楽しく学ぶ倫理学 第16回 人間中心主義の再審田上孝一

ヒューマニズムと人間中心主義の異同

規範倫理学の立場として、功利主義・義務論・徳倫理学の三つがあると、現代の倫理学研究では広く主張されているが、実際は功利主義も義務論も個人倫理という次元においては徳を重視する議論には変わりなく、その意味では同時に徳倫理学でもあるという点を見た。そのため、行為の一般的な規範を提出する原理という意味で、徳倫理学というものが功利主義や義務論と並び立ち分野として確立しうるのか、はなはだ心もとないという疑問を提出した。

ではどうすればいいかということだが、必ずしも一元論に固執することなく、帰結と規則の双方を程よく重視したバランスのある議論を目指すべきではないかと提起した。帰結のみを基準にした議論も、義務の純粋な追及も、倫理規範としては不適切なのではないかという疑問である。倫理学が人間の学問である限り、通常の人間が常識的な努力で実現できるような規範でないと、実践を重視する学問としての倫理学にとって望ましくないのではないかという観点である。

倫理学は人間による人間のための学問ということから、推論してみたわけである。

ところがこの点で現在、素朴な確信を保つのが困難になっている。

先の連載で、伝統的な倫理学と現代倫理学の分水嶺の話をした。伝統的な倫理学は規範の適用範囲を人間にのみ限定し、人間以外の存在、端的に言って動物には無関係なものとした。むしろ規範と、規範に従うことのできる精神的能力を人間固有なものだと前提した。なすべきことを打ちたて、それを行なうためには、何よりも合理的な推論能力、つまり理性が必要であり、こうした理性は人間固有のもので、動物にはないものだとされた。そのため、理性的であるかどうかが人間の人間たるゆえんであり、それはつまり「動物ではない」ということが、人間の本質的な特長だとされたのである。

また、人間には合理的な推論能力のみならず、他者への同情や愛情、つまり他者への共感という感情があるとされ、こうした共感能力は「人間的な感情」として称揚される。対して動物はあくまで弱肉強食の世界に生きる、血も涙もないものだとされる。「けだもの」という呼称は、人間世界では最大級の侮蔑表現となっている。「畜生」という日本語もまたしかりである。

こうして、人間を人間足らしめる美質は伝統的に、人間とは近いがしかし質的には絶対的に区別される動物との対比によって強調されてきたのである。そして今でも、人間を動物と対比させて称揚するという思考スタイルは、一般的な常識になっている。

人間を人間足らしめる美質を明確にし、それを追及することは、倫理的な生き方の基本である。なぜなら、倫理的な生とはソクラテスが言うように、ただ生きるのではなくよく生きることであり、よく生きることはアリストテレスが言うように、人間がその本性として持っている器質(徳=アレテー)を十全に発揮することができるような生き方だからである。これはつまり、人間が人間らしくあること、人間がその本来のあり方を実現できるときに、人間は自らの生を倫理的な善き生にできるということである。従って、倫理的に生きるということは人間にとって、人間らしく生きることだと言い換えることができる。つまり、人間は人間らしく生きるのが、まさに人間にとってふさわしいということである。

こうして倫理的に生きるということは、人間が人間らしく生きることだということになる。人間は人間らしく生きるべきだという考えは一般にヒューマニズムといわれ、ヒューマニズムは通常、人間主義と訳される。このような意味での人間主義が倫理の中心になるべきなのは言うまでもない。強く言えば、倫理学とは人間が人間らしく生きられるための規範の探求であり、倫理学は人間主義的以外のものであってはならないはずである。

ところが人間主義はこれまで、議論の前提となる人間の人間たるゆえんを動物との本質的な違いという視点から説明していた。そのため、人間と動物の違いが事実判断のみならず価値判断まで拡張されがちだった。人間と動物はその事実において違うのみならず、価値においても違う。人間は動物よりも尊いものであり、動物は人間よりも卑しいものであると。ここから、人間主義はどうしても人間中心主義と重なってしまっていたというか、人間主義と人間中心主義は明確に区別されることなく、混同されてしまっていた。

しかし人間主義と人間中心主義は別物である。この二つは本来別次元のものであり、理論の性格からいえば、混同すべきものではないからである。人間主義は人間が人間らしくあるべきだという規範で、理論の適用範囲はあくまで人間社会内部に留まっている。従って、人間主義的な規範に反する、批判されるべき状況というのは、あくまで人間社会の内部で具体的な個々人が陥っている否定的な状況である。例えば人種や性で差別されるのは、人間社会において個々の人間が不当な理由で貶められ、人間らしく生きることを妨げられている。そのため、差別は人間主義的な規範に反するものとして、批判されなければいけないのである。だから人間主義においてはあくまで人間社会内部における個人の状況が問題になるのであり、人間を他の存在者と比較する必要は、本来ないのである。

ところが、人間中心主義はまさにこれと逆である。人間中心主義的思考の前提は、人間と人間以外の存在を比較して、人間の特権性を謳うことである。人間を高めることは、人間以外の存在を低めることと表裏一体である。この場合、人間と全く異質なものを比較しても、人間を高めることはできない。比較対象となるのは、人間に近いがしかし明らかに人間と違うとされる存在である。それは動物であり、取り分け人間に近いように思われる動物が念頭に置かれる。だから通常は昆虫や魚などは比較対象とされない。少なくとも哺乳類であり、典型的には霊長類である。ゴリラやチンパンジーは一見して人間と似ているが、しかし実は明らかに人間と違う。我々は人間で彼らは動物だからだというわけである。

このように他者と比較して自分を高める思考方法は外国人差別に典型的に見られる論理である。ただし、外国人差別が根拠付けられないのと違い、動物差別は道理があると考えられている。なぜなら動物はその事実において明らかに人間に劣るものであるからだ。外国人はあくまで人間であり、人間である限りそこに根本的な優劣を見出すのは難しい。ところが動物は人間ではなく人間より劣るものだから、差別は当然だということになる。これが人間中心主義的思考である。

このような人間中心主義的な考え方の問題は、人間以外の存在を基本的に道具的なものと見ることである。まさに人間は動物を生きる資源として、これを利用し続けている。しかし現在行なわれている人間の動物利用は、後に論じるように、文明の持続可能性を脅かしている。同じように、手段視される範囲は動物に留まらず、植物を超えて自然環境全てに及ぶ。自然資源を尽きることない富の源泉として利用し続けている現在の人類にとって人間中心主義的思考は、普段問われることのない自明の大前提なのである。

こうして倫理的に望ましい原則である人間主義は、倫理的に望ましくない人間中心主義と混同され続けている。しかし人間主義の原語がヒューマニズムで、人間中心主義のそれがアントロポセントリズムであるように、これら二つははっきりと区別されるべきものである。それは人間主義の導き出す規範的帰結、つまり動物虐待と環境破壊の正当化が地球を滅ぼしかねない以前に、その拠って立つ論及が破綻しているからである。それはどういうことか。

 

人間中心主義の破綻

人間中心主義を正当化するには、質的に異なる二つの方向性がある。一つは宗教的な方向である。人間中心主義は人間以外の存在を人間のための手段だとする思考様式だが、この理由を神がそのようにしたからだとするのである。この世界は神が人間のために作り出したのであり、人間がこの世界を支配するのは神によってお墨付きを得た絶対的に正当な行為だとするわけである。こうした考えはキリスト教徒の間に一般的に広まっている。そして西洋文明は昔も今もキリスト教の根強い影響にあるため、決して無視し得ない見方である。

これに対しては、キリスト教自体がそのような人間中心主義的な宗教ではなく、神が人間に与えたのは地上を支配する権利ではなく、ほどよく管理する役割りに過ぎないという解釈がある。つまりキリスト教の本義は、信者間で常識になっているように、神が人間を地上の支配者(マスター)に命じたのではなく、神の庭である地上の「庭番」を任せたに過ぎないという聖書解釈である。これが適切ならば、人間中心主義の神学的根拠は崩れるというものである。

こうした宗教的なレベルの議論にどう取り組むべきかだが、先に明示したように、倫理学は宗教とは議論のレベルが異なるという原則を貫きたい。神が人間をこの地上の支配者としたという人間中心主義的解釈が正しいか、単なる庭番にしたに過ぎないという解釈が正しいかは、いずれも神学論争であり、信仰のない者が外部から確定できる性質のものではない。倫理学が依拠するのはあくまで合理的な推論である、その基盤は現行の自然科学的パラダイムである。神が存在するかどうか、神の真意が何かというのは、経験的に観察されるデータから論拠が得られるものではない。神の存在の正否を科学的に確定することはできない。神学論争は通常の自然科学方法論に則った合理的推論によって議論の正否が確定できるものではない。倫理学が依拠すべきなのは、あくまで人間と自然に関する現行の自然科学的パラダイム、つまり現在の模範解答である。

実際人間自然中心主義にしても、これまで歴史的には、究極的には神学レベルの話に落ち着くところはあったものの、基本的にはあくまでその当時の科学的認識に則って主張されていた。つまり人間はただ神がそれを特別な存在として創造したという神学的根拠のみならず、実際に観察され科学的に処理できる事実として、人間とは根本的に異なると主張されてきたのである。

その典型例がデカルト及びその後継者が採用した動物機械論である。これによると、動物も人間も神が創造した精密な機械だが、人間は精神があるという点で動物とは異なる。つまり人間は心ある機械であるが、動物は心のない機械である。心のある存在は、本当は機械ではない。だから人間は実は機械ではなく、動物のみが本当の意味で機械だということになる。ここから、心のある人間には感情や理性が、つまり意識があるのだが、心のない動物には意識がないという理論が出てくる。動物には人間のような内面的な精神世界がないということである。

こうした考えは今日からすれば荒唐無稽に思えるが、動物に関する科学的認識が未発達だったデカルト当時の人々にも、奇異に見える考えではなかっただろうか。当時も今同様、動物を愛玩する人々はいたのだし、可愛がっている犬猫に心がないとは思われなかっただろうからである。しかしこうした常識的な感覚に反して、人間と動物を峻別する伝統に支えられた物心二言論に基づく動物機械論は、教養ある多くの人々の支持を得たのだった。実際この考えは、動物実験に対する心理的負担を和らげてくれる。動物を実験のために切り刻むことは、たとえそれが医学の進歩という崇高な目的のためでも、動物がかわいそうだという素朴な感傷を引き起こす。しかし動物には心がなく、痛がって見えるのは単なる身体の機械的反応で、本当は痛くもなんともないとするのならば、動物を切り刻むのに何の躊躇もいらないのである。信じられないことに、デカルト主義者である最初期の動物実験者たちは、動物は心のない機械であるという信条に基づき、麻酔をすることなく動物を解剖してしまっていたのだという。当然実験室は動物の断末魔によって阿鼻叫喚の地獄絵と化していた。余りのことに実験者も耐えられなくなって、やがて麻酔を使うようになったのだという。

当然今日の科学は、動物機械論よりも動物愛玩者の素朴な確信のほうが真理に近いことを告げ知らせている。つまり愛らしい犬猫が気持ちよさそうに甘えたりじゃれたりするのは、本当に気持ちがいいからだと。それは我々が気持ちよく感じるメカニズムと根本的には同じである。なぜなら犬猫と我々は同じ哺乳類であり、哺乳類という生物学的な類似性によって、身体構造の共通性があるからである。そして我々が心地よさを感じるのが脳によってであるように、犬猫もまた脳の働きによって快苦を得るのであり、我々が脳によって内面世界を持つように、犬猫も脳によって、我々とは何かしら異なるであろうが、しかし彼らなりの何らかの内面世界を持つであろうことは間違いがないのである。つまり今日の科学的常識は、動物も心がある、少なくとも犬猫のような動物は心があるということを確証しているのである。

ここで問題になるのは、犬猫よりもさらに我々に近い動物である。チンパンジーやゴリラ、それにオラウータン。そして人間に最も近いといわれているボノボである。これらの動物たち、いわゆる霊長類は、人間とどういう位置関係にあるのだろうか。

人間自身が霊長類の一員であるにもかかわらず伝統的思考は、他の霊長類と人間との間に絶対的な線を引いてきた。しかし科学においては人間のみが霊的存在であるというような、宗教的思考は使えない。それでもこれまでの科学は基本的に、人間と他の霊長類との本質的区別を主張してきた。しかしDNAの発見以降加速した遺伝学の飛躍的発展により、今日では人間と他の霊長類に太い線を引くことができなくなってきた。

生物としての人間と他の動物との関係を考えれば、先ず何よりもDNAの近似というのが基本的な観点となるはずである。人間が特別な存在ならば、人間とボノボの間にもDNA組成の大きな違いがあるはずである。ところが実際には、そこには僅かな違いしかない。霊長類の構成グループの間で、人間以外の霊長類で最もDNAに違いのある組み合わせよりも、人間とボノボの組み合わせのほうが近いのである。生物としての人間を見た場合、人間を他の霊長類との違いを際立たせ、そこに太い線を引いて断絶させることができるような事実は存在しないのである。

生物としての身体構造に根本的な差異が認められないとしても、文化や社会のレベルでははっきり異なると考えられてきたし、今でも常識的にはそう考えられている。そもそも文化や社会というもの自体が人間だけのもので、人間以外の動物には存在しないと考えられてきたし、今でもそう考える人は少なくないだろう。確かに文化は、この言葉自体が人間固有の要素に限定して使われているところがあるので、チンパンジーやボノボの文化という言い方それ自体が、言葉の拡大解釈の嫌いがある。しかし社会の場合は、直ちに人間限定という用法ではないだろう。

個々の要素が無関係に孤立して並存しているのではなく、相互に結び付きながら全体を構成しているような状態、それが生物によって営まれている場合は、社会といってもさほど不自然ではないだろう。この意味で動物にも社会があるのは当然のことである。しかし一般にはこのような動物社会は、人間社会とは異なり、単なる「群れ」に過ぎないと見なされる。確かにそれもまた「社会」ではあろうが、人間とは根本的に異なる。その意味で動物社会は社会というに値しない。だから実際には動物には社会がないといって構わないということになる。

では人間社会の何が動物にはない真性の社会性をもたらすのだろうか。言語を使った複雑なコミュニケーション能力というのが、典型的な回答である。これは、言語が人間固有のものだという伝統的思考を背景としている。伝統的思考は、人間は動物と異なる理性的存在だと見なしてきたが、理性とはreasonであり、reasonを用いることreasoningは推論である。推論そのものは言語ではないが、推論は通常言語を使って行なわれる。つまり推論ができるのは言語的存在であり、言語的存在こそが理性的存在ということになるわけである。

しかし現代の動物関連科学は、このような伝統的常識に確固とした反論の素材を提供している。言語には話し言葉と書き言葉があるが、文字が発明される前から人類は会話をしていたし、文字ができてからも無文字社会は数多く存在した。明らかに言語の基本は話し言葉である。話し言葉が何のために存在し、発展したのかといえば、仲間との意志を疎通し、集団の秩序を保つためである。コミュニケーションの道具であることが、言語の本質だと考えられる。

動物は人間のように複雑な会話はできない。しかし人間にしても、生まれてすぐに流暢に話せるなどということはなく、長い年月をかけて話せるようになる。確かに乳幼児は保護者が付きっ切りで世話をしなければならないが、片言を話し始めた幼児は、拙い言葉でコミュニケーションを取ることができる。幼児同士でも、何かしら意思疎通をすることができる。音声コミュニケーションは、流暢で複雑な言葉を操ることが必須ではないのである。

動物もまた、はっきりとした文法を持った複雑な言葉が使えるとは思われないが、確かに音声でもってお互いに意志の疎通をすることができる。これは霊長類には明確である。霊長類に限らず、イルカのような海洋性哺乳類では、音声の他に超音波も使って、個体間の意思疎通を行なっているとされる。ということは、言語の基本的定義を音声によるコミュニケーション手段とする限りは、動物もまた言語的存在だといわざるを得なくなるということである。これはつまり、言語による個体間の結び付きの形成という人間社会の本質的特徴が、ある種の動物にも共有されているということである。つまり社会的存在であるのは人間だけではないということである。決して動物全てではないが、動物の中には確かに人間同様に社会的存在であるものがいる。だから社会でもって人間と動物を分断する伝統的思考は、今や破棄されなければならないということである。

人間のみならずある種の動物も人間的な意味で社会的存在であるということは、社会的存在としての人間を特徴付けている様々な性質が、動物にも共有されているということでもある。例えば近親者への親愛の情というのは、典型的に人間的な感情として尊ばれている。特に、直接的な血縁関係がないか、あったとしても遠い親戚程度の者にも親愛の情を示すのは、人間ならではの美質だと考えられている。確かに動物の中には共食いをしたり、我が子を殺して食べてしまうような、非人間的な行いをする類もいるが、中には同じ集団の仲間に細やかに気を使う者たちもいる。霊長類、特にゴリラの集団などでは人間をも凌駕するような思いやり行動が見られる。愛情は人間の特権ではないのである。

こうしたことは、これまで人間固有だと思われていた様々な指標が、もはや使えなくなってしまったことの現れである。先に述べたように、道具を作るという基準も、人間と動物を分けるには足りないのである。

これらの事実から導かれる理論的帰結は、倫理規範を考えるにあたっては、人間を人間以外の存在と対比させてその特殊性を際立たせるという伝統的手腕と手を切り、人間を動物と地続きな存在と見ることを前提にすべきだということである。人間と動物を一体的なものとして考えるということは結局、動物を含めた人間以外の存在、つまり環境の只中にある存在として人間を捉えるということである。

倫理学において環境の問題は、環境倫理学の領域として、倫理学の一分野として一般に認識されているが、人間が本質的に環境内存在であることから、人間を中心課題とする倫理学にあって環境倫理学は、確かにその一部であるが、中心的な部分として、特別な重要性を有するといえる。次回は環境倫理学の話から始めたい。

 

田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)