アゴラまでまだ少し 第11回 僕が旅に出る理由は葛生賢治

前略、道の上より

トルーマン・カポーティの代表作『遠い声 遠い部屋』はこう始まる。

Now a traveler must make his way to Noon City by the best means he can, for there are no buses or trains heading in that direction, though six days a week a truck from the Chuberry Turpentine Company collects mail and supplies in the next-door town of Paradise Chapel: occasionally a person bound for Noon City can catch a ride with the drive of the truck, Sam Radclif.

(いまヌーン・シティに行こうと思ったら、旅行者は自分で何かしらの手段を講じなければならない。その方角へはバスも電車も通っていないからだ。もっとも、隣町のパラダイス・チャペルには郵便物の受け取りや日用品の配達にチャベリィ・テレビン油社のトラックが週六日通っていて、時としてヌーン・シティへ向かう者はそのトラックの運転手サム・ラドクリフに乗せていってもらうことはできるのだが。)

優れた小説の始まりとはかくも見事に読者を物語世界へと引きずりこむのか、と言えるほどの一文である。母の死によって離れて暮らす父の元へ送り返されることになった13歳の少年ジョエルの精神の旅を描くこの小説、その冒頭からしてロードムービーさながらに、ニューオリンズからミシシッピーの荒れ果てた田舎町へと旅する彼の姿を描き出す。物語は、独特なまでに繊細な感覚を持つジョエル少年の意識の流れを追う。目の前に広がる現実世界と彼が「遠い部屋」と呼ぶ虚構の世界とが入り混じり、父と現在の父の家族との出会い、見知らぬ土地で遭遇する人々・出来事を通じて、ジョエルが最終的に世界と向き合うに至る瞬間までがカポーティの鮮烈な文体で綴られる。

物理的な視点の移動としての旅と、それに伴う意識の変化・進化をリンクさせて描き出すロードムービー的な小説や映画は古今東西、様々に存在する。アメリカで50年代に起きた文芸ムーブメント「ビート」の旗手ジャック・ケルアックの代表作『路上 (On the Road)』しかり、アメリカン・ニューシネマの代表作『イージー・ライダー』しかり、スウェーデンを代表する巨匠イングマール・ベイルマン監督の『野いちご』しかり。スピルバーグの監督第一作目である『アンブリン』も、アメリカの荒野をバックパックひとつで旅する男女を描いたロードムービーだ。夏目漱石の『行人』の前半も、ロードムービーとして読むことができる。数え上げたら本当にきりがない。「旅の過程」と「精神的変化・成長」を結びつける作品はいつの時代も我々の心をつかむ。

けれども「旅」には危険がつきものだ。いや、旅行先では事故に遭いやすいということではない。「旅」について何かを語ることは、常に陳腐で誰でも考え付くようなありきたりの話になる危険性を伴う、ということ。人生を一本の道に例えて語れば、中間管理職のサラリーマンが飲み屋でハイボール飲みながら新入社員にする説教話になる。それだけならまだしも、旅をすることは「本当の自分」を見つけることだ、なんて言えば、例の「自分探しの旅」にまつわる諸々の面倒くさい話と混同されてしまう。旅について語ることには、旅に出ること以上に様々な落とし穴が待ち構えているのだ。

探しものは何ですか

ライター速水健朗は著書『自分探しが止まらない』の中で旅と「自分探し」の関係に触れていて、その分析が明快で面白い。「自分探し」とは要するに現実逃避であって、自分を変えるための努力を「環境を変化させることで達成させよう」と短絡的に考える若い世代をマーケティングしていったプロジェクトだという。速水氏自身は「自分探し」そのものに対して必ずしも批判的な態度ではなく、逆にそういうトラップに絡めとられる若者への警告を発しているが、ここで特筆すべきはその社会的・文化的な背景の分析である。資本主義による消費中心主義が行き詰まった社会では、人々の心は「物質的な幸せよりも精神的な幸せ」を求めるようになる。日本では80年代バブル期にそれが始まり、90年代以降、様々な社会・文化的現象にそれが顕著に現れていく。サッカー日本代表選手の中田英寿が若くして現役を引退し、「本当の自分探し」をするため世界を旅し始める。格闘家の須藤元気も同じく若くして引退し、バックパッカーとなる。猿岩石のユーラシア大陸横断ヒッチハイク旅に多くの若者が魅了され、海外ボランティアやワーキングホリデイなどの手段を使い日本から脱出する者が続出する。そうした「外へ何かを求める」旅に膨大な数の人たちが動員されるのと同時に、「内なる領域に何かをもとめる」旅として自己啓発本のブームが起きる。「気づき」がマジックワードとなり、いまここにいる自分とは「別の自分」がいる、それに気づくこと、そしてそれを肯定すること、そのためのポジティブな言葉がページを埋め尽くす本が膨大に出版され、消費されていく。それら全ての本に共通して見出されるメッセージは「あなたはそのままの自分でいいんだよ」という自己肯定。

速水氏は、それらは巧みな「自分探し」を使った動員の仕組み「自分探しホイホイ」だと分析する。引退後の中田英寿が世界を旅する姿はその後メディアに流されていたが、実は彼の引退はマーケティングとして仕組まれていて、チームメイトすら直前までその事実を知らされていなかったにも関わらず、その3ヶ月前からPR会社とは連絡が取られていた事実が明らかにされる。そのPR会社は後にホワイトバンドのキャンペーンを打った会社だ。他方、自己啓発本で「啓発」された人間はどんな環境に置かれても自分を「ポジティブ」に「肯定」するため、終身雇用制の崩壊した90年代以降の日本では低賃金で働く非正規労働者・ワーキングプアの「自己肯定」として機能する。前向きに考えることは「ポジティブシンキングのマーケット化」に巻き取られる。そもそも、村上龍の『13歳からのハローワーク』のように「やりたいこと」「夢」「やりがい」に生きることが素晴らしいというメッセージを発する本がベストセラーになり、それでいて現実には労働の対価としての「やりがい」を感じられる仕事がほぼ皆無な社会では、人々がとても安易な形で「外」か「内」へ逃避するのは自然なことだ。やりたいことが出来ない、やりがいが感じられない、やりたいことが分からない、そもそもこの生活がいつまで続けられるか分からない。そんな毎日を送る者にとって、「ここではないどこか外」に自分を求めるのも、「今の自分ではない新しい自分」を自分の内側に求めるのも、最後に残された逃げ道なのかもしれない。

僕が速水氏の分析の中で最も共感できたのは、これら全ての「自分探し」現象が結局のところ「宗教」を起源としているところである。ここでいう「宗教」はいわゆる世界宗教、キリスト教やユダヤ教、イスラム教などとは違って、「あっち側の世界」を求める思想のこと。19世紀に生まれたニューソート(New Thought)と呼ばれる神秘主義である。「思考が現実のものとして現れる」「正しい思考には癒しの力がある」といった教義のもと生まれたこの神秘主義は、60年代のアメリカにおいてピッピームーブメントを支えたニューエイジの思想へと流れつき、後にナポレオン・ヒルの『成功哲学』やスティーブン・コヴィーの『7つの習慣』、D・カーネギーの『人を動かす』の元の考え方となる。この思想について細かく説明するスペースは無いので語弊を承知で強引にまとめると、要するに「こっちの世界」を超えたところに「あっちの世界」があり、それにアクセスすることで「悩みがゼロ」「全てを肯定」「全てへの愛」などが実現する、というもの。「自分探し」ブームはこの変則型である。

この分析は正しい。一連の「自己啓発系」コンテンツ、「ポジティブシンキング」をマーケティングしたパッケージや雑誌の企画、ベンチャー企業の20代社長のインタビュー記事、「ロハス」で「ミニマリスト」なライフスタイルを讃える言説の数々、それら全てに独特な「言っていることは正しいんだろうけど、いまいち乗る気になれない」という感覚を見出すのは僕だけではないだろう。それらコンセプトのすべてが「宗教」、つまり神秘主義と同じ構造をもっているからである。

 

笑う二人と、戸惑う私

自分探しの旅と神秘主義を一緒にするなんて乱暴な論理だ、と思う人もいるかもしれない。でもこれは表面的な「旅」「自己啓発」「神秘主義」「宗教」などの言葉の裏にある構造を分析すれば分かる。

思考実験をしてみよう。神秘な世界、「あっち側」の世界にアクセスした人が我々の目の前にいるとする。仮に神秘くんと呼ぼう。例えばヒッピーカルチャー全盛時代のニューエイジの人たちの映像を思い浮かべて欲しい。マリファナやLSDによる覚醒体験、ビートルズによるインド巡礼、文明否定と自然回帰、ヒッピー独自のコミュニティー「コミューン」の存在。彼らは晴れ晴れとした顔で独自の生活スタイル、生活空間を造り、「間違った社会」から離脱することで解放感に浸っていたはずだ。神秘主義の本質は「現実からの離脱」と「屈託の無い笑顔」である。そして神秘くんも、宇宙の愛やらスピリットやらにアクセスしているがゆえ、満面の笑み。屈託のない笑顔。神秘くんを見ているこちら側の我々はぽかーんとする。中には神秘くんに対して嫌悪感を抱く者もいるかもしれない。彼を地下鉄に有毒物質を撒いて無差別テロを起こしたカルト宗教信者と同類だと考える者もいるかもしれない。神秘くんは決して「嘘」をついているわけではなく、つまり楽しくもないのに楽しそうに振舞って我々に笑顔を見せているわけではなく、本心から喜びを感じている。でも、その笑顔ゆえに、我々の中には彼から距離を置き、彼を否定し、馬鹿にする者すら出るかもしれない。笑顔に対する距離感。彼が非常に分かりやすい形で「あっち側」にいることを自ら認め、「あっち側」で笑うからである。

次に、自分探しの旅や自己啓発に成功して「新しい自分」を発見し、満面の笑みを浮かべる人がいるとする。彼を発見くんと呼ぼう。発見くんは屈託のない笑顔で「ね?こんなに素晴らしいよ。楽しいよ」と我々に語りかける。その「素晴らしいもの」は旅で探し当てた「本当の自分」かもしれないし、アフリカで子供達にサッカーを教えることかもしれない。自分の庭で採れたオーガニック野菜だけを食べて暮らす生活や、路上詩人となって「胸いっぱいの想い」を読み上げることかもしれない。スマイルクリエイター、ハピネスインスラクターなどの肩書きでポジティブシンキングの伝道師として生きる道かもしれない。発見くんも晴れ晴れとした笑顔。彼が「正直に」感じたままを語り、その笑顔に嘘がないのは理解できるものの、我々の中の一定の数の人間が「うーん、まあ、そうですねえ、、」と微妙な反応を示さないだろうか。独特の気まずい感覚。もちろん、人はどう生きても自由だ。他人の生き方・嗜好・考えにケチをつけることは出来ない。発見くんが何をどう幸せと感じても、もちろん何の文句もない。何の問題もない。でも、ねえ、、、という感じ。発見くんの「幸せ」とこちら側にいる我々の考える幸せとの間に、とても些細でありながら、本当にとても些細でありながら、歴然としたギャップが存在し、それをどうしても見過ごすことは出来ないという感覚。笑顔からの微妙な距離感。「距離」と呼ぶことがはばかれるような、微妙なモヤモヤ感。

神秘くんと発見くんの間にある違い、共通点はそれぞれ何だろうか?

 

絶対主義と相対主義

神秘くんと発見くん、それぞれの特徴を整理してみよう。神秘くんは(A)自他共に認める形で我々のいる場所から「別のところ」とつながっていて、(B)つながっているがゆえの晴れ晴れとした笑顔。発見くんは(A‘)決して「別のところ」につながっているわけではない。自己啓発にしてもオーガニックにしてもバックパッカー人生にしても、少なくとも神秘くんのような形で「別のところ」につながる行為だと公に宣言することはしないし、社会もそうだと認めることはできない。でも、(B’)あらゆる不安が消え失せたような晴れ晴れとした笑顔でいる。つまり、

(A)神秘くんは「あっち側」にいると言える。
(A‘)発見くんは「あっち側」にいるとまでは言えない。
(B)神秘くんは「晴れ晴れ」と曇り無い気持ちでいる
(B‘)発見くんも「晴れ晴れ」と曇り無い気持ちでいる。

ということ。(BB‘)晴れ晴れとした笑顔、彼らに共通する笑顔の種類は同じである。曇りひとつ無い精神状態から発せられるとびきりの笑顔。曇りのひとつぐらい常に持ち合わせている我々とは明らかにギャップが存在する。彼らは我々と「別」な状態にある。それでいて(A)神秘くんの人生には明らかな形で「別のところとのアクセス」が認められるが、(A’)発見くんを「別のところ」とむすびつけるのは難しい。神秘くんは(A)別であって(B)別のサインを発信しているが、発見くんは(A‘)別ではないのに(B’)別のサインを見てとれる。

神秘くんの立場は絶対主義と呼べる。どこかしら、何かしらに「絶対」の領域を認め、それにつながること、それを体現すること、それを心から信じることで突き抜けた喜びを感じる。突き「抜ける」のだから、違う領域へ行くのだ。だから非常に分かりやすい。ヒッピーが自分たちだけの生活空間を作ったことを思い起こすだけで十分だろう。「絶対」とは唯一無二。だから不完全なこの世界の「外」にある。あっち側の神秘くんと、こっち側の私たち。彼にとって絶対ではない領域にいる我々のことを神秘くんは蔑むのか、否定するのか、「そんな所にいないでこっちにおいでよ」と誘うのか、それは彼のモラルの問題で、我々に対してどういう態度を示そうと、彼の心の中では「絶対的価値があるもの」と「それ以外の低い価値のもの」は客観的な事実なのだ。

発見くんの立場は相対主義と呼ぶことができる。ものごとの価値はみな相対的なもの。結婚して子供をつくり福利厚生のしっかりした企業に勤めて東京の郊外に家を持つことも、生涯独身でスマホアプリを作るベンチャー企業を起こして都内の分譲タワーマンションに住むことも、お笑い芸人になることも、21世紀における共産主義革命を目指して政治組織を作ることも、みなそれぞれの価値があり、どれが「より高い、より低い」価値か決めない立場。発見くんが神秘くんと違うのは(A‘)「あっち側」を認めることはしない、つまり「絶対」を認める立場ではない、ということだった。自分が素晴らしいと思うものは、あえて言えば「自分にとって絶対」であり、他人が必ずしもそれを素晴らしいと思わなくても一向に構わない、とする態度。そして自分にとっての絶対「以外」のものに対しても優劣の価値はつけない。自分は自分、他人は他人。みんなそれぞれが別々のものを素晴らしいと思っていいんじゃない?とする世界観。

一見、全く問題はない。相対主義はある意味とても洗練されて懐の深い、「大人な対応」の態度だ。でも発見くんの笑顔に対してモヤモヤとしたものを感じるのは(それが僕だけではないと仮定して)なぜか?このモヤモヤは、何かの葛藤ではないだろうか。対立と言ってもいい。ある方向への力と、それとは反対方向への力のぶつかり合い。すなわち、発見くんに対して何かしらの批判を加えたいという力と、でも表立って批判することはできないという力の対立によるジレンマ。表立って彼を批判すれば、相対主義が隅々にまで広がった近代国家の中では「他人の価値観を認めない者」としてこちらが「炎上」する。だからこそ匿名で発言できるネットの世界ではものすごい量の発見くんたちに対する悪口が存在するのだ。興味のある人は検索してみて欲しい。つまり、発見くんは(B‘)実のところ神秘くんと同じ絶対主義的な「抜け切った」笑顔を漂わせているにも関わらず、(A’)相対主義のルールの中に身を置いている。言い換えれば、絶対的なヘブン状態にいるような表情でありながら、「あくまでもこのヘブンは僕の中だけのもの(=相対的)である」というスタンスでいる。絶対主義と相対主義の融合である。我々のモヤモヤは、この矛盾した融合を目の前にしたときに感じる戸惑いなのだ。

絶対主義と相対主義が融合するとはどういうことか?相対主義はその名の通り、「ものごとの価値は相対的で、他のどれよりも優秀で完璧な価値などはない」という立場。絶対的な基準の存在を放棄することだ。ゆえに、それぞれの価値どうしを分断する。以前にこの連載でも出した例だが、それぞれの価値はピザのワンピースのように、バラバラのままホールピザという全体を形成する。それぞれのピースは他のピースのトッピングを見て「そんなものはまずいに決まってる。俺のほうが美味いピザだ」とは言えないというルール。それぞれがそれぞれの形で「おいしい」と認めなければいけないルール。絶対主義と相対主義の融合とは、そのホールピザの絵を絶対化とすることである。つまり、全ての異なる価値観はみな等しく「価値がある」と認められ、一つのピクチャーに平等に収められる。絶対的な平等。どの価値観も排除されない。優劣を決めない。ということは、全ての価値は完全に分断されているということだ。分断が絶対化されるのである。

発見くんは神秘くんと違って、「素晴らしいもの」を「自分にとって素晴らしい」と明確に表明し、他人には「君も、もしこのライフスタイルに興味があったら試してみればいいけど、本当にするかどうかは君の自由だよ」というニュートラルな態度を貫くだろう。でもその態度の裏に潜むのは、お互いがお互いを尊重するのではなく、お互いがお互いの領域には何もケチをつけないこと、そのルールだけは「絶対に」守るという考えなのだ。「自分の領域には誰からもケチがつかない」ことが確保されるルールは、すなわち「自分の領域は全くケチのつけようがない」「自分のスタイルに疑いの余地は全くない」という認識の裏返しなのである。神秘くんが自分のピザのトッピングそのものを指して「このモッツァレラチーズは絶対的だ!神だ!」とするのに対して、発見くんはトッピングそのものではなく、「このモッツァレラチーズは誰からも何の文句も言われないというルールこそ絶対だ」と考える。他人からの評価を「絶対的」に無視するその迷いの無さこそ、発見くんの見せる「晴れ晴れとしていながらも距離のある笑顔」の正体なのである。

絶対主義の裏にあるのは「傲慢」であり、絶対化された相対主義の裏にあるのは「無関心」だ。どちらも、異なる価値観の間のクリティカルな判断・交流・批判を否定する点で一致している。

相対主義の何が悪いの?自分の道を見つけて幸せそうにしている人の笑顔から受けた印象だけを根拠に何故そこまで言える?印象だけで全てを決めつけているんじゃないの?ただ単に「他人の価値を認める」という良い相対主義者もいるわけで、全てが「他人の価値に無関心」という相対主義にはならないんじゃない?という人は、アフリカの「女子割礼」やキルギスの「アラ・カチュー(誘拐婚)」の存在を考えてみればいい。「文化」の名の下、21世紀の現在も成人の儀式として女性器の一部が切除されたり、見知らぬ男に拉致されて一生我が家に帰ることなく拉致犯人の妻として人生を終える女性たちが存在する。いまこの瞬間も。そうした文化に対して「他の国の価値観だから絶対にケチをつけてはいけない」というルールを守るべきなのか?不倫をした女性タレントをお笑い番組でムエタイの選手に蹴り倒させて痛がるその姿を笑うこと、それをお笑いという「文化」の問題として片付けること、「文化なんだから他の国からケチをつけられる筋合いは100%無い」と言うことに問題は1ミクロンも存在しないのか?そもそも「相対主義」というもの自体、世界観としては成り立たないのである。「世界観」とは世界のすべてを貫く原則なのだから。世界中のあらゆる価値に「ケチをつけないルール」を適用することは、笑顔が消えるような矛盾を直視しながら生きることを意味するのだ。それでもなお晴れ晴れとした笑顔で過ごせる者は、完全な分断によって目の前を塞がれているか、お花畑の中に生きているか、その両方なのである。

 

荒野に降り立つこと

どんな世界観であっても、それがピクチャーである限り矛盾を含み、システムとして完璧に閉じることはない。システムには常にどこかにほころびが存在する。一見とてもリベラルで風通しが良く見える相対主義が「絶対」とされる社会では、価値観の分断こそが黄金律となる。旅に出ることは、「自分探し」へと変換され、世界から分断された自分だけの価値の中に閉じこもること、コクーニング(繭の中への引きこもり)へ変換される。自分の殻を破ろうと旅に出て、やっと探し当てた「本当の自分」は繭の中に引きこもる自分だったとしたら。

ルネサンスの三大画家として知られるラファエロの描いた『アテナイの学堂(The School of Athens)』という絵を見たことがある人も多いと思う。検索してみて欲しい。ああこれね、と思うだろう。古代ギリシアの哲学者たちが一堂に会した巨大なフレスコ画だ。中央に二人の哲学者が立っている。左の老人はプラトン、右の男はその弟子アリストテレスの姿だと考えられている。プラトンは右手の人差し指で天を指し、アリストテレスは反対に地面の方へと開いた手のひらを向けている。この物質世界を超えた完全なる世界にこそ「ものの本質」があるとしたプラトンのイデア論と、自然主義の立場をとり、我々が物理的に経験できる個別の物体の中にこそ「ものの本質」があるとしたアリストテレスの形而上学との対立を象徴している。実にアリストテレスはプラトンの最高の弟子にして最大の批判者でもあるのだ。著作の中でプラトンのイデア論を何度も批判している。批判というよりも論破という勢いで。彼の『形而上学』の中にある「友情は大切なものであるが、真実はそれを超えるものだ」という趣旨の文章は、師匠として恩義があるプラトンを「真実」の名の下に批判する意志表明だと多くの哲学者に考えられている。

アリストテレスによる数多くのプラトン批判のうち、代表的なものに「第三の男の議論」がある。目の前に二人の男がいるとする。AくんとBくん。我々はなぜAくんとBくんを「男」と認識することができるのか?AくんとBくんの間の共通項「男」という概念を知っているからである。「男」が何を意味するのかを知らない限り、目の前にいる二つの物体が「男」だとはわからない。AくんとBくん二人の男の他に、この第三の「男」の存在無くして、我々は二人の男の本質を見極めることができない。第三の「男」はプラトンのいう「男」のイデアだ。我々がこの世で出会う男たちには様々な特徴・違いがあり、どの男も「男そのもの」ではない。我々はそれぞれの男たちの中に「男」という性質そのものを見出すが、「男」それ自体はこの世界には存在しない。ゆえにイデア界に存在する。これは前回ここで書いた通り。さて、アリストテレスは反論する。AくんとBくんを目の前にして彼らの間に「男」を見出すということは、そもそもAくんとBくん、そして「男」の三つの間に共通項を見出しているということなのだ。そうでなければ、そもそもなぜAくんたちを見て「猫」でも「牛」でも「メロンパン」でもなく、「男」が共通していると認識できるのか。「男というものはこういうものだ」と理解し、「こういうもの」をAくんとBくんの中に見出すからだ。では、(1)Aくんと(2)Bくんと(3)「男」とに共通するものが見出せるとはどういうことか?「男」というイデアにも物理的に男としての特徴があるからである。この瞬間、「男」のイデアはこの物理的世界に落ちてきて、AくんBくんの横に並ぶ。そしてこれら三つに「男」という共通項を見出すとすると、今度は第四の「男」をイデア界に想定しなければならない。そして議論は無限にループする。イデア界を想定した瞬間に、イデア界を否定する矛盾が浮かび上がるのである(前回の議論では「白のイデアは白いのか?」として扱った問題である)。第三の「男」は決して現れない。アリストテレスは言う。「イデアとは詩の一節のごとく、実体をもたない概念なのだ」と。

アテナイの学堂の中央に描かれているのは、師匠の作り上げた一大理論を完膚なきまでに論破する弟子の姿であり、師匠の世界観を完全否定する弟子の姿なのだ。かといって、アリストテレスに軍配が上がったわけではない。仮に世界の全てが物質世界だとしても、それは世界をたった一つの特徴、つまり「本質」で把握することであり、その「本質」を論じることこそ、イデア論なのだ。「本質」そのものは見ることも触ることも味わうことも出来ないのだから。すなわち、あの場所で二人の哲学者が繰り広げるのは、あらゆる世界観にはその中枢に世界観の崩壊の可能性が用意されていること、その暴露なのである。我々は世界観を持たずには生きられない。でも常に、世界観はラディカルに批判され、その根本から存在を突き崩される運命にある。自らの世界観を完膚なきまでに否定する他者に真正面から向き合うこと、哲学の全てはそこから始まるのだ。

旅に出ることの意義もそこにあるのではないか。「ここではないどこか」に新しい自分を求めるのではく、絶対的な存在にアクセスするのでもなく、他者から分断されたコクーンの中で自己を「啓発」するのでもない。何かしらの「正解」にたどり着くという夢から覚めること。ひとつの世界観がシステムとして閉じることのない、不完全で矛盾に満ちた荒野に降り立つこと。それを受け入れること。それさえ出来れば、実のところ旅に出る理由すらないのかもしれない。

父のいる荒廃した街へと旅したジョエル少年がそこで目にしたものは、彼の期待を裏切るものでしかなかった。陰鬱な空気のなか朽ちていく運命を待つだけの人々と環境。彼はそこから脱出を試みるも、失敗に終わる。それでも様々な経験をくぐり抜けた彼は、その朽ち果てた地に住み続けることを決意する。物語の最後のページには、ジョエルが彼を取り巻く荒涼とした世界のありのままを受け入れるシーンが描かれる。

No magic had happened; yet something had happened; or was about to. […]
It was as if he had been counting in his head and, arriving at a number, decided through certain intuitions, thought: now. For, quite abruptly, he stood up and raised his eyes level with the Landing’s windows.
His mind was absolutely clear. He was like a camera waiting for its subject to enter focus.

(魔法なんて何も起きていなかった。いや何かが起きていた。もしくは、起ころうとしていた。(中略)
彼はまるで頭の中で数を数え、ある数まできたところで、直感で「いまだ」と思ったようだった。急に立ち上がり、ランディングの窓の高さにまで目をあげたのだ。
彼の心は絶対的に晴れ晴れとしていた。彼は対象物がその焦点に入ってくるのを待つカメラのようだった。)

彼の世界は何も変わらない。それでも、矛盾に満ちた世界のありのままの姿にフォーカスが合ったとき、彼はえも言われぬ解放感、絶対的な解放感を味わっていた。彼は旅を終えることによって、不完全な世界に降り立つ道を選んだのだ。

葛生賢治(くずう けんじ)
1970年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒用後、サラリーマン生活を経て渡米。2000年ボストンカレッジ大学院哲学科修士課程終了。2007年ニュースクール大学院哲学科博士課程終了。ニューヨーク市立大学哲学科非常勤講師を経て、現在東京にて執筆活動中。フリーウェブ雑誌「OUR」チーフエディター。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。趣味は駄洒落づくり。代表作は「オジー・オズボーンの叔父におスボーン履かせてちょうだい」。