アゴラまでまだ少し 第9回
歪んだ鏡を覗き込むとき葛生賢治

夜の闇に消えた後ろ姿

10歳の頃だったか、夜遅く、僕は家の2階にあるベランダに出て秋の夜の冷たい空気にあたりながら、前の道を何気なく見下ろしていた。80年代の当時、我が家は東京の下町で小さな割烹料理屋を営んでいて、商店街の通りに面した一階が店、二階が住まいとなっていた。商店街とはいえ夜中近くになると人通りは全くと言っていいほど無くなる。何をするでもなく、何を考えるでもなく、ただぼーっと道を見下ろしていた。そこへ一人の女性が通りかかった。記憶の中のイメージでは、年は20代前半くらいの女性。地味なワピースを着て、一人静まり返った夜の商店街を歩いていた。

その女性は我が家の前にある電柱のもとに今まで履いていた靴を脱ぎ、そのまま立ち去っていった。

狐につままれた気分、という言葉を知ったのは随分後になってからだが、まさに僕はその瞬間、狐につままれた。目の前に起きた現象が自分の理解を大きく超える。何が起きたのか物理的に「説明」することはできる。女性が靴を電柱のもとに脱ぎ捨てて静かに歩き去った。ただそれだけ。でも何故?その現象の「意味」がさっぱり分からない。なぜ靴をその場に捨てた?なぜ持ち帰らない?なぜ裸足で帰った?なぜ夜中の商店街で?僕をつまんだ狐は随分と巧妙に僕をつまみ上げたらしく、その意味のペンディング具合がまさに絶妙で、30年以上経った今でもその光景は今朝テレビで見たワイドショーの下らない再現VTRの映像くらい鮮明に思い出すことができる。その靴はパンプスだった。女性の髪は肩にかかるくらいの長さだった。彼女が靴をその場に脱ぎ捨てて立ち去るまでの一連の動作はまるでリハーサルでもしてきようにスムーズだった。その電柱に靴を捨てるためにわざわざ夜中の商店街をそこまで歩いてきたかのように。そして、そうすることを最初から予定していたかのように裸足で秋の夜の商店街から消えていった。残るのは完全な静寂。

その後、何かあるたびに僕はその光景を思い出し、あの夜起きたことの「意味」を理解しようと努力した。まず思いついたのは、彼女は何かしらの理由でその靴をそこに捨てたかった、という解釈。でも、それならわざわざその電柱まで履いてくる必要はないし、替えの靴を持ってくるはずだ。却下。次に考えたのは、家を出るときにはその靴を捨てる気は無かったが、歩いている途中で捨てる理由が出てきて(例えば靴擦れがひどくなって痛さに耐えられなくなったとか)やむなくその場に捨てて裸足で帰った、という解釈。読者の多くはこれが妥当だと思うかもしれない。でも、彼女の一連の動作がものすごくスムーズだったのである。靴を脱ぎ捨てるまで、足が痛いようなそぶりは全く見せず、「すたすたと」という描写がぴったりくるような様子でその道を歩いてきたのだ。だからこそいきなり靴を脱いだのを見て僕は驚いたのである。そして脱いだ後も自分の足を気にするでも、かかとのあたりの靴擦れなどを確認するでもなく、本当に何事も無く立ち去っていった。

また別の解釈として、彼女は自殺をしようとしていた、というのも考えついたことがある。死ぬ前に靴を脱いだ、と。でもこれは考えた瞬間に却下。そこがビルの屋上や火曜サスペンス劇場のクライマックスに出てくる断崖絶壁ならまだしも、下町の割烹料理屋の前である。どうやったら自殺できるのだ。たとえ何かしらの理由があって自殺を決意したとしても、なぜわざわざ夜中の商店街でなのか?そしてどうやって自らの命を絶つ?飲み屋の前で。赤提灯に頭から突っ込む?そんなので死ねるようなら人類はとうの昔に死滅している。

もっと大胆な解釈をしてみたこともある。彼女は僕が上から見ていることを知っていた、という。全ては仕組まれていた。二階のベランダにオーディエンスがいることを知り、彼女はおもむろに自らの靴を脱ぎ、何事も無かったように立ち去ることによって見る者に衝撃を与えるというパフォーマンスをやってのけた。そう、彼女はパフォーマンスアーティストだったのだ。イギリスのバンクシーが世界各地で街中に人知れず落書きを残すように、ニューヨークのヒップホップアーティストたちがスプレーでグラフィティーを残すように、彼女は下町の割烹料理屋の前で10歳の子供に向けて靴を脱ぎ捨てた。

あんまり続けると頭がおかしいと思われてしまうので(もう思われているかもしれないが)ここまでにするが、要するに子供だった僕は目の前に起きた現象の意味をどうやっても掴むことができず、それからというもの、僕は常にこの理解不能な現象の意味を「ちゃんと理解したい」という欲望に取り憑かれてきた。どうやっても完璧には理解できなくて、理解できないからこそ、なんとか理解したいという理解欲に火がつき、現象を完璧に捉えてやろうという征服欲を掻き立てられ、繰り返し試みては毎回失敗に終わる。それでいて失敗は終焉ではなく、さらなる理解欲を沸き立たせる引き金となる、そんな現象。

それを出来事(event)と呼ぶ。

目の前で「何か」が起きる。それが起きたことはしっかりと認識できるし、それが物理的にどういうことなのか、通り一遍の説明をすることはできる。でもそれが本当の意味で「何なのか」は説明できない。どう上手く理解しようとしても、解釈しようとしても、その理解や解釈には常に「余り」が残り、どこか「ズレ」が生じ、しっくりと収まることがない。収まることがないがゆえに、それを体験した者はその現象に取り憑かれ、常にそこへ立ち返ることになる。立ち返り、再解釈を試み、また「ズレ」に気づく。ズレは更新されるたびに新たな刺激となり、我々の知の泉となり、古い解釈を超える思考の「伸びしろ」となる。我々が「きっと何かがあそこにある」「その何かを捉えたい」とさらなる魅力に惹きつけられるような、そんな瞬間。哲学者によって「出来事」の概念の解釈は様々あるが、僕はそう理解する。出来事とは、自分の歴史に刻まれた理解不可能なブックマークなのだ。我々は繰り返し、ブックマークされたページに書かれたことの意味へと立ち返り、最新のページ「いまここ」を読むのである。

出来事の中に生きるということ

出来事が出来事としてユニークであるのは、それが「過去の出来事」にならないからだ。いわゆる普通の意味での「出来事」、つまり単に「目の前で起きること」や我々が日常的に「体験すること」は、一瞬にして過去のものとなる。2週間前に半蔵門線に乗ったことや昨日ポテトチップスのり塩味を食べたことなどは、過去、現在、未来へと単純に引かれた一本の線上の点として片付けられる。たとえその経験が比較的印象に残るようなことであっても同じである。1週間前に代官山のパン屋に行ったら「王様のブランチ」のロケをしていてお笑い芸人に握手してもらえた、なんて経験も何月何日にこれこれという現象が自分に起きた、という記憶とともに線上のひとつの点、多少は目立つ点として収まるだけだ。ここでいう出来事が過去のものでないというのは、それが現在の自分の存在に関わっていることを示す。言い換えれば、それを通り過ぎた人間として現在の自分が形作られている、といえるようなものが出来事なのだ。例えばファーストキス。緊張と興奮と羞恥と達成と不安と幻滅と後悔と、様々な感情が渦をなして自分を通り抜け、出来事が起きたとする。それが「のり塩ポテチを食べた」ことと根本的に違うのは、「いまここにいる自分」が「そういうファーストキスを経て今に至る自分」として存在しているから、自分というものが常にその時の経験を抜きにしては語れない存在として定義されているからである。

「だったらお笑い芸人と握手できたことだってその『出来事』と呼べるだろう。だって私はその芸人の大ファンで、そのことは一生忘れられない思い出なのだから」なんて思う人もいるかもしれないが、それは間違い。出来事(event)は「いつまでも記憶に残る良い思い出」でもなければ、「いつまでも忘れられない嫌な記憶」でもない。インスタグラムでジャスティン・ビーバーからいいねを押された、子供の頃からの親友に恋人を奪われ絶交した、修学旅行先の京都でそれまで険悪な仲だった同級生のマユミと二人で朝までホテルのロビーで長く話したら自分と似てることに気づいて分かり合えた、県大会出場をかけた最後の試合で自分の凡ミスからチームが負けてしまった、などは「とても楽しかったこと」「嫌だったこと」「嬉しかったこと」「悔しかったこと」と記憶のフォルダにそれぞれセーブして、スマホのアルバムを開くようにいつでも脳内再生ができる、というだけである。出来事とは、それが結局はどういう意味を持っていたのか最終的に決定できない、できないからこそいつまでも自分の存在に深く根をおろす種類のものなのだ。

出来事は「楽しい」「悔しい」「切ない」などのフォルダに分類できない。ファーストキスの直後に彼女が見せた「なんとも言えない表情」の意味を最終的に決定することができないように。1年後に「あれは彼女の照れ笑いだったのだ」と解釈し、10年後に「彼女の心に一瞬だけ通り過ぎた自分への幻滅の表情だったのだ」と解釈し、20年後に「幻滅を感じながらもそれを含めて自分を受け入れてくれた微笑みだったのだ」と解釈する。どれもある意味で正解であり、同時にどれも「完全な正解」とはなりえない。表情の意味に「正解」は存在しない。仮にその瞬間の彼女自身に聞いたところで「分からない」という答えが返ってくるだけだ。意味の分からない「何か」そのものに実体はなく、それは分からない「もの」としてあちら側に存在するのではない。こちら側にいる我々が理解の限界地点にまでたどり着いたことを告げる目印として存在するだけなのである。「あちら側」に起きたことではなく、こちら側の理解に歪みやひび割れが生じた、という事件の記録が、「分からないもの」の正体なのだ。「悲しみ」というラベルのついたフォルダを開けると悲しい画像が現れるとすれば、「ファーストキスの瞬間に彼女が見せた表情の意味」というフォルダの中には歪んだ鏡があるだけなのである。1年後、10年後、20年後に彼女の表情を「こうだったのだろう」と理解するとき、我々は「歪み」に向き合い、自分自身を「彼女の笑顔の意味をこう理解する人間」として再定義するのだ。実体が無いのにも関わらず我々に「フォルダの中には何かある」と惹きつけ、フォルダを開けさせ、歪んだ鏡へ何かしらの意味を投影させる装置が「出来事」なのである。我々は常にブックマークされた歪みへ立ち戻り、出来事の意味を再確認・再解釈し、自分自身をアップデートすることで今ここにいながら「出来事」に参加しているのである。

もうひとつ、出来事の本質ともいえるものがある。出来事は単に個人的な体験、プライベートな思い出を指すものではない、ということ。他人と共有されて、コミュニティーの中で複数の人間と共に体験されて初めて「出来事」が起きた、と言えるのだ。仮に、ジャスティン・ビーバーにいいねを押してもらえたことよりも自分のファーストキス体験の方が「出来事」として今の自分を形成していると言ったところで、他人から「それは結局、お前の脳内で起きたことだろう」と言われてしまえばそれまでである。本当に出来事として「起きる」こととは、それが他人と共有されることを意味する。出来事はその意味で「客観的」な現象である。

例えば2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センタービルに2機の旅客機が追突したこと。あの出来事には「アメリカ同時多発テロ事件」という名称がつけられ、世界中のメディアによって数え切れないほど報道された。ウィキペディアに詳しい解説が掲載され、これまで政治学者、ジャーナリスト、評論家、経済学者、活動家、社会学者、哲学者たちによって厖大な量の分析がされている。今では世界中の人々にとってある程度の共通理解・共通認識ができているだろう。けれども、事件直後に繰り返し放送された旅客機が超高層ビルに突っ込む映像、ビルの窓から塵のように落ちる人の姿、瓦礫の中から真っ白になった姿で逃げ出す人々の表情の中に、現実でありながら現実に収まらないほど悲惨で、ハリウッド映画並みにフェイクで、受け入れがたく馬鹿げた現実を見出した人も多かったはずだ。現実の枠組みがボヤけるような出来事。現実でない現実を「これが現実だ」と突きつけられたような感覚。あの日、「何か」が起きた。その「何か」には、「イスラム系テロ組織によるアメリカへのテロ行為」という一応の「回答」をつけることができる。でも「回答」では「何か」を客観的に言い当てることはできない。「結局、911とは何だったのか?」という質問に完璧に答えられる人なんているだろうか?我々は客観的に言い当てられない「何か」を共有した。言い換えれば、「何か」を客観的な現実として共有できないということを共有したのだ。

まとめると、

  • 出来事は、それに立ち返ることで「今の自分」をアップデートするものであること。
  • 出来事が個人的な感想を超えて、社会で共有されるものであること。

この2つを合わせると、出来事(event)とは「歴史」という概念を形作るものだと理解できる。1995年3月20日に東京で起きた「地下鉄サリン事件」も、2017年1月20日にアメリカ合衆国大統領にドナルド・トランプが就任したことも、我々が「歴史的出来事」と認識するものは、コミュニティー全体が「何が起きたか説明できるけれど、本当に何が起きたのかまだ分からない」現実を共有した日の記録といえるのではないか。「歪み」を共有したのである。何が起きたか本当の意味で分からない我々は、あの日の出来事に常に立ち返り、歪んだ鏡に向き合い、とりあえずの「回答」を出して自分たちを納得させることで「あの出来事からずっと続く今この瞬間」という現実を再定義するのである。歴史とは歴史を「出来事」として捉え、出来事が続く今この瞬間の現実をアップデートする試みなのだ。彼女の一瞬の表情を「幻滅を超えて自分を受け入れてくれた微笑みだ」といま理解するように、1989年9月9日のベルリンの壁崩壊を「東西冷戦時代の終焉」と理解し、またフランシス・フクヤマの言う「歴史の終わり」と理解するとき、我々はグローバル資本主義に惑星ごとすっぽりと覆われた「いまここにある現実」の意味を模索するのだ。

思い出のアルバムフォルダにラベルを貼ったりSNSでいいねを押し合ったりできない「出来事」を共有することは、一見とてもカオスでポストモダン的虚しさを増幅させるようだが、僕はそこに新たな人間存在の可能性を見る。歴史を「過去の遺物」としてアーカイブ化することから救い出す唯一の方法が、出来事として歴史を捉え直すことなのだ。過去のある時点で起きた出来事Aを、現在のB時点に生きる我々がその意味を模索するための「過去からの宿題」として生きるとき、AはBとなる。「過ぎ去ってしまった昔話」が「まだ我々の課題として続いていること」となる。そして、Bにいる我々がAを「いまここにある課題」として生き直すことは、必ずしもネガティブなことを意味するわけではない。911テロしかり、地下鉄サリンしかり、また、この原稿を書いている最中にラスベガスで起きたアメリカ史上最悪の銃乱射事件しかり、出来事を我々の「課題」と捉えるのはそれらが単に「ネガティブな事件」で、後の世代が「解決すべきこと」だからというわけではないのだ。「いやなことがあった過去」が「いやなことが無い現在」になるとか、「汚れた過去」と「きれいにすべき現在」、「ダメ」と「オーケー」、AとB、という単純な二項対立を無効にする「未知の領域」の可能性を生み出すのが出来事なのである。「歪み」が生じた、というのは我々の理解の一番大きな枠組み・世界観が歪むという意味で「今までの枠組みでは捉えられない瞬間」が訪れたこと。つまり「今までありえなかった考え方で挑むべきもの」が目の前に現れたわけである。いわば目の前に広がる無地のキャンバスを我々が共有したということだ。いやむしろ、そもそも無地のキャンバスでしかない現実がその本来の姿を我々の眼前に現した、という方が正しい。そもそも歪んでいた現実そのものが、「ポジティブ・ネガティブ」「良い・悪い」「正しい・正しくない」というルールでコーティングされていたところへ、地殻変動が起きてメッキが剥がれただけである。無地のキャンバスとしてのむき出しの歪んだ現実こそ、我々がそこへ飛び込み何かしらを書き込まずにはいられない吸引力を持つ。

出来事が(1)我々自身のアップデートを可能にし、(2)コミュニティーで共有されるべきもので、(3)歴史を作り出すものであるとして、我々はそれを常に受け身で待つだけだろうか?出来事が「起きる」のを待つだけで、「起こす」ことはできないのだろうか?

今や胡散臭い言葉となってしまった「未来」の概念も、出来事を「世界観の歪み」と捉えるならばその意味が変わってくるだろう。未来とは、企業のCMで垂れ流しにされる「未来へのビジョンを」「イノベーションで未来を」「これからの時代をデザインする」といったコピーで捉えられるようなシロモノではない。3年後の事業計画を立てたり、年収から割り出した30年の住宅ローンを組んだり、最新テクノロジーを使って社会インフラを整備することなどは、「未来」とあまり関係がない。未来は「時間的にこれから先」という意味ではなく、「いまこの瞬間」にむき出しの未知な現実を見出し、それを他人と共有すること、その中に今まで考えもしなかった考えと見たことのなかった光景を見ることなのである。出来事AがBにいる我々のアップデートを可能にするように、今度はBを未知にする、つまり目の前のつまらない現実を「出来事」にすることで、いつか発生するであろうC時点の可能性が開かれる。「いまこの現実」の中に不可思議で多層的な意味を持ち、どれが「正解」か分からない可能性の束をクリエイトすることで、初めて未来が、つまり「未だ到来していないもの」が現れる準備が整うのである。

 

分からないことを達成すること

目の前にある現実が、そのまま未知なものになる。目の前の現実を未知なものにする。そんなことがあり得るのか?アメリカインディペンデント映画の父と呼ばれたジョン・カサヴェテス監督の『オープニングナイト(Opening Night)』(1977)にヒントがある。こんな話。

主人公マートル・ゴードンは舞台女優。新作舞台『第二の女』の地方公演後、彼女は劇場の出口で待ち受けていたファンたちの中でもとりわけ熱狂的な若い女性ナンシーに駈け寄られる。女優に会えた嬉しさに体を震わせ号泣しながら「あなたを愛してる!」と連呼するナンシーは護衛に引き剥がされ、マートルはなんとか車に乗り込む。外は土砂降りの雨。走り出すマートルたちの車を「愛してる!」とずぶ濡れで叫びながら見守るナンシーは対向車にはねられ、死んでしまう。ナンシーの死を知ったマートルはその日から彼女の亡霊に取り憑かれ始める。楽屋の鏡に映る自分の姿がナンシーになり、主演舞台『第二の女』の主人公の保守的な生き方を受け入れることができなくなり、その役柄に「ナンシー的なもの」を取り入れて演じようと悩みだす。マートルは女優として格闘するうち、徐々にその行動がおかしくなっていく。

映画はマートルが自分の演じる舞台『第二の女』と格闘し、どう乗り越えていくかというプロットで進む。劇中劇である『第二の女』とは、離婚を経験した主人公ヴァージニアが、自分が女として年老いていくことに悩み、暴力をふるう現在の夫のもとを去って前の夫(すでに新しい家庭を築いている)を訪れるが無下に返され、最後には老いと現在の夫を受け入れるという話。マートルは女優として女としてこの「すべてを受け入れる女性」をどうしてもそのまま演じることが出来ない。そんな彼女を素直に脚本に従わせようとする脚本家は年老いた女性で、マートルに向かって「あなたの年じゃまだ分からないだろうけど、私ぐらいになれば理解できるわ。この主人公のように受け入れるのよ」と諭す。マートルは(1)主人公ヴァージニアとして老いを受け入れなければならない(2)ヴァージニアとして暴力夫と共に生きるという男尊女卑社会のモラルを受け入れなければならない(3)女優マートルとして、アーティストとして舞台を決められた脚本通りに演じなければならない(つまり、クリエイティブであることを放棄しなければならない)、という3つの抑圧に抵抗し格闘する。

マートルは、死んでしまった熱狂的なファンのナンシーのような、周りが見えなくなるほどの感情のほとばしりに突き動かされる女の姿、死をも恐れず突き進む熱情の姿に3つの壁を打ち破るヒントを得る。徐々に自分がナンシーの亡霊とチャネリングすることに気づくが、同時に現実と舞台の境界線がぼやけ出してしまう。『第二の女』の地方公演で脚本を無視し、暴力夫に殴られるシーンでは舞台の上に倒れいつまでも泣き止まずに「モーリス、こんなことは舞台の上だけにしてちょうだいね」と言う。モーリスとは芝居の中の夫の名前ではなく、それを演じる男優の実の名前なのだ(ジョン・カサヴェテス自身が演じている)。ついにナンシーの亡霊はマートルの中で制御不能な存在となり、マートルの体を乗っ取ろうとする。3つの抑圧を乗り越えるための希望だったナンシーが、結局は4つめの抑圧となったのだ。実体化した(とマートルには見える)ナンシーは彼女に襲いかかり、実際にマートルは顔に傷を負う(おそらく、マートルは妄想の中で自分を傷つけたのだろう)。最終的にナンシーと取っ組み合いの死闘を繰り広げ、マートルはナンシーの亡霊を殺す。

そして『第二の女』はニューヨーク・ブロードウェイ公演の初日(オープニングナイト)を迎える。開演時間を過ぎてもマートルは現れない。観客はざわつき、舞台裏ではプロデューサーや共演陣をはじめ、スタッフたちが慌てふためく。どこに連絡してもマートルが捕まらない。プロデューサーがいよいよ公演のキャンセルを決意したとき、歩くことも出来ないほど泥酔したマートルが現れる。意識が朦朧として一人で立つことも不可能な彼女は、それでも舞台に立ち、舞台袖やセットの裏ではスタッフに脇を抱えられながら、なんとか演技を続ける。舞台はクライマックスを迎える。暴力夫のもとに戻った主人公ヴァージニアが、全てを受け入れる覚悟をする夫との二人芝居。いきなりマートルは脚本とセリフを完全に無視し、夫役のモーリスと即興演技を始め、意味の不明な会話とギャグでそのシーン全てを喜劇にしてしまう。客席からは爆笑の連続。脚本家とプロデューサーの唖然とした顔。誰もが何が起きているのか分からないまま、劇場全体が熱狂にわき、舞台が終わる。楽屋から出てきたマートルは友人や観客たちから祝福を受ける。マートルの笑顔のアップで映画は終わる。

最後の二人芝居のシーンこそ「出来事」である。そこに起きていることの意味が重層的に共存し、どれを取ってみても単独で「正解」として認識できない。マートルは3つの抑圧に抵抗したが、果たして最後に彼女の試みは成功したのか?大人の悪ふざけにも見える即興演技で客から笑いをとることは、果たしてナンシー的な若さと強さを取り込んだ俳優としての達成と言えるのか?確かに筋書きを無視したという意味では「脚本を超えて」いるが、同時に「老い」と「男尊女卑社会」はもはやどうでも良くなったかに見える。しかし劇場の観客は大爆笑と大歓声で受け止める。唖然としていた脚本家まで、最後は笑顔でマートルに微笑むのだ。映画の中でマートルの試みは「成功」している。けれども、この映画『オープニングナイト』を見ている我々にはそれがなぜ成功しているのか理解できない。まるで劇場の一番後ろに座り、よそ見したために一人だけジョークのオチを聞き逃した気分。けれども同時に舞台上のマートルとモーリスの即興演技は実に見事で、絶妙な間の取り合いと鋭い切り返しと巧みな言葉の応酬で映画を見ている我々をも、劇場の客たちとは違った意味で魅了する。当たり前である。マートルを演じる女優ジーナ・ローランズとモーリス役のカサヴェテスは実の夫婦なのだ。つまり、これは「ヴァージニアと暴力夫が喜劇的に和解するシーン」であり、「女優マータルが即興演技のスペクタクルでアーティストとしての創造性を達成し、観客が熱狂するシーン」であり、「取り残された我々にとってマートルがジーナ・ローランズとして立ち現れるシーン」であり、同時に「マータルを演じる女優ジーナ・ローランズが夫のカサヴェテスとあうんの呼吸で現実のパートナーとしての絆を浮かび上がらせるシーン」でもあるのだ。ヴァージニアとマータルとジーナが同時に存在し、3枚のガラス板に別々の絵を描いて重ね合わせたように我々に見えてくる。それぞれが独立したシーンを作り上げているが、どれを取っても「正解」ではない。「正しい解釈」が存在しないシーン。3人の女性は乖離し、同時にその乖離している事件そのものが独特の色を持ち、音を持ち、見る者を惹きつけて離さない不協和音を奏でる。これは「ヴァージニアのシーン」でもなければ、「マートルのシーン」でも「ジーナのシーン」でもなく、同時に3人全てのシーンである。我々は決定不可能な現実を「未知なる現実」としてそのまま体験する。「この映画の中に面白い表現を見る」のではない。映画のこちら側、現実の中に既に存在する「歪み」を思い出すのである。

ジャック・デリダは『テロルの時代と哲学の使命』の中で言う。

The event is what comes and, in coming, comes to surprise me, to surprise and to suspend comprehension: the event is first of all that which I do not first of all comprehend. Better, the event is first of all that I do not comprehend. It consists in that, that I do not comprehend […].

(出来事とは到来するものであり、その到来において私を驚かせ、理解を保留させる。出来事とはまず第一に私が理解しない「もの」である。より正確には、出来事とは私が理解しない「こと」である。出来事は「こと」にあり、私が理解しない「こと」から成っているのである。)

 

マートルが生死をかけた戦いの末にアーティストとして達成したのは、「何だか分からないものの表現」ではない。彼女は、現実こそがそもそも歪んでいるために正解にはたどり着けない「こと」、たどり着けない「事実」を暴露したのだ。「現実」という枠組みの中で何かをクリエイトするのではなく、枠組みそのものをぐらつかせる事件を起こすことで、むき出しの歪みそのものを我々に思い出させたのである。

 

2017年を生きる我々はぼんやりと「時代の閉塞感」を共有し、閉塞感からの突破を渇望している。ハリウッドではお花畑を夢想するようなファンタジー映画と現実のデットエンドを描くディストピア映画が次々と製作され世界中で大ヒット。メディアから聞こえる声はディストピアさながらの罵倒と暴力、それを打ち消そうとする「夢」「希望」「愛」といった砂糖菓子のような言葉の数々。「人々の新しい連帯の形を生むメディア」となるはずだったSNSが嫉妬と扇動と炎上を誘発する最高の道具となる現状。我々が本当の意味で共有し連帯できるものとは「分からないこと」ではないだろうか。ただの「分からないこと」は連帯を生まない。それは出来事(event)であるべきなのだ。「分からないこと」が魅力的になる瞬間を作り上げること、現実を魅力的な無地のキャンバスへと作り変えること、現実が無地のキャンバスでしかないことを魅力的にアップデートすることでしか、連帯は再生されないのかもしれない。「私は無知であることを知っている」と言った者こそ、ソクラテスなのだから。

葛生賢治(くずう けんじ)
1970年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒用後、サラリーマン生活を経て渡米。2000年ボストンカレッジ大学院哲学科修士課程終了。2007年ニュースクール大学院哲学科博士課程終了。ニューヨーク市立大学哲学科非常勤講師を経て、現在東京にて執筆活動中。フリーウェブ雑誌「OUR」チーフエディター。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。趣味は駄洒落づくり。代表作は「オジー・オズボーンの叔父におスボーン履かせてちょうだい」。