ロックと悪魔 第9回 宗教戦争以降の悪魔黒木朋興

前回は、宗教戦争においてプロテスタントがローマ法王を悪魔と見なしたことによって教会すらもアンチキリストになり得るという発想が生まれ、その結果、それまでカトリックが徹底して拒絶してきた善悪二元論のキリスト教思想に入り込み、悪魔が神から独立した勢力を獲得していくようになった様を述べた。今回は、カトリックとプロテスタントの悪魔表象の違いについて見てみたい。

トリエント公会議、その後

自らの敵を悪魔とみなし激しい攻撃加えたのはカトリックもプロテスタントも変わりはない。しかしその後、プロテスタントの社会では悪魔は信徒たちにより強い存在感を示すようになるのに対し、カトリックにおいては悪魔の影響力は薄れていく。これは、ある意味、カトリックがプロテスタントに対して差別化を図ったものと考えて良いだろう。その差別化が鮮明となったのが、にローマ法王によって召集されたトリエント公会議である。

トリエント公会議とは、教会の正当な方針を決めるべく1545年から1563年にかけて開催されたカトリックの公会議である。その主たる目的は宗教改革以降の世の中においてプロテスタントに対してどのようにカトリックがあるべきかを話し合うことにあった。つまり、反宗教改革の旗印を掲げたカトリック教会改革のための会議であったと言える。

ここでJ.B.ラッセルの『ルシファー 中世の悪魔』の中でトリエント公会議について言及されている部分を引用してみよう。

トリエントのカトリック改革会議は悪魔[the Devil]を強調しない方向を採った[de-emphasized]が、プロテスタント思想では悪魔の力は増大し続け、17世紀のイギリスでミルトンの『失楽園』という記念碑的傑作を生むにいたった。(野村美紀子 訳、1990、教文館、p.344)

プロテスントにおいて悪魔の勢力は拡大していくのに対し、カトリックでは衰退していく、という両者の違いが明言されている。

これはどういうことなのであろうか? 具体的に公会議において何が決定されたのであろうか? ここはやはり神学者のお話を伺うことが必須であると考え、公会議について造詣の深い上智大学神学部の光延一郎教授に面会する機会を得た。光延氏によれば、会議の議事録の中に、悪魔表象を慎むように決めたという記述は特に見当たらないという。実のところ、J.B.ラッセルのこの発言はトリエント公会議でサクラメントの重要性が確認されたことを受けてのものではないか、とのことであった。

サクラメントの重要性

サクラメントとは、儀式を通じて神の恩寵を信徒の目前に示すことであり、洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、結婚の7つが正式に認められている。別の表現をすれば、司祭がこれらの儀式によって神を降臨させることだ。洗礼、堅信、病者の塗油、叙階と結婚は人生の重要な節目に行われるのに対し、ゆるしは必要に応じて、何よりも聖体はミサのたびに行われる儀式であることをまず指摘しておきたい。毎週日曜にはミサがあるので、日常的に行われるものと言って良い。この聖体とは、前回までに説明したようにパンのことであり、司祭が執り行う儀式によってパンがキリストの体へと変化し、そのパンを信徒が食べることによって、信徒は神や他の信徒と繋がることができる。

サクラメントを改めて重要視するということはどういうことかと言えば、教会や司祭の体に神が降りてくるということを確認したということである。神は過ちをおかすことがない、というのがキリスト教の大原則であることは改めて言うに及ばないだろう。その神が教会や司祭の体に降りてくるのであれば、教会や司祭も間違わないということなる。対して、プロテスタントはローマ法王の過ちを批判し、カトリック教会組織を悪魔と見なした。サクラメントの重要性を再確認するということは、まさにプロテスタントの改革の流れへの対抗措置だったのである。プロテスタントには複数の宗派があり、そのそれぞれでサクラメントの位置付けは異なるが、概してカトリックに対してサクラメントを軽視する傾向がある上に、何よりも儀式を通して神が降りてくるという現象を認めない点では一致している。信仰はあくまでも儀式ではなく聖書の読解によって深められるべき、と考えるわけだ。

また、教会に神が降臨するのであれば、そこに悪魔が付け入る隙はないということにもなる。既に述べたように、神と悪魔の実力差は圧倒的であり、教会に神が臨在するとすれば、そこでは悪魔が活躍できるチャンスは全くないと言って良い。つまり、悪魔が神に対抗する力を与えられることはないし、善悪二元論は成立しないということになる。伝統的なカトリックの立場を確認しただけとも言えるが、そのことは必然的にJ.B.ラッセルが言うように「悪魔[the Devil]を強調しない方向を採」ることへと繋がったのだ。要するに、サクラメントの重要性を再確認するということは、悪魔の神に対する圧倒的な非力を確認するということであり、また善悪二元論を改めて否定することに他ならないということになる。

まとめてみよう。トリエント公会議の記録を記した公文書には、特にカトリックが今後悪魔表象を控えると宣言した箇所は見当たらないという。この公会議の重要性は、何よりサクラメントの意義を改めて確認したことにある。サクラメントとはカトリックの司祭が儀式を執り行うことによって神の恩寵を信徒の目の前に現前させる行為だ。神が教会に現れるのであれば、そこに悪魔が近づけるべくもない。神とその被造物である悪魔とでは力の差が歴然としており、善と悪すなわち神と悪魔が抗争するという善悪二元論は成り立たないことになる。このような状況では必然的に悪魔は取るに足らない存在として扱われるということだ。

対して、プロテスタントは自分たちに過酷な弾圧をしてくるカトリック教会を悪魔と見なして抵抗運動を展開したために、悪魔が神の勢力に比肩するほど強力な存在であることを受け入れてしまった。実際に教会は神が臨在する場であるのだから、その力が絶大であるのは自明であろう。しかもその強力な勢力が現実に弾圧してくる以上、彼らにとってカトリック教会の脅威は現実のものであり、それ故、悪魔の存在も身近なものになったのだ。その結果、プロテスタントにおいては善悪二元論の思想が定着し、悪魔表象が盛んになっていくことになる。

カトリックにおいて、トリエント会議以降、「悪魔[the Devil]を強調しない方向を採」ることになったのは、まさにこのプロテスタントに対する対抗措置と言って良い。確かに、伝統的にローマ教会は善悪二元論を受け入れず悪魔も重要視してこなかったが、それでも中世には悪魔を題材にしたお話があるにはあった。それは、例えば、本来は図像による神の表象が禁じられてはいたものの、たくさんの聖画像が存在することに似ているとも言えるだろう。しかし、宗教戦争以後において、プロテスタントとの差別化を図るために従来からの善悪二元論拒否の姿勢を再確認し、悪魔表象を控えるようになったということだろう。

プロテスタントにおける悪魔表象

J.B.ラッセルも言うように、悪魔表象はプロテスタント圏において盛んとなり、悪魔を題材とした作品が数多く創作されるようになる。ここでは、プロテスタントにおいては教会が悪魔になり得るという考えが生じたことと、更にプロテスタントにおいては神や聖書に関する創作活動がカトリックに比べて割合自由に行われるようになったことの二つに的を絞って考えてみたい。

教会における悪魔に関しては、興味深い動画がある。ヘヴィメタルの創世記に活躍しその後伝説的バンドとしてムーヴメントの中心的な存在となったBlack Sabbathの『Born Again』(1983)に収録されている「Trashed」という曲のプロモーション・ヴィデオ(https://www.youtube.com/watch?v=jBi7XvJKlMo)である。既に触れたように、この曲の歌詞は、酒をかっくらって車でぶっ飛ばす、といったものでとりあえず悪魔とはあまり関係はない。しかし、興味深いのはヴィデオの映像である。主人公の男が酒を飲んで車を運転し事故を起こす。ここまでは歌詞を反映しているのだろう。その後、なぜか墓から蘇り出現するゾンビに襲われ、這々の体で教会に逃げ込みそこの神らしき像に助けを求めるのだが、その神の像がいきなりゾンビに変化し襲ってくるのである。せっかく助けを求めて教会に逃げ込んだのに、実はそこが怪物(=悪魔の手先)の根城だったなどという設定はカトリックではまずあり得ない。教義の上で、教会が悪魔であると見なし得るとしたプロテスタントならではの発想であろう。もちろん、バンドのメンバーやヴィデオの製作者がプロテスタントの教えに忠実であろうとしたわけでもなければ、その教義を意識していたわけでもないだろう。ただ、それほどまでにプロテスタント圏においては悪魔が身近な存在として感じられていることの表れであるという言い方をしたほうが正しいように思われる。

次に聖書に基づいた創作活動について考えてみたい。カトリックにおいては聖書に書いてあることは史実であり、それを基にフィクション=創作活動を行うことには抵抗が強い。対して、プロテスタントにおいてはカトリックに比べて割合自由に聖書の話に基づいた創作活動を行う傾向がある。例えば、これは聖歌=賛美歌に対する考え方の違いにも表れている。カトリック教会の分類によれば、なんとプロテスタントの賛美歌は聖歌ではなく俗謡あるいは民謡になっているのだ。これは何も異なった宗派の文化を尊重していないからというわけではなく、聖歌に対する考え方の違いが反映しているのだ。

カトリックの聖歌は、歌詞もメロディも神からの賜り物であり、そこに人が手を加えることは原則的に禁じられている。例えば、作曲という言葉は「composition」であるが、これは「com=共に」という言葉と「position=置くこと」という言葉を組み合わせてできた表現であり、原義は「共に置くこと」であった。では、何と共に置くかと言えば、主旋律ということになる。つまりあるメロディに対して伴奏(=対旋律)をつけることが作曲であったのである。現在、作曲とは新たなメロディを創作することであるが、元々は神に与えられたメロディに伴奏をつけることに過ぎなかったのだ。創造は神の仕事というわけだろう。メロディは神に繋がっていると考えられ、それに対して人間が手を加えるのはご法度だったのだ。

対して、教会の儀式の権威に疑いを持ちカトリックとの闘争を繰り広げたプロテスタントにとっては、賛美歌は神から与えられたものというよりは、信仰を深めるための道具と見なされている。道具に過ぎないのであれば、民衆に広く知られている俗謡あるいは民謡を賛美歌として取り入れることも、また新たに何かしらのメロディを考案することも可能ということになる。ゴスペルという新しい宗教音楽を生み出したのもプロテスタント系の教会ならではの行為であると言えるだろう。

これは、教会の聖画像には神が宿ると考えるカトリックとそれらを単なる芸術作品と見なすプロテスタントの態度の違いにも反映しているし、聖書を題材にして神や悪魔が登場する文学作品を次から次へと生み出したプロテスタントとそのような創作には抵抗を感じるカトリックの違いにも反映しているだろう。次回は、文学における展開を詳しく見てきたい。

黒木朋興(くろき・ともおき)
[出身]1969年 埼玉県生まれ
[学歴]フランス国立メーヌ大学博士課程修了
[現職]上智大学/東京電機大学等 非常勤講師
[専攻]フランス文学 比較修辞学 大学評価
[主要著書]『3・11後の産業・エネルギー政策と学術・科学技術政策』, 日本科学者会議科学・技術政策委員会編(共著 八朔社、2012年),『グローバリゼーション再審ー新しい公共性の獲得に向けてー』(共編著 時潮社、2012年),『〈国語教育〉とテクスト論』(共編著 ひつじ書房、2009年), Allégorie(共著 , Publications de l'Université de Provence, 2003)