『経済学・哲学草稿』を読む 第2回 『経済学・哲学草稿』とはどのような著作なのか田上孝一

これから『経済学・哲学草稿』の主要内容を具体的に本文を引用しながら解説してゆくことにするが、そもそもこの『経済学・哲学草稿』はどのような著作なのかということから始める必要がある。というのも、『経済学・哲学草稿』はタイトルにあるように、通常の著書ではなくて、あくまで「草稿」だからだ。

草稿なので、マルクス自身が出版した著書ではなく、マルクス没後に一冊の本の体裁で出版されたのである。文章の一部が1927年に出されていたが、全体が出版されたのは1932年で、この同じ年に二つの異なる版がそれぞれ刊行された。一つはなお不完全なテキストだが非常に興味深い序文が付された版で、もう一つが完全版である。刊行に関する細かな事情を説明すると非常に専門的になるので、これ以上は省略する。現在翻訳書の底本として一番良く使われているのは旧東ドイツのディーツ社から1968年に出されたMEW(マルクス=エンゲルス著作集。大月書店版『マルクス=エンゲルス全集』の原典)の「補巻」であり、1985年に第40巻として再刊された版である。この重要著作が当初は補巻、つまりおまけとして位置付けられていたことに、旧東独とその後ろ盾であるソ連官許マルクス主義のこの著作への軽視が図らずも表明されているが、今日では1982年に出版された新メガ(上記MEWに対する完全版の全集。途中で頓挫した旧版の全集と対比して新メガと称される。1975年から刊行が開始され、現在も継続中)第一部第二巻所収のテキストが、専門研究では一般に用いられる。

なお、岩波文庫版の『経済学・哲学草稿』は1964年に出されていて、上記「補巻」の前であるが、この訳書の底本は補巻の原典である1932年に出された完全版である旧メガで、補巻は旧メガを踏襲した編集となっている。従って岩波の訳本とMEWは基本的に対応している。ちなみに『経済学・哲学草稿』の訳本は幾つかあり、新しい訳もあるが、今でもこの岩波文庫版が総合的に優れている。ただし岩波版にはPrivateigentumを「私有財産」と訳しているという欠陥がある。このPrivateigentumは単なる財産ではなくて運動体も意味しているので、静と動を兼ね備えた「私的所有」と訳されないといけない。そのため岩波文庫版を読む場合は、「私有財産」を「私的所有」と入れ替えて読む必要がある。

この『経済学・哲学草稿』だが、他に『経済学・哲学手稿』の呼称もある。草稿または手稿の原語はManuskripteでManuskriptの複数形である。manuとあるように原語に近い意味は手稿となるが、完成されていない原稿という意味では草稿ということになる。基本的にどちらでも構わないが、手稿だとただ手書きであることが強調されるのみで、この著作の未定稿としての性格が強調されないことと、現在の慣用表現としては「手稿」は余り使われないようにも思われるので、取りあえずここでは「草稿」を採用することにしたい。

ではこの『経済学・哲学草稿』は、著作の形式としてはどのような性格を持っているのかということになる。つまりこの著作は、ある特定の本の原稿なのかそうではないのかということだ。

実はこのこと自体が、一つの研究的な論争テーマになっている。かつては既にかなり完成度が高い下書き原稿だという理解が一般的だった。しかし現在ではマルクスが当初出版を予定していた著書を作成する過程での、かなり早い段階の研究ノートと見るべきだという意見が優勢になっている。従ってこの『経済学・哲学草稿』は、ある著書の直接の下書き原稿になっている段階には行っておらず、あくまでアイデアノートとしての性格が強いのではないかと考えられている。

そこで問題になるのが、この著作が一冊の著書という体裁で編集されていることである。それはかつてはこの草稿が出版予定だった著書の下書き原稿そのものだと考えられていたためであるが、実際はそうではなく、あくまで下書きの下書き段階のアイデアノートに過ぎないのならば、これを一冊の著書のように編集すること自体が不当ではないかという意見が出てくるし、実際にそういう声もある。

しかしこれに対しては、はっきりと反対されるべきだと考える。確かにこの『経済学・哲学草稿』は、実態としては主に三つの草稿群を組み合わせたものである。そして第二草稿の大部分は失われているので、主要な内容は第一草稿と第三草稿ということになる。第一草稿から第三草稿まで比較的短期間に書かれているとはいえ、あくまで別のノートであり、一気に続けざまに書かれたものではない。そう長くはないものの両草稿間の執筆間隔もあり、言葉の使い方や理論展開にも異同がある。こうした草稿の成立事情から、草稿内部での理論的齟齬を強調するような研究もある。

しかしこのような解釈態度は、この著作の本質を見誤っている。確かにこの著作は一冊の完成した本ではないし、そうした本の直接的な原稿でもないが、このノート群に流れている基本的な観点は共通したものである。それは第一草稿で展開された「疎外された労働」の観点が、第三草稿にまで連続して、発展的に展開されているということである。そして第三草稿の議論は第一草稿から断絶して新たに構想されたものではなく、あくまで第一草稿の時点で潜在化していた議論を顕在化したものだということである。要するに、確かにこの『経済学・哲学草稿』は通常の著書と同じではないし、事実としてそうした単著の原稿とも言えないが、そうしたテキスト上の事実を踏まえた上で、これを一つの統一的な著作と捉えて解釈してゆこうという態度は決して不当ではなく、むしろ望ましいものだということである。

その意味で、これまでのマルクス研究ではそもそもこの草稿の性格が誤解されて、かなり完成度の高い原稿に類するものだと考えられていて、そのためにあたかも一冊の著書のように編集されて読まれてきたのだが、このような歴史的経緯は決して不幸なものではなかったということである。それどころかむしろ、新メガ版出版により、旧版では分らなかったこの著作の断片的性格が一目瞭然になったのを奇貨として、以前から一部にあった、第一草稿と第三草稿の違いを不当に強調するような研究態度を勢いづかせることにもなった。マルクスによる手稿の実像が正確に再現さたのはよかったのだが、それがかえってテキストの正確な理解を妨げる副作用を生じさせたわけである。テキスト上の真相の解明が、かえって不適切な解釈態度を助長させることにもなったのである。

とはいえ、やはり先ずはこの『経済学・哲学草稿』が実際にはどのように書かれたのか、その実像を知った上で、具体的な読解に入ることは、学問上の手続きとしては必要なことではある。

その意味で、新メガを直接参照することができない入門的な読者にとって貴重なのは、故山中隆次(1927~2005)氏による訳業である。他の訳書は押しなべて上記MEW及びその元となった旧メガ版に依拠して、一冊の著書として読み易い形に編集し直された版を底本として使っている。それに対して山中版は新メガに依拠して訳されている。このため、旧版の様に読み易さを考えて原稿の順番を入れ替えることなく、マルクスが書いたと思われる順番そのままに訳出されている。そのため、本としては非常に読み難いが、『経済学・哲学草稿』の実像を日本語で一目瞭然につかむことができるという、非常に貴重な学術的成果となっている。

なお、この山中版はまた他の版と異なり、これまで『経済学・哲学草稿』と別枠で扱われていた「ミル評註」、すなわち有名なジョン・スチュワート・ミルの父親であるジェームズ・ミルの『経済学綱領』に対する評註を第二草稿の直前に収めている。これは山中氏が先行研究に基づき、ミル評註がその順番で書かれたと想定したためだが、しかしこれには反論が多く、ミル評註は第三草稿後に書かれたという説も有力である。

勿論事実はマルクスに聞かない限り分らないが、ともあれこの「ミル評註」を『経済学・哲学草稿』と同じ思想圏にあるものとして、両者を統一的に扱うという研究態度自体は適切である。『経済学・哲学草稿』も「ミル評註」もパリの地で書かれたため、これらを併せて言う場合は通常「パリ草稿」と呼称される。そのため山中訳書のタイトルも『マルクス パリ手稿』(御茶ノ水書房、2005年)となっている。

本講座も『経済学・哲学草稿』入門ではあるが、「ミル評註」も『経済学・哲学草稿』の実質的な一部と考えて、考察対象に含めている。旧メガに基づく旧来の翻訳と新メガによる山中訳で特に違いが顕著なのは第一草稿の構成である。第一草稿はアダム・スミスによって「所得の三源泉」とされた労賃、資本の利潤、地代についてそれぞれ論じた後に、有名な「疎外された労働」の議論が展開されている。この際、旧版は労賃、利潤、地代がそれぞれ独立した節であるかのように編集されている。ところがこれは原稿の実像ではない。実像を再現した山中版では同じ頁に労賃、利潤、地代がそれぞれ線で区切られ同時並行的に執筆され、しばらくしたら労賃だけの叙述になり、また三つ同時並行に戻るというような書き方になっている。この事実だけでも、この『経済学・哲学草稿』が本の原稿というよりもその前段階の研究ノートであることを如実に示している。

ともあれ、いずれにせよこの第一草稿で重要なのは何よりも「疎外された労働」の箇所である。そのためこの講座ではここを念入りに検討することになるが、とはいえこの三源泉の箇所も研究的には重要であり、入門的な講座であっても一瞥もせずに飛ばすというわけにはいかない。そこで次回は先ずはこの三源泉の箇所にあるマルクスの文言の中から、後論の理解のために必要なマルクスの文言を確認するようにしたい。

なお、『経済学・哲学草稿』を入門しようとする読者には是非とも岩波文庫のような旧版の訳書だけではなくて山中版も参照して貰いたいが、残念ながら既に版元品切れで入手が困難になっている。とはいえ、確かに旧版はマルクスが書いた通りの順番で文章が再現されてはいないが、全体を構成するマルクスの文言自体は同じであり、書いた順番どおりに読まなければ真意がつかめないということはない。取りあえず岩波文庫が手許にあれば、入門目的には十分である。

田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)