アゴラまでまだ少し 第10回
二つの顔のミステイク葛生賢治

世界の崩壊アンダーグラウンド

 

ある朝、東京の地下鉄に乗っていた。平日ではあったものの、通勤ラッシュのピーク時は超えていたのでそれほど混雑はしていなかったが、それでも車内はそれぞれ乗客の肩が軽く触れる程度に混んでいた。

いきなりどこからともなく男性の怒鳴る声。

「怒鳴る」というよりは「わめく」という方が正しいような、常軌を逸した大声で誰かを罵っている。振り向くと、僕の近くに座っていた学生風の青年に向かって、その前に立つサラリーマン風中年男性が罵声を浴びせ続けていた。耳まで真っ赤にして、人がここまで大声で他人を罵る姿を見ることはそうそうないだろう、というほどの強烈な怒り。座っていた青年の膝に乗っていたマックブックが、前に立っていたその中年男性の足にあたるくらい前に出ていたらしい。マックが足にあたると注意した中年男性に青年が口答えした(おそらく「そっちが下がればいいだろう」というような返答)のに対し、男性が激昂したということが分かってきた。「周りのことも考えて電車に乗りやがれ!この車両は日本で一番古い型だから狭くできてるんだよ!あ?分かってんのかゴラァ!電車の乗り方ぐらい教わってから来い!さっきの勢いはどうした?あ?何か言ってみろゴラァ!」ついには青年の後ろの壁を拳でバンバン殴りだした。「あぁ!?分かってんのかよゴラァ!」青年はおろか、乗客の誰もが唖然としていた。「怒る」というより「壊れる」という方が正確かもしれないと思わせる様子。数分後に僕が電車を降りたときにも怒号はまだ聞こえていた。

ニューヨークに10年以上暮らしていた僕には、本来なら日本人の車内マナーは世界一に思える。皆さん本当にお行儀がよろしい。ニューヨーカーのように車内でピザ食べたり隣の車両まで聞こえるほど大声で話したり、いきなり音楽に合わせてブレイクダンスやポールダンスを始めて乗客からチップを受け取ったり、なんて人は絶対にいない。僕は実際にあちらの地下鉄車内でテナーサックスを思いきり吹いているおじさんに出くわしたこともある。デタラメに大音量でサックス吹いて「これ、うるさいだろ?俺に吹くのをやめさせたければチップくれ!」と言っていた。日本では絶対にありえない。この世に「神はいない」「絶対なんて無い」と言う人だって、日本の地下鉄で乗客の耳元でサックス吹くおじさんには「絶対に」お目にかかれないという意見には同意するだろう。でも、上に書いたような事件が起きた。驚いたことに、僕には何故かこれが本当に「異常な」現象だとは思えなかった。ある意味、これこそまさに日本社会そのものなのではないか、とさえ思えたのである。道にはゴミひとつ落ちておらず、電車やバスの中ではみな一斉に無言でスマホをいじる。他人を押しのけて車内に入る人もいなければ、閉まりそうになるドアに足を引っ掛けて強引に車内に入ってくる人もいない。駅のホームにはどこかの共産主義国のマスゲームのように整然と並ぶ人々。コンビニのゴミ箱は燃えるゴミ・プラスチックゴミ・新聞&雑誌・ペットボトルが完璧に分別されている。車の往来が全くなくても赤信号では横断歩道を渡らない。完璧な秩序。けれども、何かちょっとしたきっかけで、針のひと突きで巨大なダムが決壊するように、想像を絶する野蛮と激情が放出する。

常軌を逸した中年男性の怒りは、男性個人の心理的な領域を超えた大きな構造を浮かび上がらせる。彼の個人的な怒りには様々な思いがあったのだろう。電車の中で膝上にマックを出して何やら作業している青年に対して、例えばカフェでマックを開いて作業する人に一部の人たちが「これ見よがしにマック出してカッコつけているようでうざい」といった印象を持つように、「マーク・ザッカーバーグ気取りのIT野郎がわざわざ電車の中でパソコン開いててうざい」と思ったのかもしれない。それが「自分の足にぶつかる」という些細なことが引き金となって、「俺たちの世代は夏の熱い日でもスーツ着てネクタイしめて会社の歯車になってきたんだ。お前らはTシャツとジーンズで何だか訳のわからないことカチカチやって金儲けて良い気になりやがって。どうせ家にいながら仕事して会議なんかもネットつなげて同じようなチャラチャラした奴らと『やっぱりイノベーションがね』『サードパーティ的に』『アグリー』とか言い合ってるんだろう」といった世代間ギャップのもたらす怒りとなったのだろうか。いろいろと解釈は成り立つだろう。でもここで問題なのは、「その中年男性の心の中にどんな感情が湧きあがったか」ではなく、その異常なまでの怒りの度合いである。理性を欠いた、いや、理性が崩壊したと言えるレベルの激情。それが機械仕掛けのように整然とした社会集団と共存し、同時に「あり得ないこと」として決して交わることがない状態。信じられないほどの調和と信じられないほどの崩壊がギリギリのバランスで切り離されながら同居し、ほんのわずかなズレをきっかけに入れ替わる。えびす顔で世界を「おもてなし」する礼儀と調和と感謝の国が、条件さえ揃えば誰でも「炎上」するポテンシャルを備えたコミュニティだとしたら?

いまやPokemon Goによって世界に知られることとなった「拡張現実(Augmented Reality)」は同じ構造を持っている。いつもは気にも留めずに通り過ぎる公園にスマホをかざすと、そこにはバンギラスやギャドラスやガルーラたちがいる世界。目の前にある現実世界(Reality)をゲームのデータで拡張(Augment)するというこのコンセプトがもたらすのは、現実が現実のまま「同時に」ポケモンの世界であるという二重の世界観である。一方に「現実」がありもう一方に「バーチャルな世界」があるのではない。我々はエレベーターで階を移動するように「現実/バーチャル」の二層を行き来するのではない。世界はたった一つ、一層である。一つしかない世界が、無味乾燥とした終わりなき日常でもあり、「同時に」なめらかなCGで描かれたモンスターたちと戯れるお花畑でもあるのだ。同じ世界が備える二つの全く異なる性質は、共存しながらも決して交わることがない。ふと我々がスマホをかざした瞬間、全てが入れ替わるのである。どちらか一方が「正しい」世界ではなく、どちらも等しく「正しい」世界であり、スマホのアイコンを指でそっと触れるだけで、腕を振り上げた大魔神が無表情なハニワから阿修羅の顔へと変貌するように、世界の全てが「あり得ない」もう一つの顔を現す。

 

失敗した世界

僕が地下鉄で遭遇した現象は「日本のいま」を表しているのと同時に、世界中で受け入れられる最先端ゲームの導く世界観をも表し、そのまま哲学の最も本質的な部分につながる。一つの世界と二つの顔。哲学の中でも形而上学(Metaphysics)の最も根本的な問題の一つである。あり得ない二つの顔が「同時に」あり得てしまう問題。ここで重要なのは、この「同時に」は、「太郎さんは内気だけど、同時にすごくオープンな性格だ」「いちご大福は甘いけど同時に酸っぱい」「哀川翔はVシネマの帝王であるのと同時にカブトムシ愛好家だ」といった「同時に」とは別の次元の「同時に」を含むということ。太郎さんやいちご大福や哀川翔はそれぞれ異なる顔を持っていようとも、異なる顔たちを含む単体として成り立つ。Vシネマの主役をこなそうがゼブラーマンになろうがカブトムシの飼育セットをプロデュースしようが、哀川翔さんは一人の人間として何の矛盾も無く存在している。それに対して「一つの世界と二つの顔」は、それぞれの顔がお互いを排除しあうような矛盾する関係にありながら、矛盾を通じて逆説的に共存しているのである。言い換えれば、「共存していない」と同時に「共存している」関係。関係しているのと同時に関係していない関係。「一つの世界と二つの顔」というコンセプト自体がコンセプトとして「真っ黒な白」のように、失敗している。成り立っていない。その「コンセプトの失敗」というコンセプトを何故か我々は理解し、体験し、共有しているのだ。

矛盾が矛盾でありながら、同時にコンセプトとして成立し、それが「世界観」となる。そのことを最初に示したのは他でもないプラトンである。彼は「一つの世界と二つの顔」というコンセプトを、「二つの切り離された世界を同時に見てしまう一つの視点という矛盾」というバリエーションで提出する。どういうことか。

プラトンは『国家』の中で有名なイデア論を展開する。色や形のあるもの、我々の知覚で捉えることのできるこの物質世界は「本当の世界」ではなく、物質を超えた「形相」が存在する世界こそイデア界という「本当の世界」である、というもの。目の前に黒い馬が一頭いる。離れた場所には茶色い馬がいる。これら二頭を「馬」だと認識できるのは何故か?そもそも最初の黒い馬を「馬」だと呼べるのは何故か?我々が今まで見てきた「馬」たちと、目の前にある物体が「馬なるもの」を共有しているからだ。「馬なるもの」とは「馬というものは、要するにこういうものだ」という概念であって、この物質世界には存在しない。黒い馬、茶色い馬、白い馬、それぞれ個別の馬たちは見たり触ったり乗ったりできるが、「馬」という概念に触れることは出来ないからだ。この世に無い、でも「馬なるもの」が無ければそもそもこの目の前の黒い馬を「馬」と認識することはできない。だから「馬なるもの」はどこかにある、としか言えない。では、どこにあるのか?この世界を「超えた場所」にある。それがイデア界である。

「馬なるもの」こそ「本当の馬」であって、目の前の馬たちはそのコピーでしかない。それぞれの馬は死んだら存在しなくなるが、「馬なるもの」は存在し続けるのだから。三角形を例にとってもいい。あなたがいまこの画面で見る「△」を「三角形」と認めることができるのは、キタサンブラックを「馬」と認めることができるのと同じ理由である。「△」は「三角形そのもの」ではなく、「三角形そのもの」という概念のコピーだ。この世に数多とある三角形たち、「▲」や「▷」、とんがりコーンやピラミッドやおにぎりなどと同じように「三角形そのもの」という概念を模倣したコピーなのである。コピーは要するに、偽物だ。あなたがいまスマホでこの「△」を見ているなら、文字を拡大してみて欲しい。デジタル表示だから、思いきり拡大するとブロックを積み上げたようなギザギザからできていると分かる。これは実のところ、「三角形に似た形」でしかないのだ。同様に、紙に三角形を描いてみよう。どんなに正確に描いても、それは完璧な三角形になることはない。たとえ世界一精巧な機械を使って完璧な三角形を描いたところで、電子顕微鏡で拡大すれば、直線はガタガタとした毛羽立ったような線として「本当の直線」にはなっておらず、さらに原子レベルまで拡大すれば、線はそもそも線ですらない。そう、この世に存在するあらゆる三角形は、実は「人間にとって三角形っぽく見える形」でしかなかったのである。そもそも我々は「三角形」を本当の意味で「見た」ことなどないのである。「三角形」とは物体ではなく概念、つまりイデアなのだから。

これが大きな問題を引き起こす。そもそも人類の歴史が始まって以来、人間は誰一人として「三角形そのもの」を「見た」ことがなかった。でも、我々は「三角形そのもの」を理解している。理解できてしまっている。何故か?プラトンは「三角形そのもの」「馬そのもの」「正義そのもの」などが存在する「別の世界」があると結論する。そうでなければ説明がつかない。ここで反論があるかもしれない。「三角形が物質でなくて概念であるとして、それは頭の中にあるということじゃないの。自分の外にはコップやテーブルや家や道路があって、自分の頭の中にはアイデアがある。で、三角形はそのアイデアのうちの一つ、ということでいいじゃない」と。この反論こそ的外れで、同時にこの問題の核心を突いているといえる。「頭の中にアイデアがある」って、どういうことだろう?頭とは頭蓋骨があって脳があって血管があって、という物体である。その中に色も形も長さも重さもない「アイデア」が「入っている」って、どういうことだろう。そう、「頭の中にアイデアがある」という考え自体、矛盾しているのだ。頭とは物体である。そしてアイデアは物体ではない。そう理解した上で、つまり頭とアイデアは全く別次元のものである、と理解した上で、それら別次元のものどうしが「同じ次元にいる」と言っているにすぎない。「アイデア」が何かの「中に入る」とは、そもそも論理的に破綻した言葉なのだ。

この矛盾はどこまでいっても解消されない。プラトンの議論に戻ってみよう。

(1)「我々がいまここで体験している物質世界」と「それを超えたイデア界」という二層構造の概念を使うことでしか、我々が何故とんがりコーンを「三角形だ」と理解するのか、何故キタサンブラックを「馬だ」と理解するのか、説明ができない。

(2)同時に、二層構造の世界観自体が矛盾を含んでしまっている。つまり、論理的に破綻している。コンセプトとして失敗している。

どのように失敗しているのか?プラトンの議論に従えば、例えば我々が雪、牛乳、雲、はんぺんを見て「白い」と理解できるのは、これら全てが「白性」を共有しているからである。「白性」は「白そのもの」であって、この世のあらゆる白いものの雛形であり、白のモデルであり、個別な白いものを超越して永遠不滅の領域=イデア界にのみ存在する白のイデアである。では、その「白のイデア」は白いのだろうか?「もちろん、白のモデルなんだから白いに決まっている」と言う人がいるだろう。でも、白いとすれば、それは肉眼で白いと認められるのだから、この物質世界に存在することにならないだろうか?この世でどんなに完璧な三角形を描いたところで「三角形そのもの」という概念には到達できないのと同様に、我々が五感で認識できる範囲の白いものはどこまで行っても完璧な「白そのもの」ではないのである。ゆえに、「白のイデアが白いのであれば、それは実のところイデアではない」と言わざるを得ない。では、「白のイデアが白くない」とはどういうことか?白のイデアとは物質世界にある不完全に白い物たちを超越し、白い物たちに対する白の完璧なモデルである。白のモデルが白くないとすれば、そもそもそれをどうやって「モデルだ」と認めることができるのか?できないのである。この世で最も精巧に描かれた三角形は実のところまだまだイビツな三角形であって「三角形そのもの」には到底およばないとして、それでは「三角形そのもの」が形を持たないとすれば、もはやそれを三角形の「モデル」と呼ぶことはできないのだ。

「世界全体」について語ることは、それがどんな種類の世界観であれ、必然的にこの矛盾を含む。言い換えれば、この矛盾を犯すことでしか、我々は「世界全体」を語ることができないのである。なぜか?「世界全体を語る」とは、世界の全てをとりあえず一括りにし、世界を枠で囲い、その「外に」自分を置いて世界を語ることなのだから。もちろん「外に」といっても実際にはこの世界の中に身を置きながら語るのだが、どんな形であれ「外からの視点」を想定しなければ語ったことにならない。外からの視点を想定し、世界全体を「枠」で括るとき、枠の「こっち」と「あっち」が想定され、世界は二つの層に切断されるのである。

世界という矛盾と愛

プラトンによって開かれた「世界観の論理的矛盾」は、我々の世界観が破綻していたりデタラメであることを示しているわけではない。矛盾という意味では確かに、世界観は「コンセプトの失敗」を含んでいる。能面のような表情で整然と動く日本人たちが「あり得ない」ほどの狂気と激情を内包するのと同様、不完全なこの世界と完璧なるイデア界を一つの絵の中に入れるのは「あり得ない」。でも哲学のもつ最もラディカルな知恵とは、この「あり得ない」矛盾を、この論理として破綻した「失敗のコンセプト」を、我々の現実にの中にビジョンとして提出することなのだ。世界はそれ自体として全く変わることなくたった一つの存在でありながら、同時に、それまでと全く異なるものとして現れるという論理的破綻。世界を見る自分の視点が、もう一つの「あり得ない」視点を獲得し、世界の別の顔を見てしまうという「失敗」。

「愛」とはそのように現れる。

一度でも愛を経験したことのある人なら分かると思うが、愛こそ、世界を全く別のものとして経験させるもの、あらゆる論理的説明を破綻させる究極の失敗である。誰かを愛したとしよう。その瞬間から世界の全てが変わる。道に転がっている石でさえキラキラと輝いて見える。横断歩道を渡る群衆の足音すら、それまでと違って聞こえてくる。空の青さに今まで考えたことすらなかった意味を見出す。道を横切る老婆しかめっ面に刻まれた皺に希望を見出す。世界は以前と全く同じ、そのままの世界だ。でもどこかで「もう一つの視点」を手に入れた。どこかで「それまでの世界」と「新しい世界」が入れ替わり、もはや世界を以前のように見ることは不可能となった。でも、実のところ世界は1ミクロンも変わらず、そのままあり続けているのである。同じ世界が同じでありながら、「同時に」違う存在となったのだ。

どこで「以前の視点」から「現在の視点」へのシフトが行われ、どこで境界線を超えたのか、それは決して分からない。それが「分かる」ということは、一つの世界ともう一つの世界の境界線を突き止められるということだ。我々は「物質世界/イデア界」の「/」に最終的にたどり着けるいうことになる。でもそれは不可能である。プラトンが2500年前に暴き出したように、「物質世界/イデア界」という世界観自体が「失敗」しているのだから。

不完全な世界をそのまま受け入れ、同時に、世界が全く別のものとして立ち現れる可能性、全く別のものへとシフトするための見えない境界線をも、受け入れる。Philosophy(哲学)がPhilo(愛)とSophia(知恵)からなり、「知恵への愛」を意味するならば、その愛のかたちとは、あらゆる世界観の「失敗」と、世界が変わる瞬間の「見えない境界線」を受け入れる態度なのかもしれない。プラトンによって始められた哲学は、世界の失敗という愛を語る行為なのだ。

葛生賢治(くずう けんじ)
1970年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒用後、サラリーマン生活を経て渡米。2000年ボストンカレッジ大学院哲学科修士課程終了。2007年ニュースクール大学院哲学科博士課程終了。ニューヨーク市立大学哲学科非常勤講師を経て、現在東京にて執筆活動中。フリーウェブ雑誌「OUR」チーフエディター。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。趣味は駄洒落づくり。代表作は「オジー・オズボーンの叔父におスボーン履かせてちょうだい」。