ロックと悪魔 第十五回 カトリック文学の悪魔2黒木朋興

前回は、カトリックであるフランスの文学作品における悪魔表象を見るためにジャック・カゾットの『悪魔の恋』(1772) を見た。今回はテオフィル・ゴーティエ (1811 – 1872)の小説を取り上げる。ゴーティエの小説には、前回引用したロベール・ミュッシャンブレの指摘しているフランスの特徴、すなわち「読者は、綴られた文字が現実を表明しているのか、それとも、喚起された内容の純粋に空想的な側面をなぞっているに過ぎないのか、決して判断が付かない」という特徴が顕著に現れているのである。

まずは「オニュフリユス あるいは、あるホフマン崇拝者のファンタスチックな焦燥」(1832)を見てみたい。副題から分かるように、この小説の主人公オニュフリユスはETA・ホフマンの悪魔小説を愛好する芸術家気取りの若者である。作者自身の言葉によれば「〈若きフランス〉であり、気違いじみたロマン派」ということになる。〈若きフランス〉とは、19世紀前半のフランスでヴィクトル・ユゴーを筆頭にゴーティエなどの革新派が起こしたロマン主義と呼ばれる文学・芸術運動の影響を受けた若者たちのことだ。他ならぬゴーティエ自身が〈若きフランス〉の旗手として活躍していたわけだが、ここでは才能もないのに新しい潮流に乗って一端の芸術家を気取る若者を揶揄する意味を込められている。21世紀初頭の日本語で言えば「厨二病」患者ということになるだろう。

画家、そして詩人を名乗る二十代前半のこの主人公に対して、作者は辛辣である。この若き芸術家の厨二病ぶりをゴーティエはこう描写している。

 抽象の世界での長い瞑想やら彷徨のために彼はこの世のことに心を配る暇がなかった。頭は三十歳だが、身体は生後六ヶ月だった。自身のけだものの調教を全く怠っていたから、ジャサンタと友人らがうまくこれを導いてやらなかったら、とんでもない大失策をしでかしたに違いない。要するに、大貴族には領地を管理する執事が必要であるように、彼にかわって生活してくれる者、彼の肉体のための執事が必要だったのだ。

このような主人公の周りで、奇妙なことが立て続けに起こるところから物語は始まる。ある朝、彼は絵のモデルをしてもらっている恋人のジャサンタとの待ち合わせに遅刻してしまう。つい5分ほど前に通り過ぎた教会の時計ではまだ10時を少し過ぎたくらいだったはずなのに、恋人にもう11時半だと責められるのである。驚いて教会のところに戻ると確かに時計の針は11時半を過ぎている。オニュフリユスは「どこかの小悪魔[diablotin]がいたずらして針を進めたにちがいない」と不安に駆られる。

その後、ジャサンタをモデルにした作品に取り掛かろうとすると、様々な異変が起こっていることに気づく。まず、彼女の絵の口のところに髭の落書きがしてある。腹を立てながら絵筆を手に取ると油に漬けておいたはずの筆先が固まってしまっていて使えない。更に、硬くなったチューブの絵具を何とか出そうと力を込めると破裂しあたりを汚してしまう。それでも気を取り直し、筆を構えると誰かに肱を強く突かれた気がして手元が狂い絵を汚してしまう。こうした出来事にすっかり意気消沈したオニュフリユスはその日作業を続けるのを諦める。

翌日の夜、知人宅を訪れたオニュフリユスは知人とチェッカーをすることになる。最初のうちは互角だった勝負は、突如として彼の劣勢になる。どうしたことかと目を凝らしてみると「駒を動かすのに用いていた彼の指のわきに、もう一本別の、痩せて節くれだって先に鍵爪のある指」が「彼の白い列の成駒を押しやり」「あらゆる手を使って彼の負けを導」こうとしているのに気づく。その指には「大きなルビーの飾り」があることから、オニュフリユス自身の指ではないことは明らかである。とうとう彼はチェッカーの勝負に負けてしまう。

以上のような事態を目の当たりにした主人公オニュフリユスは、そこに悪魔の存在を感じとる。というのも、ホフマンとジャン=パウルに絶大なる影響を受けた彼は、悪魔の実在を信じ、常日頃から悪魔の影に怯えながら暮らしていたからである。まさにこの小説は、副題の「あるホフマン崇拝者のファンタスチックな焦燥」から産まれた幻想が織りなす悪魔譚なのである。

すっかり悪魔に影に怯えた彼は知人の家から這う這うの体で疲れ切って帰宅するとすぐに眠りに落ちてしまい、とても恐ろしい夢を見る。その中で彼は生命を落とし、彼の体は棺桶に入れられ埋葬されてしまうのだが、魂は肉体を離れパリの街を彷徨うことになる。ある展覧会の会場をのぞくと、そこにはドラクロワ、アングルやドガンなどの絵に交じって彼自身の作品が展示されている。それどころかその絵は人々の称賛を浴びているのだが、キャンバスには彼ではなく友人のサインが記されてある。彼の作品は盗まれたのだ。怒りと失意に包まれて展覧会を後にし、次にある劇場に立ち寄ることにする。すると丁度彼の戯曲が上演されていたところであり、幕が降りると観客たちは身を乗り出して喝采を叫ぶ。ところがまたしても劇場で告げられた作者の名前は彼ではなく例の友人のものであった。しかも桟敷席に陣取るその友人の横にはジャサンタが付き従っているのである。やがて彼はこの耐えがたい夢から覚めるが、この夜以来「彼はもうほとんど始終幻覚状態を続け、夢想と現実を区別することができなく」なってしまう。そしてついには病いの床につき、ジャサンタの献身的な看病も虚しく理性を失ったまま正気に戻ることなく死んでしまう。

副題が示すようにホフマンの悪魔小説の影響の下に書かれていることに疑いはない。しかし、ホフマンの作品には具体的に悪魔が登場するのに対し、この小説に現れる悪魔はその実在が極めて曖昧である。それは主人公オニュフリユスの幻想の産物として描写されているに過ぎないのだ。その中で唯一悪魔の実在を感じさせるのが、オニュフリユスが夜会で見かけたルビーの指輪をつけた若い男に対する、以下の文言である。

 「いや全く、ぼくのことを悪魔だなんて」と若い男は、はみ出してのたうち伸びていた六十センチほどの毛むくじゃらの尾を服の裾に押し込みながら言った。「滑稽な作り話ですな。気の毒にあのオニュフリユスはどう見ても気違いですね。」

明らかに「毛むくじゃらの尾」というのは悪魔の徴である。本当にこの男に尾があるのなら悪魔ということになる。しかし、これはあくまでも錯乱した主人公オニュフリユスが見た幻想の描写なのだ。であれば、悪魔の実在は宙吊りのままということになる。翻訳者の井村実名子氏はこの小説に「精神病理学的な省察」という言葉を当てていることを指摘しておきたい。悪魔が実在するのか、それとも主人公の幻想に過ぎないのかは、あくまでも読者の判断に委ねられていると言えるだろう。この点にゴーティエの悪魔小説の特徴がある。

「死霊の恋」(1836)は修道士と高級娼婦の幽霊の恋の話である。修道士のロミュオーは正式な聖職者となる叙品式の日に教会で、高級娼婦クラリモンドと視線が合う。二人は一瞬にして互いに恋に落ちるが、ロミュオーは神に仕える身であり色恋は許されていない。ある日、彼女の使いというものが現れ、死に瀕している女主人が彼に会いたがっていると告げる。人々の死を看取るのは神父の重要な仕事である。司祭は終油の秘蹟の準備をして館に赴くのだが、駆けつけた時は既に遅くその人物は息を引き取っていた。その遺体とは他ならぬクラリモンドのものだったのである。

ところが、この日以来、ロミュオーは彼女とヴェネツィアで奇妙な同棲生活を始めることになる。日中は教会で聖職者としての職務を果たし、夜は二人で放蕩を繰り広げるという二重人生を送るようになるのだ。しばらくしてクラリモンドは体調を崩す。医者に診せても一向に回復の兆しすら見せない。ところが、ある日、果物を剥いていたロミュオーが誤ってナイフで怪我をするとクラリモンドはその血を口で受け、その途端に元気を取り戻す。それからというものクラリモンドはロミュオーを眠っている間にピンで彼の腕を刺しその血を吸うようになる。ロミュオーは彼女が彼の血を飲んでいることに気づくが、彼女のことを深く愛していた主人公は彼女に血を分け与えてでも、彼女と一緒に過ごしたいと思う。

しかし、ある日のこと、彼の師であるセラピオン神父は彼がすっかり憔悴しているのを心配し、彼をクラリモンドの墓に連れていき彼の前で彼女を墓を掘り起こす。すると棺の中には「クラリモンドの大理石のように蒼白な姿」があり「頭から足まで真白な屍衣にきっちりつつまれ、色褪せた口のすみに、赤い小さな滴が、薔薇の花のように光って」いた。彼女の遺体は腐敗しておらず、美しいままであるのを目撃する。セラピオン神父が怒りの声とともに遺骸に聖水を振りかけると、「美しい身体はこなごなに砕け」、その後には「ただ灰と、なかば石灰化した骨とが、見るも恐ろしくまじりあっている」ものだけが残る。

翌朝、クラリモンドはロミュオーの前に姿を現し「いったい、あたしに何のとががあって、かわいそうなお墓をあばき、浅ましい死骸を掘り出したのです。あたしたちの魂と身体とを結びあわせていた糸は、もうすっかり切れてしまいました。さようなら。きっと永久にあたしが恋しくてたまらなくなるでしょうよ」と言って、煙のように空中に消えてしまう。

この小説において、悪魔=吸血鬼の実在は曖昧なままである。主人公のロミュオーが彼女と逢引をするのは夜だけであり、ということはあくまでも夢の中だけの存在だと言える。師であるセラピオン神父と一緒に目にするのはあくまでも彼女の遺体であり、生きた吸血鬼はセラピオン神父の前には現れない。最後にロミュオーの前に出現する彼女の幽霊も彼にしか見えない幻であると解釈することが可能だ。つまり、この小説においても、悪魔が現実の存在なのか幻なのかは不確かなままで終わっているのである。

次に「二人一役」(1841)を見てみよう。主人公のハインリッヒは駆け出しの役者で、ウィーンのとある劇場で悪魔メフィストフェレスの役を演じている。ある晩のこと、主人公はホフマンも愛したという飲み屋である『双頭の鷲』に足を運ぶ。彼と一緒にテーブルを囲んだ友人たちはハムの切り身を肴にビールを飲みながら彼の悪魔の演技を褒めそやす。ところが隣のテーブルに座っていた一人の男が突然ハインリッヒの演技には足りないところがあるとケチをつけ始める。そして悪魔の演技をするには本物の悪魔を実際に見なければならないと言い、「手本を見せるために、鋭く、甲高く、愚弄的な高笑いを始め」、そこにいた者たちをしらけさせるどころか、恐れ慄かせてしまう。

数日後、主人公が新しい芝居でまたも悪魔の役を演じていると、  目の前の席に先日飲み屋『双頭の鷲』で悪魔の笑いを彼に示した男がいるのを認める。その男はハインリッヒの演技に不満げの様子で第一幕が終わると席を立ち、舞台裏に控える主人公の前に彼とすっかり同じ悪魔の衣装を身につけて現れる。そして「今夜はきみの代わりをさせてもらうぞ。だが、きみが邪魔だから、奈落へ追い払うことにしよう」と言って、「鋭い爪のはえた両手で彼の肩をつかみ、腕づくで床板のなか」へと突き落とし、彼の代わりに舞台に立つ。観客はその演技を喝采する。ところが舞台が終わり、観客たちは役者をカーテンコールに呼び出そうとするが、舞台に現れないどころかどこを探しても見当たらない。やがて、ハインリッヒは奈落の底で意識を失った状態で発見される。

彼を自宅へ運んで服を脱がせると、おどろいたことに、肩に深い傷がついていた。まるで虎が前脚で彼を窒息させようとしたようであった。

傷が肩だけで済んだのは、彼が恋人からお守りとしてもらった「小さい銀の十字架」をしていたからで、「悪魔はこの十字架に恐れをなして、彼を劇場の地下室へ押しおとすだけにとどめたのであった」と著者は断じる。この事件を契機に、ハインリッヒは恋人と結婚し、芝居の世界から引退してしまう。

この小説においても、悪魔の実在は曖昧なままである。悪魔が正体を現し隠した爪を見せるのは主人公ハインリッヒに対してだけであり、他の人たちが飲み屋で目撃したのは怪しい男に過ぎない。また、劇場で第二幕以降の舞台に悪魔の衣装を身につけて登場したのがハインリッヒなのかその怪しい男なのかは劇場の観客には分からないのである。唯一、悪魔が地上に残した痕跡は上に引いた虎の前脚が襲ったようなハインリッヒの肩の深い傷だけであり、その傷がいかに不可解なものであっても、実際に悪魔の爪を目撃した人間は主人公以外いないのだ。だとすれば、悪魔は主人公が見た幻として解釈することが可能ということになる。この作品においても、フランスの悪魔小説に見られる、悪魔が現実の表現として描かれているのか、登場人物の空想の産物なのか見分けがつかない、という特徴が確認できるだろう。

黒木朋興(くろき・ともおき)
[出身]1969年 埼玉県生まれ
[学歴]フランス国立ル・マン大学博士課程修了
[現職]慶應大学等 非常勤講師
[専攻]フランス文学 比較修辞学 大学評価
[主要著書]『マラルメと音楽 ―絶対音楽から象徴主義へ』(水声社、2013年)『3・11後の産業・エネルギー政策と学術・科学技術政策』, 日本科学者会議科学・技術政策委員会編(共著 八朔社、2012年),『グローバリゼーション再審ー新しい公共性の獲得に向けてー』(共編著 時潮社、2012年), Allégorie(共著 , Publications de l'Université de Provence, 2003)