ロックと悪魔 第10回 文学作品の中の悪魔1- 17世紀キリスト教叙事詩事情黒木朋興

前回は、トリエント公会議以降、カトリックとプロテスタントにおいて悪魔の扱い方に違いが出たことを解説した。今回は、その違いが文学作品にどのように反映しているかを見てみたい。

キリスト教叙事詩とは

J.B.ラッセルも挙げていたように、プロテスタント圏において悪魔文学の金字塔となったのがジョン・ミルトンの『失楽園』(1667)である。これは旧約聖書にあるアダムとイヴが、神に食べることを禁じられていた禁断の知識の樹の果実を悪魔=蛇の誘惑に乗って口にしたことによりエデン=楽園を追放された話をもとに書かれた叙事詩、つまり聖書の話に基づく二次創作ということになる。

現在では物語というと小説というジャンルがまず思い起こされる。しかし西洋の伝統では物語とは小説のような散文ではなく、叙事詩という韻文で行うことが正統であったことをまず確認しておきたい。

なお、カトリックの世界で正統とされきたウルガータ版の聖書は散文で書かれている。また、想像の産物である物語とは違って、聖書の内容は18世紀まで史実と見なされてきた。そして物語は韻文、すなわち詩で書かれたのである。この詩とは、現代の意味での文学と同等のものだと言って良い。

このように聖書(=史実)を資料に物語を詩(=文学)として紡ぐ二次創作は、キリスト教叙事詩と呼ばれる。まさに、ミルトンは聖書に登場する悪魔という存在を魅力的に描き直すことによって、悪魔文学の金字塔ともいうべき作品をものにしたのである。

フランス新旧論争

対して、カトリックの世界においては、トリエント公会議以降悪魔表象を控える傾向が生じたのは既に述べた通りである。更にフランスでは、キリスト教叙事詩自体を冒涜とみなすような動きがあったことを指摘しておきたい。

それはルイ14世の宮廷で起こった新旧論争において表出する。新旧論争とは、古代ギリシア・ローマ文明は素晴らしかったというラシーヌやボワローなどの古代派とルイ14世治下の現代の方が優れているというペローやフォントネルなどの現代派との論争であり、ペローの詩『ルイ大王の世紀』がその契機となったとされる。

この新旧論争の争点の一つがキリスト教叙事詩であったことを指摘しておきたい。フランスでも17世紀中頃より聖書や聖人伝を題材とするキリスト教叙事詩が書かれ始める。ペローも1686年『聖ポーラン』を発表している。対して、古代派のボワローはこのキリスト教叙事詩というジャンル自体を批判するのである。以下、具体的に見てみよう。

 

敬虔な主題と世俗的な主題

まず、ペローの『聖ポーラン』の序文から引用する。

 事実、敬虔な主題というものは世のほとんどの人に対して世俗的な主題と同じだけの魅力を持たない。その世俗的な主題の対象というのが嘲笑や恋愛であったとしてもである。というのも世俗的な主題に関してほぼすべての<詩>は今日ではもはやほぼこれらの題材しか取り扱わないからである。実際、中傷の悪意や更には読者の悪意のおかげで作品が好評価を博したり、その作品が喜びを与え賞賛を浴びたりするのは信じがたいほどである。同じことが恋愛詩や甘美で情熱あふれるこれらの演劇作品に関しても言える。これらの演劇作品においては、それらがいかに精神的に深く創意工夫に富んでいようと、題材自体の娯楽的要素と観客の安易な姿勢によって、これらの作品の上演の際に得られる喜びの半分以上が決まってしまう。

ここで言う「敬虔な主題」に基づいて書かれた作品こそがキリスト教叙事詩であるが、それに対して「世俗的な主題」といったものが挙げられている。そしてその中に分類される「嘲笑」と「恋愛」とは、それぞれペローの論敵である古代派ボワローとラシーヌのアレゴリーであることを指摘しておく。ここでのペローの主張は、現代の文脈であるならばさしづめ、高尚なテーマを掲げる純文学の作家が、圧倒的な数の読者に支持される娯楽小説に対して苦言を呈しているようなものだと言えよう。詩(=文学)は本来格調高い主題を扱わなければならず、嘲笑や恋愛のような世俗的な主題は単なる娯楽作品に過ぎないというわけだ。

だが、事態はもっと複雑である。ボワローが低俗な主題を推奨しているわけではないからである。そうではなく、<神>に関わる「敬虔な主題」は詩(=文学)の領域でやるべきではない、というのが彼の主張なのである。彼の『詩法』から引用してみよう。

虚構の罪深い混淆は、
福音書の真実を神話のようにしてしまう。

有り体に言えば、詩(=文学)は神話のような虚構を扱うべきであり、「福音書の真実」を取り上げてはいけないということだ。

神話/fable、虚構/fiction、文学

ここで神話(=fable)と虚構(=fiction)について述べておく必要があるだろう。実は、この二つの言葉の語源は同じなのである。神話と言うと、神に関する話であるような印象を与えるし、そうであれば聖書も神話の一種であると多くの人は思うだろうが、聖書は本来の意味から言って神話ではないことに気をつけたい。18世紀に至るまで聖書は史実と見做されていたのである。対して、神話とは神に関する作り話、つまり虚構(=fiction)ということになる。

現在のフランス語で神話を意味する言葉は「mythe」だが、この語は19世紀になって登場したものに過ぎない。では17世紀において神話のことをなんと言っていたかというと「fable」である。この言葉が「寓話」という意味を持っていることに注意したい。寓話と言えば、イソップ寓話のそれであり、ルイ14世の臣下の一人であるラ・フォンテーヌも「北風と太陽」や「セミとアリ」などで有名な『寓話』(1668年)を上梓している。日本ではむしろ「アリとキリギリス」の話として有名だが、これは昆虫の生態という観点から見れば真実ではない。しかし、アリは働き者、そしてセミ/キリギリスは怠け者といった人間のアレゴリーとして機能しており、これは人間を昆虫に置き換えることによって、人間社会の真実を描いている物語だと言える。あるいは、人間社会の真実を作り話、つまり虚構(=fiction)を用いて表現しているということでもある。ギリシア神話に関しても同様だ。つまり、火の馬車に乗って地球の周りをまわっているとされる太陽神アポロン自体は架空の存在に過ぎないが、その架空の存在を用いて太陽の運行という真なる現象を表現しているということなのである。様々な人知を超えた自然現象を神格化し信仰の対象としたのが神話であるならば、それは確かに真実に基づいているものの、ゼウスなりアテナなどという神々の存在自体は虚構ということになる。語源に関して言えば、古代ギリシア語で作り話という意味の「mythos」から「mythe」が、そして古代ラテン語の「fabula」から「fable」が派生したことを言い添えておく。

現代的なキリスト教と古代世界の神々

ここで新旧論争の文脈に当てはめてみれば、現代派の「敬虔な主題」というのは聖書や聖人伝などの題材であるのに対し、古代派の「世俗的な主題」は神話=虚構=作り話ということになる。現代派のペローの主張は明快である。キリスト教叙事詩はその伝える意味内容がキリスト教の教えに基づく「敬虔な主題」であり、正しいからこそ好ましいのだというわけだ。あるいは、詩(=文学)が扱うべき主題を正しく選択したことが正当性の大きな根拠となっているとも言える。対して「世俗的な主題」を扱う古代派の主張は、キリスト教の<神>に対して異教である古代世界の神々を持ち上げているように見えるし、ルイ14世の治下よりも古代の方が良い時代であったと言っているようにも見える。そうであれば、<神>に対する冒涜ということになるし、王に対する不敬ということになるだろう。

もちろん、ルイ14世の臣下であるボワローがそのような態度を取れるべくもない。ボワローは「福音書の真実」を尊重していなかったわけでは断じてないのだ。それどころか、<神>を崇めるが故にキリスト教叙事詩に対して否定的な態度を取っていたと言える。彼の主張は、「福音書の真実」を題材にして軽々しく二次創作をすることは<神>に対する冒涜に他ならない、というものだ。詩(=文学)はあくまでも作り話、つまり虚構(=fiction)を扱うものであり、そこで聖書や聖人伝などの史実を語るのは「真実」をねじ曲げる行為だというわけだ。

また、キリスト教徒であるボワローが古代の神々を信仰していたということもあり得ない。彼は古代の神々をあくまでも実体を欠いた空虚な装飾と見なす。例えば、以下の詩句を見てみよう。

神話は精神に多くのさまざまな楽しみをもたらす。
そこではあらゆる名が幸いにも詩句のために生まれたようだ。
ウルクセス、アガメムノン、オレステス、イドメネウス、
ヘレネ、メネラオス、パリス、ヘクトル、アイネイアス。

ここでは神々の名が「詩句のために生まれたようだ」と言っているわけだが、それはちょうど神話が史実あるいは真実に基づかない作り話あるいは虚構(=fiction)であるように、名のみで実体がない存在だということだ。それでもその名は発音してみると非常に心地よく響くので、事実に基づかない詩(=文学)にとっては格好の素材だということになる。ペローは神の実体を空虚な装飾と見なすことは神への冒涜であると考え、ボワローはそのような装飾の場である詩(=文学)においてキリスト教の<神>を扱うことは不敬だと考えたのである。

カトリックとプロテスタント

まとめてみよう。ペローは聖書や聖人伝など「敬虔な主題」こそが詩(=文学)の題材として相応しいと考えた。対して、ボワローは詩(=文学)とはあくまでも作り話の世界であり、そこでの題材としては神話つまり虚構(=fiction)こそが相応しく、史実である「福音書の真実」を扱うことは<神>に対する冒涜になり得ると考えたのである。

ここで焦点となっているのが二次創作の問題である。プロテスタントにおいては聖書の話を基にして自分なりの物語を執筆したり、新たなる楽曲を賛美歌に組み入れたりすることが割合自由にできたことは既に述べた通りである。神から人間に与えられるものは言葉だけであり、芸術は信仰を深める契機となればそれで十分であると考えられたからだ。対して、カトリックにおいては聖書や聖歌は神から与えられたものであり、そこに手を加え改変することは不敬である、と考えるのだ。

以上のことを踏まえれば、プロテスタント圏においてキリスト教叙事詩が盛んに作られ、その中で悪魔を魅力的に描いた作品が登場したのも当然の成り行きであったと言えよう。もちろん、カトリックのフランスでもキリスト教叙事詩に手を出した詩人はいたし、古代派である戯曲家ラシーヌは代表作こそ古代ギリシアを題材にした悲劇ではあるが、最晩年に『エステル』と『アタリー』という聖書を題材にした悲劇を発表している。にも関わらず、カトリックの国であるフランスでは、聖書や聖人伝の二次創作であるキリスト教叙事詩や聖悲劇を好ましくないと主張する声があったということは、カトリックとプロテスタントの違いを理解する上でも重要な逸話であると言えるだろう。

黒木朋興(くろき・ともおき)
[出身]1969年 埼玉県生まれ
[学歴]フランス国立メーヌ大学博士課程修了
[現職]上智大学/東京電機大学等 非常勤講師
[専攻]フランス文学 比較修辞学 大学評価
[主要著書]『3・11後の産業・エネルギー政策と学術・科学技術政策』, 日本科学者会議科学・技術政策委員会編(共著 八朔社、2012年),『グローバリゼーション再審ー新しい公共性の獲得に向けてー』(共編著 時潮社、2012年),『〈国語教育〉とテクスト論』(共編著 ひつじ書房、2009年), Allégorie(共著 , Publications de l'Université de Provence, 2003)