[学歴]フランス国立ル・マン大学博士課程修了
[現職]慶應大学等 非常勤講師
[専攻]フランス文学 比較修辞学 大学評価
[主要著書]『マラルメと音楽 ―絶対音楽から象徴主義へ』(水声社、2013年)『3・11後の産業・エネルギー政策と学術・科学技術政策』, 日本科学者会議科学・技術政策委員会編(共著 八朔社、2012年),『グローバリゼーション再審ー新しい公共性の獲得に向けてー』(共編著 時潮社、2012年), Allégorie(共著 , Publications de l'Université de Provence, 2003)