原子論の魅力田上孝一

2015年12月から2019年1月まで、20回にわたって連載を続けてきた「楽しく学ぶ倫理学」に一先ず区切りを付けることができ、次には本来の専門である初期マルクスに関する連載を始めることを計画しているが、その前に何回か、私がこれまで出版してきた編著の紹介をしてみたいと思う。私の作る編著の殆どは何かしら特定のテーマに関する論文集になっているので、編著の紹介を通してそれらのテーマへの入門的な話題提供にもなればと考えている。

我々のような人文系研究者にとっては、一人で全てを書いた単独の著書、つまり単著が重要な意味を持っている。今は必ずしもそうではないが、かつては博士論文は必ず単著であるはずだと広く考えられていたし、ただ論文を発表するのみでは不十分で、いつかはそれらを単著にまとめて出版して世に問うのが、研究者としての当然の作法であるという考えが、昔ほどではないにせよ、今でも強く残っていると思われる。

世代的なこともあって、私も研究者は単著を出すことを基本にするべきだと考え、30代前半で最初の単著を出してから20年近くの間に7冊ばかり出版してきた。今後もこのペースを維持するつもりであるが、私の場合は単著以上に編著を出版することにやりがいを感じている。

編著出版に本格的に取り組み始めたのは10年ほど前からだが、この間に10冊近く手がけている。単著は文字通り一人の人間が書くものだから、どのような巨匠的人物でも書ける内容の範囲は自ずと決まってくる。例えば哲学史を書くにしても、自分が専門に研究している哲学者と、必要上授業で教えてはいるが、専門的に研究しているわけではない哲学者について同じレベルで執筆することはできない。私自身「楽しく学ぶ倫理学」で古代哲学史を講じたものの、古代哲学の専門研究者ではない。そのため、ギリシア語やラテン語の原典を正確に読解したりはできないし、古代哲学に関する未翻訳の研究書を広く読み解くという作業もなしえていない。人間の能力と研究時間も有限なので、古今東西の主要哲学者について何十冊もの専門研究書の単著を出すことができた人はいないし、そのようなことが要求されているわけでもない。このため、専門の異なる多くの事柄についてそれぞれ同濃度の叙述を成すというのは、単著ではまず不可能である。

しかし、編著ではこれができる。編著は各章がそれを専門とする研究者によって書かれるため、単著では絶対できないようなバラエティに富んだ内容の一冊にすることができるのである。これが私が編著作りに魅かれる最大の理由である。最近出した編著では、権利や支配をメインテーマに、その道の専門研究者に各章を執筆してもらい、単著ではありえない多様な専門的研究を含んだ一冊とすることができた。今回紹介するのもそのような編著で、そのテーマは原子論である。

2018年11月に法政大学出版局から、ニーチェ研究者である本郷朝香氏と『原子論の可能性』という共編著を出版した。この本は副題が「近現代哲学における古代的思惟の反響」といい、確かに原子論の論集ではあるものの、古代原子論それ自体についての論考を集めたものではなく、古代原子論が近現代哲学にどのような影響を与えたかという問題意識から、むしろ近現代哲学に関する論考を中心としたものである。とはいえ、原子論をテーマとする論集で古代原子論の章がないのは余りにも不親切だと思い、古代哲学の専門家に解説的な章を書いてもらった。

実はこの章は書こうと思えば私でも書けたのだが、しかしそれだと専門的な研究論文集としての質を落としてしまう。やはりギリシア哲学の専門家が書いてこそ、研究書としての意味がある。結果として、古代原子論の解説としては最良のものになったと、編者としては自負している。この本ができるまでには様々な紆余曲折があったが、その一つがこの章と現代物理学における原子論の位置づけという最終章の書き手を見つけることだった。いずれも編者二人が普段出入りしている学会や研究会では余り出会うことことのない分野の研究者が求められていたため、容易には見つからなかった。しかしどうしてもこの二章が必要だったため、見つからない限り本にすることはできなかった。ところが偶然知り合いの知り合いという形で二人まとめて参加してもらえることになったのである。

そもそも原子論を主題とした編著でありながら、編者の研究テーマは二人とも、一見して原子論との関連が薄そうな印象を与えるものだろうと思う。私のテーマであるマルクスはまだしも、その若き日の学位論文のテーマが原子論だったことは知る人ぞ知るところだろうが、ニーチェの場合は哲学にかなり詳しい人でも首をかしげるものがあろうかと思う。

ところが、この論集のニーチェ論を一読すれば分かるように、ニーチェには確かに原子論を積極的に評価した文言があるのであり、しかもそれはニーチェの思想全体にとって周辺的で瑣末な論題ではなく、むしろ彼の思想の中心に関るような重要論点の一つになっている。ニーチェの原子論で面白いのが、ニーチェが評価したのは「原子論」という言葉で普通に想起されるような、古代ギリシアの哲学者であるレウキッポスとデモクリトスに由来する唯物論的な哲学ではなくて、むしろ非唯物論的な原子論であり、直接には一般には殆ど知られていないボスコヴィッチという、現在のクロアチアに生まれた18世紀の自然哲学者による原子論である。ボスコヴィッチの原子論は原子論といっても通常の原子論のように運動する微小物質が衝突して反発や結合ををすることによって世界が構成されるというのではなくて、重さはあるが大きさはない、あたかもグラフ上の点のごとき「質点」というものが互いに衝突することなく、しかし離れ切らずに常に近接し合いながら、静止することなく緩やかに運動をしつつお互いに作用を及ぼし合うことによって物理世界を成り立たしめているというような独特の物理理論を提起した。ニーチェはこのユニークな原子論を受容して、これを「主体複合体としての霊魂」という、より一層ユニークな人間観へと帰着させる。本郷はこうした原子論に基づくニーチェ解釈を多くの論考で一貫して主張し続けているが、本書ではこの「主体複合体としての霊魂」論の理論的射程をニーチェのシェイクスピア解釈を媒介させることによってニーチェの悲劇論理解に及ぶまでに拡張しており、なおのことニーチェにとって原子論が、複雑で全体像が何ともつかみ難いその思想世界の、実は中心に位置する重要要素だったことが説得的に論証されている。

ニーチェほど解説書が出されている哲学者はなく、我が国で最も人気のある哲学者の一人だと思うが、本書のニーチェ論はそれらの通俗的理解とは一線を画すものである。本書はあくまで専門研究書であって、入門書のように読み易くはないが、ニーチェに関心のある読者にはぜひとも挑戦して欲しい。

ニーチェが依拠したボスコヴィッチは原子論とはいっても、原子を微小物質と見る通常の唯物論的な原子論とは異なる。質点は重さこそあるものの、大きさを持たない。いわば物理的に作用する力それ自体を抽象したかのような概念であるため、これを通常の物質の延長上に理解することは難しい。なぜこのようなことになっているかといえば、ボスコヴィッチの質点理論が、ライプニッツのモナド論の影響を強く受けているからである。

 ライプニッツの哲学原理であるモナドは、世界を構成する微小な基本単位である点では原子と共通するが、モナド間で相互作用をすることがないところは、明らかに原子とは異なる。しかしライプニッツ自身はモナドのことを「自然の真のアトム」としたため、そこで目指されているのは旧来の唯物論的原子論とは根本的に異なる新たな原子論だったことは確かである。

とはいえ、ライプニッツの議論は厳密な概念操作の上に成り立つ見事なものではあるが、いかんせん現実世界と連関させての具体的なイメージ化がし難い面があるため、その真髄を理解するのは困難である。この点で本書のライプニッツ論は、ライプニッツが当初は伝統的な原子論に依拠していたものの、その理論的な困難を次々と解決しようとして様々に理論を改変し、終にはモナド論に行き着く有様が具体的に解説されていて、モナド論の理論的動機と共にその基本的な理論構造がよくつかめるようになっている。編者である私自身、専門でないこともあってモナド論の真意が分かりかねていたが、本書のライプニッツ論を読むことによって「腑に落ちた」ところがあった。このような思いに駆られるのは一人私のみではないと思う。

こうして本書は厳密な文献解釈による古代原子論の解説に、他に例を見ないユニークなニーチェ解釈、それに哲学者の思想発展に内在することによってもモナド論の由来を見事に解き明かしたライプニッツ論など、自信を持って読者に薦められる優れた論考が掲載されているが、ここでは詳細に紹介することはできないものの、他の章も当然に、それぞれのテーマに関心のある読者の期待を裏切ることのない優れた論考揃いだと自負している。ただし、他ならぬ私の論考のみが、読者に不満を抱かせるかも知れない。

というのも、私の担当したマルクスの章は新たな書き下ろしではなく、旧稿の再録だからである。それというのも、本書以外に大量の単著や編著を同時並行的に行なっていて、マルクスの原子論に関して新稿を書き下ろせるだけの研究の蓄積が叶わなかったためである。とはいえ、収めた旧稿は博士論文の一章であり、本体である博士論文『初期マルクスの疎外論』(時潮社、2000年)それ自体が既に入手困難な状態になっているため、本書で初めて読む読者も少なくないだろうと思う。その内容についてここで詳細に述べることは控えたいが、その議論のエッセンスについては本書と同じく昨年度に出版した単著『マルクス哲学入門』(社会評論社)の第三章で、本書の論考よりもずっと分かり易く解説している。本書の議論が難解だと感じた読者には、こちらの入門書を読んでもらえればと思う。とはいえ、この入門書でもなお難しすぎるとの感想が多かったため、今後新しく連載する予定のマルクス論では、できる限り平易に解説するように心がけたい。

以上ごく簡単に編著『原子論の可能性』を紹介させてもらったが、世界の成り立ちを合理的に説明しようとした古代ギリシア哲学の精華である原子論は、それ自体が魅力的な理論的テーマであると共に、それが近代哲学を経て現代の量子力学まで脈々と息づいていたことを明らかにした本書の試みは、単に編者の好事家的な関心の発露というには留まらないものと自負している。本書は原子論哲学を主題とした本邦初の専門的な研究論文集であり、世界的にも類例の少ない試みである。このような記念碑的な論文集を出版することができたことに、編者の一人として大きな喜びを感じている。専門書で初学者には大変だとは思うが、哲学に関心のある好学の士には是非挑戦して欲しいと願っている。

なお、本書の執筆者と各章のタイトルについては法政大学出版局のホームページを参照されたい。http://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-15096-8.html

田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)