ロックと悪魔 第二十一回 スレイヤー黒木朋興

スラッシュメタルという新たな領域を開拓したという点においてメタリカの功績は絶大であった。ただ、歌詞やジャケットデザインなどを見る限り、テーマとして悪魔の要素は薄い。対して、サタン趣味を前面に押し出して活動しているのがスレイヤーである。以下、スレイヤーの悪魔主義を見ていこう。

Show No Mercy 1983

1983年、スレイヤーはファースト・アルバム『Show No Mercy(情けをかけるな)』を発表する。ジャケットには剣で象られた五芒星=ペンタグムと剣を持ったボフォメットが描かれており、悪魔主義が前面に押し出されているのが分かる。

次に曲名と歌詞をみてみよう。2曲目のタイトルに「The Antichrist(反キリスト)」とある。もちろん反キリストとは悪魔のことであり、明らかに悪魔をテーマにした曲であることがタイトルから分かる。早速、歌詞の訳を引用してみよう。

https://www.azlyrics.com/lyrics/slayer/theantichrist.html

俺が望む生活の
悲鳴と悪夢
この嘘が生息しているが見えない、ノー
俺が取り付いている世界
お前は俺の心と魂のコントロールを
すべて失った
サタンが俺の未来をつかんだ
それが広がっていくのを見ろ

俺は反キリスト
それは俺がならなければならなかったものだ
お前の神は俺を後ろに置いていった
そして俺の魂を解放したのだ

サタンの規則の
信奉者たちを見ること
血のペンタグムが
ジャッカルの真実を捉える
答えを求めること
キリストは来なかったのだ
最後の時を待つこと
サタンの息子の誕生

私の営む生活からの
悲鳴
苦痛
それは俺が与えるもの
拷問
それは俺が愛するもの
空にあった天国の
転落

俺は反キリスト
すべての愛は失われた
狂気は俺自身
永遠に俺の魂は腐るだろう

「サタン」「反キリスト」「血のペンタグム」「狂気」など悪魔主義を想起させる語彙が鏤められていることが一見で分かる。何より、もちろん反キリストとは悪魔のことであり、歌詞に「俺は反キリスト」とあるのだから悪魔主義の影響下にあることは明らかである。ブラック・サバスとは違い戦争を引き起こす政治家や不当な金儲けに邁進する金持ちを悪魔として糾弾すべき悪魔を歌うのではなく、自らを悪魔と見做す点においてヴェノムの路線を継承していると言える。

作曲も担当しているギタリストのジェフ・ハンネマンによるこの曲の歌詞の最大の特徴は「キリストは来なかったのだ/最後の時を待つこと/サタンの息子の誕生」という文言にあるだろう。ここで失楽園からイエス・キリストの誕生と死を経て最後の審判へ至る歴史を復習しておきたい。アダムとイヴが禁断の果実である知恵の樹の実を口にしたことでエデン=楽園から地上へ追放されたという記述が旧約聖書にあることは広く知られている。そのような流謫から人類を救おうとした神の息子である救世主=キリストを人類は殺してしまう。その後、人類は赦しを待ちつつ歴史を歩むことになるわけだが、再び救世主=キリストが地上に現れる時に最後の審判が行われ、それまでに生存したすべての人間が裁かれ、天国へ行く者と地獄へ行く者に分けられるとされる。対して、この曲の歌詞では、キリストは再臨せず、更に最後の審判の時に出現するのは神の子であるイエスではなく「サタンの息子」であるとしている。キリスト教の終末思想が、神から悪魔へと反転しているのが分かるだろう。つまり、スレイヤーの悪魔思想は、キリスト教の歴史観に基づきつつ神の代わりにサタンを奉じる立場を取っていることになる。

信仰とエンターテインメント

しかし、彼らはサタン教会の信者ではない。それどころか、ベースとヴォーカルを担当するトム・アラヤは南米のチリの出身であり、熱心なカトリック信徒なのだ。このことに関してトム・アラヤの態度は明快である。2006年7月9日付『BLABBERMOUTH.NET 』のインタヴューの中で彼は「私は本当に強い信仰体系を保持している。そしてこれら[の歌詞]は言葉にしか過ぎないし、それらが私の信じているものや私の感じ方を邪魔することは今までもなかったしこれからもありはしない」(https://www.blabbermouth.net/news/tom-araya-slayer-s-lyrics-are-just-words-and-they-ll-never-interfere-with-what-i-believe/)と言っている。つまり信仰と創作は別と割り切っているわけだ。この姿勢についてリードギターのケリー・キングも2015年12月23日付の『Metal Warehouse』におけるインタビュー記事で「私が思うに、彼[トム・アラヤ]はスレイヤーがエンターテインメントだと分かっている。こうしてトムは自分のスレイヤーへの参加を納得させているんだろう」(https://metalwarehouse.nl/nieuws/kerry-king-talks-slayers-lyrical-content-possible-retirement-audio/)と言っている。

対して、ケリー・キングは「私がやっているのは、まさにおおよそ組織化された宗教に反逆するということだ。これこそが私の主要な関心事だ。なぜなら宗教は自身の足で立って自分の人生を歩むことのできない人々にとっての松葉杖だと個人的に思っているからだ」(https://www.blabbermouth.net/news/slayer-s-kerry-king-my-thing-is-rebelling-against-organized-religion/)と、2006年8月4日付の『BLABBERMOUTH.NET 』のインタヴューの中で明確に宗教への敵愾心を露わにしている。この場合、彼が敵対視する宗教には当然キリスト教だけではなく、サタン教会も含まれている。実際、ケリー・キングは2016年11月8日付『Metal Hammer』のインタヴューで「私は悪魔主義者ではない。私は無神論者だ。しかしこのクソみたいな地球上で最高の悪魔的な歌詞を書いている。それは絶大なエンターテインメントなんだ。宗教は嘲り笑うべき最も滑稽なものだ」(https://www.loudersound.com/features/slayer-kerry-king-interview)と発言している。つまり、彼は神も悪魔も信じてはおらず、あくまでも創作のネタとしてサタンを活用しているだけということになる。例えば、ケリー・キングは上述の2015年12月の『Metal Warehouse』上で「私はホラー映画が好きだ。まさに陰鬱なトピックが好きなんだ」と発言しており、自分たちの楽曲がホラー映画などのエンターテインメントと同種のものと見做していることがわかる。彼らがタブーを犯し、宗教に毒づくのもあくまでもエンターテインメントに過ぎないというわけだ。もちろん、この場合、このエンターテインメントとは単なる娯楽作品という意味というよりは、神や宗教に対する信仰心から創作を行うのではなく、例えばホラー映画のようにあくまでも創作のネタとして悪魔を取り上げているだけだという文脈で理解するべきであろう。

ホラー映画と悪魔

ここでケリー・キングが言及しているホラー映画について考えてみたい。

映画の誕生は一般に19世期末のリュミエール兄弟が開発したシネマトグラフに端を発するとされる。以降、様々な作品が撮影されてきたわけが、魔女、ゾンビや吸血鬼などの怪物や殺人鬼が登場するホラー映画も割合早い自体から撮影されてきた。例えば、1920年の『カリガリ博士』や1922年の『吸血鬼ノスフェラトゥ』などが有名である。

その中で、1973年のウィリアム・フリードキン監督によるアメリカ映画『エクソシスト』はホラー映画に画期的な潮流をもたらすこととなった。すなわち、それまでは恐怖の対象が怪物や殺人狂だったのに対し、この作品を機に悪魔が主役の座に躍り出ることになったのである。

切り裂きジャックなどの殺人鬼は別として、フランケンシュタインや吸血鬼などの怪物は、空想の産物、つまりフィクションに過ぎない。それに対して、悪魔は元々が天使であり、物質である肉体は持たないが霊として現実に存在するものであることに気を付けておきたい。要するに、悪魔は決して空想上の存在ではないのである。

ここでカトリックでは、16世紀のトリエント公会議以降悪魔を強調しない方針を取っており、また、17世紀フランスの新旧論争において典型的に見られるように現実の存在である神や天使など霊的存在を文学作品の題材に扱うことを忌避する傾向があったことを思い出しておこう。となれば、空想上の怪物を主役に映画を撮ることは、あくまでもフィクションとして物語を紡ぐ楽しむ限りにおいて、キリスト教圏において広く問題もなく行われる行為なのに対し、霊として現実に存在する悪魔を主役に作品を作ることは、カトリック圏ではどちらかといえば敬遠される行為ということになる。

となれば、悪魔とカトリックの司祭が激闘を繰り広げる映画『エクソシスト』がプロテスタントの勢力が強く、またエンターテインメントの創作が盛んであるアメリカで作成されヒットしたのは決して偶然ではないことがわかる。

スレイヤーのギタリストであるケリー・キングが自分たちの悪魔趣味とホラー映画を並行させて語っているのは決して偶然ではない。決して信仰の問題ではなく、あくまでもエンターテインメントの題材として悪魔を取り上げているというわけだ。これはまさに、聖書の内容や実在した聖人たちの話を題材にして自由に創作活動をすることを許容したプロテスタント文化とショービジネスの要素の強いアメリカのエンターテインメント文化が重なって産まれたものだと言えよう。

しかし、ただのエンターテインメントだからと言って政治的論争の的とならないというわけではない。それどころが彼らが反宗教を掲げ、キリスト教を毒づく限りにおいてアメリカで勢力を誇る福音派の信徒の攻撃を浴びることになるからである。

黒木朋興(くろき・ともおき)
[出身]1969年 埼玉県生まれ
[学歴]フランス国立ル・マン大学博士課程修了
[現職]慶應大学等 非常勤講師
[専攻]フランス文学 比較修辞学 大学評価
[主要著書]『マラルメと音楽 ―絶対音楽から象徴主義へ』(水声社、2013年)『3・11後の産業・エネルギー政策と学術・科学技術政策』, 日本科学者会議科学・技術政策委員会編(共著 八朔社、2012年),『グローバリゼーション再審ー新しい公共性の獲得に向けてー』(共編著 時潮社、2012年), Allégorie(共著 , Publications de l'Université de Provence, 2003)