ロックと悪魔 第8回 プロテスタントと善悪二元論黒木朋興

前回はそれまで多くの宗派がカトリック教会に異端として弾圧され潰されてきた中で、聖書の翻訳と活版印刷技術によってカトリックに対抗しうる地位を確立した様を述べた。今回は、その中から神と悪魔の善悪二元論という発想がプロテスタントにおいて定着していく様を考えてみたい。

敵としての悪魔

悪を神から自立した存在として認めることはカトリックにおいてタブーとして扱われてきたし、神がこの世を創造した時なぜ悪の存在を許容したのかというのはカトリックの最大のアポリアの一つであったことは今までの連載で既に述べた通りである。その悪が、宗教戦争の時代に、とうとう自立した勢力になる。

カトリックにせよ、プロテスタントにせよ、キリスト教徒が自らの敵を悪魔呼ばわるするのは別に珍しい話ではない。事実、カトリック教会はルターを悪魔とみなし、ルター派の信徒を徹底的に弾圧しようとした。もちろん事情はプロテスタント側も同じであった。つまり、ローマ法王を悪魔として反撃を行うのである。

確かに、自分たちの敵を悪魔呼ばわりすることは珍しいことではない。また敵対するもの同士が互いに互いを悪魔とみなすこともよくあることだろう。しかし、カトリックとプロテスタントの対立においては、このような対称性だけではなく、ある種の非対称性があることを指摘しておきたい。カトリック側が攻撃するのはあくまでも個人が対象なのに対し、プロテスタントは法王個人と同時に組織全体を標的にしているのである。

司祭と牧師

ここでカトリックの司祭とプロテスタントの牧師について整理しておきたい。なお、神父という表現はカトリックの司祭の位階の一つであることを言い添えておく。牧師は信徒を導く立場にはあるものの、カトリックの司祭と違って神性を帯びることはない。信徒は全て神の前で平等であり、それぞれが聖書の読解を通して神と向き合うのである。ここにおいては牧師ですらも一信徒に過ぎない。対して、カトリックの司祭が祭祀を執り行うことによって、教会には神が降りてくるとされる。前回述べたように、聖書がラテン語で書かれている以上、信徒は神の話を聞くのには教会のミサに赴き神父の話を聞く必要がある。つまり司祭の助けなしに一般信徒は神にアクセスが出来ないのだ。また、サクラメントと呼ばれる儀式において神が司祭の体に乗り移るとされる。カトリックにおいては、プロテスタントと違って、司祭に特権的な力が与えられていることが分かるだろう。

カトリックとプロテスタントのこの違いを踏まえた上で、敵を悪魔認定することについて考えてみよう。カトリック教会がルターを悪魔呼ばわりした時、それはあくまでもルター個人を悪魔とみなしたに過ぎない。もちろんルターに付き従う人々も悪魔とされるわけであるが、この場合でも単に個々の悪魔の群れがルターの周りに集ったということでしかない。ここで、ルターはもともと司祭であったがプロテスタント運動を始めたことにより還俗し、一信徒となっていたことを思い起こしておきたい。ルターは反乱運動の指導者ではあったものの、神に前では他の信徒に比べなんら特別な存在ではなかったのである。対してローマ法王は、サクラメントの中で神性を帯びることになる司祭のトップであり、カトリック教会という組織においては頭の役割を果たす。信徒や司祭が組織にとっての四肢であるのに対し、法王は頭部を形成しているという思想だ。四肢は切り取られても組織は延命できるが、頭をはねられれば組織は死んでしまう。つまり、このような法王を悪魔とみなすということは、カトリック教会全体を悪魔と見なすことになる。

 

悪魔の勢力拡大

12世紀以降、次々に出現する異端をカトリック教会は次々に弾圧してきた。また魔女狩りの名の下に多くの人々に悪魔の汚名を着せて処刑してきた。敵対勢力は徹底的に排除してきたと言って良い。対して、プロテスタントはその弾圧を耐え抜き、生き延びることに成功する。16世紀から17世紀にかけて続いた宗教戦争において両陣営ともに深刻なダメージを被ることとなった結果、ヨーロッパのキリスト教徒たちは1648年にウェストファリア条約を締結するによって矛を収め、以降ヨーロッパはカトリックとプロテスタントがそれぞれの勢力圏を維持することとなった。このことはそれまでことごとく敵対勢力を異端として排除してきたカトリックが、初めて異分子の弾圧に失敗したということでもある点に注意したい。この間隙を縫って、それまで必死に回避してきた善悪二元論がカトリック思想に浸潤し、特にプロテスタントの思想において悪魔が勢力を拡大することになる。

重要なのは、プロテスタントがローマ法王のみならずカトリック教会を悪魔と見なしたことだ。これにより、悪魔は信徒にとって無視できない存在になる。それまでキリスト教の歴史の中で、悪魔は神に対抗し得る強大な力を持ってはいなかった。世界の創造主としての神とその被造物に過ぎない悪魔とでは、その力の差は圧倒的であり、悪魔に出来ることと言えば、陰でこそこそ工作し神の邪魔をすることくらいであったことは既に見た通りである。それに対して、プロテスタントは自分たちを弾圧してくるカトリック教会を悪魔と見なすことによって、悪魔をカトリック教会と同等の力を持った存在に昇格させてしまったのだ。カトリック教会が絶大なる権力を持っていたことは改めて言うまでもない。プロテスタントは悪魔にその教会と同様の力を与えてしまったというわけなのである。

約束された勝利

プロテスタントがローマ法王を悪魔と見なしたのは致し方のないことではあり、また戦略としては十分賢明なものであったと言える。カトリックの力は強大であり、実際それまで数々の宗派が潰されてきた。自分たちも抵抗を緩めれば完膚なきなまでに殲滅させられるだろう。このような状況を戦い抜くためには攻撃を仕掛けてくる敵対勢力を悪魔であると宣告し、信徒たちの結束を図ることが重要な戦略となった。この際、弾圧が過酷であればあるほど、目の前の敵が悪魔であることの証ともなり得ることに注意したい。もし自分たちと相対している悪魔が『黙示録』の中の「海より上がる獣」としてのアンチ・キリストであるならば、その攻撃が激しいのは当然であり、またその戦いがどんなに厳しいものであるとしても最終的に自分たちが勝利するのは自明ということになる。

確かに、過酷な弾圧を加えることによって反乱者の戦意を挫くという戦術が有効な場合もある。圧政を敷く領主に対し不満はあるものの、無慈悲な仕置に恐れをなし、ひっそりと暮らしを営む、などといった事態がないわけではない。そのような支配者に対して人々を抵抗の戦いへと駆り立てるには、これは悪魔との戦いである、と喧伝するのは有効であることは確実だろう。闘争の中で多くの人が命を落とすかもしれない。敵は悪魔なのだから、強力なのは当然だ。しかし、敵が悪魔であれば、自分たちは神の陣営ということになり、最終的に自分たちが勝つことは約束されていると言って良い。また、その戦いの中で命を落とすとしても、その死は殉教とみなされ死後は天国に行くことも保証される。であれば、人々は弾圧が過酷であればあるほど頑強に抵抗を続け、闘争へとその身を捧げることになるだろう。

カトリックの神からの独立

このプロテスタントの目論見は見事に当たったと言って良い。実際、彼らはカトリックからの攻撃を耐え抜き、ついには西ヨーロッパの地をカトリックとプロテスタントで二分することに成功する。もちろん、既に述べたように、ここには活版印刷術による聖書の翻訳版の流通が大きく作用していたことも疑いはない。ただ、それまでカトリックの異端認定された宗派は、悪魔の称号を与えられ一方的に殲滅させられてきたのに対し、ローマ法王とカトリック教会を悪魔呼ばわりしたプロテスタントが、遂にカトリックから独立した勢力を保持することに成功したことことに注目しておこう。

このことは、キリスト教思想において悪魔が神に対して独立した勢力を獲得した契機ともなっていたことに注意したい。それまでカトリック教会にとって、悪魔を奉じる教会はアンチ・キリストとして弾圧すべき存在であったし、実際に殲滅してきたのである。対して、プロテスタントは生き残ってしまった。彼らとこれ以上戦火を交えるのは不可能だということになれば、忌々しく思いながらも共存を計るしか手立てはないことになる。手打ちをした以上は、彼らを悪魔呼ばわりすることは出来ない。プロテスタントの側も事情は同じだろう。しかし、彼らの中にはカトリック教会とその組織自体を悪魔とみなした記憶がしっかりと残ってしまったとは言えないだろうか。確かに、もうこれ以上、カトリック教会を悪魔呼ばわりすることは不可能だろう。しかし、プロテスタント思想の中には、教会が悪魔となり得る、という可能性がしっかりと根を張ってしまったのだ。

こうして、プロテスタントの教えの中で、悪魔が神から独立した勢力を保持するようになる。そのモデルとなったのは自分たちに過酷な弾圧を仕掛けてくるローマ法王とカトリック教会組織なので、当然、彼らにとって悪魔は世界を左右するほどの絶大なる力を持った存在として認められることになる。

教会の中の悪魔

個人や小さな団体が悪魔認定されるのは、それほど重大なことではない。しかし、カトリック教会自体が悪魔であるとすれば、事態は別だ。かつてローマ帝国はキリスト教徒を弾圧したが、信仰は数々の迫害をくぐり抜け生き延び、やがてキリスト教はローマの国教となる。そうなるとキリスト教を厳しく取り締まったネローなどの皇帝は悪魔として歴史にその名を刻むことになってしまった。キリスト教に敵対するものは創造主=神の敵であり、その滅びは必然である。それに対して、プロテスタントが悪魔と見なしたのは、カトリック教会であった。それまで自分たちが信じてきた存在が、実は神ではなくアンチ・キリストそのものなのかも知れない、というこの発想は、キリスト教思想における悪魔のあり方を大きく変えることとなる。つまり、それまで信仰の中心と見なされてきた教会が悪魔に転じる可能性があると、人々が意識するようになったということであり、以降、悪魔は人々のより身近な存在となるのだ。

ここでプロテスタントの信仰にとって教会は副次的なものであり、あくまでも個人が聖書の読解を通して神と対峙することが重要であったことを思い出しておこう。教会と言えど過ちを犯すことがあり、悪魔がそこに入り込んでしまうこともあり得る。だからこそ、教会の権威を盲信するのではなく、一人一人が聖書を読解し神の教えを確認しなければならないのだ。対して、カトリックにとって教会の権威は揺るぐことはない。教会とは神が降臨する場所であり、司祭はそのための儀式を執り行う者なのだ。

悪魔文化の萌芽

こうして、プロテスタント思想において悪魔の存在がより身近なものとなり、悪魔が神から独立した勢力を与えられ、キリスト教文化の中に神と悪魔の戦いという善悪二元論の発想が浸透し始めることになる。その結果、プロテスタント圏において、悪魔文学が花開くことになるのだが、次回はカトリック圏とプロテスタント圏の悪魔の扱い方の違いから、悪魔が文学の世界にどのような影響を及ぼしたかを見てみたい。

黒木朋興(くろき・ともおき)
[出身]1969年 埼玉県生まれ
[学歴]フランス国立ル・マン大学博士課程修了
[現職]慶應大学等 非常勤講師
[専攻]フランス文学 比較修辞学 大学評価
[主要著書]『マラルメと音楽 ―絶対音楽から象徴主義へ』(水声社、2013年)『3・11後の産業・エネルギー政策と学術・科学技術政策』, 日本科学者会議科学・技術政策委員会編(共著 八朔社、2012年),『グローバリゼーション再審ー新しい公共性の獲得に向けてー』(共編著 時潮社、2012年), Allégorie(共著 , Publications de l'Université de Provence, 2003)