娯楽と中国文化―白話小説のキャラクターたち―第8回
戦うヒロインのその後―十三妹(シーサンメイ)『児女英雄伝』(七)石井宏明

前回、安公子の勝ち組ぶりすごいというところを見ました。物語中、大した活躍もしないくせに、安公子のあの勝ち組っぷりは理不尽と言ってもいいと思います。そのとき、安公子と比較するために、『金瓶梅』の西門慶と『紅楼夢』の賈宝玉を取り上げ、これら三作品の男性主人公にはイケメンで、複数の女性と生活しているという共通点があると言いました。今回はこの作品がどうして共通点をもっているのか、その理由から話を起こしたいと思います。

『水滸伝』から『児女英雄伝』

前回述べましたように、『金瓶梅』は『水滸伝』のスピンオフ作品です。まずは『金瓶梅』、『紅楼夢』、『児女英雄伝』の話に入る前に、『水滸伝』について簡単に触れることにします。

『水滸伝』も『三国志演義』や『西遊記』と同じく元々、講釈師が語る話から生まれた作品であり、その『水滸伝』が長編白話小説として成立したのは十四世紀中頃の元末明初とされますが、その後、約二百年に渡って写本としてのみ流通し、現存する最古のテキストが刊行されたのは明末の万歴年間(1573-1620)です[1]。その作者について、『三国志演義』の作者とされる羅貫中の単独著者説、施耐庵の単独著者説、羅貫中・施耐庵の合作説がありますが、施耐庵の単独著者説が有力だそうです[2]

物語の内容ですが、長編ですので、なかなか一言では言えないのですが、簡単に言いますと、主人公・宋江を首領とする百八人の好漢(豪傑)が、梁山泊に立てこもり、朝廷を牛耳る奸臣たちが差し向ける官軍と戦い、打ち負かし、その後、官軍の配下に入り、遼国や反乱軍と戦う話です。百八人の好漢が梁山泊に集い、官軍と戦うまでは好漢たちの活躍が軽快に描かれているのですが、官軍に合流するころからは、物語は悲壮な色彩を帯び、戦いの中、好漢たちが次々と傷つき、命を落とし、戦いが終わった後、最後には宋江までもが死んでしまいます。

この『水滸伝』は梁山泊に豪傑たちが集結する前の話として、宋江、魯智深といった豪傑たちの個別のエピソードが語られます。その個別エピソードが語られる登場人物の一人に武松がいます。彼のエピソードが語られる『水滸伝』の第二十三回から第三十二回までを特に「武十回(ぶじっかい)」と呼びます[3]。前回、紹介しました西門慶と潘金蓮の話は、この『武十回』のエピソードの一つです。そこで述べましたように、『水滸伝』では、西門慶と潘金蓮は武松に殺されるのですが、『金瓶梅』では、この西門慶と潘金蓮が武松に殺されず、『水滸伝』とは別の物語が展開します。『金瓶梅』、作者は蘭陵の笑笑生(しょうしょうせい)とされていますが、どのような人物かははっきりしていません[4]。また、ついでまでに言うと、長い時間かけて形成された話をある時点で誰かが文字に定着したという成立の経緯を持っている『西遊記』、『水滸伝』、『三国志演義』とは『金瓶梅』は違い、はじめから個人が書き下ろした作品と考えられ、個人創作の走りになった作品でもあります[5]

次の見てみたいのが『紅楼夢』です。作者は曹雪芹(そうせつきん)、もっとも、曹雪芹が書いたものは全百二十回中の第八十回までとされ、それ以降は曹雪芹の構想をもとに高鶚(こうがく)が書いたとされています[6]。この物語の主人公賈宝玉も、林黛玉を初めとする多数の少女たちに囲まれ、生活しています。なぜ、イケメン主人公とそれを囲む複数の女性という設定を『金瓶梅』と『紅楼夢』が共有しているのか。それは『紅楼夢』が『金瓶梅』を下敷きにして出来た物語だからです[7]。それ故、『紅楼夢』は『金瓶梅』のイケメン+複数の女性という設定を引き継いだのです。そして、また、これも以前に述べましたが、『児女英雄伝』は、『紅楼夢』を強く意識している物語です。この辺りの事情について、少々長くなりますが、松枝茂夫氏の論文を引用します。

 満州八旗の名家に生まれた文鉄仙(筆者注:『児女英雄伝』の著者・文康)は、このような風潮(筆者注:八旗の子弟たちが建国当時の尚武の気性をうしない、日に日に惰弱になっていく様子)を見て、慨嘆にたえなかった。ことに、この気のよい老人をにがにがしく思わせたのは、あの『紅楼夢』の流行だった。乾隆(筆者注:1736年~1795年)の末から嘉慶(筆者注:1796年~1820年)、そして道光(筆者注:1821年~1850年)の世になっても、『紅楼夢』ブームは衰えを見せぬ。むしろますます燎原の火のように燃え広がって行くばかり。あの小説の毒気をうけて、骨をぬかれ、賈宝玉を気取り、林黛玉にかぶれた、若い男女のなんと多いことよ。
文鉄仙は考える。
――そればかりではない。じぶんの息子たちがよい証拠だ。せっかく手塩にかけて育てあげたのに、今ではどれもこれもすっかりぐれてしましい、家重代の宝物を勝手に持ち出して、二束三文に売りとばし、おかげでじぶんはこの年になって、その日の食うものにもこまる身の上となった。ことによると、あの子たちがぐれだしたそもそもの原因は、『紅楼夢』にあるのではないか、すくなくとも間接の原因にあの小説がなっていることはたしかだ。何しろこの淫靡な空気をつくりだした張本人だからな。曹雪芹は漢軍とはいえ、同じく八旗のれっきとした家柄の子ではないか。それがとこもあろうに、このような小説のこして、この何十年来、世を毒しているとは。これは何とかしなければならぬ。このままでは清朝はほろびる。八旗こそは満州帝国(筆者注:清帝国)軍の根幹、精神的支柱である。今やそれが根本からゆすぶられている。

『児女英雄伝』を文鉄仙が書くにいたった動機はそんなところだろうと思われる。だから何もかも『紅楼夢』の逆を行く[8]

文康が『児女英雄伝』を書くきっかけとなったのが『紅楼夢』ですが、それでいても、筆者には文康が考えるように清帝国の八旗が『紅楼夢』によってダメになったとは思えませんし、文康の息子たちがぐれてしまったのも、『紅楼夢』とは、やはり関係はないのではないかと思ってしまいます。八旗がダメになった理由や自身の息子たちがダメになった原因を直接であろうが、間接であろうが『紅楼夢』に求めるのは、八つ当たりとしか言えないと思います。ともあれ、文康は『紅楼夢』に好意的ではないというのは確かでしょう。

文康は『金瓶梅』から『紅楼夢』が引き継いだイケメン主人公と複数の女性たちという基本設定を『児女英雄伝』でも使いました。しかし、アンチ『紅楼夢』である文康は、『紅楼夢』の逆を行き、『児女英雄伝』をハッピーエンドで終わらせたのです。それ故、作品中、大した活躍をしなかった安公子が圧倒的な勝ち組となるのです。

ちなみで『紅楼夢』についてですが、文康の考えは一般的な見方ではなく。やはり『紅楼夢』は中国の文学史上、高い評価を受けています。その評価の一つを紹介します。

 『紅楼夢』の最大の特徴は、文章表現の密度がこれまで読んできた四作品(筆者注:『三国志演義』、『西遊記』、『水滸伝』、『金瓶梅』)とは段違いに高いことです。「筋」だけを追って読みとばすことができない、周到に積みあげ練りあげられた緻密な語り口は、読者を物語世界に引きこむ磁力にあふれており、中国白話小説の最高峰と称されるにふさわしいものです。………先入観にとらわれず、虚心に『紅楼夢』を読みはじめたならば、そこには前代未聞、空前絶後、魅力あふれる物語世界がひろがっています。『紅楼夢』は、大げさな言いかたをすれば、これを読まずして中国小説を語ることなかれ、さらには中国文化を語るなかれというほど重要な作品であり、とにもかくにも無類に面白い小説なのです[9]

これが一般的な『紅楼夢』に対する評価であると思います。特に「これを読まずして中国小説を語ることなかれ、さらには中国文化を語るなかれ」という一文は、中国文化における『紅楼夢』の地位を的確に言い表すものであると思います。

しかし、その偉大な作品である『紅楼夢』も、その誕生の契機を辿れば、『水滸伝』に辿り着きます。次で、『水滸伝』の影響力について見てみましょう。

再度『水滸伝』

この小説が海を越えもたらされた日本はちょうど江戸時代でした。この『水滸伝』は日本でも人気を呼び、それ以降、現代まで様々な翻訳本が作られ、曲亭馬琴(滝沢馬琴)は『水滸伝』から構想を得て『南総里見八犬伝』を書きました[10]

江戸時代、当時の日本人は『論語』など書き言葉・文言で書かれた書物、所謂漢文を漢文訓読法を使って読んでいました[11]。しかし、『論語』などとは違い『水滸伝』は当時の中国の話し言葉で書かれています。この話し言葉を当時「唐話(とうわ)」と呼んでいました。江戸時代、この唐話を学ぶ人々がいました。つまり彼らは江戸時代当時の中国語を学んでいたのです。その唐話学習のテキストとして、もっとも多く使われたのが、『水滸伝』だったそうです。その理由は、『水滸伝』に出てくる語彙が豊富で、生き生きと用いられていていること、白話の文章として最もすぐれていることによるそうです[12]

親族関係に例えるならば、『水滸伝』は曽祖父であり、『児女英雄伝』はひ孫にあたると言えるでしょう。このひ孫も曽祖父と同じように言語的に注目すべき特徴があります。『児女英雄伝』の言語について、胡適は『紅楼夢』とともに非常に良い北京語の教科書であるとし、さらに『児女英雄伝』が『紅楼夢』より百二三十年後にできたことから、曹雪芹が使わなかった北京方言も、『児女英雄伝』では使われ、『児女英雄伝』の会話は『紅楼夢』よりさらに生き生きしているとしています[13]

明治時代、天野恭太郎という人物が『児女英雄伝』の文章を話し言葉に修正し、ローマ字で発音を表した『官話児女英雄伝』と題する写本を作成していたそうです[14]。太田辰夫氏はこれをもって、『児女英雄伝』が北京語の学習書として使われた明白な証拠としています[15]。筆者には『児女英雄伝』が本当に教科書として使われたかどうか判断できません。実際に使われたかどうかはともかく、ローマ字で発音を表記していることから、少なくとも、教科書として使おうとしていた意図があったことは、そこから読み取れると思います。『児女英雄伝』で使われている言語が教科書として使いたくなるほどの魅力がある表れでしょう。

それでは、ここで実際にどのようなものか、安公子と十三妹の掛け合いを例にとって見てみましょう。場面は、能仁寺で捕らわれて安公子を助けた十三妹が、悪僧たち10人を殺害した後、安公子がいる部屋に戻ったところです。一部省略しています。

(安公子)“姑娘,你可回来了!方才你走后,险些儿不曾把我吓死!”
「姑娘、良く帰って来て下さいました。さっきあなたが出ていかれた後、私はすんでのところに、びっくりして死んでしまうところでした。」[16]

(十三妹)“难道又有甚么响动不成?”
「まさか、何か音がしたんじゃないでしょうね?」

(安公子)“岂止响动,直进屋里来了。”
「音がしたどころか、まっすぐこの部屋に入ってきたのです。」

(十三妹)“不信门关的这样牢靠,他会进来?”
「嘘おっしゃい!こんなにしっかり戸がしめられてあるのに、誰が入ってこれるものですか。」

(安公子)“他何尝用从门里走?从窗户里就进来了。”
「戸からなんかじゃなくて、窓から入ってきたんですよ。」

(十三妹)忙问“进来便怎么样?”
「で、入って来てどうしたの?」とあわてて尋ねました。

(安公子)“进来他就跳上桌子,把那桌子上的菜舔了干净。我这里拍着窗户吆喝了两声,他才夹着尾巴跑了。”
「入って来るなり、テーブルに跳びあがり、そこになった料理をペロリ平らげてしまいました。私が窓べりを叩いて、シッシッと怒鳴ったら、尻尾を巻いて逃げていきました。」

(十三妹)“这到底是甚么东西?”
「そりゃ、いったい何だったの?」

(安公子)“是个挺大的狸花猫。”
「とっても大きなブチ猫だったんです!」

(十三妹)含怒道“你这人怎的这等没要紧!如今大事已完,我有万言相告,此时才该你我闲谈的时候了。”
腹を立てて「あなたって人は、よくもそんな暢気なことを。大仕事は終わったけど、これからいろいろ大事なことを話そうと思っているのに。」

筆者は中国語の普通話(標準語)は学びましたが、北京語は学んだことがありません。中国語の普通話は北京語などの北方方言を基礎にできたものですが、やはり、普通語は普通語であり、北京語は北京語です。両者は同じものではありません。ましてや、清代の北京語なると、筆者にはなおさら言えることがありません。しかし、上の二人のやり取り―――緊張感に欠けた主人公の発言に苛立つヒロイン。または、ボケと突っ込み―――これは何だか、現代の娯楽物でも使われる手法ではないでしょうか。その意味では、このような表現には親しみを覚え、生き生きとした表現だと筆者には思われます。

もっとも、このような生き生きしていて面白いやり取りは白話小説全般的な特徴であるのかもしれません。しかし、教科書として使いたくなる生き生きした言語が使われているという『水滸伝』の遺伝子は確かに『児女英雄伝』に受け継がれていると言えるでしょう。次回では、曽祖父『水滸伝』とひ孫『児女英雄伝』について更に見ていくことにします。

且聴下回分解!

 

参考文献
胡適1925「児女英雄伝序」『児女英雄伝』 亜東図書館。
魚返善男1948「女雄伝写本の発見」『民国の文芸』育生社。
奥野信太郎、常石茂、村松暎訳1960『児女英雄伝上』中国古典全集第29巻。
奥野信太郎、常石茂、村松暎訳1961『児女英雄伝下 鏡花縁』中国古典全集第30巻。
太田辰夫1961「我が国おける児女英雄伝」『中国古典文学全集』月報第32号平凡社。
立間祥介抄訳1971『児女英雄伝』中国古典文学大系第47巻平凡社。
高島俊男1991『水滸伝と日本人 江戸から昭和まで』大修館書店。
松枝茂夫1998「『紅楼夢』反対の小説『児女英雄伝』」『松枝茂夫文集』研文出版。
大木康2001『中国明清時代の文学』放送大学教育振興会。
井波律子2009『中国の五大小説』(下)水滸伝・金瓶梅・紅楼夢  岩波新書。
《儿女英雄传》一、二 文康 中州古籍出版社2010年。

[1] 井波律子2009p.3~p.4
[2] 井波律子2009p.4
[3] 井波律子2009p.33
[4] 井波律子2009p.126
[5] 大木康2001p.74
[6] 井波律子2009p.235
[7] 井波律子2009p.239~p.240
[8] 松枝茂夫1998p.160~161
[9] 井波律子2009p239
[10] 高島敏夫1991p136~p.387
[11] 荻生徂徠のように、漢文訓読法に反対する人もいました(高島俊男1991p.37)。
[12] 高島敏男1991p.29~p.41
[13] 胡適1925p.p18、p21
[14] 魚返善男1948p.170~178
[15] 太田辰夫1961p.1
[16] 訳は奥野信太郎等1960、1961の他に、今回から立間祥介1971を使用し、一部表記と訳を変えています。

 

石井宏明(いしい・ひろあき)
[出身]1969年 千葉県生まれ
[学歴]中華人民共和国 北京師範大学歴史系(現:歴史学院)博士生畢業
[学位]歴史学博士(北京師範大学)
[現職]東海大学/東洋大学 非常勤講師
[専攻]中国語学(教育法・文法) 中国史 
[主要著書・論文]『東周王朝研究』(中国語)(中央民族出版社・北京、1999年) 『中国語基本文法と会話』(駿河台出版社、2012年) 「昔話を使った発話練習」(『東海大学外国語教育センター所報』第32輯、2012年) 「「ねじれ」から見た離合詞」(『研究会報告第34号 国際連語論学会 連語論研究<Ⅱ>』2013年)