アゴラまでまだ少し 第8回
弾かれたビーズ、カーテンを開けるジュゴン葛生賢治

「世界」が終わるとき

また個人的な話から始めてみようと思う。

僕がもともと哲学に興味を持ったきっかけは、中学生時代の英語の授業での出来事だった。今でこそ小学生のうちから我が子に英語を学ばせる親が多いが、僕が子供のころにそんな家庭は皆無。御多分に洩れず、僕も中学校へ入ってから始めて英語なるものを勉強した。

英文法を初めて教わったとき、あまりの衝撃に言葉を失った。英語では、例えば「私は魚を食べます」と言うとき、「I eat fish」と言うである。当たり前だろう、なんて声も聞こえてきそうだが、僕には世界の終わりが訪れたような事件だった。

だって「I fish eat」ではないのである。日本語だったら「私は」「魚を」「食べます」という順序。英語では「私は」の後にいきなり「食べます」が来て、そして最後に「魚を」となる。それが英語圏の人間にとっては「当たり前」なのだ。よく考えてみて欲しい。我々日本人にとって、あの海で泳いでるピチピチした動物を食べるという「現実」が目の前にあって、それと「私は」「魚を」「食べます」という言葉はぴったり一致している。この私が毎日魚を食べているという事実の「意味」をそっくりそのまま切り取ってみた結果が「私は魚を食べる」という表現であって、それが当たり前。それ以上でもそれ以下でもない。それ以外では表せない。それが証拠に、「私は食べます魚を」と言ったとすれば、相手は「ん?ああ、そうね。はい、わかった。でもなんでわざわざそんな言い方するの?」と思ってしまう。違和感が生じる。それは「違」であって、現実そのものではない。「現実」をストレートにそのまま表現した意味がまさに「私は魚を食べます」だからだ。

そして英語圏の人にとっては、自分が魚を食べるという「現実」をストレートにそのまま表現したものが「I eat fish」なのである。「I fish eat」なんて言おうものなら「What’s wrong? Not feeling well? Is that your poem? (どうかした?具合悪い?ポエム読み出した?)」なんて言われてしまいそうである。彼らの中では「現実のありのまま、事実そのもの」と「I eat fish」がぴったりと一致している。

よく考えたらものすごく変なことが起きているのである。日本人の山田太郎さんが魚を食べることは、太郎さんの横にいる鈴木次郎さんにとってもジョン・ブラウンさんにとっても全く「同じ現実」としてそこにあるはずだ。でも鈴木さんはそれを「山田太郎さんは魚を食べる」として理解し、ブラウンさんは「Mr. Yamada eats fish」として理解する。理解する、というよりこの2人にとってそれらは全くの「現実そのもの」なのだ。

「そんなの、リンゴのことをアメリカではappleと呼ぶのと同じじゃないの。何もおかしなことないじゃない。」なんて反論が来そうだが、それはポイントがずれている。例えば、人を乗せてガソリンを消費しながら4つの車輪で高速で走る物体を日本では「車」と呼びアメリカでは「car」と呼ぶ、というレベルのことだったら僕も驚きはしなかった。それくらい中学生になる前になんとなく分かっていた。「私」は「I」、「魚」は「fish」、「食べる」は「eat」となることに驚きは無い。でもそれらの要素がつながるとき、日本語では「私は + 魚を + 食べる」とつながることが「現実そのもの」、ありのままの真実であるのに対して、英語ではそうならない。それが衝撃だった。世界というものはそれぞれ個別な要素が集まって成立していると思っていたからだ。それぞれの要素は文化的な差異によって違う名前が付けられているが、それら要素をつなぐ大枠の骨組み、世界を成立させている大きな骨組みというものは共通だと思っていたのだ。ヨーロッパではナイフとフォークで食事するところを日本では箸を使うが、食事という行為をするという大きな枠組みは世界共通だろう、と。日本にアメリカのウォルマートはないが、代わりにジャスコがあって、文化は違えどもショッピングモールの存在、またはそういう場所で買い物をする行為自体は変わらないのだ、と。「文化の違いによって変わる部分というのが一方にあって、もう一方にそれらを超えて変わらない部分がある」という考え方が裏切られた思いだった。まさかそんな、と。

世界が個別な要素から成り立っている、と考えることは、我々が普段生活する中で「客観性」を手に入れるために必要な世界観である。太陽、地面、空気、家、山田さん、犬、コーヒー、ビスケット、船越英一郎、週刊文春、それらパズルのピースがバシッとひとつに合わさって初めて「世界」が存在する。言い換えれば、針金が様々な色のビーズを通してそれら全てを繋ぎ合わせ、全体としてカラフルなビーズのオブジェをを成り立たせているように、世界が世界として「本当に」存在していると我々を理解させる枠組みがあって、それが森羅万象をしっかりつなぎ合わせている、と考えることで「本当の」世界に我々は生きていられる。世界の中の個別な現象というのはその時々でどんどん変化していくが、その針金の骨組みは変わらない、と信じているからだ。自分がいま夢でなく現実の中にいると平気な顔でいられるのは、目の前の世界が「客観的」だと思っているからで、「客観的」であるとは「ビーズの色や形や数はそれぞれ文化や時代で変わるが、針金は絶対に変わらない」という世界観で支えられている。「変わらないもの」が目の前でくるくる変わる現象を裏からしっかり支えてくれていると思うから、今これを読んでいる皆さんもこうやってスマホやパソコンで文字を追っていられるのである。いまこの瞬間、いきなり自分の右手の甲から頭にロウソクを2本立てた白装束のジュゴンが現れて般若心経を唱え出し、それを見て驚いている自分が実は4日前から3人いたことに気づき、3人の自分がそれぞれ夏休みにコルシカ島に行ったらアイスクリームのトッピングは煮干しするかIKEAのソファーにするかで激論を交わし始めたらどうだろう。どうだろう、って言われても困ると思うが、要するにそんなことは「絶対に」ありえないと理解しているから、こうやって安心していられるのである。「客観的」なものとそうでないもの、変わらないものと変わるもの、現象を裏から支える骨組みと目の前の現象、それらの間に絶対的な差異を認めているからだ。

英語の授業を受けた僕には、その境界線が歪められた思いがした。まさにジュゴンがコルシカ島から八つ墓村にロッキーのテーマにのってやってきたのである。英語では「私は食べる魚を」が事実そのものだし、日本語には存在しない冠詞なんてものもあるし、単数形と複数形やら現在完了と過去完了やら、ビーエイブルトゥーでノットオンリーバットオルソーで。中学生になるまでビーズを繋ぎ止める針金はたった一つで、一つの形しか存在しないと思っていた僕は、針金は正に針金のようにぐにゃぐにゃと曲がり、決して「絶対的」などではなく、世界を裏から支えてくれてはいなかったことに気付かされた。正に世界の終わりである。

哲学は驚きから始まる、と言ったのはアリストテレスだが、「世界の終わり体験」もその哲学的驚きのひとつだ。それまで世界を支えていると信じていた「絶対的なもの」にほころびを見つける瞬間に、あたりまえの日常の中に「あたりまえでないもの」がその尻尾を見せる。自分を包み込んでいた「あたりまえ」が一瞬にして別の姿へと変貌を遂げる。英語に「think outside the box」という表現があるが、まさに箱の中にいながら外をみるように、世界がそれまでとまったく違ったものとして見えてくる瞬間。それが人を「知恵への愛=哲学」へと誘うのだろう。

しかし、この契機には常に危険が伴うのも事実だ。世界の終わりは正に「終わり」なわけで、それまで「絶対」と信じて疑わなかったものがその絶対性を失うということは、それを信じることで初めて「正常」でいられた自分の精神の終わりにもなりかねない。場合によっては非常に危険な出来事でもあるのだ。

 

崩壊としての「世界の終わり」

世界の終わり体験と精神の崩壊が直結することをよく表現した映画に、ロマン・ポランスキー監督の『反撥(Repulsion)』(1965)がある。こんな話。

主人公キャロルはロンドンの美容院で働くネイリストで、アパートに姉と一緒に暮らしている。神経質に爪を噛み、白昼夢でも見ているかのように目はいつも虚ろで、ロンドンの街中を夢遊病者のようにふらふらと歩いては、その卓越した美貌から(カトリーヌ・ドヌーヴが演じている)道行く男たちに心ないナンパな言葉をかけられる。キャロルに惹かれた誠実な男・コリンは何度も彼女をデートに誘うが、彼女は一切応じない。一度だけ、キャロルは自分をアパートまで送ってくれたコリンにキスを許すが、目を開けたまま無反応で、アパートの部屋へ戻るエレベータの中で何度も口をぬぐっていた。一緒に暮らす姉は妻子のある男・マイケルをアパートに連れ込んでは夜を共に過ごす。キャロルは隣の部屋から夜な夜な聞こえる姉の喘ぎ声に気分を乱され、洗面台にあるマイケルの歯ブラシをゴミ箱へ放り込む。

神経症気味の主人公が男性への嫌悪感に悩まされる姿を描く物語は、キャロルの姉がアパートにキャロルを一人残し、恋人マイケルと10日あまりのイタリア旅行に出ていくところから動き出す。残されたキャロルは、姉が料理しようと買っておいてそのままになった皮を剥いだウサギまるごとの生肉を冷蔵庫から出し、窓を閉め切ったアパートのリビングに放置する。洗面台の鏡に男の幻覚を見て恐怖し、毎晩見知らぬ男がベッドルームに押入り自分に暴行する妄想に取り憑かれる(映画の中ではこの暴行のシーンはあたかも現実のシーンのように描かれ、それが現実か妄想か観客には見分けがつかない編集がされている)。部屋の壁じゅうが音を立ててひび割れ、壁が粘土のように柔らかくなって自分の自分の手が沈む混んでいき、廊下の壁両面から無数の男の手が自分に迫ってくるなど、徐々に彼女の「世界」の崩壊が加速度を増していく。部屋に鍵をかけて誰も入れず、仕事も休んでいるキャロルを心配して何度も電話をしてくるコリンは、ついに彼女のアパートのドアを蹴破り中へ入る。「こんな事をして怖がらせてしまってすまない。君を心配だったんだ」と謝るコリンがキャロルに背を向けた瞬間、キャロルは背後から金属製のロウソク立てを振り下ろし、彼を殺害する。彼女はドアの入り口に釘を打ち付け、水を張った浴槽にコリンの死体を沈め、腐敗したウサギ肉にたかるハエの音がぶんぶんと鳴る閉め切ったアパートの中、ネグリジェ姿のまま引きこもり続ける。

アパートの大家である中年男がキャロルの部屋にやってくる。以前からキャロルの姉は家賃を滞納しており、幾度となく大家からクレームの電話を受けていた。姉は旅行へ出る直前、「今度家賃を払わないと私たち部屋から追い出されてしまうから、彼が来たら必ずこのお金を渡してね」とキャロルに支払いを頼んでいた。部屋に入った大家は彼女の異様な様子に戸惑うも(彼はコリンの死体のあるバスルームへは行かない)、目当ての家賃を手渡され、そしてネグリジェ姿で太ももを露わにした美貌のキャロルを見て目の色を変える。自分と「友達」になれば家賃を払わなくてもいいぞ、と迫る大家をキャロルはカミソリで何度も切りつけ、殺害する。どしゃぶりの雨の中、姉とマイケルが旅行先から帰ってくる。ドアが開いたままになっている部屋へ入り、そこで見たものは荒れ果てたリビングで裏返しになったソファーの下敷きになった大家の死体と、浴槽のコリンの死体。キャロルは部屋のベッドの下で廃人のようになっていた。映画は最後に、キャロルが子供の頃に撮った家族の写真のアップになる。家の裏庭で撮ったと思われるその写真には、家族それぞれが椅子に座りカメラに向かって微笑んでいる。一人だけ、10歳ほどのキャロルは正面を見ずに、右にいる人物を睨みつけている。視線の先には父親と思われる男性の姿。彼女が幼少の頃から父親に性的虐待を受けていたことが暗示され、映画は終わる。

現代哲学では、世界の終わりは父性の機能不全とペアで語られることが多い。ここで「父性」とは象徴としての「父」で、世界や社会が崩れないように支える骨組み、屋台骨としての「権威」や「法」である。みんな欲望のまま勝手気ままに行動したいと思うところへ、「お酒は二十歳になるまで飲んではいけない」「赤信号で止まらなければいけない」「結婚しているのに愛人を作ってはいけない」という法が存在することで社会が成り立っているわけで、法にはランダムで衝動的で盲目的な感情や欲望を抑圧する機能がある。抑圧するために権威を持つ。法としての「父性」が機能するということは、人がみな自分勝手をせず、自分だけの世界に閉じこもらず、自分の中の妄想や幻想は「これはあくまで私だけの思いだから、他人に強要すべきでない」と納得することを意味する。例えば無一文で極度に空腹で、目の前に美味しそうなホカホカのスパゲティ・ナポリタンがあるとき、どんなに空腹であってもお金を払わず勝手に食べてはいけないと自分を抑制できるのは、「自分がナポリタンを所有している人間だとしたら、お金を払わずに勝手に食べられたくない。ゆえに、自分が勝手に他人のナポリタンを食べるのもいけない」と理解できるからだ。また、自分が夢や幻覚でなく客観的な現実世界の中にいる、と理解できるのは、自分の手の甲からいきなりジュゴンが現れたり、自分が3人いたことに気づいたりすることは「絶対にない」と否定する物理法則や時間の法則を他人と共有しているからである。法とは、自分に「他者」の存在を認めさせるもの、つまり「自分が見るこの世界を、他人も同じように見ている」という共通認識を与えるものであり、「自分だけの好き勝手な領域」と「他人を認めて自分にストッパーをかける領域」との間に境界線をきっちりと引く役割りを持つ。それが機能不全に陥ったのがキャロルの世界なのだ。彼女の父親自身が「自分だけの妄想と欲望のマグマ」を「法」で抑制することができなかったため、彼女を崩壊させた。「父」として正しい行いをする存在を失った彼女にとって、世界は自らを成立させる「法」としての骨組みを失ったのである。客観的な「法」を失ったとき、世界は四方八方に亀裂が広がり、部屋の壁を粘土のように柔らかく変貌させ、壁から無数の手が襲いかかる「現実」として彼女に迫ってきたのだ。

 

悲劇でない「世界の終わり」とは

ポランスキーの『反撥』は、主人公の持つ男性嫌悪、つまり「反発」が、彼女の世界が終わっていたことの象徴であり、彼女なりの「世界の終わり」への反抗や苦悩だと表現している。その意味で「世界の終わり」は問題であり、事故であり、あってはならないことで、要するに悪いことだ。けれども、果たして「世界の終わり」とは常に悲劇なのだろうか?

もちろんキャロルに起きたことは悲劇以外の何物でもない。けれども、「自分の領域」と「他者を認めてストッパーが効く領域」とが完璧に分離・制御されて「法」が徹底された世界というのが唯一の平和な状態で、かたや「法」の力が衰えると全てが崩壊して絶対的絶望・完全なカオスの世界となる、という具合に二項対立で捉えるのは逆に問題だろう。法による完全制御の世界などというものがあるとすれば、それはまさにジョージ・オーウェルの『1984』の世界だろうし、完全なカオスとして世界を捉えるのは極めて「中二的」で青臭い机上の空論だ。世界を世界として繋ぎ止める骨組みとしての「法」は、常にその存在を脅かされ、一度として「絶対的」に機能したことがない代わりに、いつの時代でもそれを守ろうと数多の人々が血を流してきたものではないか。言い換えれば、世界とは、それを繋ぎ止める「法」を理想に近づけようとする力と、それを失敗させようとする力のせめぎ合いに常にさらさるグレーゾーンそのものだと言えないだろうか。理想的に「世界がちゃんとしている、あるべき姿」を視野に入れつつもそれが何故か上手くいかない、という現状の苦悶の中にこそ、我々の日常の「リアル」があるのではないか。

ここでもうひとつ「世界の終わり」の例としてデビッド・リンチ監督の映画『イレイザーヘッド(Eraserhead)』(1977)をポランスキーの『反撥』と並列し、その関係性の中に見えてくるものを考察してみよう。リンチの長編映画デビュー作でもあるこの作品、その奇妙な世界はストーリーを追っただけで説明するのがとても難しいが、とりあえずこんな話。

機械音と蒸気音が常に鳴り響く世界の中、印刷工で現在は「休暇中」という主人公・ヘンリーは一人で暮らしている。時代や場所を特定するための描写は映画中にほとんど示されない。かろうじて、彼のアパートにある年代物のレコードプレーヤーや家具、劇中に挿入される歌が40年代あたりの雰囲気を伝えるだけである。けれども冒頭、神経質そうに周りを見渡しながら誰もいない工場地帯を買い物袋を抱えて一人歩く彼の姿から、どこかディストピアの世界、核戦争などが起きた後にわずかに残された人類が生きる世界が舞台のようにも見える。彼が怯えるのは荒廃した世界で暴徒に襲われるのを恐れてか。アパートに着くと、部屋の中にはわずかな家具と鉄枠のベッド、部屋を暖めるラディエイターがあるだけで、ところどこに大量の土がそのまま家具や床に盛られ、枯れ木のような植物がそこからわずかに生えている。我々のいる世界と似てはいるが、どこか決定的に違う何かがある、または何かが無い、そして常に工場の機械音が鳴り響く、そんな世界。

アパートの部屋に入ろうとするヘンリーに、向かい側の部屋に住む謎の美しい女性が声をかける。「メアリーという女性から電話があって、あなたを彼女の両親と一緒にディナーに招待したい、と言ってたわ」と。ヘンリーは戸惑ったような表情でうなずく。メアリーの家に行くと、彼女の家族全員が奇妙な人々だと分かる。メアリーは常に陰鬱な表情で、急にてんかんのような発作を起こす。彼女の父親は関係のない話題に烈火のごとく怒り出したかと思うと、急に笑顔が固まったままになる。ディナーは「人工の鶏肉」というもので、手のひらに乗るサイズの鶏肉の丸焼きをいくつか、という具合。父親から「腕の効かなくなった私の代わりに君が鶏肉を切り分けてくれ」と頼まれたヘンリーがナイフを入れようとすると、鶏肉は足をばたばたと動かし血を流し始める。それを見た母親は、白目を剥いて性的な喘ぎ声を上げだしたかと思うと、発狂したように台所へ駆け込む。正気を取り戻して部屋に入ってきた母親はヘンリーに、彼がメアリーと婚前交渉したのかと詰め寄り、彼は認める。メアリーはすでに未熟児を病院で産んでいることを告げられ、2人はヘンリーのアパートで赤ん坊との新婚生活を始める。

メアリーが産んだ「赤ん坊」とは蛇のような頭をもつ手足のない奇妙な生き物で、食事を拒否し、いつまでも泣き止まない。「育児ノイローゼ」に疲れ果てたメアリーはアパートを出ていき、ヘンリーはその赤ん坊と2人だけの生活を始める。ヘンリーは部屋のラディエイターの奥に小さな舞台を発見する。はにかんだ表情の女性歌手が舞台に現れる。両方の頬にこぶし大の腫瘍のような膨らみを持つその女性歌手はヘンリーを見つめながら歌い、天井から降ってくる精子の形をした生物(その頭部はヘンリーの赤ん坊を思わせる)を踏みつぶしていく。場面は変わり、ヘンリーの部屋の向かいに住む謎の美女が「部屋に鍵を置いたままドアを閉めてしまったの。今夜はもう遅いし、部屋に泊めて欲しい」と妖艶に迫る。彼女は部屋に入り赤ん坊の姿に目を丸くするも、ヘンリーとベッドで溶け合う(文字通り、ベッドに液体が張られ、2人は沈んでいく)。またラディエイターの舞台に女性歌手が現れ、「天国では全てが丸く収まる」と歌う。歌手を舞台袖で見ていたヘンリーの首がもげ、中からヘンリーの赤ん坊の首が出てくる。もげた彼の頭は血の海に沈み、工場地帯の空から地上へと落ちる。少年がそれを拾い、近くの工場へ持っていくと、その頭部から抜き取った脳が消しゴムへと加工され、その消しゴムつきのエンピツが大量に製造される。次の瞬間、ヘンリーはベッドで目がさめる。廊下で何やら音がして、同時に部屋の中では例の赤ん坊が何故か笑い声をあげている。ヘンリーがドアを開けると、向かいの部屋の美女が廊下で頭の禿げた中年男とイチャつき、部屋の中へ入ろうとしていた。蔑むようにヘンリーを見る女の目。カメラがヘンリーに切り替わると、頭部だけ赤ん坊の頭になった彼の驚く顔のアップ。次のショットではもとの姿に戻ったヘンリーが、落胆して床にしゃがみ込む。意を決したような表情で赤ん坊を見たヘンリーはハサミを手に取り、赤ん坊の身体を切り裂いて殺す。急に巨大化した赤ん坊の頭に飲み込まれたヘンリーは白一面の世界に包まれる。ヘンリーはそこでラディエイターの女性歌手と抱擁して映画が終わる。

そもそもデビッド・リンチ映画のプロットを文章にすること自体が無謀な試みだとは分かっていたが、果たしてどこまで読者に内容が伝わっているか少々不安になってきた(書きながら自分は頭がどうかしてしまったのか、と錯覚すらした)。しかし話を続けよう。

この映画、象徴としての「父性」の機能不全という点で、まさに『反撥』と対をなしている。リンチ的シュールレアリスム表現に目を奪われずストーリーの骨組みだけに注目してみよう。この物語は「父になれない男が絶望して自殺するまでの話」なのだ。体の関係を持った相手・メアリーが自分の子供を身ごもったと知って戸惑うヘンリーは、結婚にコミットできない、家庭を持って父として子供へ「法」の権威を保つことのできない存在である。見た者にトラウマを与えるほどの不気味な姿をした赤ん坊は、多くの評論家に「自分の子供が不具で生まれてくることへの不安・恐怖」の象徴だと解釈されているが、問題の本質はその一歩奥にある。そもそもなぜ不具な子を授かることが恐怖なのか?「父として正しく責任を負うことへの自信」が試され、それが根本から覆される不安に襲われるからである。この赤ん坊のグロテスクさが象徴するものとは、自分が父として「親の責任」という法を担えないかもしれない、「法」が自分には存在しないかもしれない、その事実を直視することへの根源的不安なのだ。『反撥』が法を失った親の被害者であるキャロルの世界が描かれているのに対し、『イレイザーヘッド』は法を失った親であるヘンリーの世界が描かれている。

ヘンリーの世界に「法」が存在しないこと、ヘンリーには「自分だけの好き勝手な領域」と「他者を認めて妄想にストッパーをかける領域」との間の確固たる境界線がないこと、つまりヘンリーに「他者」がいないことは、3つの要素から理解することができる。一つ目は向かいの部屋の美女との関係。父としての自覚も責任もないヘンリーは、妻となったメアリーが家出した直後に素性も分からない妖艶な隣人(ハゲた中年男と一緒にいたのは彼女が娼婦であることの暗示である)とベッドを共にする男なのである。キャロルの父親のように我が子を虐待こそしないが、衝動を理性で抑えることが出来ない者という点で同類だと分かる。二つ目は現実と幻覚の混同。ラディエイターの舞台に立つ奇妙な頬の女性歌手はヘンリーの妄想が具現化したものである。彼女はヘンリーが消し去りたいと思う赤ん坊の存在(に似た精子のような生物)を踏みつぶし、何の悩みもない天国を甘く歌う。こんな生活から逃げて天国へ行きましょう、と。自分の首がもげ、脳が消しゴムになってエンピツのが作られる場面もヘンリーの幻覚である。彼が工場の仕事を「休暇中」なのはおそらく失業したからなのだろうが、その事実を覆い隠す理由として「自分の脳がエンピツの先の消しゴムとして工場で使われているからだ」という妄想が具現化していたのだ。キャロル同様、ヘンリーにとって現実と幻覚は連続しているのである。そして三つ目は不気味な姿の赤ん坊。両方の映画を見た人ならすぐに気づくと思うが、ヘンリーの赤ん坊は『反撥』でキャロルが冷蔵庫から出して部屋に放置するウサギの丸ごと肉とそっくりなのである。リンチが『反撥』から影響を受けているのは明らかだろう。それぞれの不気味な生物はキャロルとヘンリーの抱えるトラウマの象徴である。恐ろしすぎて直視出来ないほどの出来事が心の底にあるからこそ、キャロルは見るにおぞましい姿のウサギ肉を自分の一部としてそばに置く。ヘンリーの首がもげて赤ん坊の首が出てきたり、娼婦に蔑まれて驚く顔が赤ん坊の頭部になるのは、彼が赤ん坊の象徴するトラウマを自らの中に宿しているからである。自分こそこの子のように「不具」の存在で、それを娼婦に見透かされたと思った彼は自分の分身である赤ん坊を殺し、自らの命を絶ったのだ。最後にヘンリーが「天国」を歌う女性歌手と抱擁していたのは彼の死を表している。

特筆すべきは、『イレイザーヘッド』が、世界を支える骨組みが機能しない世界の物語として『反撥』と同じ構造を持ちながら、喜劇になっている点である。冒頭で工場地帯を何かに怯えながら歩いて水たまりに足を突っ込むヘンリーの姿はどこかユーモラスで、例えば映画『ティファニーで朝食を』で主人公が住むアパートの大家・日本人ユニオシ氏が部屋でいろんなものにぶつかって驚く姿を想起させる。ヘンリーの髪型はまるでお笑い芸人がコントでするようにブラシ状の髪が逆立ったもので、観客はそもそも主人公を「普通のひと」と見ることが出来ない。彼の頭が消しゴムになってまさに「イレイザーヘッド」となる場面は吉田戦車のマンガのような雰囲気だし、娼婦に見下されて驚くヘンリーの頭が赤ん坊になっているショットは不気味さと可笑しさが同居している。そう、「おかしい」世界とは「可笑しい」世界でもあるのだ。漫才でいうなら「ボケ」に対して「突っ込み」が存在せず、ボケにボケをかぶせ、それにさらにボケを加え、と永遠にボケの連鎖が続く世界。「ってなんでやねん!(=それは客観的に見ておかしい)」という「法」としての突っ込みが存在しない世界がリンチ・ワールドなのである。リンチ映画のほぼ全てに見出せる独特のユーモアは、「法」が存在しない世界の「おかしさ」にはどこか常に笑える部分が含まれることを示している。喜劇は「悲劇的におかしくなった世界」を違う視点から眺めた「可笑しい世界」として成立する。

 

始まりと終わりのない「世界の始まり」へ

ここでさらに一歩進んで考えてみよう。

デビッド・リンチの描く世界のユニークさは、悲劇と喜劇に共通する構造を示すことでは捉えきれない。悲劇と喜劇の構造が同じことなど、既に文学の歴史の中で語り尽くされたテーマですらある。リンチ的世界の特異性とは、現実と妄想が同じ価値のものとして並列されることで、もはや「世界の終わり」「正常だった世界」「終わってしまった世界」という捉え方で我々の現実を見ること自体に意味がなくなることにあるのだ。言うなれば、世界の「終わり」という考え方自体が終わるのである。どういうことか。

『反撥』と対比してみよう。キャロルがウサギ肉に親近感を持ったのは、一方に隠された事実としてのトラウマ的事件、つまり「いやなこと」があり、それに似たものとして「いやなもの」であるウサギ肉が目の前の現実に置かれていた。例えるならば、カーテンの向こうに見えない大事件が隠れていて、カーテンのこちら側にはそれに似た小事件がある、という具合。あっち側に「本当の現実」、こっち側に「その現実のコピー」という状態。現実のコピーを手元に置くことで、本当の現実に向き合うのを免れ、かろうじて彼女は精神の均衡を保っていた。けれどもカーテンを飛び越えて大事件そのものが迫ってきたことで(=夜な夜な暴行される妄想に襲われ、壁から無数の手が迫ってくることで)彼女は崩壊した。カーテンの向こうのトラウマに直面しそうになったからである。

『イレイザーヘッド』の不気味な赤ん坊は、カーテンの向こうにある大事件のコピー・小さいバージョンではない。カーテンの向こうには何もないことへの不安が具現化したものなのだ。ヘンリーが直視したくないのは「トラウマとして直視したくない事実が存在しないという事実」である。それが赤ん坊の「直視できない不気味な姿」として現れた。言い換えれば、トラウマが存在しないというトラウマが赤ん坊に変身したのだ。トラウマが「無い」ことが反転して、不気味なものが「ある」ことになった。だから不気味な赤ん坊は、「無いこと」そのものの象徴なのである。「無いこと」とは、世界のあっち側とこっち側を区切るカーテンすら無いこと、「内」も「外」も存在しないことを意味する。キャロルのように確固とした事件が起きた上でヘンリーが「ダメな父」になってしまったのだとしたら、ヘンリーの世界の「外」に大事件という「原因」があってこちら側に小事件という「結果」が出たのだと「理性の法」で納得できる。「法」で真実を捉えることができる。でも、その「外」「カーテンの向こう」「原因」「真実」、それら全てが「無い」のだ。「空っぽの空間」すら無い。「無い」で表すことも本当は無理。「無い」すら無い。その「無い」が赤ん坊で表現されているのである。だからヘンリーは自分が直面する現実から逃避しようとラディエイター歌手の幻想に埋没しても、そこには赤ん坊よりさらに異様な世界が「無い」を体現し、自分の脳が消しゴムになる幻覚はさらにまた別の異様な姿で「無い」を表し、最後にラディエイター歌手と抱擁する場面が自分の死という究極の「無い」の象徴となる。正解の無い妄想世界が、どんどんそのバージョンを変えて横並びに連鎖していく。「妄想の裏には現実がある」「世界には変わるものと変わらないものがある」「さまざまな色のビーズが針金でつながれて世界は成り立つ」という世界観だって、ひとつのピクチャー、つまりひとつのビーズに過ぎないのだ。それらはヘンリーの世界、ラディエイター歌手の幻想、消しゴムの幻覚とまったく等価に、「ありえない世界」のバージョン1、バージョン2、バージョン3と、ただ増殖していくだけなのである。増殖が連鎖することで初めて、「始まりと終わり」に囚われる価値観から我々は解放されるのである。

このエッセイでも度々取り上げる現代哲学者スラヴォイ・ジジェクによれば、デビッド・リンチ作品の本質とは、カーテンの向こうに何もないことそのものが具体的なビジュアルとなった「妄想」が、バリエーションとなって連鎖することで、我々を「本当」と「嘘」という二項対立的世界観から解放する(なぜならその世界観もひとつの妄想なのだから)ことにある、と結論する。そしてその解放は我々を新しい「妄想」の創造へと導くパワーを持つ。彼は著書「The Art of the Ridiculous Sublime: On David Lynch’s Lost Highway」でこう語る。

Far from enslaving us to these fantasies and thus turning us into desubjectivized blind puppets, [the absence of the Other in our Being] enables us to treat them in a playful way and thus to adopt towards them a minimum of distance. […] By displaying the two fantasies side by side in hypertext, the space is thus open for the third, underlying fundamental fantasy to emerge. Lynch does something of the same order when he throws us into the universe in which different, mutually exclusive fantasies co-exist. He thereby also encircles the contours of the space that the spectator has to fill in with the excluded fundamental fantasy.

([我々の本質には他者が存在しないと分かること]で、我々はこれらファンタジーの奴隷となったり、主体の無い盲目的な操り人形になるどころか、ファンタジーを楽しみながら扱い、それらへ最短の距離をとることが出来るのである。(中略)2つの(本来であれば相容れない)ファンタジーをハイパーテクストの中で並列すると、さらに深い部分にある第3の根源的ファンタジーの現れる空間が開かれる。リンチは、相反するファンタジーたちが共存する宇宙に我々を投げ入れることで、同様のことをしている。彼はその空間の輪郭を取り囲み、観客がその空間を排除された根源的なファンタジーで埋めるように促しているのである。)

「法」があるべき場所に実は何も無いこと、カーテンの向こうは「無」しかないことを、リンチは実体の無い妄想を次々と並べることで暗示する。「さらに深い部分にある第3の根源的ファンタジーが現れる空間」とは、ひとつ目の妄想に対して「そうではなくてこれが現実だよ」と現実を対比させるのではなく、さらにふたつ目の妄想をかぶせることで、それを見ている我々に「はい、この次は?」とバトンを渡し、第3の妄想を誘発することを示す。それがリンチの作り出す特殊な妄想の連鎖である。「ボケ」に対して「突っ込み」ではなく「ボケ」をかぶせ、次の人へ「—からの?」とさらなる「ボケ」を促す。ヘンリーの頭が赤ん坊の奇妙な頭になったように、今度はラディエイターの歌手がヘンリーの頭になったら?あの歌手はヘンリー自身だとしたら?ヘンリーのもげた頭を拾って工場に届けた少年こそ実はヘンリーの子供だとしたら?全ては少年がその夜に見た夢だとしたら?さらには、『反撥』のキャロルも実は自分が虐待を受けたという妄想に取り憑かれていただけだとしたら?

我々は自分だけの引きこもり世界から抜け出し、それぞれの映画、世界観、価値観を並列・再解釈することで新しい「妄想」をクリエイトするだろう。また、我々のこの現実を「真実 vs. 嘘」という枠組みを超えて再定義することで、現実に新しい意味を見出せるかもしれない。世界が始まるのである。そこに現れるのは、終わることのない「新しい妄想」の連鎖をクリエイトする共同体だ。誰が「本当」を言い当て、誰が「幻想」に戯れているかという優劣の存在しない共同体。全てのメンバーが「法が不在の世界」を受け止め、その不在っぷりを新しい形で創造し続けていくコミュニティー。デモクラシーの一形態が、市民がクリエイターとしてコミュニティーに参加することで「世界の終わり」という終末観を克服するものだとしたら、どうだろう。

葛生賢治(くずう けんじ)
1970年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒用後、サラリーマン生活を経て渡米。2000年ボストンカレッジ大学院哲学科修士課程終了。2007年ニュースクール大学院哲学科博士課程終了。ニューヨーク市立大学哲学科非常勤講師を経て、現在東京にて執筆活動中。フリーウェブ雑誌「OUR」チーフエディター。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。趣味は駄洒落づくり。代表作は「オジー・オズボーンの叔父におスボーン履かせてちょうだい」。