楽しく学ぶ倫理学 第14回 義務論の可能性と限界田上孝一

義務論の可能性

前回見たように、功利原則は倫理規範である前に我々の行動の原理なので、これを規範として掲げる功利主義は分かり易いし、無理なく実践の指標とすることができる。しかし功利主義は終始一貫打算的というか、損得勘定で物事を考えるため、一切の打算を超えた正義という考えには馴染まないし、そうした正義が必要なのではという直観と対立する。義務論はまさにそうした直観のほうを原理にする。我々がなすべき倫理規範は、それを行なう結果の損得とは関係がない。それを行なうのが人間の義務だから行なうのである。

このような義務論に、功利主義とは対極的な理由でやはり大きな理論的魅力があるのは疑い得ない。

哲学や倫理学では思考実験ということで、生きるか死ぬか、自分が死ぬか他人が死ぬかというような極限的な状況を持ち出して議論することが好まれる。実際にはそうした極限状況は殆どの人に一生縁がないものであり、好んで冒険的な旅に出るような人を除けば現実に直面する可能性の低いものである。しかも、我々がここで学ぶ倫理学は、非日常的な状況ではなく、日常的な生活の中で生かされるべき知恵である。その意味で、この手の思考実験にどれだけ意味があるのが、大いに疑問とするところではあるが、極限的な状況に見せる人間の生の姿や、極限状況にありながらなお保たれる人間性の輝きに深い感動を覚えることも、事実である。

例えばカトリックの聖人であるポーランド人のコルベ神父は、ポーランドを占領したナチスドイツに囚われ、アウシュビッツに送られた。一人の脱走犯が出たということで、懲罰として10人が処刑されることになった。アウシュビッツで処刑など日常茶飯事ではあるが、この刑罰では食事はおろか、一切の水分を与えずに枯渇死させるという、ナチスの残虐性を伝えて余りある非道な処刑方法であった。該当者は恣意的に選ばれたのだが、当初コルベ神父は含まれていなかった。ところが、運悪く選ばれた一人が、自分には妻子があると泣き喚くのを見て、彼を自分に換えて欲しいと申し出たのである。こうして神父は死地に赴くことになった。この残虐な刑を受ければ、誰でも正気を失い、阿鼻叫喚の内に死んでゆくのであるが、神父は同房の仲間を励ましつつ、少しも取り乱すことなく、祈りの中に静かに死を向かえたというのである。

このような神父の死に様が示すのは、最大限の肉体的苦痛をも、意志が制御できる可能性である。そして意志が苦痛に打ち勝つことを求めるのは、なすべき規範が苦痛や快楽というような功利主義的基準とは別に、そのような人間が自然に従う傾向性とは異なる絶対的な規則としてあると考えるからである。神父においては信仰があらゆる肉体的精神的傾向性を凌駕したのである。つまり神父にあっては、信仰の遵守が絶対的な義務としてあって、これが倫理原則として作用して、尊厳な死をもたらしたということである。こうしてみると神父の殉教は、倫理学的には確固とした義務論の遂行の一つの極北と言えるものだろう。

このような殉教が我々に強い感動を与えるのは、そこに確かな「人間の尊厳」を感じるからではないか。だとすると義務論的な倫理学は、人間の尊厳を高め、人間性へのゆるぎない信頼に立脚した教えということになるだろう。倫理学は人間がいかに生きるべきかを問う学問であり、それを行なうことが行なわないことよりも人間性を高めるのが倫理規範である。この意味で、義務論こそが倫理であると考えることができるし、少なくとも義務論が極めて魅力的な強力な倫理学的立場の一つであることは、自明だろう。端的に言えば、人間性への限りない信頼に基づく、ぶれることのない確固とした規範を提起できることが、義務論の最大の魅力といえるだろう。

 

義務論の問題点

このように魅力的な義務論ではあるが、やはりそこには大きな問題点もある。それは義務論が功利主義のように結果的な効用の考量によって規範を構想するのではなく、予め定められた行動原則として規範を考えるという、理論の前提そのものの問題である。このような行動原則は確かに、抽象的な一般方針のレベルであれば、それほど問題なく受容できる場合が多い。例えば義務論を体系化したカントは、相手の人格を常に目的として扱い、手段としてのみ扱ってはならないという一般原則を提起した。これはしばしば誤解されているように、何時いかなる場合でも人間を手段として扱ってはならないという意味ではない。もしそうならばサービス産業が成り立たないだろう。そうではなく専ら手段として“のみ”扱い、目的的存在としての人間の尊厳を無視するような扱いをしてはならないということを意味する。サービス産業でいえば、従業員の人間性を無視するような過酷な労働条件で、何でも客や雇用者の言いなりにさせるような働かせ方をしてはならないということになろう。

カントがこのように考えた理論的前提として、彼の人格(Person)と物件(Sache)の概念的区別がある。Personは目的的存在であり、Sacheは手段的存在である。手段的存在であるSacheは売買できるが、目的的存在であるPersonは売買できない。Personを売買するとは、人間の労働力やスキルを売買するのではなくて、人間そのものを丸ごと売買するということである。労働力やスキルではなくて、身体を丸ごと売買される人間は奴隷である。奴隷制度を否定するのが近代の近代たるゆえんである。カントは近代社会の代弁者として、奴隷制度を絶対的に否定している。カント倫理学の前提にはこの近代的思考がある。当然、このようなカントの考え方は正しい。そしてこのような近代の大前提に則ったカントの行動原則、人間を奴隷のように物扱いしてはいけない、たとえ彼や彼女が一時的に手段的に扱われるような場合があっても、常に彼等が人間的な人格であることを忘れずに、人間の尊厳を奪うような扱いをしてはならないという規範は、極めて有効性の高いものであると考えられる。

ところが、このような一般方針にあっては魅力的な規範を打ち出せる場合がある義務論であるが、規範の内容を具体化するに当たっては、必ずしもうまくいくとは限らない。功利主義ならば、結果を考量しながら規範を構想するので、実現不可能な非常識な規範が出てくる可能性は低い。しかし義務論の場合は原則として結果の比較考量は行わず、一般的な行動原則のレベルで規範を具体化する。そのため、倫理学者が立法者のような位置にきたりする。そして時として立法者である倫理学者は、一般的な常識とは乖離した規範を提起してしまう場合もありうるのだ。

このことがまさにカント自身によっても行なわれた。

倫理学において義務を考える場合、必ずやらなければいけない絶対的なものではなくて、やらないでも済むが、できればやるべきだというような義務を想定するのが普通だ。例えば人に親切にすることは望ましい倫理規範だが、親切にすることを強要されることはない。親切にしなくても咎められることはないし、ましてや罰せられることはない。やるやらないが基本的に自由な選択に任せられた上で、できればやるべきだというのが倫理上の義務である。これは義務という点からいえばその完全な遂行が求められないという意味で不完全である。つまり倫理学でいう義務は通常「不完全義務」である。

これに対して、物を盗んではいけないというのは、自由な選択に任せられていない。盗んでもいいが盗むべきではないというのではない。端的に盗んではいけないのである。盗んではいけないのは絶対的な「完全義務」である。そして通常、完全義務は法的な規範である。それを完全に守らせないと、社会が成り立たないような規範を法的に強制する。そのため、違反者は時として厳しく罰せられる。

このように、義務といっても不完全義務と完全義務があり、通常前者が倫理学上の義務で、後者が法律上の義務だと、広く観念されている。しかしカントは、法律ではなくて倫理規範にも完全義務を含めた。たとえそれを守らなくても法的に罰せられることがなくても、やはり絶対に守るべき義務があると考えたのだ。そしてその完全義務の一つに、うそをついてはいけないことを含めたのである。これは一体どういうことであろうか?

確かに絶対についてはいけないうそはある。詐欺に当たるうそだ。契約条件を偽ることは、当事者に深刻な損害を与える。だから詐欺は罪として厳しく罰せられる。しかしカントのいうのはそういう常識的なことではない。彼はうそ一般について言っているのだ。何時いかなる場合でもうそを付いてはいけないといっているのである。しかもできればという不完全義務ではなく、無条件な完全義務だというのだ。

カントほどの賢人としては余りにも突拍子もない話ではないか。先ず物理的に不可能だろう。心理学者に指摘してもらうまでもなく、「些細なうそ」は日常茶飯だ。一寸見栄を張ったり、思わずごまかしたりするうそ。つかれた側もそれで別段損をするわけではないうそ。そういううそも一切ついてはいけないというのだ。到底無理な相談だし、またそんな生活は実に堅苦しくて生き辛いのではないか。倫理学は人間的な生を追求し、人間性を高めることによって人生の質を向上させるための学問なはずだ。うそはなるべくつくべきではないという一般的なスローガンは、このような倫理学の目的に適った適切な規範だと思えるが、どんな小さなうそも絶対ついてはならないということになったら、人間関係は全くぎこちないものになり、生活に潤いがなくなる。うその全くない人生は実に非人間的な生であり、人間性を高めるという倫理学本来の目的に逆行するのは必至である。

またうそには、むしろ積極的につくほうがいいと思われる場合もある。「うそも方便」というやつだ。例えばがんの告知問題などは典型的だろう。

近年ではインフォームド・コンセントの考えが浸透し、がん治療にあっても治療開始時での告知が基本になっているが、初診の時点で既に手遅れになっているような場合は、告知するにしても慎重さが必要になる。しかしもしうそをついていけないとなると、このような場合でも機械的に真実を告げなければならなくなる。あなたはもう手遅れです、現代の医学ではもう手の施しようがありません、ホスピスに入ることをお勧めしますというようなことを、初見でいきなり告げる必要があるわけだ。確かに結果的には同じことでも、伝え方というのがあるだろう。いきなり真実を告げるよりも、最初はあえて真実を隠してはぐらかすほうが患者に与える精神的ダメージは少ないのではないか。だとしたらこの場合は、うそをつくことが人間的で、うそをつかないことが非人間的なことになる。非人間的であるよりも人間的であるほうがより倫理的である。従ってうその絶対的禁止はうそを一般的方針の次元で禁止するのと異なり、倫理的に好ましくないということになる。

カントも勿論こうした事情はわきまえていて、いわゆる人間愛から出た嘘もあるのではないかという反論も検討してはいる。しかしその再反論はとても納得のゆくものではない。良かれと思ってついたうそがむしろあだになるような事例を挙げたりするのだが、どう考えてもそういう話は特殊例でしかなく、大抵の場合はうそが功を奏するのだという再々反論が可能である。

カントがうその禁止を絶対原則だと見ようとする前提には、彼が規範を徹頭徹尾、結果的効用を考慮に入れず内面的な原則の問題として考えようとする点がある。そのため、我々が常識的にそうするように、うその問題を状況に応じた効果の観点から捉えずに、専ら自分自身に誠実かどうかという原則の問題として見る。このため、うそをつくということは自分自身に誠実であらねばならないという大原則への離反となってしまう。そのためうそは絶対的についてはいけないという話になるのである。

しかしやはりこれはおかしい。予め義務の体系を考えることはいいが、浮世離れした、実行不可能な規範を打ち出しても、偽善になってしまう。そうならないためには結果的な効用を考慮に入れて、倫理原則の体系構想とフィードバックさせて、リアリティのある道徳原理を構築する必要がある。カント自身は常に功利主義的な結果重視に敵対していたため、こういう理論構想の回路は閉ざされている。これは明らかに義務論の問題点であろう。

しかしこの問題点の解決方向も既に明らかだ。まさにカントのように予め立てられた義務に固執することなしに、結果も踏まえるような柔軟な態度で規範を構想するということである。ただそうすると、それが果たして義務論といえるのかという問題が出てくるが、結果をフィードバックさせて修正する必要のない完璧な規範体系を築き上げることができると考えるのは、人知を超えた思い上がりのように見える。倫理は人間が作り人間が実行するものである。その意味で、義務論においても結果的要素を考慮に入れることは必須条件ではないかと思われるのである。

田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)