楽しく学ぶ倫理学 第11回 快楽と自由の原子論(西洋古代倫理学小史その七)田上孝一

現在、規範倫理学の代表的な立場として、功利主義と義務論があると考えられている。ここに徳倫理学が入るかどうかは論争の余地があるが、功利主義と義務論が二大学説なのは間違いない。

功利主義も義務論も、共に近代になって唱えられた学説であるが、歴史的な起源は古代哲学にある。功利主義の起源は快楽主義的な倫理学説であり、その代表者はエピクロスである。義務論の起源は禁欲主義的な倫理学説であり、その代表はストア派である。ここでは先ず、エピクロスを中心に論じる。

 

キュレネ派の快楽説

快楽説というのは、快楽こそは善であるという倫理学説である。快楽の追求が人生の目的ということになる。

非常に素朴な考え方であるので、おそらく神話時代から多くの人々に共有された考えだと思うが、学説としてしっかりとした論拠をもって提唱されたのは、キュレネ派が最初だとされる。

キュレネ派はソクラテスの弟子であるアリスティッポスによって創始された哲学派である。キュレネ派の快楽説は極端なもので、快楽の追求、しかも肉体的な快楽の追求が善であると主張した。精神的な快楽よりも肉体的な快楽のほうが、強度があるからである。快楽が善ならばより強い快楽が望ましいということだ。肉体的な快楽は刹那的なものに過ぎないのではないかという批判に対しては、快楽の前提は感覚の持続にあるので、快楽自体が刹那的であると反論した。従ってアリスティッポスにとって望ましい生き方とは、肉体的な快楽のような強い快楽を絶えず持続的に得られる人生である。

ただし酒も飲み過ぎたら依存症になるように、快楽の追求も上手に行わないとむしろ身を滅ぼし苦痛という悪に転ずる。そこでアリスティッポスは「教養」を重視する。彼は無教養な者であるよりは乞食であるほうがましだ、乞食に欠けているのは金だが、無教養な者には人間性が欠けていると言ったとされる。

このように、肉体的な快楽を重視するといっても、教養によって快楽を支配し、快楽に溺れて身を滅ぼすことを戒めたアリスティッポスであったが、では現実にこうした快楽に満ちた生活が送れるかというと、裕福なごく一部の人々にしか許されない特権と言わざるを得ないだろう。そのためキュレネ派のヘゲシアスは快楽こそが善であっても、快楽に満ちた生活を送ることは不可能であり、幸福は不可能だとした。だから死ぬことは悪いことではなく、むしろ生の苦痛を避ける良い方法だとした。かくしてヘゲシアスは自殺を勧める人といわれた。

しかし倫理学というのはあくまで人間が善く生きることを提起する学問である。そのためヘゲシアスのような自殺の勧めに行き着ということは、キュレネ派の快楽説が倫理学説として不適切である証拠といえるだろう。

この点で、快楽主義学説は、精神的な快楽を重視する形でしか、説得的な倫理学説になり得ないだろう。そしてエピクロスはまさに精神的な快楽を重視したのだった。

 

エピクロスの原子論

ではエピクロスはどんな倫理学説を唱えたのだろうか。この点で前提になるのは、彼が原子論者だったことである。

原子論といえばデモクリトスであるが、エピクロスが原子論を唱えた動機もデモクリトスと同じであった。デモクリトスは万物が決定論的な法則に支配されたアトムによって成ると考えることにより、偶然の不幸に対する恐れを克服し快活に生きることができるとした。エピクロスもまた、原子論によって世界の実相を知ることで、不安を取り除くことを目的としていた。なぜなら不安こそが最大の苦痛であり、不安がないことこそが最高の快楽だからである。エピクロスもデモクリトス同様に、神々の恣意的な介入により不幸がもたらされることを、苦痛の最大の源泉だと考えていた。

エピクロスによれば、神もまたアトムよりなるが、人間と異なる微細で精妙なアトムからなる。そのため人間のように不完全ではなく完全な存在である。そして神々は中間世界で至福な生を送っていると説いた。

中間世界というのは、宇宙が我々の宇宙のみならず無数にあるとした上で、宇宙と宇宙の間にある空間だとされる。ポイントは、神がいるとしても、人間とは関係なく過ごしていて、人間には干渉しないことである。だから人間は神の恣意的な干渉による突然の不幸に怯えなくてよいのである。なお、こうした無限宇宙論はアナクシマンドロスに起源するといわれるが、キリスト教が支配思潮になって以降は禁圧され、無限宇宙論を唱えたジョルダーノ・ブルーノは1600年に火刑に処せられた。

神々がもたらすとされた最大の不幸は突然の死であるが、エピクロスは人間に干渉する神などいないとした上に、そもそも死自体が恐れるに足りないとした。というのは、死というのは感覚の消失であるが、感覚がなければそもそも死を体験できないからである。我々が生きている時には死はなく、死がやっていた時には我々自体がいないというわけである。こうして原子論的な世界観により、死の恐怖を脱ぎ去り、苦痛のない状態としての精神的な快楽を実現しようとしたのがエピクロスであった。

死の恐怖に代表される、不安が最大の苦痛だと考えたように、エピクロスは精神的な快楽のほうが、肉体的な快楽よりもむしろ大きいとした。また、肉体的な快楽と違って、精神的な快楽のほうが持続するし、持続させ易くもあると説いた。エピクロスによれば肉体的快楽はそれが途絶えた時の反動が大きいため、むしろ注意深く避けるべきものであった。美食はそれに耽溺することにより、得られなくなった際の苦痛が大きいため、質素な食事こそが望ましいとした。

一切れのパンと水があれば十分だとしたのがエピクロスである。今日美食家のことをエピキュリアンというが、これはむしろアリスティッポスにふさわしい。エピクロス自身は全くエピキュリアンではない。ただし、あくまで快楽の持続を考えた上での質素さであり、苦痛を耐え忍ぶ禁欲主義ではない。酒と美食に溺れることではなく、質素な食事と僅かなワイン、何よりも真理の探究による不安の解消、こうした「素面の思考」が本当の快楽をもたらすとした。こうした真実の快楽に満ちた状態がアタラクシア(平静な心境)であり、デモクリトスのエウチュミアー(快活さ)同様に、追求すべき人生の目的だとした。

功利主義は快楽主義そのものではないが、ベンタムの唱えた古典的功利主義は快楽主義を前提としており、重視される快楽も、事後的な計算の結果としては往々にして肉体的な快楽よりも精神的な快楽のほうが優れているとした。この点で、功利主義は明らかにエピクロスの思想的後継者である。

 

自由の哲学

エピクロスはデモクリトス同様に原子論者であり、倫理学説のための手段として原子論が唱えられた点も共通しているが、彼らの原子論にはしかし、決定的な違いがあった。

デモクリトスの原子論では、原子は「必然の渦巻き」で作られて、必然的な法則に支配されつつ、空間内を飛翔して反発と結合を繰り返すとされた。原子は四方八方に直進運動をするとされるが、原子に重さがあることは明言されなかった(重さがあると考えていた可能性はある)。しかし原子に重さがなければ、物質世界の元素になれるのか疑問である。だがもし重さがあるならば、どうしていつまでも空間中を四方八方に運動し続けることができるのかが分からなくなる。

そこでエピクロスは原子に重さがあることを認め、原子は四方八方に飛ぶのではなく、落下するとした。しかしながら、この説明もまた大きな困難を呼び起こすことになった。地上ならば確かに落下は言えるが、宇宙空間に上下はあるのかということ。そして最も根本的な疑問は、原子が一直線に落下するのみならば、それはあたかも無風状態での雨粒のように、お互いにぶつかることがないということになってしまうのではないかということである。アトム同士が衝突しなければアトムの結合はありえず、世界の生成はない。つまり原子論は成り立たないということになる。

この矛盾を防ぐためにエピクロスが持ち出したのが、原子の直線からのパレンクリシス(逸れ、傾き)という概念である。原子はいつともしれぬ偶然によって、直進から傾いて直線を逸れ、よって各原子が衝突するとしたのである。

この説明が、いかにも取って付けたようなものであるというのは否めない。原子が直線的に落下するという無理な前提を救うための、苦し紛れの説明だという印象は、多くの批判者たちに共有されてきた。ところが、このパレンクリシスを、デモクリトスにないエピクロスの独自な創見だとしたのが、ローマ時代の原子論者であるルクレティウスである。

ルクレティウスによれば、この偶然のパレンクリシスこそが、人間の自由意思の源泉だというのである。

デモクリトスの原子は必然において全てその運動が決定されている。従って原子の合成体である人間のあり方も全て必然的に決定されている。選択の余地のない、強固な決定論がデモクリトスの倫理学であった。これに対してエピクロスの原子には偶然が含まれる。だから原子によって形成される人間にも偶然が与えられる。つまり、予め法則によって決定されていない、自由な選択による変化が可能だということである。人間は自らの意思によって状況を選択し、自らの道を切り開いていくことができる自由な存在である。選択は運命によって決定されてはいない。自由な選択は意志の自由に基づく。人間には自由意思があるということである。

ここから、エピクロスの求める快楽というのも、デモクリトスとは異なり、自由に選択して実現されるべきものだということになろう。エピクロスにとって、自由こそが何よりも重要ということになる。しかしエピクロスの生きた社会は、自由人と奴隷に分断された、不自由で抑圧的な社会であった。このような社会で生きることそれ自体が苦痛の原因であった。そこでエピクロスは俗世間から離れて、志を同じくする友と共にコミューンを作り、静かで平安な生活を営むことを望んだ。この「エピクロスの園」では女性も奴隷も差別されることなく、原子論によって宇宙の真理を知り、アタラクシアを得ることができたという。「隠れて生きよ」がエピクロスのモットーであった。

しかし倫理学は実世界で実現されてこそ意味がある。その意味で、エピクロスが自由を強調したのはいいが、その自由は社会の中でこそ実現されるべきだと言わねばならない。しかし、社会において自由が実現されるには、奴隷制が打破される近代社会を待つ他なかった。そのため、近代の哲学者たちは人間の本質が自由であることを高唱した。

ソフィストもノモスとピュシスの対比でもって、人間の自由を訴えたが、人間存在の根本にまで遡って、存在論的な根拠とともに人間が自由であることを訴えたのは、エピクロスが嚆矢である可能性がある。もしそうだとすると、エピクロスは真に偉大な哲学者として、改めて哲学史の中に位置付けられる必要があるだろう。

田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)