楽しく学ぶ倫理学 第15回 徳倫理学という問題設定田上孝一

これまで見てきたように、規範倫理学の代表的な立場としては功利主義と義務論があり、それぞれ理論的な魅力と問題点を抱えているのを見たわけだが、近年この二つに加えるにいわば第三の立場として、徳倫理学が台頭してきている。しかしこの徳倫理学には功利主義と義務論とは別次元の問題がある。

個人倫理の大前提としての徳

功利主義と義務論は、規範を設定するに当たっての一般的な行動原則を設定する。何か具体的になすべきことがある場合、功利主義に従うならば結果的な効用の増大を目的にして規範を具体化するということになる。対して義務論ならば予めある一般原則を具体例に極力適用するという形になる。その際、功利主義と異なり結果的な目的は考慮に入れず、原則にのみ基づいて行為することを指示する。いずれにせよ、人間のなすべき行為一般の基本的な指標となる。そのため功利主義と義務論は、現在でも規範倫理学の基本的な立場と目されている。

ところが徳倫理学というのが果たしてこのような一般原則というレベルで功利主義や義務論と並び立つかというと、大いに疑問である。

もし徳倫理学が功利主義や義務論と同じように行為の基準となるのならば、それは徳というものを基準にして規範構想の指標とする倫理学説ということになるだろう。しかしそうすると、功利主義や義務論も、それどころかおおよそ考えうる倫理学説は、それが統治原則というのではなくて個人道徳である限りでは、全て徳倫理学になってしまうように思われる。どういうことか?

徳倫理学はその名の通り徳を重視する倫理学説であるが、徳というのは人徳のことであり、人間が備えるべき美質である。誠実、寛容、気前の良さ、優美さ、勇気、思いやりの深さ、親しみやすさ、明朗であること、ひたむきさ、勤勉、等々、そのリストは長く続くだろう。これらの徳を備えている人はそうでない人よりも明らかに人間的に魅力がある。有徳な人はそうでない人よりも人柄がよい。言い換えれば、人柄を良くする美質が徳と言えるだろう。

このような徳が、倫理学にとって重要であるのは言うまでもないだろう。というよりも、そもそも倫理学は、世の東西を問わず、人間がいかにすれば有徳な存在になれるかというのを問い、実践してきたといえる。典型的には儒教がそうだろう。『論語』はいかにすれば人間が有徳な理想的人間である「君子」になれるかを説いている。この君子への道を、孔子を模範にして追求しようとするのが儒教なのではないか。孔子は四十にして迷いを断ち切り、終に七十歳に至って、心の欲するままに行なうことの全てが道理に適っているという境地に達したという。つまり有徳者としての人格を完成させたのである。とするのならば、孔子の教えは徳倫理であり、儒教は古代中国における徳倫理学ということになるのであろうか?

西洋哲学において徳の教えを説いたのは誰よりもアリストテレスであり、実際に現代の徳倫理学者の多くも、徳倫理学の源泉をアリストテレスの教説に求めている。

アリストテレスによれば徳とはアレテーであり、アレテーとはそのもの自体が持つよさである。例えば馬のアレテーは速く走ることであり、ナイフのアレテーはよく切れることである。どんなものも自らのアレテーを十全に発揮できることがそのものにふさわしいことである。自らのアレテーを発揮できているものは幸せであり、発揮できてないものは不幸である。よく切れるナイフはナイフ自身にとって幸せなことであり、切れないことは不幸である。ナイフには意識がないから幸不幸を自覚することができないが、幸福か不幸かというのはアリストテレスによれば、本来は主観的な感覚ではなく客観的な状態である。人間の幸福もまたしかりである。人間もまたその人が本来持っているよさを十全に発揮できた時に幸せになるのであり、そうでない場合に不幸になるのである。

人間はナイフのように単純な存在ではなく、様々な能力を持った複雑な存在であり、発揮されるべき能力も多岐にわたる。これらの能力が遺憾なく発揮された場合に、人間は有徳な存在として自己を完成させることができるのである。従ってアリストテレスの場合は、有徳であるとは人柄のみならず、知力や体力においても優れていることを意味する。しかし倫理は主として人間の社会性に関るから、倫理学において主題となる徳は人柄に関する徳ということになる。この場合、それぞれの事柄について過不足なく中間を保つのが有徳である秘訣だとした。例えば勇気は不足すれば臆病になり、過ぎれば無謀になる。これはしばしば誤解されるように何でもほどほどにやるということではない。むしろ誠心誠意中庸を保つよう努力するということであり、矢を射るに当たっては常に的の真ん中を射抜くべしという教えである。

このようなアリストテレスの教えが適切なのは言うまでもない。しかしここで疑問が生じる。こうしたアリストテレスの考え、そしてアリストテレスに限らず人徳の重要さを説く教説のどこが、功利主義や義務論の問題点をあぶり出し、それらに換わる新たな倫理学説を徳倫理学として打ち出す必然性へ帰結するというのか。確かに功利主義や義務論も、徳の重要性をことさらに強調してはいない。しかしそれは、これらの学説が徳を軽視している結果ではなかろう。むしろどんな倫理学説でも、徳が重要だということは言うまでもない前提であって、当たり前の大前提だからこそ、あえて強調する必要を感じなかったからではないか。

功利主義や義務論が含意する徳

例えば功利主義にしても、功利原則それ自体を最終目的にしているわけではなかろう。そうではなくて、人間の自然な傾向性である功利原則を無視するよりもそれに従った方が、人間がより人間らしく生きられからこその功利主義なのではないか。つまり人間がより人間らしいよさを発揮できるがための功利主義であり、人間的な徳を発揮させるがために功利原則ではないのか。だから功利主義では功利的であることそれ自体ではなくて、功利原則に従いながらより人間が人間にとってふさわしいことをするというのが問題の焦点になるのではないか。

この点をよく示しているのが、現代を代表する功利主義者のピーター・シンガーである。彼の倫理学上の立場は功利主義である。しかし功利主義の立場で彼が人々に求めるのは、ソクラテスのように単に生きるのではなくて善く生きること、利己的にではなく、よりよい世界の実現のために利他的に生きることなのである。彼は功利主義の立場から、苦しんでいる感覚的存在全般への思いやりと配慮の必要を主張する。人間であればたとえ自分の身近な者ではなく、地球の裏側にいる見も知らないような人々であっても、たとえ飢えや病気で苦しんでいるのならば、それを放置するのは悪であると見なす。そのため先進諸国に住む人々は積極的に寄付をすべきだと提起する。また彼の場合は、感覚的存在は人間に限らないという理由で、動物への配慮の必要性も説く。特に肉食を批判し、最も効果的な動物解放運動としてベジタリアンになることを人々に薦めている。こうしてみると、シンガーの提起する批判は確かに功利原則から導き出されたものではあるものの、その規範を実行することはそうしないよりも人間の品位を高める。自ら進んで積極的に慈善活動を行なう人は、そうしない人よりも有徳である。ということは、功利主義であってもつまるところは、功利原則を守ることによって人々をより一層、徳のある存在に高めることを目的にしているといえないだろうか。功利主義は自己利害を重視するがために逆説的に利他主義になると説明したが、利他的であるほど有徳なことはないだろう。

当然同じことは義務論についても言える。実際カントが義務の遵守を求めたのは、それこそが人間を尊厳ある存在にすると考えたからではないか。カントからすれば功利主義のように傾向性に基づく倫理は、自律ではなく他律を原理とするものであり、人間は自らのあり方を自分の意思で決めるべきだという人間本来のあり方にふさわしくない学説である。だから原則を義務として遵守することは、それこそが人間にふさわしいことであり、挫けることなく義務を守ることができる人は、そうでない人よりも立派な人であり、人間的な人間である。この場合、そのような人を我々は有徳の士というのではないか。カントはうそを「人間性の絶滅」とまでに激しく非難したが、ということは人間性を高めるためにこそ、うそを絶対に禁じたとも言えよう。確かにうその絶対的禁止は荒唐無稽ではあるが、その求めるところは人間の徳であるといえるのではないか。つまり義務論も功利主義も、徳それ自体を倫理原則とはしていないものの、その求めるものは有徳な人間のあり方であり、徳を重視しているという意味では両方とも同時に徳倫理学でもあるということになるのではないかということである。

独自な規範理論としての徳倫理学

しかし徳倫理学が言いたいのはそういうことではなくて、徳それ自体、有徳な人それ自身が倫理原則となって、規範の源泉となることだと見ることもできる。実際代表的な徳倫理学者であるハーストハウスは、そのような規範原理を与えることができる倫理学説として徳倫理学を考えている。だから徳倫理学も功利主義や義務論同様に、行為の一般的方針を提起できるとされる。その場合、徳倫理学に適合する規範は、有徳な人ならばそうするであろうように行為せよという形を取る。

しかしこれはおかしいだろう。有徳な人のように行為しようとする我々は有徳ではない。有徳な人を真似るわけだが、有徳な人が臨機応変にできるようなことを模倣するためには、自らが有徳な人にならなければならない。しかし行為の基準になるような有徳の人の境地は、自ら欲するままに振舞っても理に適うという、孔子の到達点のような高い精神性である。このような高みを有徳ではない凡夫が実行できるような一般原則にすることはできないだろう。

また、有徳な人は杓子定規ではなく、時として我々の常識からすれば悪に見えるようなことも行うかもしれない。しかしその悪行は有徳な人が行なっているから悪行ではないということになるのか。物事の善悪が全て行為者の属性に帰属するということになるのだろうか。そうではなくて、善悪はそれ自体で定めることができるとしても、今度は有徳な人が徳の高さのために我々が常識的によくないと思えること行なう場合があるのではないか。思いやりがあり、情け深いことは徳であるが、そのために脱獄犯を匿うのは許されるのか。貧しい生活に哀れみを覚え、貧困から脱出する一助になればと資格試験のカンニングの手助けをするのは正しいことなのだろうか。こういう場合でも、有徳な人のしたことは許されるということになるのか。いや有徳な人は決してそんなことはしないというのならば、有徳の人に対してもすべきではないことを予め定めているということになる。しかしそれは徳以外のものを原則にするということであり、結局有徳な人の振る舞いを一般原則にする徳倫理学的アプローチを採用しないということである。

このように、徳倫理学というものが、一般的方針として徳の大切さを説くというのならば、それは個人道徳の大前提として全く正しいのであるが、功利主義や義務論と並ぶ一般原則を目指そうとすると、有徳な人の振る舞いという、そもそも原理的に一般化が不可能な原則を誤って前提にしてしまうことで、徳の本質を有徳さに求める循環論になり、破綻した論理構成がそれ以上の説明を曖昧模糊とした霧の中に連れて行ってしまうだろう。

ではどうしたらいいのであろうか?恐らく首尾一貫した倫理学説としては、功利主義か義務論の二者択一ということになるのだろう。そして徳の問題は、徳倫理学という自律した倫理学説を構築するという方向ではなく、義務論にせよ功利主義にせよ、人間を有徳な存在にするという、規範それ自体の基本目的として、学説の内容を整えるガイドラインのような役割を果たすものとして、捉え返せばいいのではないか。功利主義にせよ義務論にせよ、その具体的な運用が人間を有徳な存在にする。そのような理論として具体化するための指標である。まさにシンガーの功利主義はそのような模範の一つだった。

では功利主義と義務論のどちらが選ぶべき規範なのか。これは当然一律に決められるようなことではないだろう。しかし徳の問題というガイドラインに従えば、どちらの規範であっても、極端に純化されたバージョンは望ましくないということになるだろう。

結果のために手段を選ばないような功利主義も余りに杓子定規に原則を貫こうとする義務論も、人間を有徳な、人間らしい存在にするのに資するとは思われない。どちらを採用するにせよ、程よく現実との折り合いをつけた、穏当なバージョンである必要があるだろう。私自身は後で論じる予定の動物権利論の関係から、程よく帰結主義的要素を織り込んだ形の義務論を取り敢えずは支持しているが、これが絶対に正しいという境地には達していない。あくまで暫定的な位置に留まっている。また、果たして倫理規範というのは必ず功利主義と義務論のどちらかを原則とした上で、それで全ての問題にアプローチしなければいけないものなのか。具体的な問題に応じて義務論的な観点を重視したり、功利主義的な計算を考慮したりというような場合もあるので、一元論に固執する必要もないのではないかという気もしている。いずれにせよまだまだ思索の途上で、確固とした結論を出せないでいると素直に告白しておきたい。

田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)