前章で、環境問題に代表される資本主義ならではの問題の解決が求められているが、これまでのようにあくまで資本主義内部での改良方法の提示という暗黙の前提が崩れてきて、資本主義それ自体を問い直し変革してゆくという問題意識が増大しつつあるのが現在の知的雰囲気ではないかと提起した。
ここから一度はその思想的命運が尽きたと思われる社会主義が、現代的な文脈にフィットする形で新たに求められているのではないかとも提起した。
社会主義といえば当然マルクスの名前が想起され、社会主義復権の本丸はマルクスの思想的可能性の再興にあるのではないかと考えるのが世間一般の考えだろうし、またそれは理論的にも適切な問題設定でもあるということを確認した。そのため本書ではマルクスを中心に社会主義の理論的可能性を提起しようとするのだが、当然ながら社会主義というのはマルクスの専売特許ではなく、マルクスの社会主義論は数ある社会主義思潮の一つに過ぎない。
そこでここでは、具体的に各社会主義思潮を説明するのに先立ち、社会主義というのを基本的にどう思想的に位置付ける必要があるのかを、ごく簡単にではあるが説明しておきたい。
社会主義というのは一般にはどのような思潮なのかとということだが、実はこれが到底一筋縄にはいかない。
我々は社会主義と聞けば直ちに「反資本主義」を意味し、資本主義に反対して資本主義を乗り越えた社会を建設したと自称した旧ソ連東欧の現実(に存在した)社会主義や、今も健在だが、資本主義ならではの不平等の指標になっているジニ係数が多くの資本主義諸国よりも高くて、いったいどこが社会主義なのか首をかしげざるを得ない中国などを思い浮かべるのが一般的なイメージだろうが、しかしこれだと社会主義というのは専ら資本主義成立以降の思想ということになってしまう。
しかし実際には、普通に社会主義的だと見なされるような思想は近代以前から数多く唱えられていたし、今から振り返れば社会主義または共産主義に該当するような思想を唱えていたと考えられる古代人も少なくなかったのである。
実際、近代になって反資本主義をアイデンティティとする明確な社会主義思潮が唱えられるようになってきた際にも、その唱道者の多くは自らとイエス・キリストの福音を重ね合わせることが多かったのである。
イエスは言うまでもなく古代人であり、キリスト教の教義には自覚的なレベルでは反資本主義的な内容は含まれていない。しかし資本主義がもたらす貧困や不平等に対して、キリスト教は「神の下での平等」という明確に平等主義的なメッセージを対置する。また金持ちが天国に行くのはラクダが針の穴を通るより難しいというイエスの福音は、素直に解釈すれば貧富の格差への批判であり、富者に対する告発である。こうして今日では社会主義の特殊な一形態だとされる「キリスト教社会主義」が、かつてはむしろ社会主義の主流だったのである。
今はそうではなく、社会主義や共産主義と聞くと直ちに「神の否定」を想起し、それがために不穏なものを感じざるを得ないという向きも少なくないという状況になっている。これは他ならぬマルクスが無神論というか唯物論の前提の上に社会主義を構想したからである。そして自他ともにマルクスの正当継承者と見なしたレーニン及びレーニン主義を国是としていたソ連を始めとする現実社会主義諸国が、無神論を標榜して反宗教プロパガンダに励んだからである。
確かにマルクスは客観的に存在するのは物質的な存在のみであり、神や霊などの精神的な実体とされるものは実在せず、人間が観念の世界で作り出したものに過ぎないとする唯物論者である。彼はキリスト教社会主義が社会主義を神の国の地上的実現と見なすのとは対照的に、あくまで人間自身の歴史的進歩によってもたらされる理想の実現こそが社会主義であり、共産主義であると考えていた。そして我々もまた、社会主義には宗教的な裏打ちは必要なく、あくまで合理的な社会設計の問題であると考えるべきだという点で、マルクスと軌を一にしている。
しかしだからといって、社会主義は必ず無神論でなければならず、社会主義と宗教信仰は両立し得ないかといえば、決してそうではない。社会主義というのが基本的にはあくまで社会制度の問題であり、神のような超自然的な存在に対する個人的な信条とは相対的に独立しているからである。ソ連では長きにわたって無神論宣伝が続けられ、共産主義者であることと無視論者であることの一体性が唱えられたが、これは個人的な信条の自由に対する侵害であり、抑圧的な社会政策であった。そしてこうした無神論教義の押し付けは、自由な存在としての人間の実現を目指すマルクス本来の意味での社会主義的解放の理念に背くことであり、マルクスの立場からすれば重大な裏切り行為だった。勿論、マルクスの権威を持ち出すまでもなく、個人の自由を侵害するような社会は、資本主義的抑圧から人間を解放するはずの社会主義に相応しくない新たな抑圧の創出である。当然これからの社会主義構想においては問答無用に無神論を押し付けるような現実社会主義の悪夢は、繰り返されてはならない。
そもそも神が存在するかどうかは科学的に論証されるものではない。我々が知ることができるのは時空内にある現象的事実だけで、時空を超えた超越者は原理上、その存在を想像したり、いるに違いないと信じたりすることしかできない。それゆえに原理的に時空を超えた超越者として規定される神を、現象世界の事物と同じレベルで扱うことはできない。こうした考えは我々が知ることができるのはその物が時空という形式の中に現象する限りであって、その物自体は認識することはできないというカントの認識論に倣うものだが、何もカントのような複雑な形而上学的前提を立てるまでもなく、単純に時空を超えた存在は時空内の事物と同じレベルで事実や客観的真理として議論することはできないというだけの話である。砕いて言えば、神や霊がいるかは信じるかどうか次第だという単なる常識に過ぎない。しかしこの常識から出てくる大切な帰結は、どちらか分からないものの一方を認めることを強制されてはならないということである。無神論も有神論も、どちらを信じるかは自由であって、社会主義へのコミットメントがどちらか一方への排他的選択を伴う必要はないし、また社会主義をそのようなものとして考えるのは一面的である。
これから実現されるべき社会主義をどのように構想するにせよ、超越的領域への信念は個人の自由として残しておくべきで、神を信じようが信じまいが等しく参画できるような運動の提起でないといけない。その意味で、かつての現実社会主義で行われていたような反宗教プロパガンダは無用である以上に有害であり、今後に繰り返すべきではない反面教師だと言えよう。
本書で積極的に提起される望ましい社会主義像は無神論者であったマルクスに由来する。エンゲルスには幾分そうした節が見られるが、マルクスの場合は自己の共産主義構想への支持は必ず宗教信仰との決別を伴なけなければならないと考えていたようには見えない。しかし大事なことはマルクスの教条を墨守することではなくて、適切な理論を構築することである。仮にマルクスが無神論者であることを万人に対する義務のように考えていたとしたら、それは宗教的信条に対する適切ではない不寛容さであって、誤りとしてきっぱりと退けるべきである。
日本では明確に宗教信条を強く打ち出す人は比較的少なく、何となく無神論だったり、深く考えずに神社仏閣に参拝して各種祈願をするような人が多い。神や仏の実在を心から信じているからこそ参拝するというような論理的に一貫した人はむしろ少数で、いるともいないとも分からないが、何となく雰囲気やノリで祈願するというような、軽い感じが多いとされる。初詣に大勢が出向くように、宗教的な行動をする人は多いが、自覚的な信仰というよりは風習の一つとして各種宗教行事に参加するというような心性が一般的ではないか。だから実はそうした一見して宗教的な振る舞いに反して、実のところは無神論や唯物論的な考えの人が多いのでないかというのが、よく言われていることだったりする。
これに反して諸外国では宗教行事に参加する人は真面目に信仰しているのが普通で、実は信じてないが風習なのでやっているという向きは日本のように多くはないというのが、これまたよく言われることである。勿論外国人の大多数が熱心な信者というわけではないし、日本人的な何となく信者も一定数いるはずだが、それはむしろ少数の例外だろう。特にイスラム圏では殆どの人々が真面目にラマダン月での日中断食を行っている。こうした高濃度のコミットメントを持続させるには、実は信じてないが何となくのような日本人的メンタリティでは無理だろう。
このような世界の現況が何を意味しているのかといえば、人類の多数が神への信仰を捨てて唯物論者になるというシナリオは、共産主義が世界大で実現するという夢物語以上にありそうもないということである。
勿論どんなに可能性が低くても是非そうすべきだというのならば、原理的に不可能ではない限りはそれを追求すべきだろう。しかし万人が神や仏への信仰を放棄して無宗教の唯物論者にならなくてはいけないという合理的な理由はない。社会主義を推奨するにあたって必要なのは信仰の有無にかかわりのない社会主義的変革へのコミットメントである。我々はマルクス主義的な唯物論に立脚した社会主義が望ましいと考えるが、社会主義的変革への連帯を示す有神論者に信仰放棄を強要することはあり得ない。それは旧ソ連で行われていたような否定すべき抑圧的な宗教政策の再現だからだ。
ただし、ここで勘違いして欲しくないのは、社会主義の立場は信仰の有無について何かしらの強い決断を促すものではないが、これはあらゆる信条の自由を無条件で許容することではないということだ。社会主義なのだから、資本主義では許容されている根幹的な自由がきっぱりと否定される。言うまでもなく所有の無制限な自由は許されないのである。
勿論資本主義にあっても所有権は無制限に認められているわけではない。資本主義では原則的に何でも買えることになっているが、売買が拒否されている対象も幾つかある。地位や身分というのは今も昔も建前上は売買できないものだったが、かつては実質的にはかなり広範囲に売買されていた。しかし今はある特定の地位を得るにはそれにふさわしい手続きを踏んで、適任であるということが客観的に認められなければならず、実力のない者が金を積んで手に入れるのは不正だと広く観念され、多くの場合で法律的にも禁じられている。
そして何よりも、一人の人間を金銭でもって丸ごと所有することは、現代では許されない。金銭で丸ごと買われる者は買い手の奴隷で、奴隷制度は現在では決して許容されていないからだ。我が国の法律では契約は基本的に諾成主義で、申し出を受け入れて相互に合意がされれば成立するとされる。しかし奴隷契約は相互に合意があっても公序良俗違反で無効である。何人もたとえ望んでも誰かの奴隷にはなれないのである。よくフィクションで借金のかたでタコツボ部屋に押し込まれ、地下の作業場で強制労働をさせられるというような話が描かれたりするが、このような強制は深刻な犯罪であり、どれだけ多額の借金があろうとも、返済のために隷属させられることは決して許されないのである。我が国では、いかなる理由があろうとも奴隷的隷属は許さない。こうした法律のあり方は、現代社会において奴隷制的遺制は絶対に許さないという強い決意の表明と言えるだろう。
このように、奴隷制という悪の絶対的否定という点では模範的な現行の法秩序ではあるが、奴隷的隷属以外の所有権それ自体は原則的に許容されている。確かに奴隷契約以外にも、貴重な文化遺産や自然遺産のような取り換えの利かない財も売買が禁じられている。どれだけの金額を積んでも、法隆寺や富士山を買うことはできないのである。しかしこうした原則的に売買できないような財は、我々の社会では例外で、基本的には全ての物が売買できるようになっている。貴重な自然保護地域は買えないかもしれないが、基本的には土地は自由に売買できる。そして個人的な消費財以外にも、新たに富を産み出すための生産財も自由に買うことができる。だから生産するための財を用いて生産活動を行うことも、自由にできるのである。そしてそうした生産のための財を生産のための手段として用いて、誰かを雇い入れて働かせて、新たに富を蓄積し続けることも問題なくできる。この場合、誰かを雇って働かせるということはその人を買っていることになるのだが、奴隷が許されない我々の社会では人間を丸ごと買うことができないので、買うのはその人が働くことのできる能力である。
こうして我々の社会である資本主義では生産手段を所有する者が労働力を買い上げて富を蓄積させることができる。しかしそれは富を持たずに労働力を売る他に生きる術のない大多数の貧困を前提する。それだからこうした分断を否定する社会主義にあっては、資本主義のように所有権が広範囲に認められることはない、何よりも一方の富裕と他方の貧困を生み出す原因となる生産手段の所有は禁じられるのである。生産手段は資本主義のように私的所有されるのではなく、社会全体で管理される。そして労働力も売買されるのではなく、労働力を所持している労働者本人が連帯してその処遇を管理運営するようになるのである。
こうして社会主義はかつての現実社会主義での反宗教プロパガンダのような、信条の自由に対する不要な抑圧を許容するものではないが、かといって無制限に自由が認められるわけでも、資本主義よりも自由の範囲が拡大するわけでもない。生産手段の私的所有のような資本主義では認めれていた所有が禁じられるという意味では所有権の範囲が狭まるということであり、この点だけを見れば社会主義とはむしろ資本主義よりも不自由な社会である。この他に、社会主義が目指す社会のあり方にあっては、資本主義では認められる極端な貧富の格差が禁じられる等、その社会政策は基本的に資本主義以上に自由を拡大するのではなく、むしろ自由の範囲を狭めていくという方向を取る。社会主義とは決して資本主義以上に自由な社会ではないのだ。
だがそうすると、我々は俄かに社会主義に賛同することはできなくなるのではないか?なぜなら人間にとって自由こそが最も大切で掛け替えのないものであるというのは、遍く行き渡った社会常識であり、不自由よりも自由がいいというのは、問うまでもない大前提であるはずだからだ。
だとすると、資本主義よりも不自由な社会である社会主義は、資本主義のオルタナティヴなどころか、むしろ資本主義よりも悪い社会なのではないか。なのになぜ敢えて社会主義を称揚しようとするのか?
実際大衆的なイメージにおける「社会主義」の雛形は旧ソ連東欧の「共産主義」社会であり、これらの社会は間違いなく西側資本主義よりも取り分けて言論の自由がない不自由な社会だった。ということはやはり社会主義というのは現実社会主義の悪夢を再現しようとする「悪魔の企て」なのであって、こうした「社会主義」の推薦者である私などはけしからん極悪人ということになるのであろうか?
確かに社会主義は資本主義よりも不自由な社会ではある。しかしここで問題なのは、そもそも自由というのは何なのか、どのような自由が望ましいのかという根源的な問いである。
なるほど資本主義は社会主義よりも自由であり、しかも社会主義とは反対にその自由の範囲を拡張しようとする。では資本主義こそが「自由な存在」である人間にふさわしい経済秩序ということになるのではないか。
この場合に言われている「自由」は、何でもできること、外的な制約がなく思うままに動き回れるようなイメージでの自由ということになろう。またこれは古典的な自由観でもある。
こうした古典的な自由観は、近代科学の形成と密接に結び付いている。
近代科学の前提的な世界観は、世界の構成要素を自由運動する物体に見ようとする点にある。こうした世界観を数学的に厳密化し近代科学のパラダイムとなったのが言うまでもなくニュートン物理学である。この世界観が共有されている中で、人間もまたそうした自由運動する物体であり、社会は運動する物体である人間による構成物だという見方が生じてくるのはごく自然なことだろう。
そしてこれこそ近代を代表する哲学者の一人であるホッブズの人間と社会観であった。
ホッブズにおいて社会とは個々の人間の集合体であり、その基本的な趨勢は個人のあり方に根差している。ホッブズは人間を、感覚を備えた運動する物体だと考えた。それで、物体の基本的な運動法則は自由運動である。一度動き出した物体は外的な拘束がなければどこまでも動き続け、同じように自由運動する物体と衝突や結合を繰り返し、どこ果てるともなく動き続ける。こうした原子論的な世界観が、そのまま人間社会にも適用される。つまり人間は外的な拘束がなければどこまでも自らの欲望の赴くまま動こうとするということだ。しかし人間は原子のように強固ではない。原子は相互衝突しても破壊されることはないが、人間は強くぶつかり過ぎたら壊れてしまう。つまり、死んでしまうのである。
これがホッブズが、社会が形成される以前の自然状態に認めた人間のあり方であった。欲望する物体である人間が相互に出会ったら、殺すか殺されるかの戦争状態にならざるを得ない。こうした「万人の万人に対する闘争」という惨めな自然状態を脱するために、各人が自らの生存の保証と引き換えに基本的権利を絶対権力者に譲渡し、そうした絶対君主の統治の下に社会生活を営むべきだというのがホッブズの社会観だった。
こうしたホッブズに見られるように、近代社会において典型的に想定された自由とは拘束がないことであり、自由な存在は外的に拘束されない限り何でもできるし、しようとするものだと前提されていた。その上で、こうした外的拘束がなく何でもできることそれ自体は根本的に重要な価値だと認められていた。
勿論ホッブズの自然状態のように一切の拘束がなければ自由は行き過ぎてしまい、社会を不安定にしてしまうので、ホッブズの求めたような絶対君主でなくても何らかの権力が適度に拘束して、各人の生活が侵害されない限りでの自由に留めるというのが、近代における典型的な自由観であった。
こうした自由観の代表が、J.S.ミルによるものである。ミルの自由論は今日、「他者危害原則」や「愚行権」の承認という形で議論されている。これは他者に危害を与えない限り積極的な善行は強制されず、たとえ愚かなことであっても行う権利があるという考え方である。
ミルがこう主張したのは、たとえ善いことであってもそれが政府や機関によって上から押し付けられると、個人の内面の自由が失われ人間が卑小になってしまうからだとされた。
こうしたミルの考えは重要である。やはり何といっても人間には内面の自由は元より個人的性向や嗜好の自由は重要で、やりたいことが自由にできないのは根本的に不幸だろう。その意味で、たとえどのような社会であってもこうしたミル的自由論は前提的に重視されるべきだと言えよう。
しかし自由というのは専らこうした外的で消極的なもので、敢えてやるべき積極的な自由はないのだろうか。勿論そうした積極的な自由も外的に上から強制されてはならないが、自発的に敢えてやるという意味での自由はないのかということである。
それは確かにあるし、そしてこうした積極的な意味での自由こそが、社会主義的文脈で重視される自由となる。
社会主義で目指される自由は、行動範囲の制限をなくすことでも、資本主義以上に広げることでもない。社会主義では生産手段の私的所有が禁じられるのだから、この点では明らかに資本主義よりも不自由な社会である。しかし生産手段の私的所有が禁じられれば資本が生成することができず、生産手段を所有していない労働者が資本家に搾取されることもなくなる。これにより、搾取されて貧困に陥る労働者はいなくなり、労働者は資本主義よりも豊かになる。豊かになった労働者は増大した自由時間を用いて、資本主義よりも多くのことができる。つまり社会主義は労働者が資本主義では妨げられていた自己実現を可能にするために、資本主義では認められている搾取の自由を制限して、資本主義では狭められていた労働者の自由の領域を拡大する。そして社会主義では資本家はいなくなるのだから、労働可能な者は総じて労働者となる。だからここでは労働者は人間一般を代表する意味になる。
この意味で、社会主義が求める自由は形式的な自由ではなく、自己実現のための条件である。そして自己実現が妨げられないような外的な自由を条件として、自らの自己実現が可能になり、それにより自らの意思でしたいことができて自己実現ができるようなる。そういう、単に外的に拘束されないという意味での消極的な自由ではなく、そうした消極的自由を前提にして、自らの内面的な意志によってしたいことができるという積極的な自由が、社会主義の求める自由の本質ということになる。
この意味での積極的な自由は、明らかにカントの求める自由と呼応している。
カントは外的に拘束がないという消極的な、普通の意味での自由を、本来の意味での自由である積極的な自己実現としての自由の前提条件とする。この場合カントは、こうした外的な自由が増大すればするほど欲求や感情に任せてしたい放題にするのではなく、むしろそうした感覚的な部分は抑制して、敢えて禁欲的に道徳法則に従って人間らしい人生を実現するのが本当の意味での自由だとした。この場合、自由とは何でもしたいことができることではなく、なすべきことを外的に強制されることなく自らの意志でできることが自由であり、こうした自由な存在であることが人間の本質であるとした。
つまりカントにとって自由とは、人間が自己以外の他者によって支配される他律的存在であることを脱し、自分自身のなすべきことを強制されずとも自らなすことができる自律的存在になることによって実現される、人間にとっての最高の価値なのである。
そしてこうした自由こそが社会主義の求めるものである。
社会主義の求める自由は、資本主義以上に行動の範囲を広げることではない。社会主義では「自由な商業活動」によって労働者を搾取する自由は禁じられるのだから、こうした行動範囲の広さという点では資本主義よりも狭いのであって、この点では社会主義は資本主義よりも不自由な社会である。しかしこの不自由によって労働者である人間が自己実現できる可能性は拡張される。この意味では社会主義は資本主義よりも自由な社会である。
ではどちらの自由が望ましいのかということである。商業の自由を認めて搾取する自由を認めるか、搾取を禁じて個々人を豊かにするか。何でもできるという形式的な自由は減少するが、個々人が自己実現できる可能性は増大する。形式的には自由ではないが、実質的には自由な社会としての社会主義。もしこれが望ましいと考えるのならば、社会主義を求めるべきだということになろう。
こうして、本書で提起する人類にとって望ましい社会のあり方である社会主義の基本性格が、まだなお部分的ではあるものの、位置付けられただろう。
社会主義は現在では専らマルクス主義と直結され、マルクス主義がそうであるように無神論を前提する思潮のように思われているが、マルクスの同時代まではむしろキリスト教社会主義が一般的であり、決して無神論を前提としてはいなかった。
確かに批判的にではあってもマルクスを範に仰ぐ本書の立場では無神論が望ましいと考えるが、社会主義はあくまで社会構想であり、社会主義者であることが必然的に神の否定を伴うこともない。無神論者も有神論者も、同じく社会主義者として連帯できるし、するべきである。
こうして社会主義社会では信教の自由が保障されなければならないが、信教の自由に示されているように自由は人間にとって重要な価値であり、社会主義もまた自由を重視する。しかし社会主義は資本主義で認められている生産手段の私的所有や商業活動の自由を認めない。この意味では社会主義は資本主義よりも不自由な社会だが、こうした自由の制限によって資本主義では実現できない高い水準で、個々人の自己実現を可能にする条件を作り出す。ここでは資本主義で追及される消極的な自由ではなく、自律という積極的な自由が重視されている。こちらの意味では、社会主義は資本主義よりも自由な社会である。社会主義はカント倫理学のように、外的制限がないという意味での消極的自由を個々人が自己実現できる自由という積極的な自由の手段と考える。こうした自己実現の自由という観点からすれば、資本主義ではなくて社会主義こそが真に自由な社会として求められるべきということになる。
後に詳論するようにマルクスも『共産党宣言』の中で理想社会である共産主義を「各人の自由な発展が万人の自由な発展のための条件であるようなアソシエーション」としている。つまり万人の自由な発展が目的であり、各人がそれぞれに自己実現することが調和的に全員の自己実現になるという調和的な社会である。こうした社会をどう考えるべきかは後に再説するが、明らかにここでは個人の自己実現が求められるべき自由の内容となっている。
こうした自由こそが社会主義が求めるものであり、このような積極的な意味で捉えられた自由を重視する考え方はマルクスに限らず多くの社会主義思潮に共通する。本書もまた、こうした自己実現としての自由を社会主義の最終目的として位置付けるべきだと考える。
田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)