十分でわかる日本古典文学のキモ 連載第十三回 枕草子助川幸逸郎

~清少納言が記した、美しき「失われた時」~

証言1:紫式部が語る清少納言 「あのかたから学ぶところはありません」

 たしかにわたしは、日記であのかたをおとしめました。それを根拠に、わたしがあのかたに嫉妬していたとか、でたらめいうひともあります。

「清少納言こそ、鼻もちならない顔をしたひどいひと。

 あれほど利口ぶって漢字を書き散らしているけれど、どの程度のものを書いているかよくみると、どうにも至らない点がたくさんある。

 こんなふうに、他人とちがったことをしようとして風流に走るひとは、かならずみそこなわれる羽目になり、末路は最悪なものです。色気づいたひとというのは、どこにもとりえのないつまらない光景にふれた場合にも、無理に感動してみせようとし、趣のある点を無理にさがしだそうとするうちに、いつのまにか、ホラばかり吹くようになるのは必定です。

 そんなホラ吹きが最後にどうなるか、どうかんがえてもろくなことにならないにきまっています」

 ここまで非難がましいことを記した理由はただひとつ――わたしがおつかえする中宮さま[1]を、おいたわしくおもったからです。

群臣の上に君臨する「后」として、いかにあるべきか。ご幼少のころから中宮さまは、そればかりかんがえてこられました。いかなるときも公正第一、悪目立ちするような真似はぜったいになさらない。

 亡くなられた皇后さま[2]は、中宮さまとご性質が反対でした。お身のうえのわきまえかたが甘い――そうもうしあげたくなるほど、不羈奔放。意表をついて衆目をあつめるのが、よほどお好きであるとみえました。

 意表をつく、とはいっても、それが殿上にそぐわなかったら、よろこばれません。后が木こりや漁師のまねをしても、非難をされるだけです。奇抜だけれど、廷臣たちに迎えられるもの。皇后さまも、おとりまきの女房も、そうした材料をみつけるのに必死でした。

 さがせるだけさがしてひろいあげ、喝采を浴びることも、空振りをすることもあります。そのなかで、褒めそやされたものを、皇后さまを偲ばんとして書きとめた。これが『枕草子』です。

 たとえばあの草子は、「春はあけぼの」という一文ではじまります。「春」といえばふつう、「花」、「桜」です。そこにあえて「あけぼの」をもってきた。「反則」と「発見」の境界線。この冒頭文はそこをねらっています。

 こんな「あざといやりくち」にも、ちょっとしたおもしろみたしかにはある。それは、わたしにもわかります。しかし「后」は、民に規範をしめす義務を背おうもの。人の気を引こうとして、反則スレスレを狙うようでは失格なのです。そのあたりを、中宮さまはほんとうにわきまえておられた。

 ところが、そうした御心を解さないから・・もおります。「中宮さまは、型どおりのなさりようばかりでおもしろくない。亡くなられた皇后さまがおなつかしい。」――こんな心得ちがいのざれごとが、ときにはわたしの耳にも入ってくる。こうなると、耐えきれないほどいきどおりに駆られてしまって――あのようなきつい文言を書きつけてしまった次第です。

 この際ですからもうしあげておきます。わたしは、皇后さまにおつかえするあのかたを、文人とみとめておりません。学ぶべきところなどひとつも見つけられない。

源氏の物語の筆をとりながら、死後千年の文名を得たいとわたしは切望していました。「いまだかつてなかった物語をあらわそう」・「後世に読み継がれる作品を遺そう」――そういったおそれ多い夢をいだいて、つたないながら趣向を凝らしていった。対するに、皇后さまとそのお取りまきはどうか。生きる時代をおなじくする貴顕の方がたの、その耳目をおどろかせる。そこにのみまなこ・・・を向けていたように映ります。

 司馬遷や李白、杜甫の栄誉をこいねがう。そのようなこころざしをもつ者にしてみれば、口上手の宦官なぞ眼中に入りません。あのかたをわたしがどのようにみていたか、おわかりいただけるでしょうか。

証言2:藤原行成[3]が語る一条天皇 「主上にとって、皇后は「導師」。そして、中宮は「同志」でした」

 ああ、やはり一条のみかどの、辞世の御歌についてお訊きになりたいのですね。

 みかどは、おん歳三十二で崩御なさいました。お隠れになる前日の夜に御製を詠まれ、これが遺作となりました。

「露の身の風の宿りに君を置きて塵を出ぬる事ぞ悲しき――露のように明日の命もあやうい私には、あなたを置いてこの世を去っていく悲しさが身にしみる。」

 この歌をささやかれたとき、お側には中宮さまが控えておいででした。ここに出てくる「君」は、中宮さまのことである。居あわせた者のほとんどが、そのようにうけとめたのも無理はございません。

 けれどもわたくしには、そうでないことがわかりました。この世を辞していかれるみかどの宸襟を、中宮さまが悩ませたてまつる――そんなことが、起こりうるはずがないのです。中宮さまは、病あついみかどを安んじようとちからをつくしておられた。みかども中宮さまのお気持をよろこばれ、信頼をあらたにしておいででした。

いま、主上が案じておられるのは、皇后さまのお身のうえである――わたくしにはその確信がありました。それゆえみずからの日記にも、「御歌のあてさきは皇后である」と書いたのです。

 辞世を詠まれる二日まえ、みかどは出家なさいました。その功徳により、うつし世を去られたらそのまま極楽へゆかれる。おんみずから、これを信じておられたのはまちがいありません。ご崩御のことを、御歌のなかで「塵を出づ」と仰せられている。清浄なところにむかわれるというゆるがぬお気持ち。それがおありだからこそのこの御詠歌だ。わたくしは、そのようにうけたまわりました。

 皇后さまが薨ぜられたのは、女みこをお生みになってまもなくのことでした。こういう亡くなりかたをなさいますと、命をかけがえにした御子おこがお気にかかる。そのあまりに、いつまでも魂がこの世を離れない。そういわれております。

 ご自身が往生を遂げられたあとも、皇后さまの御霊みたまはこの穢土をさまよう。そのことをおもわれると、御胸も裂けんばかりになる。そんなお嘆きが、ご辞世の御歌にはこめられていると拝察します。

 みかどは、円融院[4]が遺されたただひとりのみこでした。父みかどの血を絶やしてはならない。何としてでも男みこを儲け、十善の御位みくらい[5]をおつたえにならなければ――この悲願を成就なさるため、どれほどご自身を鞭打っておられたか。おつかえするわたくしの目には、いたましいと映るほどでした。

 おんみずからを「君主の鏡」だと群臣にみとめさせる。それによって「このおかたの血は皇統譜にのこすべき」という気運を盛りたてる。みかどはつねに、そのことをみこころに置かれていました。皇后さまがおそばにおられる、そのあいだだけをのぞいては――皇后さまは、じつに屈託のないかたでした。そしてそれだけにとどまらぬ、人を引きつけるふしぎな力をそなえておいででした。

 あのおかたにおつかえしていた、清少納言という女房がおります。その者が、皇后さまをしのんで風がわりな草子をまとめた。円融院のおん忌みがあけてまもないころの挿話が、その草子にしるされています――みかどの乳母のもとに、差し出し人のわからない手紙がとどいた。それには「円融院を哀悼する気持ちがたりない」という非難が書かれていた。乳母ははげしく動揺して、手紙の書き手をさがす。するとその手紙は、みかどと皇后さまがしくんだ悪戯であった……

円融院の血をつなぐ。それを責務と感じておられたみかどが、院のおん喪を冗談ごとになさったのです。いまや、院をお慕いする気持ちにくぎりをつけるべきときなのだ。群臣たちは、そのことを実感したにちがいありません。あの滑稽のひと幕には、人心を一新する効能がありました。

乳母に手紙をだすことをおもいつかれたのは、おそらく皇后さまでしょう。みかどはお気づきにもなれないひらめき――そういったものをお示しもうしあげるのが、皇后さまはおとくいでした。それゆえみかどは、皇后さまのおことばをおもんじておられた。そうやって恃みにしておられたかたの、御霊のゆくえがさだまらない。このことをみかどは、心底嘆いておられました。

かといってみかどが、中宮さまをあきたらなくおもっておられたはずはありません。そうしたうわさもまれに耳にしますが、事実に反します。みかどは、帝王たるべくうまれそだったおかた。中宮さまも、おさなくして后への道へとすすまれた。おふたりは、なにごとにも真摯な「似たものどうし」である。わたくしは、そう拝見しておりました。

 みかどは、皇后さまには「みちびかれること」を期待なさっていた。中宮さまのことは、わかりあい、はげましあう「仲間」として信頼しておられた。

 みかどはよく、わたくしのまえで、こんな心配をもらしておられました。

「中宮のまえで、わたしはよく愚痴をいう。わかってくれるのは中宮ひとり、とおもうからそうしてしまうのだが――つまらない弱音ばかりきかされて、中宮はうんざりしているのではないか……」

 

証言3:藤原道隆[6]が語る清少納言 「あのおんなには、感謝しかない」

 清少納言……あれはほんとに、性格のいいおんなだな。

 おれはね、じぶんでいうのもなんだが、酒のみの、だらしのないおっさんだ。のみすぎで、いつも腹がゆるい。しょっちゅう、ぷーすか、屁をひってたよ。

 そんなさえない男が関白やってたわけだ。おれのこと、みんな、嗤ってたのはまちがいない。まあ、それもなっとくだわな。でもね、わかってたって嗤われたらしゃくにさわるし、気分も落ちる。だから、嗤われるまえに笑わせてやれって、冗談ばかりいってたの。

 それをさ、あの女は、「いい男が、気どらないでふざけてる」みたいに書いてくれた。うれしかったよ。おれ自身のためにもうれしかったけど、それよりも、中宮さま[7]のためにね。おれみたいな、さえないおっさんが父親でもうしわけない。中宮さまをおみかけするたびに、いつもそうおもってたから。

中宮さまは、おれじゃなくてたかちゃん[8]のほうに似てて――親のおれがいうのもなんだけど、素敵だったよ。みかどもね、ひとめ拝するだけで凛としたご気性がつたわってくるおかた。似あってたんだ、あのふたり。

 道兼は、ぬかりのない野心家だし、道長は、キモはちっちゃいけどしごとはこまかい。あいつらが組んで天下を切りまわせばうまくいく。そっちのほうが、おれにまつりごとを預けるよりはるかにいい――そんなこと、わかってたよ。

 でもね、中宮さまとみかどのことがかわいくてさ。ふたりに、ずっと仲よくしててもらいたかったんだ。となると、おれがひっこむわけにいかないじゃないか。

 あと、伊周な。

 あいつのことは正直、そだてるのに失敗した。すなおで、まっすぐないいおとこなんだ、ほんとうは。おれが甘やかしすぎたのがよくなかった。じぶんを、とくべつな人間だとおもいこんじまった。いや、すなおでまっすぐだから、まわりがおだてるのを鵜のみにしちゃったわけ。わるいやつじゃないんだ、親のひいき目でいうんじゃなしに。

 それと、貴ちゃんから漢文につよいところも引きついで――おれは、漢字もかなもカラキシだめだから、中宮さまも伊周も、おれに似なくってよかったよ。それに伊周は、姿がきれいでさ……あいつが着ると、どんな服でも上等にみえるんだ。

 わかいのに偉そうにしてたから、あいつには敵がたくさんいた。おれもなんどか、いってやったよ。「ほんとにえらいやつは、偉そうにしないもんだ」って。でも、あいつには生まれつきの品と華があって――ほれぼれするようないい男だった。伊周のそういうとこ、よくわかるように書いてあるよね、『枕草子』には。

 伊周だけじゃない。中宮さまのことも、隆家[9]も、あのおんなはいい感じで書いてくれた。

 ご主人筋のダメなところを、皮肉をきかせてつづる。そうするとさ、いかにも「観察するどい才女」って感じになるじゃない? あのおんなは、でも、そっちをえらばなかった。じぶんが光ることをかんがえず、おれたち一家を立ててくれた。こころがきれいだったんだね。

 だからね、清少納言には感謝しかない。『枕草子』はおれを救ってくれたよ。

 証言4:藤原彰子が語る敦康親王[10]と敦成親王[11] 「紫式部は、わたくしの心をおもって清少納言を悪くいったのです」

 皇后さまも、そのご実家のみなさまも、よくは存じあげないのです。皇后さまがお元気だったころ、わたくしはほんの子どもでしたから。

ご両親も、お兄ぎみの帥さま[12]も、はやくに亡くなられて――ご一族で、わたくしがお人がらをお話しできるのは、中納言[13]さまぐらいでしょうか。ほがらかで、竹を割ったようにさっぱりとしておられて。それでいて、ひとをおもいやるお気持ちはこまやかでいらっしゃいました。

皇后さまもあかるくて、慈愛のふかいおかただった。つねづねみかどは、そのように仰せでした。このご気性を、敦康のみこもうけついでおられた。だれからもかわいがられ、だれにたいしてもおやさしい。群臣がおのずと、微笑みをうかべながらつどってくる。そんな「天与の君徳」をそなえておいででした。

わたくしが産みまいらせた敦成さまは――まじめ一辺倒で、敦康さまのような、こぼれ落ちるばかりの愛敬はおありでなかった。おなじみかどのみこなのに、母親がちがうだけで、こうもかわいげ・・・・に差がつくものか――いかにも人好きのしないわが子のたたずまいに、胸がつぶれたことも再三でした。

 あまたのおきさきがたのなかで、みかどがいとおしんでおられたのはただひとりでした。皇后さまです。みかどはとても、おもいやりぶかくていらっしゃった。わたくしのことも、ずいぶん、いたわってくださった。けれどもときたま、皇后さまのおもいでをかたられるおりのおんまなざし――瞳でやさしく撫でているともうしあげたくなるお顔つき。わたくしは、あれを、わすれることができません。

 皇后さまのように、みかどのおこころをつかめないのなら――皇后さまよりも、みかどのお気持ちによりそおう。皇后さまよりさらに、后としてただしくあろう。そんなおもいを、わたくしはたましいにきざんでおりました。

敦康さまに、母のない寂しさを味わわせてはならない。なさぬ仲のわたくしにないがしろ・・・・・にされている。そんなおうたがいをつゆほども抱かせてはならぬ。敦康さまのたのみごとを、わたくしは、一度たりともことわった記憶がありません。そして、敦成さまは――だれの目にも恥じない、りっぱなみこになられるようお導きもうしあげたつもりです。

東宮にも、わたくしは、敦康さまに立っていただきたかった。后の産みまいらせた一のみこが、玉座につかなかったためしはない。となれば、このおきてがまもられるようつとめることに、后の責務はある。わたくしは、そう信じていました。

けれども、実家さとの父は、道理のとおる人ではなかったのです。

血をわけた子より他人の子がかわいいのか。そういって、父はわたくしを問いつめました。そうして、父自身の気持ちもかんがえてくれ、と泣きごとをいうのでした。

ならば、ただしさをまもってきたわたくしの気持ちはどうなるのでしょう?

敦康さまのご元服が近づくころ、とある草子が宮びとたちのあいだにひろまりました。皇后さまにおつかえした女房の手になるいっぷう変わった書。皇后さまとご親族のお暮らしが、目にうかぶごとくうつしとられています。その草子が描きたてまつるみかどの、生きいきとしておられること! わたくしの存じあげるおすがたとはまるでちがいます。皇后さまのかたわらで、きっとみかどはおくつろぎだったのでしょう。

殿上人や女房からも、皇后さまをなつかしむ声がきこえてくるようになりました。あの草子は、それだけ読まれていたのです。けれども、皇后さまのように振るまうことは、わたくしにはかないません。みかどのお気持ちによりそい、后のあるべき姿を追う。これをつらぬくことだけが、わたくしにひらかれた道でした。

わが家の紫式部が、あの草子を書いた女房について、非難めいたことを書いている? それは事実でしょうか。だとすれば心外ともうしあげるほかありません。皇后さまのおそばにあった女房が、皇后さまをお慕いする気持ちで書を編んだ。見あげたこころがけだと、わたくしからもほめてやりたく存じます。

ただし。

紫式部もあの者なりに、わたくしをおもいやったつもりではなかったでしょうか。

「楊貴妃をうしないたもうた玄宗に、じぶんは同情しない。逝ける楊貴妃と寵をきそわねばならなかった、ほかのおきさきがたこそお気のどくだ」

 紫式部は口ぐせのように、わたくしにそうもうしておりました……


[1] 藤原彰子(ふじわら しょうし/あきこ 988~1074)。道長の娘、一条天皇に入内し、長保2(1000)年に中宮に立てられる。一条天皇の後宮では、彰子入内以前に定子が中宮に立てられていたため、彰子が中宮となってからは、定子は「皇后」、彰子は「中宮」と称された。
※当時の人名は、読みが不明である場合が多い。読みが確定していない名前は通常、音読みされるが、その「音読みの読み方」が実情に即していたかどうかは定かでない。

[2] 藤原定子(ふじわら ていし/さだこ 977~1001)は、藤原道隆と高階貴子の娘。一条天皇に入内して中宮に冊立され、彰子が中宮となったのちは「皇后」と称された。清少納言は定子につかえていた。

[3] 藤原行成(ふじわら こうぜい/ゆきなり 972~1028)は、平安時代の公卿。極官は正二位大納言。有能な実務家として朝廷を支え、源俊賢・藤原公任・藤原斉信とともに「寛弘の四納言」と称された。能書家でもあり、小野道風・藤原佐理とならぶ三蹟のひとり。一条天皇の蔵人頭(秘書官長)をつとめ、清少納言とも親しかった。漢文日記『権記』の著者としても著名。
※「行成」は「ゆきなり」と読むのが正式だが、「こうぜい」と音読みで称されるのが慣例となっている。

[4] 円融院(えんゆういん 959~991)。村上天皇第五皇子。第64代天皇(在位:969~984)。

[5] 「十善の位」とは帝位のこと。仏教では、前世で「十悪」をいっさい犯さなかった者が現世で王となると考えられていた。これにちなんで天皇を「十善の君」と呼んでいた。

[6] 藤原道隆(ふじわらのみちたか 953~995)は、藤原兼家の長男。摂政・関白をつとめた。道長の兄で定子の父。

[7] 「中宮さま」とは、ここでは定子のこと。道隆の生前、彰子はまだ入内していない。その段階では、一条帝の正妃は定子ひとりである。

[8] 高階貴子(たかしなのきし/たかこ 生年不詳~996)。高階成忠の娘。藤原道隆の嫡妻となり、伊周、隆家、定子などを生んだ。※定子が道隆と貴子のどちらにより似ていたかについては、記録はない。

[9] 藤原隆家(ふじわらのたかいえ 979~1044)は、道隆の四男。極官は正二位中納言。

[10] 敦康親王(あつやすしんのう 999~1019)は、一条天皇第一皇子。母・定子と幼時に死別したため、彰子のもとでそだてられた。

[11] 敦成親王(あつひらしんのう 1008~1036)は、一条天皇の第二皇子。母は藤原彰子。即位して後一条天皇となった(在位:1016~1036)。

[12] 帥さま 伊周のこと。

[13] 中納言さま。隆家のこと。

助川 幸逸郎(すけがわ こういちろう)
1967年生まれ。東海大学文化社会学部文芸創作学科教授・岐阜女子大学非常勤講師。おもな著書に『文学理論の冒険』・『光源氏になってはいけない』・『謎の村上春樹』・『小泉今日子はなぜいつも旬なのか』・『教養としての芥川賞』(共著)・『文学授業のカンドコロ』(共著)などがある。