政治支配を考える─マルクスを中心に─田上孝一

前回と前々回のコラムで紹介したように、ここ最近は編著を数多く出している。前回の『権利の哲学入門』は2017年、前々回の『原子論の可能性』は2018年に出版した。そしてつい最近も、『徳と政治』という共編著を出した。この本は副題が「徳倫理と政治哲学の接点」とあるように、現代政治哲学の観点から徳に関する諸問題を取り上げたものである。アリストテレスが代表的論者であることから分かるように、徳は古来から倫理学の重要問題として取上げられてきたが、ここ最近、再考の機運が高まっており、徳倫理学という形で改めて体系化させようとする動きが活発化している。そのような時流の中でこの『徳と政治』は、『原子論の可能性』が原子論についてそうであったように、徳倫理を主題とした本邦初の本格的な論文集であり、ここで取上げる価値のある一冊と思われるが、今回は興味ある読者の参照を願うのみにして、別の本を紹介したいと思う。

今回紹介するのは、『支配の政治理論』という編著であり、『権利の哲学入門』と同じく社会評論社から2018年12月に出版したものである。同じ出版社から同じく私の単独編集でかつ同じような表紙と体裁で出版されていることから分かるように、『権利の哲学入門』の続編として企画されたものである。

全20章を一人で纏め上げた『権利の哲学入門』は大変だったが、それだけ予定通りに出版できたことへの満足感も大きかった。とはいえ、流石にすぐに続編に取り掛かるとは思ってもみなかった。ところが、同世代の友人に自分も書きたいから編著を作ってくれと頼まれて、それならばと再びやる気を起こしたのである。

ではどうするかと考えたが、依頼者の専攻が神学であったことから、それならばと「支配」というキーワードを思い付いたのである。しかし、では『支配の哲学入門』ということにするかというと、これは一寸拙いだろうと思わざるを得なかった。というのも、権利が専ら政治的な領域のカテゴリーであるのに対して、支配は政治の問題以上に、男女間の感情や職場での人間関係等に典型的なように、心理学的なカテゴリーとして捉えられることが多いからである。しかし私が念頭においている支配はあくまで政治支配であって、心理学的な論考を含めることは手に余ってしまう。このため『権利の哲学入門』の続編だからといって『支配の哲学入門』というタイトルにすることは、羊頭狗肉になってしまうおそれがあった。そこで今回は『支配の政治理論』として、『権利の哲学入門』同様の政治哲学の論文集であることを誤解無く伝えるようにしたわけである。

さて、ではこの論集の内容であるが、今回は何人かの論考を取上げつつ全体の概要を示すという方法は避けて、他ならぬ私自身の論文の概要を記させて貰いたいと思う。『権利の哲学入門』ではそれを担当せずに他の執筆者に依頼し、このコラムでも倫理学入門の長期連載をしたように、それ以外のテーマでも研究をし、最近ではむしろ動物倫理の研究者として見られることが多くなっているようでもあるが、しかし私の本来の研究分野はマルクスであり、マルクスの哲学である疎外論の研究が、今や数多くなった研究対象の中の本業ということになる。そしてこの『支配の政治理論』に収めたマルクス論では、支配という視角から私のマルクス観のエッセンスを示しつつ、かつつい最近気付いた新たなマルクス解釈も記している。これを機に『マルクス哲学入門』をはじめとする私のマルクス研究の一端を示したいと願うからである。

『支配の政治理論』の第6章をなす拙論「マルクスの支配論」では先ず初めに、これまでのマルクス研究では政治支配の問題は専ら国家論の領域で取り扱われてきたことに注意を促した。それは決して不当ではなく、理論的な必然性が確かにあるものの、このような枠組みでのみ支配を考えると、支配の問題がただ政治的上部構造の領域にだけ縮減されてしまいがちなことを提起した。しかし支配というのはマルクスの理論にあってはむしろ、社会の土台をなす生産関係の基本性格それ自体を指し示す概念と捉える必要がある。まだ共産主義的な解放に達していない人類の前史にあっては、社会的な人間関係の基本性格それ自体が疎外的性格を帯び、諸個人が支配と被支配の敵対的な対立状態に入り込まざるを得ない。このため、支配は疎外された人間関係の本質を指し示すカテゴリーになる。マルクスの支配論を語ることは、マルクスの前提的視座である疎外論を、支配論という観点から解説することにならざるを得ないということである。

マルクスの社会理論の特徴は、政治現象の土台に経済のあり様を見出すことである。それは経済とは何よりも、人間の生の前提に関る領域だからである。生産して消費するという過程が、人間生活の基本的な過程である。従って生産過程とはまた、生活過程(Lebensprozess)でもある。経済の基底を成す生産のあり方が人間の生=生活(Leben=life)そのものを基本的に規定することになる。生産のあり方が否定的であれば、そうした生産に従事せざるを得ない人間の生は、どうしても否定的な性格を帯びる。そのような否定性はいかに克服されるのかというのが、マルクスの根本的な問題意識だった。

どの生産様式でもそうであるように、資本主義でも労働過程の主体は労働者であるが、社会全体の生産過程の主体は労働者ではない。資本である。資本主義は資本が主体となり、労働者を客体的な手段として用いて社会的な生産を実現している社会である。労働者ではなくて資本が主体であり、労働者ではなくて資本が主人公である社会である。だからこそ資本主義というのである。資本主義では働かないのは自由だが、生命を維持するためには働かなければならない。ここには形式的には強制がないが、実質的な強制がある。資本主義における資本と労働者は、選択の余地のない支配と被支配の関係にある。資本主義とは資本が労働者を支配する社会である。これが資本主義の本質である。

だから、国家における支配、現象的には主要な支配のあり方として現れる諸事態は、経済関係における支配、資本による労働者の支配に根ざしている。このため、法律で形式的な平等を幾ら定めても、土台における本質的な支配関係が続けば、不平等は根本的には解消されない。本質は常に現象する。本質が変らなければ、現象は変らないのである。これがマルクス支配論の基本視角である。

マルクスの慧眼は、この支配構造が、支配する資本ではなくて、支配される労働者の側が、それとは意識せずに生み出してしまうとしたところにある。それによって利益を得ている構造を強者自身が作り出したと考えるのは分かり易いし、その解決方法もすぐ思いつく。強者を力ずくで打倒すればいい。資本が疎外を生み出すのだったら、資本をなくせばいい。しかし弱者である労働者自身がそれとは望むことなく、自らが搾取される構造を作り出してしまったとすれば、話は変ってくる。この場合は、構造それ自体を変えずに資本をなくしても、再びそれに換わって同じ役割を果たすものが生じざるを得ない。

実際これが現実社会主義で起きたことでもある。ソ連には生産手段を私的に所有する資本家はいなかったが、官僚が資本家と類似した役割を果たし、労働者は終始一貫疎外され続けた。労働それ自体の疎外的性格をなくさなければいけないのである。単純に支配者を打倒すれば問題が解決するのではない。特定の支配勢力を幾ら打倒しても、支配される側が実は支配構造の原因なのだから、被支配者の基本性格を変えない限り、支配構造は温存され続ける。自己の意図に反して、そうありたい自己から自己自身が乖離すること、つまり支配という局面での、人間の社会における自己疎外状況、これ自体を変えなければ、人間が望ましくない支配に甘んじざるをえない現状は変えられないのである。ではどうすればいいのか。

マルクスにあっては答えは明瞭である。疎外の原因がはっきりしているからである。疎外の原因は分業である。分業をなくせば疎外もなくなり、政治支配の問題も解決される。しかしマルクスのいう分業の克服とは、生産分化それ自体をなくすことではない。それでは文明自体を否定することになってしまうからだ。高度な生産力発展を前提に人類解放を展望する唯物史観は、人間的な文明を希求する立場であって、文明それ自体の否定は志向しない。マルクスが求めた分業の克服とは普通の意味での分業をなくすことではなくて、精神労働と肉体労働の対立に示されるような、労働者の肉体と精神を著しく毀損するような、非人間的な労働の組織化を解消することである。資本主義において労働者は資本によって客体化され、労働過程の主導権は管理職のような資本の代理人に委ねられる。このような状況においては、労働は他者から指令されて働く者と、自らは労働過程に入らず労働者を一方的に指令する者に分割されている。こうした労働者が一方的に支配されている分裂(分割=分業)状況から脱し、自らが支配されるのではなく、支配する者となることである。これがマルクスのいう分業の克服であり、自らが生み出した資本によって支配される関係を、まさに自らが生み出したが故に自らの固有の力として再獲得できるようになることである。

このようにマルクスにおいて政治支配の問題は経済的土台に根ざし、経済のあり方が支配する者と支配される者とに分裂しているような、疎外された分業状態にあることによって生じる。そのため、生産関係が敵対的な分裂を含まない形に再組織化される必要がある。それがマルクスの求めた共産主義であり、人類の前史の後に来ると展望された理想社会である。このような未来像をマルクスは若き日の諸著作以来、折に触れて語っていたが、最終的には晩年の著作である『ゴータ綱領批判』において、ゲノッセンシャフト(Genossenschaft)という言葉で提示された。

マルクスの歴史観では人類社会の編成原理が前史とその後で根本的に変化する。前史は疎外的分業に貫かれた、ヒエラルキー的な支配被支配関係が基本となる。無論前史にあっても支配被支配ではない、非ヒエラルキー的な人間関係は存在した。しかしそれはあくまで私的で局所的な関係であり、社会全体の基本的な編成原理ではなかった。

それはまさに恋愛や親子愛という愛の原理であり、一般市民同士としては友愛の関係であった。こうした愛が大切なものであることは誰しも感じるであろうが、しかし愛こそが私的な原理の最たるものであり、私的な領域を超えて社会一般が愛の原理によって編成されるとは、多くの人は思いもしなかったのである。

この点をよく理論化したのはヘーゲルであった。彼は人間社会を、家族と市民社会、そして国家というトリアーデに分割した。家族の原理は愛であり、家族が人間社会の道徳である人倫の出発点である。しかしあくまで愛は家族の原理であり、社会一般の原理ではなかった。社会は家族の外部にある市民社会であり、これをまさに家族とは対照的に、利己的目的のために相手を利用とする敵対的人間関係だとしたのである。

ヘーゲルにあっては家族の外にある社会の基本的な構成原理は、家族的な愛が後景に退くような競争的な人間関係であり、強者による弱者の支配を生み出しかねない欲望である。ヘーゲルではこの市民社会の矛盾は、市民社会自体そのものを変えることによってではなく、国家によって解決されるとした。ここにマルクスとの決定的違いがある。

マルクスにあって国家は終始一貫イデオロギーである。実体的には暴力装置であり、土台の不当性を隠蔽するための幻想を生み出す、イデオロギー装置でしかなかった。従って国家はマルクスの理想社会には存在根拠を持たないものであり、単なる行政的区分としては残存するかもしれないが、現在あるような国民国家としては存続し得ないものとされる。

ところがマルクスは、ヘーゲルのトリアーデ構想を常に批判しつつも、社会全体を家族と市民社会と国家に三分割するという視座そのものは、基本的な前提として保持していた。

ヘーゲルにあっては市民社会の矛盾は国家によって止揚される。しかしマルクスは国家それ自体を廃棄してしまったのだ。そうなると残るのは家族しかない。愛の原理である。これがゲノッセンシャフトなのである。マルクスによれば、共産主義的に改変された市民社会ではヘーゲルの市民社会とは異なり、欲望以外のものが支配する。しかし国家原理はもはや採用できない。残るは家族しかない。市民社会の基本的な人間関係が、平等な友愛による結び付きになるのである。ヘーゲルが見据えた人倫の解体としての市民社会とは異なり、人倫の実現としての市民社会である。

平等が基本的な原理となっていて、強権的に支配する者がいない人間関係にあっては、個々人の自発性が基本的な社会の構成原理となる。基本的な人間関係が他律的に強制されたものではなく、自律的な連帯によって実現されている。自発的に結び付くのだから、社会の構成原理は他者への信頼であり、まさにヘーゲルが家族に認めた、愛である。マルクスのゲノッセンシャフトにあっては、家族的な愛が、ヘーゲルがそう見なしたように私的な閉鎖性に留まらずに、公的な公共性の次元にまで敷衍される。

ゲノッセとは仲間であり、兄弟的な結び付きをも意味する。ゲノッセンシャフトは実際の家族ではないが、あたかも本当の家族であるかのような信頼による結び付きを意味する。

この理想社会にあっては人類の前史でのような、疎外された分業によって引き起こされる政治支配は廃絶されている。愛の原理は支配ではない。支配する愛は本当の愛ではない。本当の愛が私的にだけではなく公的にも普遍化したゲノッセンシャフトにあっては、政治支配はその存立根拠を持たない。これがマルクスの支配論からする人類史の展望である。

概ね以上のような議論を「マルクスの支配論」で展開した。無論ここで述べたのは不完全な要約であり、このままでは真意が正確に伝わらないおそれもある。この意味で、一読して分からなかったり意図が掴みかねるという読者には、「マルクスの支配論」を読まれることを願う。

さて、この「マルクスの支配論」の執筆によって新たに得た知見とは何かだが、まさに「ゲノッセンシャフト」という言葉の真意が明確になったことである。『ゴータ綱領批判』以前では理想社会は一般にアソシエーションやフェライン(連合)という言葉で表現されていたのに、なぜ敢えてゲノッセンシャフトという言葉が用いられたかである。既に前掲『マルクス哲学入門』の第八章「『ゴータ綱領批判』の共産主義論」及びこの章の元となった研究ノートで、マルクスがアソシエーションにおける人間関係の基本的な性格を家族的な友愛による紐帯であることを強調するためにゲノッセンシャフトという言葉を用いたのではないかと提起したが、ではなぜ家族的な紐帯なのかが分からなかったのである。しかし答えは実に単純で、マルクスが踏襲していたヘーゲルのトリアーデの内、国家を否定するマルクスには家族しか残っていなかったからだった。ヘーゲルにあって家族の原理が愛であるがために、理想社会の原理もまた、市民的な自立性を前提とした上での愛、自立した諸個人が、自律していながらしかし排他的にならずに兄弟姉妹的に連帯できる友愛である他なかったからである。だから単なるアソシエーションではなくて、ゲノッセンシャフトリヒなアソシエーションなのである。

ではどうしてマルクスが晩年になってこうしたゲノッセンシャフト概念を唱えたかだが、これはこの時点で初めて思い付いたというよりも、元々抱いていた構想をここにきて思い出したということではないかと考えられる。「マルクスの支配論」の注で提起したが、実は若き日の『経済学・哲学草稿』に、兄弟的な連帯を理想視する文言が見られるからである。この二著作の間には30年以上の月日が横たわっている。しかしマルクスは一貫して変ることがなかったのである。  以上、前回と前々回に続いて編著の紹介をさせていただいた。今回は専ら編者である私自身の論考を説明させて貰ったが、勿論他の章も力作揃いで、自信を持ってお勧めできる一冊になったと自負している。実は既に続編の出版プロジェクトが進行している。来年中には第三弾をお届けできるものと思う。こうして、これからもどんどん編著を出し続けてゆく所存である。

田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)