楽しく学ぶ倫理学 第13回 功利主義の可能性と限界田上孝一

これまで8回にわたって西洋古代倫理学の歴史をたどってきた。倫理学の原型を確かめるためであった。そして確かに、古の教えはしっかりと現代の倫理学に継承されている。この成果を踏まえて、これからは現代の倫理学について論じていきたい。先ずは現代において主要な倫理学上の立場とされている諸学説について、解説する。

 

倫理学の分類

現代の規範倫理学では、功利主義・義務論・徳倫理学が有力な立場とされているが、これらについて解説する前に、そもそも「規範倫理学」とは何なのかを説明する必要があるだろう。

規範とは為す「べき」価値であり、善である。その意味で倫理学とはそもそも規範の学であり、「規範倫理学」というのは「頭痛が痛い」的なくどい表現ともいえる。それなのに規範倫理学という用語が確立したのは、旧来の倫理学では省みられなかった問題意識が、現代に入ってから明確になってきたからである。

一つは「メタ倫理学」という観点である。

通常、倫理学は人間がどう生きるべきかや、望ましい社会や国家のあり方を考察する。そのためその理論の主要内容は、人間や社会についての具体的な提言である。しかしこれに対して、そもそも倫理学とは何かという問いがありうる。いわば、何かに対して倫理的な提言を行なっている自分を上から見て、自分のやっていることはそもそも何なのかと問うわけだ。つまり、普通の倫理学が人間や社会に対する倫理的な問いなのにたいして、メタ倫理学はこれを「上から」(メタに)反省する試みであり、倫理学という学問それ自体がどういう知的営みなのかを問おうとする学問分野である。

倫理学という知的営みそれ自体が何なのかと問おうとすると、直ちに気がつくのはそれが「善い」「悪い」「べき」といった、規範的な価値を表す言葉を用いることである。そこでメタ倫理学は自ずとその主要な内容が価値語への言語分析、倫理的言語活動への言語哲学的分析ということになる。

言語活動が人間の生活の基本的な前提条件であるために、言語哲学というのは哲学の中でも特に重要な一分野である。そのためメタ倫理学も倫理学の重要な一分野であるが、その踏み込んだ議論は直ちに入門的な領域を超えてしまう。そこで本講座では、善とは何かといった、どうしても取上げなければいけない問いを概観するという形で、最低限の初歩的な議論に留めてある。

もう一つは、応用倫理学である。

これは特に生命倫理学に典型的に見られるように、医学の進歩が新たにもたらした現代的な問題を、最新の科学技術の知見を用いて、適切な規範的判断を与えようというようなアプローチである。例えば脳死は人工呼吸器が前提であり、人工呼吸器がなければ脳死もありえない。つまり昔の哲学者や倫理学者のまったくあずかり知らない事態である。そのため、古典をいくらひもといても、脳死に対する直接的な回答は得られない。温暖化をはじめとする地球環境問題も、かつては想像だにできないことであり、直ちに古典から答えをえることはできない。こうした現代ならではの問題を考えるのが応用倫理学である。

では逆に、こういう応用的な問題に対しては哲学や倫理学の古典が無力かというと、決してそんなことはない。倫理学の主題は常に人間がなすべき規範やあるべき社会のあり方の提起である。人間の生活や社会のあり方は技術進歩により過去から大きく変化したが、人間の基本的なあり方自体は、さほど変化していない。これは何よりも人間の身体構造自体が急激に変化するものではないということが前提になっている。

一万年という時間は人間の文化にとっては途方もない歴史であり、現在の生活は一万年前とは著しく異なっている。しかし生物種としての人類にとっては、一万年はDNAの構造を大きく変えるのには短すぎる期間である。一万年前の祖先も我々も肉体的には大差ないということである。我々の肉体は常に飢えの危険にさらされ、激しく体を動かし続けることで生きるしかなかった狩猟採集時代のままである。そのため現代では、肉体労働に従事してない場合は、意識的に運動をしないと肥満になり、成人病を招いてしまうのである。我々の体はオフィスワークには適していないのである。

そして肉体のみならず、我々の精神のあり方も、文明の進展ほどには激変していない。現代社会と古代ギリシア社会は大きく異なるが、古代人と我々の心のありようは、相互理解が不可能なほど離れてはいない。奴隷がいて当然だという古代人の常識を我々は共有しえないが、友情を重んじ、勇気や誠実さを大切な徳目に数えるのは、古代人も我々も同じである。ましてや近代ともなれば、ストレートに我々とつながる議論が展開されている。つまり哲学や倫理学の古典は、現代ならではの応用的な問題を考える上でも、その基本視座となりうる可能性があるということである。というよりもむしろ、応用的な問題に対して確固とした規範的判断をおこなうためにこそ、古典的な議論を援用する必要がある。そのような古典的な議論が、現代においても規範倫理学の主要な立場を形成しているということである。

こうして倫理学は本来規範倫理学であるが、現代においてメタ倫理学と応用倫理学が分化することにより、元々の倫理学の分野を規範倫理学という形で分離して表現するようになっている。しかしこれまでの説明からも分かると思うが、これらはきっぱりと区別されて独立に存在しているものではなく、相互に関連して倫理学という全体を構成している有機的な区分であり、その意味ではこれら三つの区分はあくまで便宜的なものだともいえる。これが倫理学の基本的な分類である。

 

功利主義の可能性

こうして倫理学はメタ倫理学を前提に、アクチュアルな問題を扱う応用倫理学が現代において大きく展開しつつも、その中心が規範倫理学にあるということになるのだが、現在規範倫理学の代表的な立場の一つと目されているのが功利主義である。では功利主義とはどのような考えなのか。先に若干その内容を示唆したが、ここで改めてもう少し詳しく説明したい。

まず、規範倫理学というのは、人間がなすべき行為の原則を考える学問である。功利主義はこの問いに対して、功利原則が答えを与えると主張する。功利原則とは、物事は功利的であるのが善であり、不利であることが悪であるとする原則である。だから人間は功利性を追求すべきだし、功利性の追求により人間は幸福になれる。幸福実現を目的に、いかに有利な行為を為すことができるのかを探求するのが、功利主義にあっては倫理学の役割ということになる。

そうなると、幸福であるとはどういうことなのかが問題になる。人間にとって何が幸福なのかは多種多様であり、一概に言えるものではないというのが常識的な見方だろう。実際、傍目には十分過ぎるくらいに恵まれているように見える人が自殺したりする反面、いかにも不幸そうな境遇の人がたくましく生き延びたりもしている。幸不幸は気持ちの持ち方次第で、人の気質は各人多様なので、何が幸福であり、どうすれば幸福になれるかという一般化は不可能だという考えも成り立つ。

確かにどんな理論であっても、必ず万人が幸福になれる方程式にはならないだろう。あくまで近似的に、こうすれば他の理論よりも多く、可能な限り最大限の人々に幸福になる方法を示せるということまでが、倫理学の為しうることだろう。功利主義が目指すのも、この範囲での議論だと思われる。

では功利主義は幸福とは何であり、どうすれば最大限多くの人が幸福になれるのかと説いたのか。

この場合、最初に功利主義を倫理学説として体系化したジェレミー・ベンタム(ベンサムとも。どちらが正しい日本語表記かは、定説がない)が、我々が先に学んだ古代倫理学説の一つであるエピクロス学説を踏襲して、快楽を基準にしたのは、ごく自然なことだったと思われる。

ベンタムは苦痛と快楽のみが、我々を支配する原理だとする。我々は常に苦痛を避け、快楽を求める。これが人間のみならず、動物にとっても基本的な原則である。だから快楽が善であり、苦痛が悪である。快楽よりも苦痛が多ければ我々は不幸だし、快楽が多ければ、幸福である。人間や動物は幸福を求めるのが自然であり、幸福は追求されるべき善である。だから、いかにすれば快楽を増やし苦痛を減らして幸福を増進することができるのか、功利主義からすると、これを考えることが倫理学の目的になる。

またベンタムによると、快楽を高めて幸福を追求できる有用性(功利性)を善だとする功利原則は、個人の行動原理だけではなく、政府の統治原理でもあるとする。政府の統治を乱すのは犯罪者である。犯罪者は他の人々に危害を与え、苦痛を与えることによって悪を為した人々である。だからその報復も、与えた分と釣り合うように苦痛を与えるという形で行なわれる。刑罰の量刑のためには、苦痛と快楽の量を推し量って、計算する必要がある。このような「快楽計算」こそ、ベンタムの唱える功利主義の中心的な内容となる。

統治のためのみならず、個人の行為一般でも快楽計算が基本的な行動方針になる。我々は常に自分の行いの快苦を計算して、結果的に快が最大になるように行為すべきである。それが人生の目的である幸福を実現する最善の方法だからである。

もちろん快楽計算が正確にできるはずはない。あくまでおおよその類推であって、概算でしかない。しかし我々は通常、物事を損得勘定で考える。短期的には苦痛でも、長期的に快が大きければ、敢えて我慢もする。受験勉強は苦痛であるが、合格後の快が現在の苦痛を上回ると考えるから、敢えて努力をするわけだ。逆に言えば、このような計算を一切することなしに行動するのは、極めて危険なことだといえる。「計算高い」というと打算的にしか物事を考えないというように、非難めいていわれることが多いが、しかし損得をしっかり勘定するのは、生きていくうえでとても大切なことである。

功利主義はまさに、我々が日常的にごく自然におこなっている心の働きでありながら、それをはっきりと明言するとさもしい人間に思われるのを恐れてしまうような本音を、率直に行動の基本原理として認めるわけである。そして功利計算は人間の本性に根ざした自然な心の働きであるがために、人間はこれを追及すべきだという規範にまで高めるのである。人間は個人的にも社会全体でも、快楽と苦痛の損得勘定を行い、快楽が最大になって結果的に幸福になる功利的な行いを為すべしである。これが功利主義の基本的な考え方である。

このような考え方には直ちに反論が起きよう。それは自分さえよければいいというエゴイズムではないかと。

確かに功利主義の基本は自分自身の効用であり、自分がいかに幸福になるか、どれだけ効率よく自分に有利な振る舞いができるかということであり、エゴイズムといえばエゴイズムである。しかし、では功利主義はひたすら利己的にのみ振舞うことを薦めるかといえば、決してそうではないのである。

プラトンの主著『国家』の中に、ギュゲースの指輪の話が出てくる。姿が見えなくなる指輪があれば、何でも好き放題ができるのではないかという話である。この話が意図しているのは、報復を受けることなく一方的にやりたいことができても、なお悪事を働くべきではないのかという問いである。ソクラテスは良心に訴えて、報復される可能性がなくとも悪事を働くべきではないとした。しかし功利主義ではそうはならないだろう。功利主義では内面的な良心というのは二義的な要素に過ぎない。外的な結果が全てである。だからもしギュゲースの指輪があれば、それを使ってエゴイズムを満たしてはいけないという理由はない。

だが幸いなことに、報復されることなく悪事をおこなえる可能性は、まさにギュゲースの指輪が御伽噺であるように、実際は全くありえないのである。現実の世界では、独裁者にでもならない限り、好きなようにエゴイズムを満たすことはできない。独裁者や大金持ちのような少数の例外を除くと、大抵の人にとって傍若無人に振舞うことは、自分の信用や評判を落とすことにつながり、結果的には損をするのである。独裁者や大金持ちにしたところで、取り巻きの機嫌をとり損ねることは寝首をかかれる危険を生むし、商取引のルールを無視することは、財産を没収されることにもなりかねないのである。

つまり、自分の利益を最大化しようとするとき、他者に対する戦略として有利なのは、長期的には利己主義よりも利他主義なのである。相手がして欲しいことをおこなえば、やがて相手も自分のして欲しいことをしてくれる可能性が高まる。これに対して、あくまで利己的にのみ振舞うことは、短期的には欲望が満たされるかもしれないが、長い目で見るとしっぺ返しを食らう公算がある。だから功利原則を追求すると、一見そうであるように利己主義ではなく、利他主義が基本的な行動原則になるのである。まさに「情けは人のためならず」である。自分のためにこそ、利他的に振舞うのである。

このような功利主義の考えは、エゴイズムが人間の本性であることを素直に認めたうえで、だからこそ利他的であることが大切だと説くのである。もちろんこのような利他主義は「動機が不純」だという批判があるだろう。しかし功利主義では基本的に行為の動機は問われない。原則的に行為の結果によってのみ、善悪を判断するのである。

このような功利主義の考えに、大きな理論的可能性があるのは自明である。まず何よりも、規範に対する首尾一貫した論拠を与えることである。自分の快楽を満たして幸福になりたいのが人間の本性なのだから、本性に素直に従って追求すべきである。また、人間は基本的に同質であり、自分も他人も快楽を求めて幸福を追求するという本質において同一である。従って利己的に振舞って出し抜こうとしても、手痛い報復を受ける。むしろ利他的に振舞って他者の幸福を追求することが自己の幸福につながる。だから求められるのは自分だけの幸福ではなく、「最大多数の最大幸福」なのである。全体の一部としてのみ、自己の幸福は安定したものになる。

つまり功利主義は、自分の幸福という利己的な原理に基づいて、実際には利他的な行為、普通の意味での善行を薦めるという理論構成になっている。倫理や道徳のことを説教臭く感じる人が少なくないようだが、そのような人々は道徳的説教が人間のエゴイスティックな本性を無視した偽善だと考えることが多いようである。まさに功利主義はそのような反論から逃れている。一見反道徳的なエゴイズムこそが善行の原理となるとしているからである。このような功利主義に大きな説得力を感じる人は少なくないのではないだろうか。こうして功利主義には倫理学理論として大きな可能性があり、現在において規範倫理学の最有力な立場の一つに数えられているのも、無理がないといえよう。

 

功利主義の問題点

このように、功利主義は何よりも自分自身の幸福を追求したいという、人間の自然な本性と思われるものに根ざして、その延長線上に為すべき規範を構想しようとする倫理学説である。そこには無理や作意がない。あくまで人間の自然な傾向性に従おうとする学説である。こうした功利主義に大きな説得力があるのは自明である。しかし功利主義は決して完璧ではない。多くの疑問が提出され、問題点として残っている。

功利主義はこれを最初に体系化したベンタムにおいては、何よりも快楽主義的な教説だとされる。快楽が善であり、苦痛が悪である。快苦を計算し、長期的に快楽の総量を増やす方策が、最も役に立つ功利的な規範選択ということになる。ということは、倫理の問題は全て快苦に還元され、ただただ快楽であることが幸福であり、望ましい状態ということになる。

快楽主義それ自体は古典的な学説であり、古来より様々に批判されている。プラトンは快楽主義に対し、もし快楽が善ならば、かゆいところをかき続ける者は幸福ということになると批判した。現代ではより洗練された批判として、ロバート・ノージックによる「経験機械」の思考実験がある。

これは「マトリックス」のようなSF作品でお馴染みのテーマだ。そこに入れば望みの人生が送れ、快楽が最大になるような機械が開発されたとする。だとしたら功利主義的に最善の人生とは、経験機械の中でまどろみ続けることということになる。これは明らかにおかしいという批判である。確かにいくらその中で最も満足できる人生が送れるとしても、経験機械につながれたまま生涯を終えようとする人はいないだろうという話である。

さて、この批判に対して、功利主義としてはどう応えることができるだろうか。一つには、経験機械の中の人生で何ら問題はないという対応である。それらが全て虚構であっても、実感として楽しめればいいのではないか。しょせん人生は気晴らしだと達観すれば、楽しく過ごせる経験機械は最善ということになろう。さらに、まさに映画さながらに機械に入った後に入ったこと自体を忘れるように操作されれば、本人にとっては最後まで現実として体験できるのである。だとしたら経験機械の思考実験は、何の批判にもならないと反論することも可能である。

しかしこのような反論は余りに特殊で、広く説得力を持つのは不可能だろう。やはり我々は虚構ではなく現実に幸福になりたいのであり、現実に幸福になるには実際に手足を動かして活動し、社会の一員として生きることが前提だと考えるのが、大多数の意見だろう。このような常識からすれば経験機械は望ましくなく、経験機械を批判できない功利主義は間違っているということになる。

しかしこの場合でも、功利主義は批判を回避できる。ただし今度は前提である快楽主義を放棄し、快楽以外の原理に功利主義を基づかせる必要がある。そこで提唱されているのが選好功利主義である。

選好とは、選択可能な選択肢で、より好ましい選択を意味する。簡単にいえば、したいことである。したいことがかなうのが、選好充足である。選好功利主義とは、快楽ではなく選好を基準とした功利主義である。快楽ではなく選好を最大化するのが功利性の基準である。経験機械は確かに快楽を最大化するかもしれないが、これに入りたくないのならば入らなくてよい。快楽ではなくてしたいことを基準にする功利主義ならば、したくないことはしなくていいし、したくないことを無理にさせられる場合は、たとえその結果において快楽が増大するとしても、功利性が低下すると考えるからである。

このような選好功利主義ならば、ベンタムのような古典的な快楽功利主義の難点を回避できるが、今度は快楽功利主義にはない新たな問題点が生まれる。

快楽功利主義の場合は、近似的ではあるが、快楽と苦痛を足し引きして計算することができる。しかし選好の場合は質的に異なるので、各選好の総和を計算することはできない。計算できるのは基本的に同一の選好に限られる。これでは快楽計算のように行為や政策の基準にすることが難しい。たしかに選好であっても充足の機会を最大化するという方針を取ることができ、選好充足の最大化というのが功利性の基準になる。しかしこれだと個人的な行為の指標にはなりえても、刑罰の基準や政策の目標にはならないだろう。その意味で、選好功利主義は個人的な倫理学説ではありえるが、ベンタムが功利主義に求めたように、統治の原理にすることは難しいだろう。

もっとも、倫理学は元々、個々人の人生の指標になることを目指すのだから、別に国家運営の原理にならなくても問題ないと考えることもできる。むしろ古典的な功利主義のほうが、理論の射程を不当に広げすぎているとみることもできるわけだ。こう考えることができるとすれば、選好功利主義はかなり優れた倫理学説ということになろう。

功利主義が快楽主義である点への批判は、選好功利主義という立場を取ることによって防ぐことができる。しかし功利主義に対しては、それが帰結主義だという面に対しての批判もある。行為の動機や行いの内容ではなく、結果によってのみ善し悪しを判断する。目的は重要だが、手段は重要ではない。だとしたら、よき目的のためにはどのような手段も正当化されるのか、目的のためには手段は選ばなくていいのかという批判である。

功利主義は社会全体の幸福を目標とするため、個々人を均質なものと見なす。もちろん実際には個々人は性別や体力、社会的な地位や貧富の別、学歴や教養の有無というように大きく異なるものだが、人間であるという点では同一である。功利主義では個々人の多様性は各人の普遍的な共通性を凌駕するものではないと考える。だから、各人はどんなに異なっていようとも、人間という意味では一人であり、二人分や三人分の重みを持った個人がいるとは考えない。この点で、極めて平等主義的な考えだといえる。現在の我々からすれば当たり前に見えるが、ベンタムが生きた身分制社会の中では実に先進的な思想であった。

このことはまた、人の命もまた等しく計算に入れられるということをも意味する。一人の命はきっちり一人分で、二人や三人より重いということはない。「人の命は地球より重い」というのは、功利主義からすれば馬鹿げた偽善である。人の命の集合体が一人の命より軽いはずがないからである。

この点で、功利主義はよくある問題設定、いわゆる道徳的ジレンマとされるものに明確な答えを出すことができる。人の命が懸かっている場合は、できるだけ多くの命を救うのが善だというように。「一人でも犠牲を出してはいけない」といって思考停止するのではなく、できる限り犠牲を少なくする、5人よりも3人、3人よりも一人というように、数が少ないほうが善である。それだけ不幸が小さいということになるから。

しかしこの考えだと、どんな時でも犠牲が少なければいいのかという疑問が出てくる。例えば次のような例が出される。ある死刑囚がいて、非常な凶悪犯として民衆が死刑執行を熱望して狂乱状態にある。ところが土壇場になって真犯人が現れた。当然この死刑囚を釈放しなければならないが、死刑を待ちわびる民衆が釈放を知ったら暴動が起きて多数の死者が出るのが必至である。この場合、敢えて無実を知りながらも死刑を執行すれば暴動による犠牲者が出なくてすむ。だとすると、純粋に帰結から判断すれば、死刑を執行すれば犠牲になるのは一人で、しなければ多数なのだから、執行するのが正しいということになる。しかしこの結論は、無実の者を処刑するという、我々の道徳的直観に激しく反する。常識的には「とんでもない」という話だろう。

では功利主義はこの反論にどう対応すればいいだろうか。一つには理論ではなく常識のほうを問い質すという方向である。どんなに我々の常識に反しようとも帰結主義という立場からは、多数を犠牲にしていいという話にはならない。確かに無実の人間を死刑にするのは悪だが、多くの人間が死ぬのはそれ以上の悪である。死刑執行はやむをえないと考えるわけである。

ここで問題になっているのは、「正義」という考え方である。無実の人が処刑されるのは正義に反するのは確かだろう。この場合、正義は結果がどうあろうとも守られないといけないと見なされる。結果的な損得と関係なく守られるべきなのが正義というわけだ。たとえ暴動が起きて結果的に多数の死者が出ようとも、無実の者が処刑されるのは正義に反することであり、正義はどんな場合でも守られるべきだという考えである。

功利主義はこのような、結果に左右されない正義を認めないのである。あるのはただ結果的な功利性という基準であって、原則的に守られるべき正義など認めないのである。我々は結果的な有効性と結果にかかわらない正義のどちらも大切だという直観を持っているため、これら二つがぶつかる場面ではジレンマを感じる。しかし功利主義は本来、結果にかかわりない原則的な正義を認めない思想である。だから無実の者が殺されるのは不正だという直観に囚われずに、正義ではなく帰結のみによって判断すべきだということになる。

これが功利主義的には首尾一貫した批判への対応だと思われるが、しかしこれはまさに一般的な常識と真っ向から対立するため、説得力の希薄な立論になってしまう。倫理学は論理的に一貫することが大事だが、世間に広く受け入れられて実践されていくことも大切である。この意味で、正義を無視する立場は、功利主義といえども適切な道ではないという考え方もある。そこで今度は、あくまで原則に基づいて死刑囚を釈放すべきだということを功利主義的に説明することになる。このような場合は一般に、次のように説明されると思われる。確かに死刑囚を釈放することは、この限りでは功利原則に反するが、しかし何もかも損得でのみ考え正義を重視しない社会は、正義を重んじる社会と比べて不安定で、長期的にはむしろその社会の住人の幸福を低下させる。正義を重視することは短期的には功利原則に反する場合があっても、長期的にはむしろ功利原則にかなっているのだという反論である。

確かにこの説明はもっともらしいが、本当にそういえるかどうかは確かめようもない。あくまで希望的観測である。また、ならば別に功利主義である必要はなく、正義を基本とした倫理原則を採用すればいいのではという疑問もぬぐえない。そう考えることもできればそう考えないこともできるという程度の説明ではないかと思われる。

結局功利主義は、功利原則と正義のジレンマを説得力のある形で解決するのは難しいように思われる。しかしこれは功利主義に限ったことではない。どの倫理学説も完璧ではなく、同じように回答不能な問いがあるということである。この学説だけは一切のジレンマが生じず、全ての疑問をはねつけられるという万能理論などない。結局それぞれの立場が抱え込まざるをえない問題を見据えながら、自分の納得する学説を選び取るという方向しかないと思われる。

田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)