楽しく学ぶ倫理学 第20回  動物権利論の実践的帰結田上孝一

前回の連載で、もし我々が人権を尊ぶのならば、論理的必然として同時に動物の権利も尊重しないといけないと提起した。しかしこうした動物権利論の提唱には当然、大きな反発があろう。それは無理だし、土台絵空事だというように。ところが実際は、無理でもなければ絵空事でもないのである。

もし現在の生活が動物利用に支えられているのならば、動物にも権利を求めて奴隷のように使役してはいけないというのは、無理難題の類になるだろう。しかし既に触れたように、そういう時代は終わったのである。かつて動物が行なっていた作業は殆ど全て、機械に取って代わられた。動物を利用することは今や、便利な文明生活の必須条件ではない。また、かつては動物を使っていた様々な材料にも、代替物ができている。合皮がある現在、革を使う必然性はなく、毛皮よりも優れた防寒具がある。代替物があるのに動物製品を使うことは、他に選択肢があるのに敢えて行なうことであり、動物の犠牲を無視した振る舞いということになる。

つまり現在行なわれている動物利用とは基本的に、利用しなくても済むのに敢えてやっていることであり、やらないことによって生活の質を下げることのないような、深刻ではない、オプショナルなものに過ぎないのである。

その典型がエンターテイメントにおける動物利用である。かつて別の大陸にいる動物を見るためには、自らがそこに行くか、その動物を連れてくるしかなかった。飛行機のない時代に、大陸を移動するのは大事業であった。まして観光目的で行き来できるのは、一部の裕福な金持ちに過ぎなかった。こういう時代にあって動物園は、人々の好奇心を満たすための意味があった。ところが現在は、現地に行くことなく、鮮明な映像で野生動物の生態を見ることができる。それに動物園に連れてこられた動物は、狭い檻や囲い、近くから浴びせられる多数の人間の視線によって、野生本来ではあり得ないストレス行動を取るのが常態化している。このような動物園にもはや存在意義はない。珍しい動物をこの目で見るための施設という動物園の使命は、映像文化の発展により終焉を迎えたのである。

ましてやサーカスでの動物利用は言語道断である。動物に芸を仕込むのは、虐待抜きにはできない。鞭で強制して芸を仕込むのは野蛮としか言いようがない。サーカスの調教師が動物に襲われ命を落とすことは珍しくないが、このような悲劇を生まないためにも動物に芸をさせるという馬鹿げたことは止めないといけない。見る側も、動物の芸を見て喜ぶという下品な作風を卒業しないといけない。芸はやりたい者が自発的にやるものであり、人間にせよ動物にせよ、嫌がるものを鞭打ってやらせるものではない。サーカスの動物利用は直ちに全面禁止すべきである。

このように、エンターテイメントにおける動物利用に典型的なように、現在の動物利用は文明生活の必須条件ではなく、オプショナルな贅沢として行なわれているのが基本である。だからそれは動物虐待と釣り合うものではなく、動物を守るために廃止されるべきものとなっている。

しかしこういうと直ちに反論があろう。現代でも動物利用はオプショナルな贅沢ではなく、むしろ必須なものである。何よりも肉食と動物実験がそれを示していると。

実はここに動物権利論の焦点がある。肉食も動物実験も必然ではなく、もはやなくても構わないものであるにもかかわらず、今でも当たり前のように永続的に行なわれるべきものとされているからである。

何よりも重要な問題は肉食であり、肉食の否定としてのベジタリアニズムであるが、この問題については他のところで詳論していることもあり、また詳細に話すと独立した論考になってしまうため、ここでは簡単に触れるに留める他ない。

一番重要なことは、世間一般のイメージとは異なり、肉食は人間にとって必須ではないということである。肉にしか含まれない必須栄養素があれば、肉食は絶対に必要だし、ベジタリアニズムは自殺志願者の愚行ということになる。しかしそのような必須栄養素などないのである。また肉を食べないと栄養が不足する、特にたんぱく質が不足すると広く思われているが、肉以外の植物性食品、特に日本の食生活の土台骨である大豆は、肉に全く引けをとらない上質なたんぱく源なのである。そもそも日本人が日常的に肉を食べるようになったのは戦後からに過ぎない。もし肉を食べなければ必然的に栄養失調になるのならば、日本人はとっくに死に絶えている。ところが実際には日本人は、大豆を基本とした食生活により、必要なたんぱく質を得ることができていたのである。

このように食べなくても栄養問題が生じない肉であるが、世界中で日常的に食べられている。日本ではあくまで主食に対するおかずの位置にあるため、主菜と副菜の区別が曖昧になって、主食的に肉が食べられている欧米人に比べれば大分少ないものの、かつての伝統的食生活ではあり得ないような、日常的な肉食が常態化している。このため、先祖がそうだったにもかかわらず、現代の日本人は肉を食べない食生活をイメージし難くなっている。しかし肉を食べない日常は実は、何ら特別なものではない。その実例がインドである。

インドの人口は現在13億を超えるが、その半数前後が厳格なベジタリアンで、残りの多くも毎日のように肉食などせず、たまの贅沢程度で肉食をするような食生活を送っているとされる。日本の人口の何倍もの人が、当たり前のように肉を食べないのである。肉が必須ではないということ動かぬ事実である。

このように必須ではないにもかかわらず、当たり前のように行なわれている肉食であるが、人間が食べる肉は広々とした牧場で伸び伸びと育てられ、幸福な生を過ごした後に自然死した屍肉ではないのである。あるいはそのよう肉も売られているかもしれないが、あったとしても統計上はほぼゼロの割合だろう。大多数は、虐待的な飼育環境で、自然寿命より遥かに短く屠殺されて作られる肉である。このような肉であっても、どうしても食べなければ死んでしまうのならば食べるしかないが、ごく稀にいるかもしれない特異体質の人を除けば、肉を食べる必要は全くないのである。

これらのことから、動物にも権利があるという前提からは、肉食を辞めるべきだという規範が出てくる。肉食ではなくて、ベジタリアンの食事のほうがむしろ必須なのである。

とはいえ、食文化は強固な伝統だし、個人の食習慣も変えることは困難である。ここからは自ずと、急進的ではなく漸進的なアプローチが必要になる。どんなに正しい規範でも、実行が困難ならば絵空事になる。全人類が一挙にベジタリアンになるのが理想かも知れないが、そんなことはできるはずもない。できるのは地道な実践しかない。

このため、個々人それぞれができる範囲で肉食を辞めるべきだというのが、現実的な規範になる。肉食が消滅するのが理想だが、現地点では無理である。それは交通事故がなくならないのと同じである。だからといって諦めるのではなく、ゼロに近づくように実践を促すべしということにしかならない。日本にいると想像しがたいが、実はベジタリアニズムは世界中で急速に広がっている。ドイツでは今や人口の一割がベジタリアンやビーガンだという。ソーセージの本場で大量のベジタリアンが生まれているのだから、日本では広まらないと決め付けるのはおかしい。一挙に短期間で世界人口の多くがベジタリアンになると考えるのは夢想だが、長期的にはベジタリアンが多数派になるというのは、少しもおかしくない現実的な予測なのである。

動物実験もまた肉食同様にこれからも絶対に必要なものと思われている。何よりも医学の進歩には欠かせないと。確かに医学の進歩には欠かせないのかもしれない。しかし現在行なわれて動物実験で問題なのは、その多数が医学上の進歩のためのやむを得ざる犠牲という一般的イメージとかけ離れていることである。食品や化粧品の新商品の開発というのは、やむを得ざる犠牲の上に必要なこととは誰も思わないだろうが、実際に行なわれている動物実験の多くは、このようなどうでもいいようなことのために行なわれているのである。そもそも化粧品も食品も、既知のデータが大量に蓄積されている。改めて動物実験などをやらずに、既に安全性が確定しているものだけを組み合わせて作ればいいだけのことである。消費者が動物実験を求めなければ、なしで済ませられるのである。実際動物実験をしないことを売りにしている化粧品会社は幾つもある。こういう消費者運動の広まりが大切なゆえんである。

医薬品にしても、新たに開発される薬の多くは風邪薬のように、改めて開発する深刻性のないものである。これまた消費者が望めば、大幅に削減できるものである。

つまり動物実験というものは、原則的に廃止ということにしても、多くの人々が思い込んでいるように、市民生活が破壊されるような深刻な帰結など生み出さないものなのである。確かに一切の動物実験を今すぐ禁止するというのは危険かもしれない。未知の伝染病が広がった場合に新薬を開発したり、難病治療のためにどうしてもという場合もあるだろう。しかしこれは見方を変えれば、その程度の必要しかないということである。動物実験というのは、即刻完全廃止というのは行き過ぎた施策かもしれないが、原則廃止ということにして、ごく僅かな例外のみ慎重な検討の上で認められるという程度で済むものなのである。動物実験は実は、人間の細胞の利用によって完全に代替できれば直ちに全面廃止されるべきものだし、その間の過渡期においても、どうしても必要であるような深刻な例外を除いて、その実施が縮減されるべきものに過ぎないのである。動物実験は絶対に必要なものではさらさらないのである。

こうして動物権利論の実践的帰結は、現在行なわれている動物利用を全面的に廃止すべきという規範である。この規範の具体的な適応例の中には、生きたまま皮をはぐ毛皮のような、多くの人がその残虐性を認識すれば直ちに廃止の機運が高まるようなものもあれば、肉食のように困難なものもある。そうであっても、旧来の人間中心主義を相対化する現代にふさわしい倫理学を構築することの実践的帰結は、人間と動物の関係の抜本的な再構築ということにしかならないのである。

連載を終えるにあたって

20回にわたって連載した「楽しく学ぶ倫理学」であるが、今回で一先ずの区切りとしたい。連載を始めたのが2015年12月で、最初は毎月、途中から隔月で掲載し、丁度三年で終えることになった。

本連載を始めたきっかけは、2010年に日本実業出版社から刊行した倫理学入門書『本当にわかる倫理学』に続く、新たな入門書を作ろうと思ったためである。『本当にわかる倫理学』は出版されてから10年近くが経過しているが、予想外の好評を得て、少しづつではあるが、今も売れ続けている。

『本当にわかる倫理学』は原理的な話は最小限に留め、応用的な話題を多く取り入れて、初学者でも倫理学に親しめるように配慮した。ただそのために、学説的な説明を全て省略する必要があり、倫理学のテキストとしては不十分だと自覚していた。今回の連載ではこの点を留意し、「西洋古代倫理学小史」として、比較的まとまった古代倫理学説史を挿入することとした。連載の5回から12回目までがこれに当たる。これにより倫理学的思考の原型を具体的に提示することができ、学問としての倫理学の本質に迫ることができたのではと自負するが、そのために今度は逆に応用的な話題を取上げる紙面がなくなってしまった。

そこで今回の連載では応用的話題は特に動物倫理的問題に絞ることにした。これは動物の問題が応用倫理学の諸問題の中でも重要であると共に、旧来の倫理学を刷新する必要があるためだった。

古代倫理学小史で具体的に示したように、これまでの倫理学は人間による人間のための学問であった。どこまでも人間が主題であり、世界の中心である人間の歴史的使命を明確にすることを目指した学問だった。しかし今やそうした人間中心主義的思考が、地球環境の有限性によって根本的な制約を受けざるを得なくなっている。人間はこれまでのように大地の主人然として好き勝手に振舞うことができなくなっている。それとともに、動物関連科学の進歩と共に、他の動物にはない人間ならではの特質というような通念も、相対化されざるを得なくなっている。

このような現状は、人間がどう生きるべきかを問う倫理学にあっても、旧来的な人間特権論をパラダイムにすることを不可能にしている。人間は大地の主人ではなくて一部であり、万物の霊長ではなくて人間という動物であるということを前提とした新たな倫理学が必要とされている。

本連載ではしかし、この新たな倫理学について、その基本的な方向性だけを示すに留まり、具体的な内実を肉付けすることはかなわなかった。これは現地点での私の限界であるが、今後の課題としては明確になっている。今後は旧来の人間中心主義に代わる非人間中心主義的な倫理学の具体的展開を模索することとしたい。

田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)