ロックと悪魔 第二十五回 メタル狩りとの闘争4黒木朋興

性のタブー

アルコールへの白眼視に加えて、性に関するタブーも、福音派の人々の間で特に強いということを指摘しておきたい。

旧約世聖書の「創世記」によると、神は土で人の形を作り鼻から息を吹き込んで生命を与え最初の人類アダムを誕生させたことになっている。更に、神はアダムが一人きりだと寂しかろうと彼の肋骨を取り女を創った。これがエバである。ここで注目したいのは最初の人類であるアダムもエバも生殖活動、つまり卵子に精子が入り込み受精することによって誕生した生命ではないということである。

次に、イエスの誕生を見てみよう。父たる神が聖霊となって聖母マリアの体内に入り、そこで受肉、つまり人間の肉体を持った存在として現世に誕生したのが子たるイエスである。そしてこの父と子と聖霊を一つの存在とみなす思想が三位一体であり、キリスト教の根本教義である。この際、マリアは夫のヨセフと性交をしていない。マリアが処女と称される理由である。つまり、イエスも卵子と精子の受精によって生まれた存在ではないことになる。最初の人間であるアダムにせよ、救世主イエスにせよ、生殖行為を経ずに誕生したということになる。

更に、アダムとエバがエデンから追放された経緯を見てみよう。エバは悪魔である蛇に唆されて、エデンの中央にある禁断の木の実を食べてしまう。続いてエバに勧められたアダムもその実を口にする。すると彼らは裸でいることに気づき、イチジクの葉を股間にあてがう。そして、神の足音を聞きつけ裸であることを恥じ木陰に身を隠すのだが、その行為によって、禁断の実を口にしたことがばれてしまい、楽園エデンから地上に追放される。そこでエバとアダムは交わり、カインとアベルを生む。また、神の言いつけを最初に破った罰として、女性は出産の際に激しい痛みを味わうことになったとされる。

ここから分かるのは、旧約聖書には性を罪の結果生じた汚らわしいものとしてタブー視する発想があるということだ。神は、禁断の木の実を食べ善悪を知ったアダムとエバが更に命の木の実を食べれば、永遠に生きるかも知れないと言う。そうなれば人間は生殖活動とは永遠に縁がなかったかも知れないのだ。また、彼らが初めて性的に交わるのは地上に落とされてからだということにも注意しておきたい。神に赦されるその日まで、人類は生殖活動によって命をつないでいかなければならなくなったとも解することが出来る。更に女は最初に木の実を食べた罰として分娩の苦しみを与えられている。少なくとも、人間が全裸でいること、特に性器を人前に晒すことを恥ずかしいと感じるようになるのは、神によって禁じられていた禁断の木の実を食べた結果であることは、創世記に明記されている。

全裸運動

ここで欧米で見られる全裸運動(ヌーディスト運動)について考えてみたい。有名なものとしては、2003年以降毎年開催されている「世界全裸自転車大会」(World Naked Bike Ride)がある。化石燃料に頼る社会のあり方に一石を投じるという目的の下、参加者は全裸になって自転車に乗り街中を走るという企画である。あるいは、2018年5月5日、パリの美術館パレ・ド・トーキョーにおいて開催された全裸で作品を鑑賞する会が挙げられる。全裸芸術鑑賞会はこれがフランスでは最初の試みだったという。

そもそも自転車に乗るにせよ、芸術作品を鑑賞するにせよ、一体どうして全裸になる必要があるのだろうか? 多くの日本人からすれば、変態さんたちの催しに見えてしまうかもしれない。例えば、2015年5月30日にイギリスのカンタベリーで行われた「世界全裸自転車大会」において発生した事件を見てみよう。 局部を興奮させた男性の参加者が一人、警察によって摘み出されたというのだ。日本の報道に紹介された目撃者の言葉を引用しみてよう。

「一人の男性が警察官に連れて行かれる姿に息をのみました、だって、その男性ったらすっかり興奮した一部を見せていたんですもの」「本当に恐ろしい光景でした、みんな礼儀正しく裸で乗っているのに、その男性だけ“発情”していたんです 」(https://news.merumo.ne.jp/article/genre/2944986

このようなニュースは日本ではどのように受け止められるのだろうか?  Twitterの呟きをまとめた「【全文意味不明】世界全裸自転車レース大会 局部を興奮させた男性失格になる」というタイトルのTogetterのサイト(https://togetter.com/li/832206)を見てみると、「草を抑えられない」「大草原不可避wwwwwwwwwwww」「まず全裸って時点で草」や「全員逮捕だよ」といったツイートが並んでいる。裸を見て興奮するのは当たり前だし、それを糾弾するならそもそも公の場所で全裸になどならなければ良い、という考えだろう。まさに我が国からすれば、このような催しは変態さんのイベントに見えても不思議ではない。にもかかわらず、その会場で性的に興奮することが糾弾されるとすれば、それはまさしく「意味不明」ということになる。 しかし、実のところ、これは変態イベントとは真逆のものであり、人の裸を見ても心穏やかに振る舞うことが称賛される、という彼らの信仰に深く根差した行為なのである。

全裸運動の宗教的意味

全裸運動の宗教的意味に気がついたのは、来日したフランスのジャズロックバンドMagmaのサウンドエンジニアを務めるオリエ・アルノーとの会話がきっかけであった。ある日、彼はバンドの経営を担う女性ヴォーカルのステラ・ヴァンデールがネットでとある動画を見つけ、それについてバンドのメンバーで議論になった、と切り出したのだ。その動画とは若い裸の女性が「全裸オーケストラ」という横断幕を掲げたステージの上でブラスバンドを演奏しているというものであった。まずは、彼女たちが日本人なのか中国人なのかと聞いてきた。「オーケストラ」という片仮名が使われている以上、彼女たちは日本人であると答えた。続いて、彼はこのような演奏を行うことの宗教的意味は何なのかと聞いてきた。これに対して、宗教的意味は皆無で単なるポルノに過ぎないと伝えたところ、彼をはじめ周りのフランスのミュージシャンたちは納得しないのである。ポルノというのであれば性行為を撮影しているはずであるのに対し、これは性行為は一切なくただ楽曲を演奏しているだけなのだからポルノではあり得ず、なんらかの宗教的あるいは文化的意味があるはずだ、と言うのだ。そこで「全裸オーケストラ」という表現を検索にかけ、このヴィデオを販売しているメーカーのホームページを探し出しこれがアダルト・ヴィデオのメーカーであることを示した上で、この動画は単なるポルノであり宗教的意味などまったくないと説明した。 それでもメンバーのうちの何人かは納得できないらしく、宗教的意味が知りたいと繰り返していた。日本から見れば、なぜただのポルノに宗教的意味があると思うのか不可解ではないだろうか? しかし私は彼らとの会話がきっかけとなり、世界全裸自転車大会や全裸美術館観賞会の宗教的意味に気がついたのである。旧約聖書では、人類は禁断の果実を食した結果、裸でいることを恥ずかしいと感じるようになり、股間をイチジクの葉で隠すようになったことを思い出しておこう。つまり、罪を犯す前の人間は裸でいることが自然であり、旧約聖書を奉じる信徒がエデンに再び帰ることを目指すのだとすれば、他人の裸を見ても興奮せずに心静かに自転車に乗ったり芸術作品を鑑賞したりするという運動は、彼らの宗教心の反映なのだ。

となれば、世界全裸自転車大会や全裸美術館観賞会は決して変態さんの催しなどでは断じてなく、それどころかそれとは真逆の試みということになる。裸を見ても発情せず平常心を保つよう努めることは信徒にとって、まさに宗教心の発露からくることなのである。 このことを逆から見れば、旧約聖書に基づく文化の中には性を罪と結びついた汚らしいものと捉える思想があることが分かるだろう。少なくとも、激しい痛みを伴う出産は悪魔=蛇に騙されて最初に罪を犯した女性に与えられた罰なのである。更に、アダムもエバも生殖行為によって誕生した存在ではないことを思い出しておこう。もし彼らが神に禁じられた善悪を知る木の実を口にせずそのままエデンに住み続けることになった場合、彼らは生殖行為をするようになったのであろうか? ここで神がエデンの園に植物を植えた時、その中央に善悪を知る木だけではなく命の木をおいたこと、そして善悪を知る木の実以外のすべての実を食べて良いと言ったことを確認しておこう。そしてアダムとエバがその禁断の実を食べ裸であることに恥じらいを感じるようになった後、神は彼らが命の木の実を食べれば、神のように善悪を知りかつ永遠に生きるようになってしまうかも知れない、と不安を述べている。もし彼らが林檎を食べずに命の木の実を食べていれば、全裸のままで永遠にエデンの園で生き続けることになったのだろうか。この状況では、生殖行為は彼らにとって不必要なものとなっただろう。であれば、人類は神の言いつけを破った結果、生殖行為を行うようになった、という解釈が可能となる。生殖行為と罪が強く結びついていることが分かるだろう。もちろん、神はアダムとエバに「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と命じているところから全面的に生殖行為を否定しているわけではない。それでも聖書の教えに生殖行為をタブー視する思想があることは事実なのだ。

性的誘惑という悪魔

以上から、キリスト教の中には性的なもの、特に女性の性的な魅力を悪魔からの誘惑とみなす思想がある。例えば、この思想が顕著に現れている芸術・文学作品のテーマに『聖アントニウスの誘惑』がある。ヒエロニムス・ボスやピーテル・ブリューゲルなど15世紀から17世紀にかけてのネーデルランドの画家たちが好んで描き、19世紀にはギュスターヴ・フローベールが小説を書き、20世紀にはサルバトール・ダリが取り上げたテーマである。聖アントニウスとは3世紀から4世紀にかけて生きた聖職者である。彼はイエスの如く荒野に赴き修行をする。そこへ悪魔がやってきて様々な誘惑を行い修行をやめさせようとするのだが、聖アントニウスはその誘惑を跳ね除け修行をまっとうする。ここで重要なのが、これらの誘惑の中に、女性からの性的な誘惑があったことである。

例えば、ヒエロニムス・ボスやピーテル・ブリューゲルの絵画を見ると、奇妙な姿形の化物が多く描かれている。その不思議な造形は愛らしいとさえ感じられる。更に、ボスの裁断画の右のパネルには木陰から聖アントニウスを誘惑する裸の女性の姿があるし、ピーテル・ブリューゲル(子)の絵には聖アントニウスの傍に、赤い服を着た放漫な体つきの女性とその彼女の乳房に手を当てている男性が描かれている。聖人はそういった性的誘惑には目もくれずひたすら聖書に目を走らせている。女性の色気は罪なのである。 このことがより顕著に現れているのが16世紀ネーデルランドの画家コルネリス・マサイスの描いた『聖アントニウスの誘惑』であろう。絵の中央には全裸の女性が2人がかりで懸命に聖人を誘っている姿が描かれている。そのうちの1人は料理が盛られた皿を手にしており、性欲と食欲で誘惑しているのがわかるだろう。更にその右側には胸をはだけた老婆が座ったまま2人をけしかけている。

すなわち、キリスト教には性愛それ自体を罪であり汚らわしいものとみなす思想があり、色気を放つ女性の体が悪魔の誘惑の代名詞として捉える思考があることが窺い知れる。このことは、性愛を神聖視する一面のあるインド思想や仏教思想とは対照的だといえよう。例えば、古代インドのバラモン教には性愛を指南した『カーマスートラ』という経典があるし、ヒンズー教のシヴァ神の象徴はリンガ、つまり男根である。また、仏教には男天と女天が抱擁し合っている歓喜天があり、もちろん性愛崇拝の一種と思われるが、大っぴらに公開されるべきものではなく、厨子に安置され秘仏として扱われる。なお、日本にも金精様という男性器の形をした造形を祀る風習があることを言添えておく。

確かに、性愛にまつわるテーマは人を不快にしたり傷つけたりしてしまう可能性が高いものであるが、生命の誕生に関する根幹の行為であり、信仰の対象になるのも不思議ではない。ところが、キリスト教では過剰なまでに性愛をタブー視する思想の流れがあるのだ。

ロックと性と悪魔

ウッドストックに代表されるカウンターカルチャーのスローガンがセックス・ドラック・ロックンロールであったことは広く知られている。セックスやドラックを強調することが、既存の社会や常識に対する反抗の象徴であったのだ。しかし、セックスに関して言えば、キリスト教社会においては上記のような背景に照らし合わせると特にタブー視されているテーマだということが分かるだろう。

ヘヴィメタルだけではなく、ローリングストーンズなどのロック一般においてセックスは頻繁に歌われている。その中でも最も過激なミュージシャンの1人がフランク・ザッパだろう。例えば、エイドリアン・ブリューが参加している『シーク・ヤブーティ』(1979)の歌詞を見てみれば、下ネタのオンパレードである。日本から見れば、ザッパは単なる助平の下ネタおじさんに見えてしまうかも知れない。しかし、ザッパの一連の歌詞はアメリカの保守を形成する福音派に対する痛烈な当て付けなのである。 このザッパの対決姿勢は、前述のペアレンツ・ミュージック・リソース・センター(PMRC)への異議を表明した文書にも表れている。大統領宛の公開状でザッパは以下のように言う。

もしあなたがPMRC(もしくはNMRC及び他のいかなるキリスト教原理主義圧力団体[Fundamentalist Pressure Groups]*による圧力団体)の、セックスは罪に等しいという伝説を普及不滅のものにしようと」いう努力を支持なさるのならば、これこそがポルノグラフィーを商売として維持させている、神経症的な誤った考えを制度化する手助けをしていることになるでしょう。

キリスト教原理主義者たちはセックス自体を罪と捉えているのではないか、という指摘をザッパが行っていることがわかるだろう。

そしてロックこそがこのポルノという罪を広めている音楽だと非難されているわけだ。対して、ザッパはアメリカの保守精神の拠り所であるカントリー・ミュージックとロックを比較して興味深い指摘をしている。

PMRCにはどなたかロックとカントリー・ミュージックを全く誤りなく確実に区分できる方がいるのでしょうか? 双方の分野のアーティストたちは、スタイル上の傾向において交錯しています。

事実、「アメリカの国旗や大型トラックや、アトミックなオールバック・ヘアーに彩られたカントリー・アルバムの類の内側には、素晴らしく様々なセックスと暴力と、アルコールと悪魔デビルについての歌が隠れ潜んで」いるとザッパは言う。ロックとカントリー・ミュージックは実際には区別がつかないにもかかわらず、セックス、暴力、アルコールや悪魔デビルはロックに押し付けられているということだ。カントリーはアメリカ保守の心の拠り所であり悪魔の音楽であるはずがないというのは思い込みに過ぎない。それでも、攻撃の対象になるのは決まってロックなのは偏見であるというわけだ。

ザッパのロックは決してヘヴィ・メタルではないし、彼は悪魔を歌うわけではない。だが、セックスは決して罪ではないと主張し、堂々と下ネタを歌う彼の音楽活動は、アメリカ保守を形成する福音派に対して、悪魔を掲げるヘヴィ・メタルと同様の鋭い批評活動となっていたのである。

黒木朋興(くろき・ともおき)
[出身]1969年 埼玉県生まれ
[学歴]フランス国立ル・マン大学博士課程修了
[現職]慶應大学等 非常勤講師
[専攻]フランス文学 比較修辞学 大学評価
[主要著書]『マラルメと音楽 ―絶対音楽から象徴主義へ』(水声社、2013年)『3・11後の産業・エネルギー政策と学術・科学技術政策』, 日本科学者会議科学・技術政策委員会編(共著 八朔社、2012年),『グローバリゼーション再審ー新しい公共性の獲得に向けてー』(共編著 時潮社、2012年), Allégorie(共著 , Publications de l'Université de Provence, 2003)