アゴラまでまだ少し 第7回
山田さんの耳に届く鳴き声は葛生賢治

ちょっと個人的な話から始めてみる。

僕は今でこそ言葉を操って生きてるような人間だが、子供のころは言葉との折り合いがあまり上手くいかない生活を送っていた。親が語るところによれば、僕は3歳ぐらいまで言葉が喋れなかったそうだ。2歳を超えてもまったく言葉を発しない僕を心配した母と祖母は「きっとこの子は耳が不自由なのかもしれない」と思い、後ろからそおっと僕に近づいてワッと大きな声を出して驚かせ、びっくりして泣き出した僕を見て「あ、やっぱり聞こえていたんだ」と胸をなでおろした、という話を何度も聞かされたことがある。その後、喋るようにはなったものの、かなり大きくなるまで僕はひどく早口で滑舌が悪く、「た行」と「さ行」の言葉を発するときには若干「吃音症」的な感じで同じ音を繰り返すことが多かった。小学生のころは「笹の葉さらさら」「肩たたき」なんてすんなり言えた記憶が無い。電話で話す時など相手の顔が見えない状況では特に緊張感が高まるためかそのつっかえる現象がひどくなるので、よほどの必要が無い限り電話を自分からかけることはなかった。そんな状態は大学を卒業する頃まで、程度の差はあったにせよずっと続いていた。

でもある時期を境に、言葉をつっかえることが無くなった。その変わり様たるや自分でも信じられないほどで、今までの人生は何だったんだ、と思うほど。面と向かってする会話でも複数の人の前でも、すんなりと自分の言葉が喋れる生活。僕は言葉を手に入れた。手にいれることで、言葉でつながっている人間社会に本当の意味で参加することが出来た。

何が起きたのか。僕は大学を卒業してある大手OA機器メーカーに就職し、営業部に配属になった。(大学では哲学科に在籍、卒論はソシュールとデリダの言語をめぐる形而上学的議論がテーマ、なんて人間でありながらそういう会社の面接をのこのこ受けに行った僕もどうかしていたけど、そんな男を営業マンとして採用してしまうその会社も会社だ、と思った。まあ、それはいいとして。)いずれにしても、僕は営業マンとなってしまった。そもそも自分の思いをすんなり言葉にすら出来ないような人間が、よりによって人様にOA機器を売り歩くはめに。「困った」という言葉では表現できないレベルの窮地に立たされた。

一緒に入社した同期の仲間や先輩社員に囲まれ、もはや借りてきた猫というより地球に一人置き去りにされたE.T.のような心理状態でもがきながら、僕はある新しいコミュニケーションの仕方を編み出した。素の自分をさらすことで緊張するのを避けるため、自分の発する言葉の全てを「演技」することにしたのである。自分が思っていること、考えていること、その場で発言する必要のあること、その全てを「ありのままの自分の言葉」として発しようとせず、「ありのままの自分の言葉を発する演技をしている自分の言葉」として発してみた。驚くべきことに、すらすらと言葉が口をついて出てきた。衝撃である。子供の頃からのあの苦痛は何だったんだ。一体、世界はどうなっているのだ。

ここで大事なのは、僕は決して「自分を偽って嘘をしゃべっていた」のでもなければ、「本音を隠して偽りの自分を見せていた」わけではなかったということ。すらすらと喋れるようになった僕の言葉の全ては皆、本音そのものだった。偽りなき本当の言葉。自分は本心からこう思う、という考えの直接の表現。僕はその「本当の言葉」をあえて第三者となって「台詞として読む」作戦に出たのだ。するとその「演技として読む態度」によって、僕の言葉が初めて「僕が本来望んでいた形で相手に伝わる」現象が起きた。僕は自分の「言葉を演じる」ことで、本当の意味で自分の言葉を手に入れることが出来た。つまり、コミュニケーションの道具として「自分が発したい言葉」と「相手に伝わる言葉」が一致したのである。

「ほんとうの自分」の中の他者

「自分」を演じるのではなく、「自分の言葉」を演じる。それによって言葉が本当の意味で「自分の言葉」になる。言葉を手に入れた僕は初めて「社会」と「世界」を手に入れた。この個人的な経験から、ひとつの命題が導き出せるだろう。「ほんとうの言葉」には「他者」が含まれるという命題。いくら「自分が言いたい言葉を正しく発しよう」としても上手くいかなかった僕は「演技」として言葉を発することで、つまり「自分の言葉を他人として読み上げる」ことで、「正しい自分」を出すことができた。誤解の無いように付け加えれば、これは「事実」を偽って「嘘」を話すのではない。雨が降っている日に「今日は良く晴れていますね」と言うようなことではなく、憎らしい相手に向かって「あなたのことが好きです」と言うのでもなく、自分の内気な性格を隠して相手にべらべらとテンション高く喋る、というのでもない。話す言葉の内容が「事実」か「嘘」か、話す自分が「本当の自分」か「嘘の自分」か、という単純な二項対立では捉えきれない「中間領域」の可能性。「本当」が「本当」として存在するための条件として、そこにわずかに含まれる「嘘であったかもしれない」可能性の領域。僕が「ほんとうの自分」として言葉を手に入れ、世界と向き合い、他者に受け入れられたのは、「この言葉は他者によって発せられていたかもしれない」という態度でその中間領域に立ったからではないか。「演技」として「他人だったらこういう言い方をしていたかもしれない」という含みをもたせて言葉を発することで、「自分」の中にすでに存在する「他の誰でもありえたかもしれない可能性」を引き当てたからではないか。「他の誰でもない世界でたった一人の自分」が、「他の誰でもありえたし、またこれからもありえる可能性」を含んで初めて成立するという逆説。自分が自分であるのは絶対的な運命からではない。単なる偶然にすぎない。その態度につながった時に、僕は生まれて初めてコミュニティー(世界・社会)とつながることが出来たのではないか。

世界とつながれない状態の僕が、自分の中にある「他者だったかもしれない可能性」を通じて主体(=本当の自分)となれたこと。主体となって世界(=客体)を手にいれたこと。これは、「主体」がそもそも「他者となりえる可能性」を含んで初めて存在することを示している。哲学者・鷲田清一は著書『じぶん・この不思議な存在』の中で、「じぶん」の本質を「他の誰でもない唯一のもの」として示すことの不可能性に触れている。自分ってなんだろう。多くの人は、自分とはこれこれという名前で、こういう性格、性別、身体的特徴、家族、職業、その他もろもろの要素で出来上がっている、と考えるだろう。でも、例えば山田太郎さんの「山田」「太郎」は他の山田さんと太郎さんにも属している要素だ。その山田太郎さんだけのものではない。例えば「この目の前にあるリンゴ。このリンゴが他のリンゴではなく『このリンゴ』である本質とは何か?」と聞かれて「赤いということだ」と答えるのは間違いだ。他にも赤いものはたくさんある。赤いことが「このリンゴ」の本質だったら、赤いものは全て「このリンゴ」になってしまう。ということは、「山田」という苗字はその山田太郎さんの「本質」、つまりアイデンティティーではない。同じように上にあげた山田太郎さんのそれぞれの要素を考えてみる。名前、性別、身体的特徴、それぞれみな他人にも属している要素ばかりだろう。山田太郎さんと同じ性別、身体的特徴を持つ人はたくさんいる。他人と共有されているものは「この山田太郎さんオリジナル」ではない。なんて言うとここで、「山田さんの顔はどうか?山田さんに似ている人はいるかもしれないが、全く同じではない。」と反論があるかもしれない。でもその山田さんオリジナルの顔の、それぞれのパーツを細かく分割してみて欲しい。目と鼻の感覚、目の大きさ、目の幅、まぶたの眉間に向かって降りていく線、その線のカーブする角度、そのカーブのうち、端から顔の内側へ3ミリだけいった地点から5ミリ地点まで、とどんどん分割していけば、その部分を共有する人は世界中を探せば見つかるだろう。いま見つからなくても、将来その「目の内側のカーブの3ミリ目から5ミリ目までだけなら山田さんと同じ」という人が生まれる可能性は否定できない。共有されるなら、「このリンゴの赤はイチゴにも共有されている」と同じことになる。だから身体的特徴が「この山田太郎さんの本質」ではないのだ。「では精神的・心理的なものは?山田さんの性格は?山田さんの考え方は?記憶は?それらは山田太郎さんオリジナルだ」と反論があるかもしれない。でも、それらも同じく分割していけば、同じように否定される。例えば山田さんは2017年1月1日の午後1時30分に今まで誰も発想したことのない「A」というアイデアを生み出したとする。「A」はオリジナルではあるけれど、それは「これこれこうで、こうだから、こう」といくつかの要素から成り立っている。そうでなければ、他人に説明できる「アイデア」として成立しない。他人に説明できないのならば、そもそも山田さん自身がそれを理解できない。そしてそのアイデアを上と同じように細分化していけば、「そのアイデアAを構成する要素」が多数あらわれ、山田さんのまぶたのカーブの一部と同じことになる。それは誰かしらと共有されている、または他人によっていつか発想されていたかもしれない、という可能性を否定できない。山田太郎さんの「要素」は全て他と交換可能なのだ。

「では、それら全ての細かい要素がそれぞれ組み合わさっているその『組み合わせ』こそ、世界でたったひとつのその山田さんの本質だろう」とさらに反論があるかもしれない。それも間違い。もしもその人の「本質」が「要素の組み合わせ」のことだとしたら、同じ組み合わせを持った人間が存在する可能性を否定できないのだ。もちろん、山田さんの肉体・精神が持つ全要素の組み合わせとそっくりそのまま同じ組み合わせを持つ人間が存在する可能性を確率として捉えたら、とてつもなく少ない数だ。「このリンゴと同じ赤い色と同じ重さを持つリンゴ」が存在する可能性などより遥かに低く、小数点以下が天文学的に多い数字になるかもしれない。でも、ゼロでは無いのである。例えて言うなら、現在世界一の演算力をもつスーパーコンピューターを2000兆台つなげて、さらにAIも8億兆台つなげて、計算に9000億兆年かけてやっとはじき出されるくらいのとてつもない低い確率になるかもしれない。でも、もしも「細分化した全要素を組み合わせれば必ず『その山田太郎さん』と全く同じ存在となる」のだとすれば、組み合わせる要素の数が多いというだけで、単に程度の問題にすぎないのだ。つまり、「世界でたったひとりの山田太郎さんを山田太郎さんたらしめている本質」は全て他と交換可能、ゆえに唯一無二の本質なんて存在しない、という結論に至る。

でも、である。だからと言って、他の誰でもないたった一人「この山田太郎さん」の本質というものが存在しないと言えるかというと、それも間違いなのである。

どういうことか。ここで、これを読んでいる人は上の「この山田太郎さん」の議論に自分自身を当てはめてみて欲しい。たちまち「すべての要素が他と交換可能である」という結論に違和感を覚えるだろう。我々は「自意識」を持っているからだ。つまり、「自分は自分である」という意識。これは他の要素へ変換出来ない、と思ってしまう。もちろん上の議論を自分に突きつけて、「君のその意識だって脳の中の電気信号、これこれこういう要素に全て置き換えて他と交換可能であって、再生可能なんだよ」と言う人はいるかもしれない。でも、その議論がいかに「理性的・論理的・科学的」に正しくても、あなたの自意識はそれを受け入れることは出来ない。「いまここにいる、この自分」と「交換可能な脳の電気信号」を同じものとして認めることは出来ない。理由は簡単だ。「自分は他のものと交換が出来るという考えを拒否する意識」のことを「自意識」と呼ぶからである。確かに「自分」から見れば、自分以外の世界のあらゆる要素は全て交換が可能だ。目の前にある机や窓や人形や、他人の心と体、家族、さらには自分の体、性格、記憶にいたるまで、世界を「議論の中の分析対象物」と客観視して窓から外の景色を眺めるように見た場合、上の議論のようにすべては交換可能、つまり「絶対的にひとつのアイデンティティーを持つもの」と捉えることはできない。でも、ひとたびその視点を「この自分」に向けた瞬間、それが不可能になる。「この自分」という意識が他にもあり得る、とは考えられない。理性的によく考えたら世界に存在する全てのものと同じように「この自分」という意識も交換可能なはずなのに、つまり「たったひとつのこの自分、なんて無い」と言えるはずなのに、「この自分」にだけはそれを当てはめることが出来ない。自分の隣にいる山田太郎さんにだったら、いとも簡単に「彼の自意識を含めて、全ては交換可能なんだよ。だって彼の要素のひとつひとつはね、、、」と言うことは出来ても、「この自分」という意識が交換可能だとは言えない。そうは「認めたくない」という気持ち・感情があるというのではなく、論理的にそれは不可能である。脳科学の理論やら人工知能による人間意識の分析やら、いろいろ並べられて確かに「理性的に」自分は他と交換可能だと認めることが一度できたとしても、その瞬間、同時に「その全ての話を端から眺めている自意識」が存在している。「いまここ、ここにいるこの自分」を窓の外にある客観的な世界と完全に同一化することは不可能だ。「この自分」が他と交換可能だとすると、「この自分」がもうひとつ(またはそれ以上)他にも存在できるということになる。それは「自分と同じ意識を持つ存在、例えばクローンがどこかに存在する」というのではない。「この自分」自体がすでにクローンであることを理論的に認めるということなのだ。それは不可能である。クローンではない、つまりコピーではない、ただ唯一のものである、という意識を「自意識」と呼ぶのだから。

こう整理できるだろう。「この自分」をたったひとつのアイデンティティーを持つ存在として証明しようと分析すると、山田太郎さんの議論のように全ては交換可能なことになる。と同時に、「この自分」を自分の横にいる山田太郎さんと同じように「客観的な世界」の側に置き、要素に分解して見ることも出来ない。「この自分」は客観的にこの世界に存在し、世界の要素としてリンゴや山田さんのように交換可能な存在だ、と理性は自分に語りかけるのに、理性的に考えて世界の中に「この自分の意識」を完全に組み込むこともできない。世界の内部に閉じ込めることもできず、外部に完全に切り離すことも出来ない。それを「主体」と呼ぶ。世界の内部でも外部でも無い地点、「内部」「外部」を縫い合わす糸がほころびを生む地点、そこにたたずむ存在が「主体」である。世界の内部とは、客観的事実のことだ。そこに完全に収まることが出来ない「この自分」の意識とは、完全な事実としての存在でもなければ、かといって嘘でもない。「事実」と「嘘」の間に、言い換えれば「事実」でもない「嘘」でもない中間地点に位置する存在と言える。僕が「演技」によって言葉を手に入れて世界に参加できたのは、自分がたった一人のピュアな「本当の自分」であると同時に、場合によっては隣にいる山田太郎さんと同じなのかもしれない、でもそうとも言えない、という分裂した中間地点の存在として初めて「主体的」になれたからなのかもしれない。世界の「中」にいるのか「外」にいるのか、理性的に考えればそのどちらかでしかない。でも、そのどちらでもあって同時にどちらとも言えない奇妙な「主体」こそ、理性的に存在する生き物、つまり人間の異名なのだ。20世紀のフランス人哲学者ジャック・ラカンのいう「主体」の議論はこの分裂を問題としていたし、そのベースは18世紀にドイツ観念論を創始したイマヌエル・カントにまで遡ることが出来る。

大人になること、成熟した人間として「主体的になること」を近代以降の社会は要請する。「自分というものを持て」「人から言われるのではなく、主体的に行動しろ」「自分自身に正直に生きろ」「自立した存在として社会的責任を負え」等々。主体とは他と混じることのない単体であって、「世界から完全に切り離され、神が天上界から下界を見下ろすかのごとく完全独立体として世界に関わる者」と理解されることが多い(事実、そう結論する哲学者は多くいる)。でも、それらの議論に書かれた「主体」という言葉の全てを「世界の中と外の間で引き裂かれたもの」に置き換えてみたらどうだろう。我々は極めて両義的で不安定な存在で、そんな分裂した存在になって初めて世界・社会・コミュニティーを手にいれる奇妙で逆説的な生き物だ、と読み替えることは出来ないだろうか。

死ぬはずの鳥を生かすこと

主体が「本当」と「嘘」の中間領域に生きる奇妙な存在で、その奇妙なものがコミュニティーを作り上げるのが「近代社会」だとしたら。アメリカ映画『アラバマ物語(To Kill a Mockingbird)』(1962)はその点で示唆に富んでいる。

グレゴリー・ペック演じる弁護士アティカスは娘のスカウト、息子のジェムと3人でアラバマ州の小さな田舎町メイカムに暮らしている。町の誰に対しても分け隔てなく接する彼はその厚い人望から、ある事件の弁護を依頼される。白人女性をレイプした容疑で逮捕された黒人青年トム・ロビンソンの弁護だ。舞台は1930年代のアメリカ南部アラバマ州。まだ黒人に対して「Nワード」が平然と使用されるような地域で起きた事件。どれほど大変な事態になるか、想像に難くない。

でも法廷で裁判が始まると、当初の印象と全く違う真相が浮かび上がってくる。被害者女性メイエラ・ユーエルの証言におかしな部分が出てくるのだ。彼女によれば「犯人」は彼女を左手で殴って怪我を負わせ、暴行におよんだ。しかし容疑者トム青年は事故で12歳の時から左手が麻痺して動かない状態。法廷でそれが証明される。しかもこの裁判は性的暴行があったとの訴えにも関わらず、医者による診断が全く行われていない。そして陪審員は全て白人という構成。被害者メイエラの父ボブ・ユーエルは法廷で逆上しトム青年を汚く罵るが、アティカス弁護士はその場でユーエル氏に自分の名前を紙に書かせてみる。彼は左手で自分の名前を書く。

容疑者トム青年の証言の番になり、ことの真相がさらに浮かび上がる。被害者メイエラはトム青年が彼女の家の近くを通るたびに、いらなくなった家具を庭で壊したり水を汲んできたり、何かしらの用事を彼に頼み、そのたびにトムは応じていた。事件が起きたとされる日、メイエラはトムにまた用事を頼み、彼を家の中に招き入れた。そこで彼女はトムに抱きつき、キスをしてきた。彼を誘惑してきたのだ。その様子を窓の外から見かけたメイエラの父は逆上し、娘を殺してやると叫んだ。トムは慌てて逃げた。それがその日に起きたことの全てだった。トム青年の証言の後、それでもトムを有罪にしたい白人検事はトムに質問する。「何度もメイエラに用事を頼まれるたびに、一銭も金をもらわずにそれに応じていたのは何故なんだ?」と。トムは答える。「彼女がかわいそうだったからです」と。白人女性が黒人男性を誘惑し、黒人が白人を「哀れに思う」という、そのコミュニティーで「決して存在してはならないこと」が起きた。それを隠蔽するため、トムの存在を「法的に」コミュニティーから消し去ることがこの裁判の目的だったのだ。法廷で全てが白日のもとに晒されたにも関わらず、トム青年は有罪となる。そして護送中に脱走した彼は撃たれて死亡する。

事件が最悪の形で終焉を迎えてからしばらくして、黒人の弁護をしたアティカスへの憎しみを暴発させた「被害者メイエラ」の父ボブ・ユーエルは、その怒りをアティカスの2人の子供にまで向ける。ユーエルは夜の森の中を歩く2人の子供に襲いかかり兄のジェムに大怪我を負わせる。しかし何者かによって阻止され、もみ合いの末にナイフで刺されて死亡する。襲われたジェムは腕の骨を折り気絶するまでになったが、無事に保護される。妹のフィンチは無傷でなんとかその場を逃れる。2人の命を救ったのは町の住民から「ブー」と呼ばれる青年だった。彼は町の誰とも言葉を交わさず、家から出て姿を見せることもないため、異常者と見られ様々な噂がたっていた人物だった。子供たちはその不気味な存在の彼を怪物に見立て、彼の住む「お化け屋敷」にどこまで近づけるかゲームをしたり、彼を怪談話の主人公にしてスリルを味わっていたほどだ。でも彼は怪物でも異常者でもなく、今でいう「引きこもり」のような精神の持ち主で(発達障害のようなものかもしれない)、社会のどこにも属せず誰とも言葉を交わせず、それでいて子供のような心でフィンチとジェムの2人をいつも見守っていたのだ。かくして、ボブ・ユーエルは「ブー」によって殺された。では、この真相をまた法廷へ持ち出して全てを公の場に晒すべきなのか?ことの次第のすべてを知ったアティカス弁護士は悩む。法は「真実をそのまま明かすこと」を要求する。でも、「ブー」のような「社会に属せない者」を法廷に引きずり出し、人々の好奇の目に晒せば彼の人生はどうなるか。その方が「罪」ではないか。娘のフィンチは、ボブ・ユーエルは自分でナイフの上に落ちて死んだことにすればいい、と父のアティカスに言う。何故そうするのが良いと思うのか聞くと、彼女は答える。「だって、本当のことを言えばそれはモノマネ鳥を殺すようなことになるでしょう。」モノマネ鳥とは、映画の前半でアティカス弁護士がフィンチに向かって聞かせる話に出てくる鳥だ。アティカスは昔、14歳になると一人前の人間として父親から銃を与えられ、言われた。本物の鳥を撃ちたくなったら、アオカケスならいくら撃っても構わない。でもモノマネ鳥はダメだ、と。何故ならモノマネ鳥は庭を荒らしたりカゴに巣を作ったりして迷惑をかけない。ただ美しい鳴き声で歌を歌うだけだから。この「モノマネ鳥を殺すこと(To Kill a Mockingbird)」がこの映画のタイトルになっている。

この映画の中でモノマネ鳥は、それ自体は特に大きな役割を果たさないがコミュニティーがコミュニティーとして正常に機能するために必要な余剰、余り物、を象徴している。「銃を持てるようになれば全てのアオカケスを撃っても構わない」という教えは、一人前にコミュニティーのメンバーとなれば自分たちの生活を邪魔するものに対して暴力を行使しても構わない・行使せざるをえない社会の比喩だ。黒人に理不尽な暴力を振るう30年代のアメリカ南部社会だけを表しているわけではない。近代国家・民主主義の理想を掲げる現代社会の「国家権力」が理不尽な暴力と同化している事実(テレビのニュースを5分も見れば誰もが認めるだろう)を見れば、政治と野蛮さが短絡する人間社会一般のあり方そのものを示していることが分かる。でもモノマネ鳥だけは殺してはいけない。それは野蛮な力がうずまく社会の「中」にも「外」にも属さず、ただ無害な余り物だから。モノマネ鳥は直接恩恵を与えてコミュニティーを成り立たせるわけでもない。神の力の象徴として人間を統制するわけでもなく、生活に欠かせない金銭・食料・倫理・法を人間に与えることもない。かといってコミュニティーに害を及ぼすこともない。ただ美しく歌うだけである。そんな存在を殺してはいけない。コミュニティーにとって何の意味があるのか不明で、それでいて無害な存在を殺すことは、結局のところそのコミュニティーの正常な機能を妨げる。余り物を殺さずにいることで、コミュニティーは初めて成熟したコミュニティーとして正義で繋がれるのである。その精神状態からアラバマ州の田舎町の誰ともつながれない余り物の「ブー」は、「顔の見える正式メンバー」として社会を動かすわけでもなく、「異常者」として社会を蝕むわけでもない存在だ。でも、だからこそ彼は「何もしない余り物」として生かされなければならない。田舎町の「法」の元で実現できなかった正義を守ったのは結局のところ彼だったのだ。

でも、なぜ「余り物」を殺さないことが成熟した社会に必要なのか?役割の無い者を受け入れる余裕を持つのが大切だから?その懐の深さこそ成熟の象徴だから?そうではない。役割の無い「余り物」こそ、コミュニティーの全メンバーの本当の姿だからだ。つまり、社会を構成する全員が「余り物」と同一である社会こそ、成熟した社会、民主主義が生きる社会なのである。どういうことか。

フランス人哲学者ジャック・ランシエルの議論がその核心を突いている。彼は古代ギリシアにおいて「民衆」を表した言葉「デモス」(demos)に注目する。デモスとは社会の中において特定の役割・資格・地位を持たない者を指す。人種的階級、経済的ランク、名声による社会的ステータス、才能、性別、職業、年齢、その他もろもろによって我々は社会のどこかしらに特定の「役割」を持っているが、デモスにはそれが無い。支配され差別される階級としての場所すらない。決まった役割を全く持たない人間。顔を持たない、誰でもない人間。その特定の居場所を全く持たない存在を古代ギリシャ人は「民衆」と呼んだ。コミュニティーのメンバー全員がその「顔」を持たないデモスとなることで古代ギリシャ人はあらゆる政治的支配の論理を免れ権力の野蛮を乗り越え、民主主義を実現できたとランシエルは主張する。

支配の論理とは何か。支配者する側が支配者される側に向かって「私の階級は偉い。なぜなら今まで偉かったからだ。だから私は力を持つ。力を持つから偉い」という循環の論理でしかない。循環とは要するに、その理由に根も葉もないということ。根も葉もない、理性で説明できる存在理由が無いがゆえ、支配の力は「理性で説明がつかない」ほど絶対なものとなる。理由もなく、無意味で、それでいて絶対の力を発揮する「支配の論理」を無効にするのに必要なのは、それに抗うもうひとつの強力な力・抵抗・レジスタンスではない。「あらゆる権力にはそもそも根も葉もない」ことを証明する存在である。証明、といっても理論でするのではない。理論はいとも簡単に机上の空論となる。生身の人間そのものとして、その存在自体で証明する者。そもそもコミュニティーにおける人間の役割・地位・権力自体が根も葉もなかったことを体現する者が必要となる。あらゆる社会的役割に対してニュートラルで、全てに対して「はまる」ことに失敗する人間、つまり、社会のどこにも属せない「余り物」だ。「ブー」こそデモスなのである。ランシエルは2009年の論文「美学的次元:美学、政治、知識」の中で、余り物の持つ完全なニュートラルさこそ民主主義の本質だと主張する。

I have claimed that the democratic supplement is the neutralization of that logic, the dismissal of any dissymmetry of positions. This is what the notion of a power of the demos means. The demos is not the population. Nor is it the majority or the lower classes. It is made up of those who have no particular qualification, no aptitude attached to their location or occupation, no aptitude to rule rather than be ruled, no reason to be ruled rather than to rule. […] This is the anarchic principle of democracy, which is the disjunctive junction of power and the demos.

(民主主義的な補足とはその(支配の)論理を中和する(ニュートラルにする)作用、あらゆる地位の不公平さを無効にする作用のことであると私は主張した。これがデモスのパワーというものである。デモスとは(社会のメンバーとして場所を持つ)民衆ではない。社会の多数派でも少数派でもない。何の資格も持たず、何の適性もその地域や職業に付与されず、支配されるより支配する側に立つ適性もなく、支配するより支配される側に立つ特別な理由もない。これが民主主義の持つ無秩序的法則であり、分断による力の結合であり、デモスなのである。)

民衆とは団結して資本家に立ち向かう労働者階級を示すのでもなければ、経済的な弱者の側に立って政治権力を批判する知的グループでもない。支配されようが支配しようが、差別しようがされようが、そのどちらのグループに属していても、自分は「余り物」のブーと同じ存在、そもそも特定の場所を持っていない存在なのだ、と理解する人間集団のことなのである。社会に場所・地位・役割を持つメンバー全員が「自分もブーと同じである。同じように誰でもなくて、誰でもあるのだ」と自覚する社会こそ、全員がデモスになる社会、すなわちデモクラシーの社会となる。いま自分がしていること、自分がいる場所、自分そのもの、それら全てがひょっとしたら「嘘」かもしれない。自分は「本当の自分」でなく、山田太郎さんかもしれない。他の誰でもあり得たのかもしれないし、誰でもあり得て誰でもあり得ないブーと同じかもしれない。その地点にまでたどり着いて、「あえて」自分の役割を「演じる」からこそ、デモスは訪れるのだ。居場所を持たない・持てない自分こそブーであって、それでもなお「ありえない」役割を演じる、演じきる者たちの集まりを民主的社会と呼ぶ。自分の言葉で自分を語ることすら困難だった僕が「自分の言葉」の中に「演技」の要素を入れたことで社会に参加できたのも、自分の中に「他の誰でもあったかもしれない」可能性、他者の可能性を見出したからではないか。僕はあの瞬間、わずかながらデモスに近づいたのではないだろうか。

『アラバマ物語』はアティカス弁護士の娘フィンチの視点から描かれた少女の成長物語でもある。幼いおてんば少女が大人社会のありのままの姿を見つめることで、モノマネ鳥の意味を知ることになる。「白人と黒人の間にあってはならないこと」を排除する暗黙のルールの存在、それを破る者を守ることが出来ない「法律」の意味、暗闇に放り込まれそうになった正義を救った「社会の余り物」の本当の姿。全てを見届けたフィンチのナレーションで映画は終わる。

Neighbors bring food with death, and flowers with sickness. And little things in between. Boo was our neighbor. He gave us two soap dolls, a broken watch and chain, a knife, and our lives. One time Atticus said, “You never really knew a man until you stood in his shoes and walked around in them.” Just standing on the Radley porch was enough.

(町の隣人たちは、誰かが死ぬと食べ物を、病気になると花を、そうでない時はちょっとしたものをお互いに持ち寄る。ブーは私たちの隣人だった。私とお兄ちゃんに石鹸人形2つと時計とチェーンとナイフ、そして命をくれた。アティカスは言ってた。「その人の立場になって、その人の立場で世界を歩いてみるまで、人というものは分からないんだよ」って。ラドリーさん家のポーチで一緒に立っただけで、私にはブーを理解するのに十分だった。)

「Put yourself in someone’s shoes」というのは英語で良く使われる表現で、人はそれぞれ足のサイズが違うように考え方や人となりが違うから、その人の靴を履いて自分をその人の立場に置いてみるまで「その人そのもの」は分からないという意味である。フィンチはまだ幼い少女でありながら、それまで「異常者」と見て恐れていたブーの靴の中に自分を入れることが出来た。「本当の自分」から自分を抜き出して、「他者」の靴の中に入れることが出来た。だからモノマネ鳥を殺してはいけないと悟ったのだ。

今や「ポスト真実」の時代に突入したと言われる。政治権力による「明らかな嘘」と、それを打ち砕こうとするメディアの「明らかな真実」との攻防戦が連日繰り広げられ、黒か白か、絶対に悪か絶対に善かの応酬がメディアを賑わせている。コミュニティー全体が強迫観念に追われるように「真実!」「正義!」「平等!」と叫ぶ中、「本当の中の嘘」「自分の中の他者」「世界の中と外の中間地点」なんて言葉を並べる僕は、引きこもりの異常者なのだろうか。我々はモノマネ鳥の歌声を聴くことができるのか。

葛生賢治(くずう けんじ)
1970年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒用後、サラリーマン生活を経て渡米。2000年ボストンカレッジ大学院哲学科修士課程終了。2007年ニュースクール大学院哲学科博士課程終了。ニューヨーク市立大学哲学科非常勤講師を経て、現在東京にて執筆活動中。フリーウェブ雑誌「OUR」チーフエディター。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。趣味は駄洒落づくり。代表作は「オジー・オズボーンの叔父におスボーン履かせてちょうだい」。