ロックと悪魔 第二十回 スラッシュ・メタルの萌芽黒木朋興

アメリカに進出したヘヴィメタルは、まず西海岸に活動拠点を獲得した。イギリスからやってきたオジー・オズボーンの活躍に続いて、モトリー・クルーやラットなどのバンドが登場し、ヘヴィメタルは次第に勢力を拡大していく。やがて彼らに憧れ楽器を手にする若者たちが、また次の時代のメタルを作っていくことになる。例えば、1980年代初頭、ラーズ・ウルリッヒとジェイムズ・ヘットフィールドによって結成されたメタリカが開始したスラッシュ・メタルは、メタル界に新しい潮流をもたらすことになる。

そのメタリカに、スレイヤー、アンスラックスとメガデスといったバンドが続く。やがて彼らはスラッシュ・メタルのビッグ4と称されるようになり、その後のヘヴィ・メタルの歴史に決定的な影響力を及ぼすことになる。

スラッシュ・メタルの音楽的特徴は、ブラック・サバスから受け継いだ深いディストーションのかかったギターリフを、スピード感の溢れるリズムに乗せて演奏するところにある。ヴォーカルはメロディラインを歌うというよりは叫ぶといった感じで、メロディの美しさよりも歌詞のメッセージ性を重視する傾向が強い。

ただ、メタリカは音楽的にブラック・サバスの強い影響下にあるものの、特に悪魔をテーマにしているわけではない。対して、このビッグ4のうち悪魔主義を前面に押し出しているのがスレイヤーである。

先駆者ヴェノム

スレイヤーの悪魔主義(サタニズム)を語るには、まず、イギリスのニュー・ウェーヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィメタル(NWOBHM)から登場したヴェノムというバンドからの影響を指摘しなければならない。『魔獣の鋼鉄黙示録 ― ヘビーメタル全史』のイアン・クライストは言う。

 スレイヤーのスピードがダイアモンド・ヘッドを見習ったものではないとしても、彼らはブリティッシュ時代の遺物、すなわちNWOBHMのはぐれ者のヴェノムから、明らかに影響を受けていた。アイアン・メイデンやジューダス・プリーストのカバーをやめてかなりたったころにも、彼らはヴェノムの「ウィッチング・アワー」をライブで演奏していたのである。ここから、ヴェノムがダークかつダーティなありとあらゆるものに対して強い影響力をもっていたことがうかがえる。メタリカも、1984年2月にスイスから始まった「地獄の七日間」ツアーでヴェノムと一緒にヨーロッパをめぐり、感激している。メタルをこころざす若者たちには、ヴェノムからの影響が露骨にあらわれていた。ドラムのアバドンは2人のスウェーデン人記者にこう語っている。「メタリカのジェームズ・ヘットフェイールドを知っているだろう? 断言してもいいが、あいつは突然クロノス[ヴェノムの大柄なボーカルで、野人のようにふんぞり返り、腕を振りまわしながら歩いていた]の歩き方を真似するようになったんだ」

早速、1981年に発表されたヴェノムのファーストアルバム『Welcome To Hell(地獄へようこそ)』を見てみよう。

ジャケットには、逆ペンタグラムに当て嵌めてバドフォメットが描かれている。逆ペンタグラムはサタンのシンボルの記号として使われる。バフォメットとは黒山羊の頭を持つ悪魔であり、悪魔主義者(サタニスト)はこれの偶像を崇拝しているとされる。つまり、このジャケットデザインは、ヴェノムが悪魔主義を掲げていることを明確に示している。

 また、このアルバムの収録曲のタイトルを見ていくと「悪魔の息子たち(Sons of Satan)」、「地獄へようこそ(Welcome to Hell)」、「天使のように生き(悪魔のように死ね)(Live Like an Angel (Die Like a Devil))」、「ソドムの千日間(One Thousand Days in Sodom)」や「サタンと連帯して(In League with Satan)」などとあり、明らかに悪魔の雰囲気を前面に押し出している。ここでは「悪魔の息子たち」の歌詞を見てみよう。

https://genius.com/Venom-band-sons-of-satan-lyrics

我々が生まれた時代のどこかの場所で
血、情欲、憎しみや軽蔑をもたらした(時代のどこかの場所で)
今では残念だが、あなたは私を信頼していた
今、私は汝が跪くことを命じる

地獄、欺くもの
サタンの子供
汝は信ずるもの
我々はワイルドにきめる

徳なんてどっかにやってしまえ
壁をよじ登るなんてやめてしまえ
この紙に汝の名前を書きさえすればよい
我々は自分たち自身で大いに楽しむだろう

妬みの戦いなのか
汝は強力で勇敢だった
だが、己の馬鹿げた衝動のせいで
汝は墓送りとなった

地獄は汝を騙したのだ
汝は盲目だった
すべての人間同様
汝の気は触れてしまう

地獄は汝を騙したのだ
汝は盲目だった
毒の軍隊に参加せよ
我々はワイルドにきめるのだから

ブラック・サバスやオジー・オズボーンの歌詞において悪と見做されているのは、あくまでも戦争を引き起こし暴利を貪る政治家や金持ちで、ミュージシャンの側はそれを糾弾する善=神の立場に立っていた。対して、ヴェノムは悪の陣営に属していることを標榜している。ジャケットに掲げられているバフォメットの絵は、何より、自分たちが悪魔の信徒であることを象徴的に示している。

バフォメットとサタニズム

現在では、ペンタグラムとバフォメットの絵は悪魔主義を象徴する重要な記号として扱われている。しかしこれらが悪魔主義のシンボル=象徴となったのは決して古い時代ではないことを指摘しておきたい。現在広く流布されている黒山羊の頭を持つ図像は19世紀フランスでオカルティストとして活躍したエリファス・レヴィの手によるものなのだ。

しかし、エリファス・レヴィは確かに魔術の伝道者ではあったが、決して悪魔主義者ではなかった。ユイスマンス研究者であり、オカルト研究で知られる大野英士は言う。

エリファス・レヴィは、「悪魔」の存在を認めていない。すなわち、悪魔崇拝の黒魔術は、マニ教という「奇怪な邪教」の影響の下、ゾロアスター教の教義を曲解し、「普遍的均衡を構成する二力(にりょく)という魔術の法則」をもとに、「非論理的な頭脳の持ち主が、能動的神格に屈服しつつも敵対する一種の否定的神格を想定する」に至ったものにすぎず、「不純な二元論が生み出され、『神』を分割するという狂気の沙汰に及」んだために生じたものである。

エリファス・レヴィは悪魔だけではなく、善悪二元論を受け入れていない。悪魔を認めるということは、神に対抗できる強力な別勢力の存在を認めるということであり、それは必然的に善悪二元論ということになる。伝統的に二元論を認めてこなかったキリスト教の歴史の中で、カトリックから独立するべく二元論を持ち込んだのがプロテスタントであることは、既に見た通りだ。対して、カトリックのバックボーンを持つエリファス・レヴィにとっては、善悪二元論も悪魔も認められるものではなかったというわけだ。創造主である神の力は絶対であり、その創造物の一つに過ぎない悪魔が神に逆らうことなど到底出来はしないのである。すなわち、エリファス・レヴィにとってバフォメットは決して悪魔などではなく、むしろキリストの霊性を帯びたものであった。

 そもそも悪魔の偶像バフォメットとは、フランス王フィリップ4世が聖堂(テンプル)騎士団を壊滅させようとして流したデマに由来している。それを、魔術を通してキリストの霊性に迫ろうとしたエリファス・レヴィが信仰の対象として担ぎ出したというわけなのだ。更に、大野英士の言葉を続けてみよう。

 画家でもあったエリファス・レヴィは『高等魔術』の「祭儀篇」冒頭に、1307年から14年にかけて、フランス王フィリップ4世によって異端の廉で壊滅させられた聖堂(テンプル)騎士団が、その悪魔崇拝の儀式で使用した「バフォメ(ット)」すなわち、両性具有の牡山羊の像を描いている。ジャック・ド・モレー総長に率いられた悪魔崇拝結社の入信者は、その魔宴に際して、この両性具有の悪魔像の尻にうやうやしく接吻したのだという。後世においてこのバフォメット像は、文字通り悪魔崇拝の偶像として有名になるが、エリファス・レヴィ自身の説明によれば、この像は額につけた聖なる「五芒星」=ペンタグムが示すように、陰陽、男女、霊肉等々、2つの対立する原理の普遍的均衡によって成立する魔術的光明の象形文字的表現であり、「魔王」の荒唐無稽な像ではありえず、キリストの光の属性を身に帯びているのだという。

つまり、バフォメットが黒ミサやサバトの儀式で崇拝されていたという話は14世紀の聖堂(テンプル)騎士団に対する弾圧から発していること、そして現在ヘヴィメタルのミュージシャンたちが悪魔の偶像として掲げているバフォメットの絵は19世紀のフランスでエリファス・レヴィが描いたものを基にしているが、エリファス・レヴィ自身は決して悪魔主義者ではなくむしろカトリックへの深い信仰を持った人間であった。エリファス・レヴィは、ただ、魔術を通してキリストの霊性を見ようとしていたに過ぎない。

19世紀末当時の社会において、このエリファス・レヴィを悪魔呼ばわりして攻撃したのはレオ・タクシルという人物である。『19世紀の悪魔』という著作で知られるレオ・タクシルはフリーメーソンに対する攻撃のキャンペーンを張ったことで知られている。やがて20世紀に入ると、フリーメーソンへの偏見は反ユダヤ主義思想と一緒になって、ナチスドイツのイデオロギーへと発展していくことを言い添えておく。また、19世紀末と言えば、ドレフュス事件に見られるように、反ユダヤ主義が昂揚した時代としても知られている。先鋭的なカトリックの一群が、フリーメーソンやユダヤ教徒を悪魔とみなして差別運動を展開した時代なのだ。つまり、エリファス・レヴィも彼が描いたバフォメットも、自ら悪魔を名乗っていたわけではなく、差別的なカトリック保守層が彼を敵視し悪魔呼ばわりしたに過ぎないということだ。

対して、バフォメットが悪魔の偶像として定着するのは20世紀のアメリカのことである。アントン・ラヴェイという人物によって、1966年にサンフランシスコで設立されたサタン教会のシンボルマークとしてバフォメットは採用されるのだ。1969年の『サタンの聖書』など著述を発表する他、ミュージシャンとしても活動したアントン・ラヴェイは、様々な小説家、芸術家やミュージシャンたちにも影響を与えた。アメリカの保守を形成する先鋭的プロテスタントである福音派に対して、まさにカウンターカルチャーの役割を果たしたのである。すなわち、それぞれのミュージシャンたちが必ずしもサタン教会の信者ではなかったとしても、20世紀のヘヴィメタルにおける悪魔趣味はサタン教会の影響を受けて発展したことは確かだろう。

ヴェノムからスラッシュ・メタルへ

ヴェノムが1980年代以降のスラッシュメタル、ブラックメタルやデスメタルに大きな影響を与えたのは事実だとしても、ヴェノムはスラッシュメタルに分類されてはいない。スラッシュメタルの一歩手前といったところだろう。スラッシュメタルは、ヴェノムのスタイルにパンクの要素を持ち込みスピード感溢れる演奏を展開したのである。例えば、スレイヤーのケリー・キングは「俺たちはメタルにパンクの要素を少しばかり注入し、そこから先に進んでいった」と言う。また、アンスラックスの結成メンバーでニュークリア・アソルトなどでも活躍したベーシストのダン・リルカも「もちろん、本能的にこうも思った。 « ああ、また速いバンドが出てきたな。俺たちもスピードアップしなきゃ » 競争心みたいなものがあったんだ」と回想している。

スラッシュメタルが、ヴェノムの音楽から受け継いだ最大の特徴は、やはりヴォーカルのスタイルにあるのではないだろうか? ヴェノムのヴォーカルをとるのはベーシストのクロノスであり、彼はメロディラインを歌うというよりは、過激な内容の歌詞を叫ぶといった感じだ。このスタイルは確実に、リズムギターのジェームズ・ヘットフェイールドがヴォーカルを取るメタリカやベースのトム・アラヤが歌っているスレイヤーにも受け継がれている。ヴェノムはイギリスの地でスラッシュメタルを準備したのである。

唸り声をあげる彼らのヴォーカルスタイルは、観客が一緒に歌うのが困難であるという点ではある意味短所とも言えるが、確実にその後のメタル音楽の特徴の一つとなっていった。『魔獣の鋼鉄黙示録 ― ヘビーメタル全史』のイアン・クライストは言う。

 強力なリード・ボーカルに欠けていたメタリカは、グルーブを重視した。ヘビーな音楽を構成するにあたって、これは必要不可欠だった。世間に派手なボーカリストが引きもきらないなか、ヘットフェイールドの朴訥としただみ声は、驚異的なギターと隙のないドラムがひそかに織りなすメロディアスなフックを弱めてしまった。彼らはボーカルを中心に置くのをやめ、それが当時のヘビーメタル・バンドのなかで頭ひとつ抜け出る転換点となった。

実際、メタリカは専門のボーカルの導入を検討しつつも結局は放棄し、ヘットフェイールドがヴォーカルを担当する事で落ち着いた。幸か不幸か、それがスラッシュメタル以降のヘヴィメタルの重要な特徴の一つになったのである。

インディーズからの台頭

メタリカにせよスレイヤーにせよ、今でこそ華々しい活動を展開する彼らではあるが、当初はインディーズの領域で開始したことを指摘しておきたい。

メタリカの創設者のラーズ・ウルリッヒは、最初、熱心なメタルファンの1人に過ぎなかった。モーターヘッドのアメリカツアーに帯同したり、レコード店を巡ってヘヴィ・メタルのアルバムを探し回ったりと、ロックに絶大なる情熱を注ぐ極めて熱心なファンだったのである。その彼がやがてドラムのスティックを握り、仲間を集めてデモテープを作り、ヘヴィメタル界のスターへの道を歩み始めることになる。

当時のアメリカの商業資本はヘヴィ・メタルに大きな関心を払っておらず、ファンたちはファンジン(同人誌)を介して自分たちでネットワークを作り、情報を交換しあっていた。その中にはラーズ・ウルリッヒのように、実際に楽器を手にとり自宅でデモテープを作るものも現れるのだが、そのような音源もこのネットワーク上で流通した。

1982年、『ニュー・ヘビーメタル・レビュー』誌の編集長、ブライアン・スレーゲルはインディーズレーベル、メタル・ブレイド・レコーズを立ち上げ、ヘヴィ・メタルのバンドの楽曲を集めたコンピレーションアルバムの作成を思い立つ。そのブライアン・スレーゲルはこのアルバムの選曲をする際、余った数分間を埋めるためにラーズ・ウルリッヒに何かやってみたいないかと声をかけたという。これをきっかけに、ラーズ・ウルリッヒは友達のジェイムズ・ヘットフィールドを誘ってメタリカを結成する。

彼らが参加したこのコンピレーションアルバム『メタル・マサカ』は大成功を収める。こうしてステージに一回も立ったことのないロック・バンドが、たとえ一曲とは言え、レコードデビューを果たしたのだ。

更にこの年、メタリカは『ノー・ライフ・ティル・レザー』というタイトルのデモテープを録音する。そして9月18日、彼らはサンフランシスコで初めてのライブに挑むのだが、聴衆の多くは既に彼らのデモテープを耳にしていたという。

1983年、彼らはデモテープの曲を基にしてファーストアルバム『キル・エム・オール』をリリースする。ところが、レーベルはブライアン・スレーゲルのメタル・ブレイド・レコーズではなく、ジョン・ザズーラのメガフォース・レコードだった。当時のブライアン・スレーゲルには新人バンドのアルバムを録音しリリースするための資金がなかったのである。ただ、ジョン・ザズーラにしても財政的に恵まれていたわけではなく、借金をしての挑戦だった。ジョン・ザズーラのこの借金という賭けはものの見事に成功したことになる。

一方、メタリカというチャンスをみすみす逃したブライアン・スレーゲルは、スレイヤーに目を付ける。このバンドは後にビッグ4の一角を成すことになるのだから、ブライアン・スレーゲルには先見の明はあったと言えるだろう。こうして1983年12月にリリースされたのが彼らのファーストアルバム『ショー・ノー・マーシー』だ。ただし、この時もブライアン・スレーゲルに十分な財政的余裕があったわけではなく、アルバム録音のための資金を調達したのはバンド側だったという。

こうして、最初はファン同士のネットワークの中から活動を開始したスラッシュ・メタルはやがて世界へと羽ばたいていくことになる。

黒木朋興(くろき・ともおき)
[出身]1969年 埼玉県生まれ
[学歴]フランス国立ル・マン大学博士課程修了
[現職]慶應大学等 非常勤講師
[専攻]フランス文学 比較修辞学 大学評価
[主要著書]『マラルメと音楽 ―絶対音楽から象徴主義へ』(水声社、2013年)『3・11後の産業・エネルギー政策と学術・科学技術政策』, 日本科学者会議科学・技術政策委員会編(共著 八朔社、2012年),『グローバリゼーション再審ー新しい公共性の獲得に向けてー』(共編著 時潮社、2012年), Allégorie(共著 , Publications de l'Université de Provence, 2003)