ロックと悪魔 第11回 プロテスタント文学の悪魔1黒木朋興

前回はカトリック圏である17世紀フランスでは、悪魔表象はおろか聖書や聖人伝を題材とした二次創作を好まない傾向があるという話をした。今回はプロテスタント文学における悪魔表象を見ていきたい。

ミルトンの『失楽園』

1667年、イギリスの詩人ジョン・ミルトン(1608 – 1674)は悪魔文学の金字塔とも言うべき『失楽園』を出版する。旧約聖書の『創世記』において、アダムとイブが悪魔である蛇に騙され知識の実を口にしエデンの園(=楽園)から追放される話を基にした叙事詩である。この作品の特徴は、神の偉大さを讃えつつも敢えてそれに逆らい天使から悪魔に落とされたサタンに焦点を当てたことだ。配下に語りかける彼の言葉を引用してみよう。

「おお、幾万と数知れぬ、不滅の天使たちよ!
おお、全能者は別として、天下無敵のわが軍勢よ!
たとえ、口にするだけでも無残極まりないこの場所が示し、
この惨めな変化が示しているように結果が惨敗に終わったにせよ、
この度の闘争は決して不名誉なものではなかった、と思うのだ。
しかし、たとえ過去乃至現在の深い知識があったとしても、
その知識に基づき、いかなる者の心がよく予言し予想して、
このように団結した神々の軍勢が、– このように厳然と整列して
いるこの大軍が、あのような敗北を喫すると思いえたであろうか?

サタンが元々は天使であり、神に逆らい悪魔に落とされた存在であることを思い出しておこう。つまり彼らは「神々の軍勢」だったのであり、「天下無敵」を称することが許される存在と言って良い。その彼らが唯一叶わないのが「全能者」、すなわち神ということになる。その神に戦いを挑んだのだから敗れたのは当然なのだが、あくまでも自分たちの誇りを賭けて戦ったのだから、その敗北は決して「不名誉」ではなかったのだと言う。

負けるとわかっていても名誉のために戦わざるを得ないという、まさにダークヒーローとして悪魔の魅力が描かれれているとも言える。更に、悪魔の軍団が出陣の準備をしている様子を描いた一節を引用してみよう。

[…] そのあと、直ちに出陣の
合図の大小さまざまな喇叭を朗々と吹きならすと同時に、
それに応じて我が大旆を掲げよ、と命令を下した。
その栄ある任務を、自分の当然の権利として買って出たのが、
堂々たる智天使アザゼルであった。彼は、すぐさま、
煌めく旗竿に巻きつけてあった帝王旗を解きほどいて
うちふった。大旆には、宝石や黄金色に輝く飾りが燦然と
描かれていた。それが翩翻と翻り煌めくさまは、
風に流れる流星さながらであった。その間、朗々たる
喇叭が吹奏され、士気はいっそう昂揚した。[…]

智天使アザゼルがサタンの配下であることを知らなければ、神直属の部隊と間違うばかりの壮麗さだと言える。悪でありつつも、そして悪であるからこその優美さが描かれていると言って良い。神の威光からこそこそと逃げ回り、姑息な手段で人間を騙そうとするそれまでの悪魔像と比べれば、隔絶の感があると言えるだろう。

敗れはするものの自らの誇りを賭けて神に反逆するサタンが、独特の魅力を持って描かれているのが分かるだろう。悪役ながら人々を魅了してやまないダークヒーローとしてのサタンと言って良い。例えば、インド神話で帝釈天に対して繰り返し戦いを挑む阿修羅の戦いが想起される。

 

ゲーテの『ファウスト』

更に、19世紀に入るとヨハーン・ヴォルフガング・ゲーテ(1749 – 1832)の韻文による戯曲『ファウスト』(1808-33)が発表される。ファウストとは16世紀頃からドイツの地で語られ出した伝承であり、悪魔との契約により自分の魂と引き換えに絶大なる知識と現世での幸福を手に入れようとして数奇な運命を辿る博士を主人公とした話だ。この話だけではなく、既に見たように、悪魔と契約して財産や特殊な能力を得るという物語は中世の頃から数多く存在する。それらに対して、ゲーテの『ファウスト』の特徴は、悪魔として登場するメフィストフェレスにあると言って良い。

メフィストフェレスは、それまでの悪魔像に対して一線を画す新しいモダンの時代に即した悪魔像を提示したのである。J.B.ラッセルは著書『メフィストフェレス』の中で次のように言う。

メフィストフェレスは作品自体同様、世界のように多面的である。ごく表面的にみてさえメフィストフェレスの性質はよくわからない。サタンないしサタンと同等の者にみえることもあれば、群小デーモンの一つでしかないようにみえることもある(338-339、1338-1340行)。実際のところメフィストフェレスはあまりにも複雑で多面的、多義的なので、キリスト教の悪魔とは思えないのである。

もともとサタンは位の高い天使であるので、人間からすれば神同様に近寄りがたい存在の筈である。ところがメフィストフェレスには小者のような側面も併せ持っているというわけだ。言い換えれば、非常に人間臭い悪魔だとも言える。『悪魔の歴史』のロベール・ミュッシャンブレも以下のように言う。

ゲーテは、17世紀中葉に始まり、1720年から1730年にかけて市民権を得るようになった特徴、およびその主要な結果を自作の中に取り込んでいると思われる。サタンの擁護者の懸命なる巻き返しも功を奏せず、地獄の主サタンはその重要な地位を喪失したのである。その一方で、各個人と直接交渉を持つ、より馴染みやすいデーモンが全面に押し出されて来る。

例えば、神とメフィストフェレスとの会話を見てみよう。全能者は悪魔に神の下僕であるファウスト博士を誘惑してみろと挑発する。メフィストフェレスはかつて蛇がアダムとイヴを騙して林檎の実を食べさせたように、ファウストを籠絡し神との賭け勝負に勝ってみせるとうそぶいてみせる。それに対して、神が呟いた言葉を引用してみよう。

おまえたちは楽しい連中だ。天邪鬼ぞろいだが、いたずら連中は手がかからない。人間は何をするにせよ、すぐに飽きて休みたがる。

ミルトンの壮麗なるサタンとは違い、ここでメフィストフェレスは神に見下され小馬鹿にされているのがわかるだろう。かつての大天使サタンというよりは、下っ端の小悪魔のよう見える。また、ファウストが見初めた女性マルガレーテを口説き落とすべく彼女に贈った小函を、母親が取り上げて教会に委ねてしまったことに怒るメフィストフェレスの言葉を引用してみよう。

メフィスト
恋人にはねつけられようと、地獄の劫火に焼かれようと、まだましってものだ。えい、腹が立つ!
ファウスト
顔をひん曲げて、何をいきまいている? 
メフィスト
自分が悪魔でなかったら、悪魔にそっくりくれてやろうじゃないか。
ファウスト
どうしたっていうのだ。頭に湯気を立てて跳びまわっているのは、悪魔にお似合いではあるが。
メフィスト
いいか娘にくれてやったしろものを、坊主めが召し上げた − つまり、こうだ。母親が小函を見つけて、さっそく心配しはじめた。あの女は鼻がいい。

悪魔の力で誰でも気に入った女をあてがってやるとファウストに豪語しておきながら、ものの見事にその母親に出し抜かれて悔しがるメフィストフェレスの振る舞いは、はっきり言って滑稽である。

このように人間界に降りて来た悪魔の様子は外見にも表れている。メフィストフェレスはかつての悪魔のトレードマークであった、角だの尻尾だの爪だのといった外見を最早まとってはいないのだ。この悪魔は普通の人間の格好で舞台に登場する。それは何より新しい時代と社会に対応したためなのだ。メフィストフェレスは言う。

それに文明ってやつが世にひろまって、悪魔まで手をのばしてきた。もう北方の妖怪はお目にかかれない。角も、尻尾も、爪も御用納めだ。脚ばかりは、なしですまされねぇ。といって蹄をむき出しにすると、とんだ目にあう。そんなわけでもうずっと前から、当節のやり方で、ニセの脚を使っている。

人の姿をした悪魔、というのがゲーテがメフィストフェレスによって提示した新しい悪魔像だったというわけだ。姿だけではなく、この悪魔は人間のように些細なことに喜んだり、悔しがったりする。イエスに神性と人性が同居しているように、メフィストフェレスは人間の性質を併せ持った悪魔だったのである。この戯曲の中では悪魔の受肉に関しては直接語られてはいない。しかし、人間の姿で登場し、人間の性質を持っている点こそが、メフィストフェレスのそれまでの悪魔像にはない特徴となっていることが指摘できるのだ。

E.T.A. ホフマンの『砂男』

上記のような韻文の作品に対して、聖書、神話やお伽話ではなく、散文で綴られた小説という媒体で日常生活に現れる悪魔を描いたのがE.T.A. ホフマン(1776-1822)である。ホフマンの小説においては、悪魔は悪魔としてではなく人間として現れる。ミルトンの『失楽園』においては、物語の舞台はエデンや地獄などであり、そこでサタンと配下の悪魔たちは堕天使の姿で描かれている。ゲーテの『ファウスト』においては、悪魔メフィストフェレスは外見上は人間を装ってはいるものの足は悪魔の蹄のままであり、あくまでも悪魔が人間に変装していることになっている。

対して、ホフマンの小説の悪魔はあくまでも人間として登場する。例えば、ホフマンの短編小説『砂男』を見てみよう。主人公のナタナエルは幼い頃、大人たちから夜遅くまで起きている子供のところには砂男がやってきて目玉を取られてしまうと聞かされる。なかなか寝ない子供にお化けの話で脅して床に着かせようというのは日本でもよくある話だ。ところが、幼いナタナエルは時折家にやって来る弁護士のコッペリウスがその砂男なのではないかと不安を抱くようになる。コッペリウスは見るからに薄気味悪い男であり、なんとナタナエルの父親は彼と妖しげな実験をしている最中に事故で亡くなってしまう。そういう事情もあり、ナタナエルは青年に成長した後も、コッペリウスこそが砂男なのではないかと怯え続けるのだ。もちろん、周りの人々から見れば、それはナイーヴな若者の妄想ということになるだろう。ホフマンは基本的にコッペリウスをただの不気味な人間として描く一方で、時にはその現実離れした特徴を前面に押し出しコッペリウスが砂男であると匂わせたりもする。つまり、物語は現実と妄想を行ったり来たりしながら展開されるということだ。基本的には日常生活が描かれはするが、ところどころその日常が破綻し悪魔が顔を覗かせているように見える描写が続くことにより、日々の生活の中に潜む不安が増幅させていく、という手法がとられているというわけだ。これは現在のホラー映画などでもよく使われる手法であることを確認しておこう。最終的に妄想から逃れることのできなかった主人公のナタナエルは、精神に異常をきたし高い塔から飛び降り死んでしまう。

ホフマンの小説で興味深いのは、悪魔の存在なり怪奇現象の描写が妄想と現実の間を行ったりきたりしつつも、最終的には非現実世界の実在を読者に強く印象付ける終わり方をしていることだろう。終わりの部分から引用してみよう。

叫びを聞きつけて人々が集まってきた。大勢の人ごみのなかに弁護士コッペリウスの抜きん出て大きな体があった。先刻、この町についたばかりで、その足で広場にやってきたのである。狂人をとり押さえるため人々が階段をのぼりかけたとき、コッペリウスが笑いながら人々を制した。

「まあ、お待ちなさい。そのうち当人が降りてきますよ」
人々と並んで上をながめている。ナタナエルはふと足をとめた。下をのぞいてコッペリウスを目にとめると、金切声をはりあげた。
「わーい、きれいな目玉だ − きれいな目玉だ」
ついでにベランダから身をおどらせた。
頭蓋骨が割れての上にナタナエルの死体がころがった。その直後、人々の騒ぎに紛れてコッペリウスは姿をくらました。

もちろんここにはコッペリウスが砂男だとは書いてはいない。しかし、このくだりを読めば、実のところコッペリウスは悪魔であり、ナタナエルに取り憑いて死に追いやったのだという印象が強まるのは明らかだろう。何気ない日常生活に潜む怪奇を描くことによって、悪魔は神や天使といった雲の上の存在から身近な存在に降りて来たとも言える。

次回はホフマンの長編小説『悪魔の霊酒』を見てみたい。

黒木朋興(くろき・ともおき)
[出身]1969年 埼玉県生まれ
[学歴]フランス国立メーヌ大学博士課程修了
[現職]上智大学/東京電機大学等 非常勤講師
[専攻]フランス文学 比較修辞学 大学評価
[主要著書]『3・11後の産業・エネルギー政策と学術・科学技術政策』, 日本科学者会議科学・技術政策委員会編(共著 八朔社、2012年),『グローバリゼーション再審ー新しい公共性の獲得に向けてー』(共編著 時潮社、2012年),『〈国語教育〉とテクスト論』(共編著 ひつじ書房、2009年), Allégorie(共著 , Publications de l'Université de Provence, 2003)