社会主義入門 第七回 マルクスの社会主義思想(その4)田上孝一

 『ゴータ綱領批判』は1875年で、マルクスが亡くなるのが1883年なので、晩年の著作と呼んでいいと思うが、その社会主義というか共産主義論は、1867年の『資本論』第一巻と共通するところもあれば異なるところもある。当然マルクス最初の社会主義論である1844年の『経済学・哲学草稿』にはない具体性を持って叙述されており、マルクスの認識の深化が反映されている。ところがその議論の大前提は、『経済学・哲学草稿』と同じなのである。それは理想社会を段階分けするという基本観点である。

 『経済学・哲学草稿』でマルクスは資本主義的疎外社会の反転として、目指すべき理想社会を疎外の止揚として位置付けた。この際、共産主義とは疎外を克服する「エネルギッシュな原理」であり、疎外を克服する過程そのものだという位置付けである。ということは、共産主義とは理想を実現する過程であって、共産主義そのものは人類発展の目標ではないとされる。

 目標とされる社会は「社会主義としての社会主義」というもので、この社会に生きる「社会主義的人間」にとっては、意識において人間を疎外する宗教を否定するための無神論の啓蒙というような意識変革も必要なければ、資本を生み出す私的所有の否定という運動=共産主義も必要なくなっているというのだという。問題が否定し尽くされれば、直ちに肯定から出発できる。つまりマルクスは、その社会主義論を最初に考えた時から、否定過程としての初期段階と、否定が無用になった完成型としての後期段階を分けているのである。

 同じように『ゴータ綱領批判』でも資本主義から脱して生まれたばかりの共産主義と「発展した共産主義」とを区別している。マルクスは理想社会としての共産主義=社会主義を初めて説いた時からその最終的な構想に至るまで、一貫して段階を分ける思考をしている。そして『ゴータ綱領批判』でもまた、発展の基準を分業の有無に見ている。すなわち、「諸個人が分業に隷属することがなくなり」、それにより「精神労働と肉体労働の対立がなくなる」ことが、共産主義が低次から高次に発達したことの証となるのである。

 ここ『ゴータ綱領批判』で分業の克服が求められるのもだから、『ドイツ・イデオロギー』と同じ理由からである。

 分業が無くなることにより、労働が生存のための仕方ない苦役ではなくなり、「労働そのものが第一の生活欲求」になるのである。つまり「共産主義社会の中では、各人はどこまでも排他的な活動範囲を持たず、好みにかなうどの分野においても自已形成をすることができる」。そしてそうした労働も目的は言うまでもなく排他的な活動範囲を脱することができた「諸個人の全面的な発展」(『ゴータ綱領批判』)なのである。

 そしてマルクスが、そうした諸個人の全面発達とともに「彼らの生産力が増大」し、「ゲノッセンシャフトリヒな富の源泉が一層豊かに湧き出る」ようになった時に「ブルジョア的権利の狭い限界を突破」して、「各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて」という有名な言葉が実現する社会に到達できるのだという。

 ここで理想社会の実現に「生産力の増大」が前提されているということは、『ゴータ綱領批判』もまた生産力発展が生産関係の変革を促すという唯物史観の基本原則が貫かれているということの証拠である。そのため、この時期のマルクスが唯物史観の原則を曲げて脱成長論の類を唱え出したとか、ましてや唯物史観それ自体を捨てたというような一部に見られるような解釈は無理筋な曲解と言わざるをえない。しかしこのことはまた同時に、マルクス主義に浴びされる定番的な非難の証拠ともなりうる。

 それはまさに脱成長の議論に示されるように、生産力の増大が変革をもたらすという考えは、地球環境の有限性を考慮に入れていない時代遅れの成長至上主義だというような批判である。

 この批判には確かに一理ある。いかに優れた理論を提起していたとしても、なおマルクスは200年以上前に生まれた19世紀人であるには違いない。マルクスは資本の利潤追求による環境破壊を告発していたが、それはあくまで局地的な公害なのであって、今日の温暖化問題のように地球全体規模での環境問題の視座など、持ちようもなかった。地球大規模の深刻な環境破壊によって、人類の存続自体が脅かされるなど、マルクスは思いもしなかった。その意味で、マルクスその人の問題意識は明らかに現代にはそぐわない、時代遅れなところがある。

 しかしこれは当然だ。マルクスにせよ誰にせよ、時代の制約には逃れられないだけである。そうではなくて、マルクスは既に今日の地球環境問題を予測していたとか、マルクスの理論がそのまま現在の環境問題解決への具体的な処方箋になるなどというのは、マルクスをノストラダムスのような予言者の類に神格化する迷妄である。マルクスの理論はエコロジカルであるが、エコロジーがマルクスの主要な問題関心なのではない。マルクスから現在の環境問題解決へのヒントを得ようとするのは有益だが、マルクスに今日の環境問題への具体的回答を求めようとするのはアナクロニズムである。

 この意味で、『ゴータ綱領批判』にまで貫かれる生産力発展を梃子とする社会変革観と、生産力の高度発展を前提とする理想社会構想に、時代的な限界を見るのはあながち間違いではない。

 しかしマルクスはエコロジストではないが、その理論には確かにエコロジー的要素がある。そこで、マルクス自身が明示しなかったそうしたエコロジカルな要素を、拡大解釈になっている可能性を踏まえつつ、生かすことはできないかということになる。

 そして実は今取り上げた『ゴータ綱領批判』の個所にも、こうしたエコロジカルな思考が含意されているのではないかということである。

 確かにここでは生産力が増大して富の源泉が泉のように豊かに噴出すると言っている。ここだけ取れば前時代的楽天的な成長礼賛と受け止められるのは無理もないし、実際マルクスを支持する者も批判する者も等しくそう考えていた。しかしここで湧き出るとされているのは物質的な富一般ではなくて「ゲノッセンシャフトリヒな富」なのである。ここに何か一つの大きなヒントが隠されてないか?

 ゲノッセンシャフトというのは協同組合のことであるが、問題なのはマルクスが「「ゲノッセンシャフトリヒな、生産諸手段の共有に基づく社会」というように、ゲノッセンシャフトを社会全体の基本性格を表す言葉としても使っていることである。

 勿論これは深読みのし過ぎで、ここでマルクスが直接の批判対象としている『ゴータ綱領』草案のように単に協同組合のみを指す形容詞として使っている可能性もある。しかし同じように形容詞系で使われている「ゲノッセンシャフトな富」のように、その社会の生み出すと見の基本性格を示唆するような、社会の本質を表すかのような用法は注意深く避けられ、名詞形を用いて「協同組合の富」というように、誤解の余地を与えない表現が用いられただろう。何しろ問題になっているのは綱領であり、一字一句もおろそかにできない厳密な表現が求められる。実際マルクスは「労働収益」のような他の概念についてはそうした細かい議論をしている。

 実は具体的な社会組織を表す言葉が社会全体の性格までも示す言葉まで拡大的に転用されるのは、このゲノッセンシャフトだけではない。「アソシエーション」という言葉も同様に使われている。

 アソシエーションはゲノッセンシャフト同様に組合を指す言葉だが、人々が連帯している様を示すような「アソシエ―ティヴ」という形容詞形でも使われ、共産主義社会それ自体もアソシエーションだとしている。共産主義は『共産党宣言』で「各人の自由な発展が万人の自由な発展のための条件であるようなアソシエーション」とされているが、ここでの「アソシエーション」が「協同組合」ではカバーしきれない広がりを持っているのは明らかだろう。

 協同組合という言葉が社会全体の基本性格を示す言葉にまで意味が拡張されるのは、ここで問題になっているのは消費協同組合ではなくて生産協同組合だからであり、消費ではなく生産のあり方がその社会の基本性格を規定するというのが、唯物史観の大前提だからである。

 従って『ゴータ綱領批判』のゲノッセンシャフトは、以前の著作で愛用されていたアソシエーションと基本的に同じ意味だと考えていいと思われる。

 では全く同じ意味かといえば、それは早計だろう。

 そもそもマルクスが組合を意味する際にアソシエーションではなくゲノッセンシャフトを用いたのは、『共産党宣言』と異なり『ゴータ綱領批判』の時点ではゲノッセンシャフトという表現が一般化していたというのが第一だろう。そのため批判対象であるて『ゴータ綱領』の草案にもゲノッセンシャフトが採用されており、それをそのまま踏襲したということになる。

 しかしそれが一般的で、吟味対象の文書にも用いられているという理由だけでマルクスが採用したというのはあり得ない。なぜなら『ゴータ綱領』の最重要概念であり、当時の労働者にも馴染み深い労働収益という概念の使用を、自分とラッサールが混同されるという理由でマルクスは厳しく戒めているのである。

 だからマルクスは一般的であるとか分かり易いという点や検討文書にも使用されているという理由だけで基本概念を用いることはない。その概念が理論的に適切だから用いるのである。

 だとしたらゲノッセンシャフトでなくて馴染み深いアソシエーションでいいはずであり、ここでマルクスがアソシエーションを用いない理由が見いだせない。「アソシエ―ティヴな富」で問題ないのであり、むしろそうしておけば誤解の余地なく、ここで『共産党宣言』以来繰り返してきたメッセージを伝えられる。

 ということは、敢えてアソシエーションに換えてゲノッセンシャフトを用いている考えるのが、自然な解釈ということになろう。それはつまり、ここでマルクスは『共産党宣言』と共通するが『共産党宣言』にはないプラスアルファを付け加えようとしたということだ。アソシエーションという言葉を使っても大過ないが、ゲノッセンシャフトという言葉を用いることによってより適切に真意を伝えられる。だから敢えて使ったのである。

 だとするとその意図も明確で、アソシエーションの核となる意味内容をより強調したいがためにゲノッセンシャフトを使ったということである。どういうことか?

 アソシエーションはマルクスにあってはコンピネーションと対になって使われている。どちらも翻訳書では「結合」と訳されたりしていて、その意味内容の違いが分からなくなっている。

 しかし両概念は根本的に意味が異なっている。コンピネーションはこれを指揮監督する上位階層があって、そうした上の者によってまとめられているような結合である。資本主義的生産では労働過程は客体化されて、資本によって手段化されているが、これは具体的には資本家若しくは資本家の代理人によって統制されているような労働現場のあり方である。このため資本主義内部で行われる結合の基本原理はコンピネーションになる。コンビネーションは使う者と使われる者がヒエラルキー的に分断した生産過程のあり方を示すための概念である。

 これに対してアソシエーションは、使う者と使われる者がヒエラルキー的に分断されない水平的な人間関係である。ただし、資本主義の発展的解消である共産主義が成立するためには高度な生産力段階が必須であり、そのためには労働組織も合理化される必要がある、効率を追求するためにはやはり指揮系統は必須で、労働過程を管理する者がいなければ、効率的な生産活動はできない。この意味ではアソシエーションであっても完璧に平等で、全く均質な人間関係ということはあり得ない、アソシエーションにもまた資本主義に類似した職場内の人間関係や、官僚組織は見られるし、そうした効率的な人間関係の組織化がなければ、資本主義を凌駕する生産性は得られるはずもない。

 しかしアソシエーションではそうした管理業務を担う人員は管理される労働者から選ばれ、リコールされるような存在である。資本主義では政治家を選挙で選ぶことはできるが、社長を選挙で選ぶことはできない。それは資本主義では民主主義よりも私的所有権が優位に立つからである。資本主義では民主主義的原則俄然社会的に敷衍されることはなく、社会の土台である経済関係では民主主義は排除される。そのため企業内の人間関係はアソシエ―ションではなくコンピネーションになる。

 これに対して社会主義では生産手段の私的所有が否定され、経済運営も民主原則に従って行われる。そのため労働者によって選出される管理者は資本家のような支配者ではなくて、労働者の代理人(デレゲート)としての労働者代表である、このため、表面的には資本主義と類似した組織のように見えても、もはや資本主義的な支配被支配関係ではなく、労働者間の同志的な連帯関係を原理とする社会に質的に変革しているのである。

 こうした水平的に連帯する人間関係であるアソシエーションでは当然のように人間関係の基調が資本主義のように競争的でギスギスしたものではなく、家族的な友愛を彷彿とさせるものとなっている。こうしたアソシエーションの友愛的な本質を強調するためにマルクスはゲノッセンシャフト概念を用いているのではないか。

 ゲノッセンシャフトの語幹はゲノッセであり、組合と共に仲間を意味する。仲間のように親しい人々が組織するのが組合ということだろう。またゲノッセの動詞形はゲニーセンであり、享受するや楽しむそして食べるという意味がある。

 そうするとゲノッセとは家族ではないがあたかも家族のような間柄の関係であり、損得勘定抜きで共に歓談できるような友人であり、一緒に宴会をして楽しく過ごせるような人間関係ということになる。

 ということはゲノッセンシャフトとはアソシエーションの単なる言い換えではなく、アソシエーションが連帯した人間関係であり、連帯とは友愛に基づく人間関係であることを強調するために用いられていると考えるのが自然だろう。

 そしてこのことはまた、マルクスの理想社会構想の驚くべき一貫性をも示唆している。

 なぜなら彼が最初に共産主義論を展開した『経済学・哲学草稿』に既に、フランスの社会主義的労働者が会食をして大いに食べて飲んで語り合うことは、それが結合のための手段としてあるのではなく、それ自体が目的だとしているからである。つまりゲニーセンすることそれ自体が理想的な人間関係であり、活動だということだ、なぜならこうしたゲニーセンする労働者にあっては人間の兄弟性(Bruederlichkeit)が単なる空語(Phrase)ではなくて真実(Wahrheit)としてあり、そうした兄弟的な連帯の中で労働者の人間性の高貴さが光り輝くとしているからである。

 ここでマルクスはゲノッセンシャフトの目的が人間性を輝かせること、つまり労働者の自己実現にあることを明確にした上で、そうした自己実現を可能にする社会条件としての理想社会は人間の兄弟性が真実であること、つまり家族外の市民社会の人間がしかしあたかも本当の家族のように連帯して共にゲニーセンできるような連帯を実現できる社会だとしている。つまり『経済学・哲学草稿』の未だ抽象的な問題提起に留まっている展望が具体化したのが『ゴータ綱領批判』のゲノッセンシャフト論だということである。

 ここで鍵となっているのは兄弟性であり、あたかも家族のように親しく連帯できるということである。家族というのが理想的な人間関係のモデルとされていることである。ではなぜ家族なのだろうか。

 それはマルクスの理論の前提にはヘーゲル批判があるからである。

 ヘーゲル主義者だったマルクスは唯物論者になることによって絶対精神の歴史哲学であるヘーゲル主義を放棄したが、人間社会の基本構造を家族‐市民社会‐国家のトリアーデと見る視座は維持し続けた。このことは自らの経済学研究を「市民社会の解剖学」と位置付けた「唯物史観の定式」に明確である。しかしマルクスは認識図式としてのトリアーデは維持しつつも、社会問題の解決方向としての国家主義は放棄した。まさに「ライン新聞」での評論活動を通して国家を最終的な解決と見なしえなくなったことが、マルクスのヘーゲルからの離反の決定的契機となったのであった。そうなると、他者を手段化して自己の欲望を満たす競争社会である「欲求の体系」としての市民社会での矛盾の解決はヘーゲルのように国家原理に求めることはできない。もはや家族原理しか残っていないのである。

 ヘーゲルの見た家族原理は未分化な人間関係の紐帯としての愛である。この愛の原理をマルクスは市民社会での矛盾解消の鍵としたのである。それは市民社会成員として自立した個人でありながらもあたかも家族のように連帯する人間関係である。市民社会になりながらもあたかも家族の中にあるような親愛の情で結び付くような人間関係の創出。つまりゲノッセ=仲間が水平的にアソシエートした社会としてのゲノッセンシャフト、これがマルクスの求めた理想社会としてのゲノッセンシャフトの核心である。

 ここで気を付けなければいけないのは、社会成員が家族のように連帯していると言っても、それはかつて歴史上に現れたような全体主義的国家とは一線を画すということである。なぜならそうした全体主義はまさに個を滅して独裁者への奉仕を求めるような抑圧社会だったからである。ここでは支配者が擬制的な親であり、被治者が子とされる。しかしこれは水平的な人間関係を基本としたアソシエーションではない。

 マルクスの求めるゲノッセンシャフトはまさにアソシエーションとして、自立した市民社会の成員が平等の立場で連帯する社会である。この社会にもやはり管理的業務を担う階層は存在するが、それは決して支配階級ではなく、労働者の代表として業務を委託された同志である。ここでは旧社会のようなヒエラルキー的な支配被支配関係は存在しないのである。

 また国家原理を否定すると言っても、マルクスはバクーニンのようにあらゆる国家的要素を即座に完全破壊するというような極論には組していない。マルクスが否定したのはあくまで理念としての国家原理であって、ヘーゲルのように国家を理想の人間関係の実現だとするような国家主義的な思想である。『ゴータ綱領批判』の時期には特にラッサール主義が念頭にあった。ラッサールはヘーゲルを国家主義を継承して、社会主義を国家原理の否定の上にではなく、国家原理の望ましい実現としての「労働者国家」として構想した。こうした国家社会主義的思潮とはマルクスは一線を画すのである。

 つまりマルクスは反国家主義者として理念としての国家は否定したが、現実的な方針として必要であれば、手段としての国家原理を利用することはためらわないのである。実際、資本主義から社会主義への過渡期に想定されるのが「プロレタリア独裁国家」なように、国家原理がむしろ積極的に善用されるべきことを説いてきた、

 しかし社会主義になればプロレタリア独裁は解かれて国家が漸次的に死滅していくと展望したように、国家原理の活用はあくまでそれが必要悪だからに過ぎない。そもそも国家が完全に解体されるのは形式的に考えて地球大的な共産主義の勝利と相即するのは当然である。そしてそういう国家なき未来が容易に到達できぬユートピア的条件であるのは、マルクスの意図とは別に重々承知しておかなければならない大前提である。

 こうしてマルクスの社会主義=共産主義論のあらましを描いてみると、それが経済学理論である以上に、一つの積極的な社会哲学の提起であることが明確になる。

 唯物史観からすれば社会主義も一つの生産様式であり、その社会が社会主義であるかどうかは経済という社会の土台のあり方によって規定される。この大前提の上に、しかしマルクスの社会主義はそうした生産様式としての社会主義が何のために求められるのかということをこそ、深く追求しようとする。

 それは人間の実現であり、人間を実現するための経済のあり方ということである。そこで求められたのが、個々人が他者を犠牲にすることなく自己実現ができるような社会のあり方である。

 それは資本主義での市民社会における人間関係のように金銭的な損得勘定が基本となるような結びつきではなく、家族的な親愛の情で人々が連帯するゲノッセンシャフトリヒなアソシエーションであった。こうしたソシエ―ションの中にあってこそマルクスは、各人が自己の可能性を全面的に発達できると考えた。

 つまりマルクスの社会主義論には、人間は己の可能性を実現すべきだし、実現できることが善で、実現できないことが悪だという人間観がある。こうした人間観があるからこそ、資本主義を批判したのである。なぜなら資本主義というのは人間の自己実現を妨げる社会制度だからである。

 こうしたマルクスの人間観をどう評価するかはまた別の問題だが、少なくともマルクス以降の社会主義思潮の展開を評価する視座になることは間違いない。

 マルクス以降の社会主義はこうしたマルクスの人間観をどこまで継承したのか、またはしなかったのか。すぐに予想できることは、基本的には継承よりも無視や忘却がマルクス以降の社会主義思潮の基本傾向になっていたのではないかということである。

 だとしたら、マルクス以降の社会主義思潮の基本性格は、マルクスの継承であると共に歪曲ではないかということである。そしてもしこの見込みが正しければ、マルクスの社会主義論はマルクス以降の社会主義思潮に対する決定的な測定器になるのではないかということである。

田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)