ロックと悪魔 第十四回 カトリック文学の悪魔1黒木朋興

前回まで、しばらくプロテスタント圏の文学作品における悪魔表象を見てきた。今回からは、しばらく、カトリックであるフランスの文学作品における悪魔表象を見てみたい。

フランス文学における悪魔の描き方の特徴は、ロベール・ミュッシャンブレの以下の言葉にうまく要約されている。

カゾットの物語の独創性は、話の曖昧さを増幅していくその手付きにある。[…] カゾットは逸話の全編に、どうしようもない疑念が漂うように工夫している。[…] そのために、読者は完全な疑念に囚われざるを得ない。なぜなら読者は、綴られた文字が現実を表明しているのか、それとも、喚起された内容の純粋に空想的な側面をなぞっているに過ぎないのか、決して判断が付かないからである。

ジャック・カゾットは18世紀に怪奇譚を執筆し、19世紀フランス幻想文学の先駆けになった作家である。その特徴とは、要するに、主人公の目の前に現れた悪魔が現実のものなのか、それとも主人公が空想の中で作り出した幻の類なのかを、わざと曖昧にしていることだ。

具体的に、カゾットの作品『悪魔の恋』(1772) を見てみよう。25歳のナポリ王の親衛隊付大尉であるスペイン人アルヴァーレが主人公であるこの物語は、主人公の回想録という形を取っている。彼はある日ソベラーノという男に出会い、降霊術(カバラ)の手ほどきを受ける。ソベラーノの教えのままにポルティエの廃墟に赴き呪文を唱えベエルゼビュートと3回呼びかける。すると窓から恐ろしい形相の駱駝の首が現れ、イタリア語で「何か御用?(Che vuoi ?)」と主人公に問う。アルヴァーレは早速この悪魔を「奴隷」呼ばわりをして様々な命令を申し付ける。悪魔は、犬になって靴を舐めろと言われればその通りにし、同行していた友人たちをもてなせと言われれば小姓となって御馳走や演奏を提供し、宴のあと全員をナポリのそれぞれの自宅まで送ろ届けろと言われれば馬車を用意する。

このような悪魔の献身ぶりを目の当たりにしたソベラーノはアルヴァーレに以下のように呟く。

「君、見事な御馳走をしてもらいましたなあ。今に高いものにつきますよ」

ソベラーノだけではなく、やはり降霊術に立ち会ったベルナディロという男も次のような言葉を漏らす。

「アルヴァーレさん、あなたの秘密をお尋ねするのでは決してありませんが、あなたは奇態な取引をなさっているに違いありません。誰だって、あなたほどの持(もて)成(なし)を受けたものはいまだだかつてありませんからね。わたしが勉強して四十年になりますが、一夜のうちに、今し方あなたに示されたような好意の四分の一にだってありついたことはありません。」

通常、悪魔は人間に取引を持ちかけるものだ。財産や地位を与える代わりに神を裏切ることを要求したり、あるいは、泥棒などの悪事に手を貸すが最終的には生命を奪ったりなどする。ところが、ベエルゼビュートは何もアルヴァーレに契約を持ちかけてはいないし、アルヴァーレの方も何も約束してはいない。実際、彼らがナポリのアルヴァーレの自宅に戻ってからの以下の会話を見てみよう。

「だが、前以て君には支払ってあったのだから、僕たちはもう貸し借りなしだと思うよ」
「アルヴァーレ様はお心も気高い方ですから、よもやこれでお支払い済みになさるとは思召しませんでしょう?」
「もし君が当然なすべきこと以上のことをしたと言うのなら、またもし僕が君に対して借りがあるというのなら、勘定書を出してくれ」

悪魔が行なったサーヴィスに対して報酬が足らなかったのであれば支払おうではないか、という提案である。それに対して、悪魔はこう答える。

「殿様、場ちがいな御冗談はおよしあそばせ」

悪魔の要望は、金ではない。では何かと言えば、女性となりアルヴァーレの側にいることなのである。つまり、悪魔はアルヴァーレに恋をしているということになる。

なお、ここで題名の『悪魔の恋』の悪魔の原語はサタンではなく、デーモンと同系列の「le diable」という言葉であり、ベエルゼビュートとは日本語でいう「ベルゼブブ」、つまり「蝿の王」という意味を持ち聖書の中でサタンに次ぐ力を持つとされる悪魔であることを言い添えておく。

その後、人間の女性ビヨンデッタの姿をした悪魔ベエルゼビュートは、召使としてアルヴァーレに仕え甲斐甲斐しく彼の面倒をみることになる。そのような生活を通して、二人の仲は次第に深まり、やがてアルヴァーレは献身的なビヨンデッタに情を感じるようなる。

ところが、奇妙なことに、ビヨンデッタと生活を共にするアルヴァーレは、時折夢うつつの状態に陥る。例えば、二人がナポリからヴェネツィアへ赴く車の中の描写を見てみよう。

睡眠が私の感覚を奪い、様々な夢を見させてくれましたが、この夢は実に快いものであり、その時まで心の疲労の糧となっていた恐ろしくて奇怪な観念から私をくつろがせるのに、極めて打ってつけのものでした。この眠りは、その上に、非常に長いものでした。ですから、これは後になってからの話ですが、ある日のこと、母が私の身に起こったことを色々と考えた末に、このまどろみは自然なものではなかったと言い張ったくらいです。

あるいは、ビヨンデッタが恋敵の遊女オランピヤに刺されるシーンを見てみたい。悪魔は元々霊的存在であるが、アルヴァーレと結ばれるべく人間の肉体を持って出現していることを言っておく。だから刺されれば血が流れるし、血が大量に失われればその肉体は死んでしまう。医者にビヨンデッタの受けた傷は致命的だと聞かされ、アルヴァーレは激しく動揺する。

結局興奮のあまり疲れはて、がっくりしてしまい、そのまま眠りこんでしまいました。
私は、夢に母が現われ出たように思いました。母に自分の出来事を物語りました。そして、母の同情を一段と惹こうと思って、ポルティエの廃墟のほうへ、母を案内してゆきました。「そこにはいきますまい」と、母は言いました。「あなたは紛れもない危険に陥っています」私たちが狭い峡道にさしかかり、私は無事にそこへはいっていったのですが、突然、一本の手が私を断崖に突き落とします。その手はビヨンデッタの手だということがわかります。私が墜落していますと、もう一本の手が私を引きとめます。そして私は母の腕のなかにいるのです。私は目を醒し、まだ恐怖に喘いでいました。

このような夢の描写を織り込むことによって、ビヨンデッタは主人公が想像力が産み出した幻想なのではないか、という疑念を読者に抱かせるという仕組みになっている。

ところが、そのすぐ後で、床に臥せるビヨンデッタを付きそうアルヴァーレは以下のように呟く。

「これを、僕は、色彩りをした幽霊だとか、五感をたぶらかすためだけに集められた輝く蒸気のかたまりだとか思っていたのか […] この女は、僕と同じように命を持っていたのだ。」

通常、悪魔は霊的存在であり肉体を持つことはない。対して、ビヨンデッタは明らかに受肉した存在であり、人間と同じように命を持った存在であることを主人公はここで改めて確認している。ここにおいては、ビヨンデッタが幻ではなく現実の存在であることが強調されているというわけだ。なお、受肉した悪魔が出現するという意味において、この作品はゲーテの『ファウスト』の影響下にあるものだと言えるだろう。

このような事件を経て、二人は互いに愛し合うようになる。そして、アルヴァーレはビヨンデッタに結婚の約束をするのだが、アルヴァーレが結婚するためには、彼女を連れて一旦スペインにある領地に戻り母親に婚姻の承諾を得なければならないと告げると、ビヨンデッタは急に不安を露わにし出す。どうもキリスト者である母のもとでキリスト教の婚礼の儀式をすることを敬遠しているようなのだ。結局、彼女の不安は解消されず、故郷の館に到着する直前、彼の兄を領主と仰ぐ裕福な農家で婚礼の宴に出席したアルヴァーレが疲れて寝ている間に、彼女は彼の前から忽然と姿を消してしまうのだ。

館に帰り着き母親に再会したアルヴァーレは、彼女にそれまで体験したことを事細かに報告する。そして、母親にこう言われる。

「いいですか、あなたは様々の嘘佯りの後を追いかけたのです。そして、そのようなことをやり始めるとすぐに、嘘に取り巻かれておしまいだったのです」

ここで改めて、アルヴァーレが体験してきたことは現実ではなく、すべては幻であったのではないかという可能性が強調される。夢だとすれば、ビヨンデッタの姿は他も人間には目撃されていないことになる。そこで、彼らを乗せてきた騾馬曳きを探してみると、やはり見当たらない。また前夜に彼らが泊まった農家について尋ねてみると、そのような家族は領土内には存在しないという。ここで読者は改めて、ビヨンデッタの存在が現実なのか、幻なのか分からなくなる。

以上のように、『悪魔の恋』の描写は、夢と現実の間を往復し悪魔の実在を曖昧しているところに特徴があるわけだが、この傾向は書き直した第二版においてさらに強まっていることを指摘しておこう。ここでは、比較のために、第一版の結末を見てみる。

私は自分がかつて産ぶ声をあげた家の方へ進んでいきました。[…] 車を引っ張ってゆくその手のつけようもない力を押し止めるものは一つもありませんでした。[…] 私はビヨンデッタを眺めます。彼女は思ったより平静に見えます。もっと何でもない理由でも恐怖に陥りがちなのを見たことのある彼女なのに。一条の光が私の心を照らします。「重なる事件で教えられたぞ」と私は叫びました。おれは魔性に取り憑かれていたのだ」そこで、私は彼女の田舎着のボタンをつかみます。「悪霊[esprit malin]め」と私は力づよく口を利きました。「もし貴様がここにのさばっているのは、唯、おれをおれの義務にそむかせ、おれが向う見ずにもお前を引き出したあの断崖のなかにおれを引きずり込むためだとしたら、永久にあの中に戻るがいい」このことばを口に出すと忽ち、彼女の姿は消え失せ、私を運んできた騾馬も、彼女と同じ魔性だったので、彼女の後を追って煙のように消えていました。
と、幌馬車が以上な激動を起こします。私は座席から引っ張り出されそうになり、今にもむりやりに、そこから立ち退かされそうになっていると感じます。眼を挙げて空を見ます。空中にさっと一片の黒い霧が捲き起り、その天辺が巨大ならくだの頭を表わしていました。まるで旋風のような激しさでこの幻影をさらっていった風は、まもなくその幻影を吹き払ってしまいました。身の周りを眺めてみると、騾馬は消え去っており、地面へ傾いていた私の幌馬車は、梶棒に支えられていました。

第一版では、主人公アルヴァーレの目の前で、ビヨンデッタと騾馬が肉体を失い消え去っていく様子が描写されている。つまり、主人公は自分の恋人が悪魔であったことをはっきりと自覚して終わるという展開になっているのだ。

それに対して、書き換えられた第二版のでは悪魔の実在は明らかにされず、曖昧のまま終わりを迎えている。ここでは以下のような複数の解釈が可能だ。ビヨンデッタは存在せず、すべては主人公アルヴァーレの想像力の産物にすぎなかったのかも知れない。あるいは、現実に悪魔は受肉してビヨンデッタという女性となりアルヴァーレの前に姿を現したという可能性も否定できない。その場合、悪魔は果たして本当にアルヴァーレのことを愛していたのであろうか? 初めて彼を目にした時、恋に落ち、彼と一緒にいたいと考えて女性の肉体を持って現れたものの、教会でキリスト教徒として儀式を行うわけにはいかず泣く泣く彼の前から姿を消したのであろうか? それともアルヴァーレを美女の姿でたぶらかし堕悪魔の世界に引きずり込もうとしたが、キリスト者である母親の愛が悪の力に打ち勝ちアルヴァーレを救ったのであろうか? 悪魔は、アルヴァーレが寝ているうちに姿を消してしまうので、答は藪の中ということになる。ここにこの作品の魅力があると言えるし、また、プロテスタント圏の悪魔がはっきりと姿を現す作品と違って、その存在は曖昧のままに終わるというカトリック圏の特徴を有していることが確認できた。

黒木朋興(くろき・ともおき)
[出身]1969年 埼玉県生まれ
[学歴]フランス国立メーヌ大学博士課程修了
[現職]上智大学/東京電機大学等 非常勤講師
[専攻]フランス文学 比較修辞学 大学評価
[主要著書]『3・11後の産業・エネルギー政策と学術・科学技術政策』, 日本科学者会議科学・技術政策委員会編(共著 八朔社、2012年),『グローバリゼーション再審ー新しい公共性の獲得に向けてー』(共編著 時潮社、2012年),『〈国語教育〉とテクスト論』(共編著 ひつじ書房、2009年), Allégorie(共著 , Publications de l'Université de Provence, 2003)