社会主義入門 第八回 レーニンからスターリンへ田上孝一

 「マルクス主義」という言葉は今日でも使われているが、「マルクス=レーニン主義」という言葉は殆ど聞かなくなった。自らをマルクス主義者だと規定する人々はある程度いるものの、マルクス=レーニン主義者だと自称する人が極端に少なくなっていることが主な理由だろう。

 しかしかつてはマルクス主義といえば直ちにマルクス=レーニン主義を意味し、マルクスとレーニンを並列するのが当たり前だった。この場合、マルクスとレーニンの思想はその本質において同一であり、しかもレーニンはマルクス以降の状況の推移を踏まえてマルクスの理論を発展させたというのが左翼の中で共通認識となっていた。

 実際、現在では自らを「科学的社会主義」の立場だとするような政党や政治勢力も、かつてはマルクス=レーニン主義を標榜するのが普通だった。この場合、マルクス自身の思想とエンゲルスが提唱した科学的社会主義及びレーニンに基づく理論体系であるレーニン主義とは本質的に同一であり、そこに根本的な裂け目を見出そうとする見解を「修正主義」などと称して排撃するような作風が、かつての左翼世界では一般的だった。

 それが今や「レーニン主義」が死語に近い状況になっているのは、何といっても旧ソ連東欧社会という現実社会主義の崩壊が決定的理由になっている。レーニンが主導したとされるロシア革命とその成果であるソ連社会の消滅により、レーニンの思想自体が無価値になったという認識は広範に共有されているように思われる。

 しかし、レーニンその人はソ連成立のきっかけを作ったのみで、実際にソ連という連邦国家の運営には殆ど携わらない内に亡くなってしまった。ソ連という国自体はレーニンの後を襲ったスターリンによってその主要な骨格が形作られたのであり、スターリン没後にフルシチョフによってスターリン個人は批判されたものの、スターリンが作り上げたレジームとそれを支えるイデオロギーは根本的に変えられることなく維持され続けた。

 本格的な変化は1980年代に入ってゴルバチョフによるペレストロイカによって始まったが、その結果はゴルバチョフ自身も殆どのソ連研究家も予期していなかったソ連それ自体の崩壊だった。

 この意味で、ソ連はレーニンというよりもスターリンによって形作られ、スターリン自身及び取り巻きの官僚学者によって拵えられたイデオロギーによって正当化されていた。このイデオロギーは客観的には「スターリン主義」というべきだが、スターリン本人や後継者にはマルクス=レーニン主義と呼ばれていた。

 その意味では、ソ連崩壊はスターリン主義としてのマルクス=レーニン主義の失効根拠になるかも知れないが、レーニンその人の理論的有効性の消失とは結び付かないという解釈は可能である。

 実際こうした理解、スターリンは悪いがレーニンは違う。スターリンはレーニンを根本的に捻じ曲げたという理解が、左翼論壇では主流であり、今でもマルクスの後継者を自任する政治勢力の間でも基本的に支持されている立場なように思われる。

 しかしこうしたレーニン擁護論は、少なくとも本書のように社会主義思潮を検証するという文脈では、かなり難しい方針だと言わざるを得ない。

 それはレーニンもスターリンも、その拠って立つ前提であるマルクス理解において、基本的に同じ前提に立っていたからである。

 レーニンもスターリンも、この意味では彼らの共通の敵であった社会民主主義者も同様だが、マルクスとエンゲルスを一体的に捉え、その理論的エッセンスの理解を何よりも『反デューリング論』や『フォイエルバッハ論』という後期エンゲルスの啓蒙的著作に求めていた。この意味で、レーニンもスターリンもその思想の基本となるのは後期エンゲルスによって形作られた「マルクス主義」であり、後期エンゲルスとははっきりと区別されるべきマルクス自身の理論としての「マルクスのマルクス主義」ではなかった。

 そのため彼らの社会主義論も『経済学・哲学草稿』から『ゴータ綱領批判』までのマルクスの著作全体の緻密な検討に基づいたものではない。そして後期エンゲルスが歴史決定論を強調していたのをそのままうけて、エンゲルス同様に理想の未来社会の青写真を描くことそれ自体を否定的に捉えていた。結果としてこと社会主義論に関しては、レーニンもスターリンも等しく、マルクスのゲノッセンシャフト論のような社会主義論それ自体として現代的なアクチュアリティを訴えることのできる魅力的な社会主義構想は提示し得なかった。

 このため社会主義思想を問うという本書の文脈でレーニンやスターリンを取り上げるに際しては、積極的に社会主義論を取り出して検討するというよりも、彼らがそれぞれソ連という国を作って導いたという歴史的事実を踏まえつつ、そうした彼らの政治的実践の文脈で、その社会主義論を瞥見するという形で止める他ない。

 さてではそのレーニンの社会主義論だが、史上初の「社会主義国家」の創設者でありながら、社会主義そのものに対する言及は驚くほど少ない。まさに後期エンゲルス譲りの決定論的思考が、レーニンの社会主義認識の前提にある。レーニンもまた後期エンゲルス同様に、未来社会の青写真それ自体を語ることそれ自体を独自の問題意識として持ち得なかったのである。

 そのため膨大なレーニンの著述の中で、社会主義それ自体を体系的に論じた論考は見出せない。レーニンの著述は未来の経済システムよりも、そこに至る現在の革命のあり方に集中していて、マルクスやエンゲルスに代わる独自な社会主義構想を提示できたとは言えない。

 そうしたレーニンにあって比較的まとまって社会主義について語っているのは、やはり主著である『国家と革命』ということになろう。

 周知のようにこの著作は自らが主導するロシア革命の最中にあって書かれた。そのためボリシェヴィキが目指す革命を正当化するために、革命後に樹立されるはずの新社会がどのようなものであるかを明確にする必要があり、社会主義それ自体についての議論が比較的多くなされている。

 この場合レーニンはマルクス主義者としての正当性を強調するためにマルクスとエンゲルスからの典拠を示しつつ、自らの目指す社会が独善的に設えられるものではなく、マルクスとエンゲルスのアイデアの素直な継承に過ぎないことを示そうと努めている。

 この際に『ゴータ綱領批判』の共産主義段階論に対して低次段階共産主義を「社会主義」、高次段階共産主義を「共産主義」として解説したため、この著作とレーニンの権威によって低次段階を社会主義、高次段階を共産主義と呼ぶことが定説化した。

 しかしここに大きな問題があった。レーニン本人も後継者も『ゴータ綱領批判』と『反デューリング論』の社会主義論の間には深刻な齟齬があることを気付かず、基本的に同じ思想を語っているものとして扱ってしまった点である。そしてその方針は『反デューリング論』的な解釈に『ゴータ綱領批判』も入れてしまうというものであり、その後のマルクス主義が陥った誤謬に先鞭を付けることとなった。

 革命後の新社会建設の困難さを予見して新社会の初期に資本主義遺制が残らざるを得ないことを示唆して共産主義を段階分けした『ゴータ綱領批判』と、資本主義が克服されれば資本主義での不合理な商品交換の前提である価値法則がなくなり、投下労働と生産物の関係は透明になって、資本主義では不可能だった合理的な経済運営が簡単に行えるようになると楽観する『反デューリング論』は、その問題意識が根本的に異なる。『ゴータ綱領批判』では『反デューリング論』と反対に、新社会の初期段階では価値法則に類似した経済原則が必要であるかのように示唆されているのである。

 こうしたマルクスの慎重さがエンゲルス同様にレーニンにも共有されていなかった。そのため『ゴータ綱領批判』に依拠して革命後の新社会を社会主義と共産主義に区分けしたのはいいものの、こうした段階の違いを認めざるを得なかったマルクスの問題意識は継承されず、社会主義と共産主義は発展段階の高低という単なる形式的な時代区分としてのみ理解されたのである。

 結果として、革命後に価値法則のない非市場的な社会主義が比較的容易に実現できることが謳われたのだった。

 ただしレーニンはアナーキストと異なり、この点は確かにマルクスを継承して、国家を直ちに廃絶できるとは夢想しなかった。国家それ自体は高次の共産主義の実現を待ってその消滅が展望できるものであり、革命後の初期段階で人為的に廃止できるものとはされていなかった。

 むしろ革命後の初期段階では、資本主義維持のためのイデオロギー装置だったブルジョア国家を「労働者国家」に変えることが当面の課題として提起された。ブルジョア国家を運営する国家官僚を廃して、「武装した労働者」が代表する国家が任命する市民が旧社会の官僚の役割を代行する。つまり革命政府が直ちに旧官僚機構を刷新し、旧社会以上に合理的な経済運営ができると展望したわけである。

 そうした労働者である市民による経済運営の基本方針は資本主義と異なり、エンゲルスが展望したような価値法則のない透明な経済社会を運営することである。資本主義的な無政府性に変わって「記帳と統制」に基づく計画的な経済運営を、旧社会のような経済官僚という専門化された分業に拠らない労働者市民が運営主体となって行う。それによって無政府性に支配された資本主義では不可能な合理的な計画に基づく経済運営を実現できるというのが、ロシア革命までのレーニンの言い分だった。

 この際、そうした「計画経済」により社会主義経済の基本単位は、資本主義のような分散されて相互に競争しあう私企業の集合体とは対照的なものになる。

 企業、それが私企業という身分ならば、私企業を否定する社会主義では作業所や事業所という単位になるが、こうした事業所が乱立して競争によって淘汰されていく資本主義とは異なり、社会主義では初めから国家が経営する唯一の事業所があればいいのであり、ただ一つの企業が全ての財を生み出したほうが計画的に分配を行うためには、むしろ好都合なのである。

 こうした一国一企業的な集約経済を理想とする経済構想は一般に「一国一工場論」としてマルクス以前から提唱されていた。マルクス自身がこうした集約的な産業組織を理想としていたかは一概に言えないが、そうした解釈を許す余地を残していたことは間違いない。

 ともあれ、たとえ論理的にはそれが有利であるとしても、唯一若しくはできるだけ少数の事業体に経済活動を集約していくという構想は、資本主義での独占同様に商品の品質向上を妨げるという否定的効果と共に、効率を無視した官僚主義の肥大を引き寄せるのは必至だろう。

 もっともこうした予想以前に、多数の企業が競争しあってる社会を極少数の非競争的事業体に変えようとする試みは巨大な軋轢を生み出さざるを得ないのは火を見るより明らかで、現実的な革命戦略という次元では事実上無策に等しかった。

 つまりレーニンもまた、資本主義が克服されれば容易にもっと合理的な経済システムが実現するという、後期エンゲルス由来の形式主義的楽天主義で事に当たっていたのである。

 その結果が、革命ロシアの経済政策が実際に破綻したことである。

 勿論ロシア革命は第一次世界大戦の最中に起こったことであり、革命政府は戦後処理に莫大なエネルギーを吸い取られてしまった。このため革命政府が思った通りの経済政策を実行するのはままならなかったという現実的困難があったが、失敗の理由はそうした時代状況にのみ拠ると見るのは無理がある。仮に戦争に巻き込まれず、実際の歴史よりも恵まれた条件で革命が進行したとしても、やはり同じように社会主義建設は暗礁に乗り上げたと見るのが自然である。

 それはレーニンのみならず革命を主導したマルクス主義者の誰もが、まさにエンゲルス的楽天主義、資本主義という悪を打倒すれば自ずと社会主義という善がもたらされるという場当たり的な態度を共有していたからである。実際レーニンは1921年の報告で、18年時点での革命当初は、従来の経済を社会主義経済に適合させる事前準備なしに直接社会主義に移行できると予想していた。国家によって生産と分配を実施すれば、直ちに以前と違った生産と分配のあり方を実現できると期待していた。しかしそうした望ましい社会主義経済が、これまでの商業や市場とどういう関係にあるのかをきちんと提起できなかったと自己批判しているのである(「第七回モスクワ県党会議」)。

 つまりレーニンは明らかに、資本主義とという合理性の欠如した経済を否定すれば、論理必然的に資本主義よりも合理的な経済システムがもたらされるだろうという形式主義的思考でもって革命を領導し、理論通りに進まない現実に直面してしまったということである。

 しかしこうした理想と現実の齟齬、理論的見通しの甘さというのは、何も後期エンゲルスや後期エンゲルスの継承者である後のマルクス主義者に限ったことではなく、アナーキストのようなマルクス主義の対抗者にも遍く共有されていた傾向だった。

 例えばバクーニンはマルクスを権威主義の廉で非難していたが、そうした一切の支配を拒否するバクーニンが描いた革命後の未来は、エンゲルスに輪をかけた楽天的な期待に過ぎなかった。しかもエンゲルスが国家のような支配機関は時間をかけて死滅していくだろうという比較的穏当な見通しをしていたのに対してバクーニンは、国家はその後ろ盾である宗教もろとも即時に廃絶しなければいけないという、あらゆる支配秩序の「総破壊」という極論を掲げていたのである。そしてそうした総破壊がなされれば、支配なき自由を得た人々は自ずと理想的な連帯を実現するだろうという、もはや楽天主義とすら言えない極度に能天気な見通しを立てていた。

 つまり革命後の過渡期に引き受けざるを得ない困難について、実際に革命を成し得なかったレーニン以前の先駆者は、マルクス主義者もその敵対者も等しく、余りにも軽々しく楽観していたのである。だからレーニンが先輩たち同様の楽観主義を共有していたのも無理はないわけだ。

 これに対してマルクス自身はまだ幾分は慎重さを保っていた。繰り返し強調しているように、『ゴータ綱領批判』では貨幣経済という資本主義遺制の強固さとその克服の難しさが殊更強調されているのである。しかしレーニンもまた他の後継者同様に『ゴータ綱領批判』と『反デューリング論』の根本的差異に気付かず、『反デューリング論』の線で『ゴータ綱領批判』を読んでしまった。そのため貨幣経済の強固さという最も肝心な論点をつかめず、革命政府が国家を掌握して生産と分配を変えれば自ずと社会主義が実現するという錯誤に陥ってしまったのである。

 実際には革命政府が領導しようとするロシアの人々は旧時代の商業と市場経済への選好を強固に保ち続けたし、革命政府のほうは逆に商業も市場経済に対する理解も不足し、市場に替わる分配を実現することができずに経済を破綻させてしまった。

 そこで苦肉の策として採用されたのが「新経済政策」(ネップ)である。それまで行われていた戦時共産主義政策とは対照的に、強制収用を廃して食料税を課し、余剰分の販売の自由を認め、商業活動の活性化と一旦は否定した資本主義的市場経済の再現を目指したのである。これが資本主義の復活ではないのは通常の私的資本主義とは異なり、革命政府が掌握する国家が主導する「国家資本主義」だからだとされた。だからレーニンは22年のロシア共産党第11回大会報告で、暫くは資本主義の中で生きなければいけないのであり、プロレタリアートが主導する国家資本主義なので決して敗北宣言して資本主義に逆戻りすることではないが、破綻した経済を再興するためには、資本家のやり方を真剣に学ばなければいけないと総括したのである。

 今日では中国をはじめとする社会主義を標榜する政治勢力の多くがネップの先駆性を称揚するが、当のレーニン自身はあくまで苦肉の策であり、「戦略的後退」であることを強調していた。

 今日からみれば、社会主義といっても市場社会主義的な状態が比較的長期的に続かざるを得ないという前提で経済政策を組み立てるべきという話になるのは至極もっともという感じがするが、レーニンをはじめとする革命家の共通前提が資本主義を否定すれば自ずともっと合理的な経済運営ができるようになるという楽天主義だったため、実際にやってみて現実に機能しないという事態に直面して初めて、問題の困難さを理解したわけである。価値法則なしで簡単にやっていけるというエンゲルスの期待は裏切られて、新社会になっても価値法則に類似した遺制が残らざるを得ないというマルクスが警戒した通りに、貨幣経済及びその前提である市場経済の強固さ、商業活動に対する人々の渇望に直面して、本来の社会主義である非市場的な経済を土台とした新社会を築くことは直ちに実現できるどころかむしろ遠い未来に先送りにする他ないと軌道修正せざるを得なかったというのが、レーニンがネップを導入した理由ということになろう。

 そしてレーニンはネップによって先ずは資本主義的な市場経済を革命政府の指導の下で本格的に導入して経済を立て直すことを志向している最中に、志半ばにして斃れたわけである。

 レーニンの後を襲ったスターリンはよく知られているようにネップを終わらせ1928年に第一次五か年計画を発動し、後にソ連型社会主義といわれる計画経済に基づく社会を形作って行った。

 レーニンが50代の若さで斃れずにその後もスターリンに権力を奪われることなくソ連を領導していたら一体どうなったか。ネップを解除せずに恒常化して、その後の硬直した計画経済になるのを防げたのかもしれないが、歴史にイフはないので、こうしたことを考えても仕方ないだろう。ただ、レーニン自身がネップを戦略的後退と捉えていた以上、スターリンによる方針転換がレーニン主義の歪曲だと捉えるのは無理があろう。

 スターリンに敗れたトロツキーにしても、別に市場社会主義を提唱していたわけではなく、スターリンによって形作られたソ連社会を「堕落した労働者国家」だと捉えていた。

 歪められているとはいえ労働者国家であり、堕落した国家官僚に不適切に指導されているとはいえ社会主義には違いなかった。従って求められたのはシステムそれ自体を変更することではなくて、システムの担い手の顔ぶれを挿げ替えることに過ぎなかった。

 つまりトロツキーやトロツキストは、ソ連は生産様式としては既に資本主義を脱して社会主義に変革されていると認めていたのである。その意味ではトロツキズムにおいてもまた、その敵対者であるスターリニスト同様に国家計画経済が社会主義の適切な経済政策だと認められていたということになる。

 レーニン自身は自らが領導したロシア革命の性格規定にブレがあり、プロレタリア独裁を曲りなりにも実現できたといういう意味では資本主義を打倒して労働者国家に移行し得たという前提を持ちつつも、なお生産様式としては社会主義であり得ているのかどうかについては慎重な姿勢に留まっていたように見受けられる。この意味で、同じようにソ連の過渡期的性格を強調するとしても、レーニンと異なりスターリンやトロツキーのような後継者は、革命によって既に生産様式次元で社会主義に移行したと認定した上で、社会主義建設という点での過渡性を強調していたように思われる。

 つまり、スターリニストのようにソ連の現実それ自体を社会主義と見なすか、トロツキストのように真実の社会主義からの歪曲と見なすという違いはあるにせよ、経済的土台のあり方という観点からは基本的に社会主義的なものと認めるという点では違いがないということになる。対立は専ら政治の次元であり、政治的スタンスの違いが両者の社会主義観を分ける根本的指標ということになる。

 しかしこれはマルクス主義的な社会主義観という意味では、見過ごすことのできない錯誤だと言わざるを得ない。なぜならマルクスの社会主義論を他の対抗的な社会主義思潮と分かつのは、社会主義を資本主義に代わる独自の生産関係と捉えていたことだからだ。富の分配の方式でもなければ、政治指導のあり方でもないのである。土台が上部構造を規定し、生産のあり方が社会の土台たる経済の基本性格を決めるというのが唯物史観の基本観点であり、マルクスの社会主義観を他の社会主義論と分かつメルクマールである。

 ところが、トロツキズム及びこれに類似した政治思潮にあっては、同じ土台であっても政治的指導のあり方によって社会全体の基本性格が変わるというような議論になっている。これだとマルクスとは逆に上部構造が土台のあり方を規定するという話になってしまう。マルクス主義者であるはずなのに、逆にマルクスが批判したドイツ・イデオローグ同様の思考形式に陥っているということになりかねない。

 ではなぜこうした政治領域の過大評価が生じているのかといえば、既にレーニンにそうした傾向が強かったためだろう。例えば今まさに問題にしているレーニンの国家資本主義概念にその典型を見ることができる。

 「国家資本主義」は多用される割には意味が明確化されることが少ない概念である。特に普通の資本主義との違いが見え難い。どの論者も通常の資本主義に比べて国家の役割が大きい社会にこの概念を適用しようとしているのは間違いないだろう。レーニンもそうである。しかしそうした国家の役割がどの程度のものなのかは、恣意性が大きい。基本的に資本主義だが、通常に比べて国家の果たす役割が大きいという程度の話なのか、むしろ国家が決定的に重要であり、その地位はもはや通常の資本主義とは異なる社会とすら言えるというようなまでか、その違いが明確に規定されることは稀である。

 こうしたある意味では都合のいい概念のために、論者によっては極端な拡大解釈をしてしまうこともありうる。まさにレーニンがそうだったのではないか。

 レーニンは自他ともに資本主義を終わらせる革命を始めたと思っていたが、現実の経過の中で当面の目標は国家資本主義の確立だと定めてネップを発動した。一般的な意味での国家資本主義は資本主義の一種であり、通常の意味での国家資本主義を目標に定めたということは、ロシア革命は実は革命ではなく、革命は失敗したということになるはずである。なぜならマルクス主義の常識では革命とは生産様式の交代だからであり、資本主義という生産様式が根本的に変化したか、もしくはその存立基盤が完全に突き崩されたというのでなければ、革命とは言わないからである。

 しかしレーニンはネップを戦略的後退だと見定めたものの、けっして革命そのものの失敗とは認めなかった。ネップが目指す国家資本主義は資本主義ではあるがプロレタリア独裁の中で施行される経済であり、労働者の指導によって行われる資本主義である。従って労働者を支配し抑圧することによって成り立つ通常の資本主義と異なり、社会主義への過渡期であり得る資本主義である。その意味で革命は確かに革命であり、革命は失敗していなかったということになる。

 しかしこれはどう考えても唯物史観とは異なる考え方である。経済のあり方が土台となって政治という上部構造を規定するというのが唯物史観であり、マルクスの基本前提である。従って国家資本主義は資本主義であり、資本主義である限り、国家資本主義樹立を目指すような社会は社会主義への過渡期とは言えない。従ってロシア革命は残念ながら革命ではなく、革命であることに失敗した政治動乱ということになる。そのためソ連は社会主義ではなく、資本主義か若しくは資本主義に類似した社会であり、社会主義では有り得ないというのが唯物史観から導かれる自然な理論的帰結になる。

 しかしレーニンもスターリンも決してそうは考えなかった、ソ連は労働者が権力を握った労働者国家であり、レーニンにあっては社会主義への過渡期であり、スターリンにあっては既に実現した社会主義そのものとされた。そしてスターリン主義者だったソ連内外の共産主義勢力はソ連を共産主義祖国として支持し崇めた。

 こうして見ると、ソ連や特に中国がそうなのだが、現実社会主義は基本的に、自国が社会主義であることの根拠を生産関係という土台のあり方で語る以前に、共産党という労働者を代表するとされる政党が領導しているという事実に求めていた。経済システムが社会主義と呼ぶにふさわしい内実を伴って作動しているのかという、本来ならばというか、マルクス的な観点からはそれこそがメルクマールとなる基準はむしろ軽視され、ひたすらに共産党支配の事実を強調することで、社会主義勢力としての自らの正当性を強調するという作風に終始した。

 こうしたことがよく示されている一例が、スターリンが1952年に発表したいわゆる「経済学論文」である。この有名な論文でスターリンは、社会主義になれば価値法則が消滅するというマルクス主義の常識を否定し、「社会主義商品経済」という議論を展開した。これが問題なのは、ソ連はまだ市場社会主義段階だから本来の意味では社会主義ではないという常識的な認識を示していたのではなくて、ソ連は既に社会主義であるが、社会主義は市場社会であるとしている点である。高度な共産主義段階に至って、初めて商品経済が克服されるとするのである。

 勿論こうした議論も、社会主義一般を論じるという文脈ならばありうることではある。しかしそれは価値法則を直ちに無くすことを社会主義開始のメルクマールとしたエンゲルスは勿論、マルクスの構想とも異なる。マルクスからすれば商品経済は人間を商品という物にすることを前提とした論理によって成り立っている。しかしマルクスに拠れば人間はカントが人間をそう見なしたように目的的な人格であり、売買できる物件ではない。奴隷制社会は人間を奴隷として直接的に物件にした。平等を建前とする近代社会は奴隷的差別を否定したが、人口の大多数を、労働力を売る他ない賃金奴隷にするという資本主義という経済的土台の社会だった。つまり人間は労働力商品となることによって物件化されて、人格性を毀損され、人間らしい在り方から疎外されてしまうのである。

 マルクスはこうした物件化に拠る疎外を克服する前提として、商品経済の克服を求めていた。

 そのため、人類の本史である社会主義は商品経済では有り得ないというのがマルクスの大前提である。

 ただしマルクスはそれでも商品経済という「ブルジョア遺制」の強固さを認め、社会主義の初発段階では商品経済に類似した経済でありうる可能性を『ゴータ綱領批判』で示唆していた。しかもマルクスはさらに、資本主義から社会主義への過渡期においては利潤分配制を原理とする、今日的には市場社会主義ともみなしていいような変革構想を提示していた。確かにマルクスにはエンゲルスとは異なり、新社会建設という根本的変革の困難さへの自覚があった。

 しかしそうした市場社会主義的な社会はあくまで社会主義への過渡期であり、社会主義それ自体は物件化から生じる疎外を克服することを本義とする社会である以上、市場社会主義では有り得なかった。

 そしてスターリンには物件化論も疎外論もないため、商品経済が人間存在に及ぼす深い意味については理解していなかった。そのためあたかもマルクスやエンゲルスとは矛盾しないかのような表面的で詐術的な文献解釈に基づいて、「社会主義商品経済」をマルクス主義の真髄であるかのようにでっち上げることができたのである。

 どうしてこういうことをしたかと言えば、現実のソ連社会で資本主義同様の価値法則が作用していて、商品貨幣経済が克服される兆しなどなかったからである。到底社会主義とは言えない現実を認めて自己批判するのではなく、看板倒れを正当化してしまったのだ。

 レーニンは国家資本主義を目指す社会を社会主義への過渡と見なす錯誤に陥っていたが、そうした社会を社会主義と自称するまでには厚顔無恥ではなかった。マルクス主義者としての矜持があったのである。しかしスターリンは資本主義と実態を共有する社会を社会主義の実現と言い張りたいために、理論を捻じ曲げるのを躊躇しなかった。ここに経済的土台が上部構造を規定するという唯物史観の基本観点を完全に逆転させて、マルクスが批判したドイツ・イデオローグ同様に、政治が経済を規定するという転倒をマルクス主義だとする錯誤が完成したのである。

 しかしスターリンはレーニンを180度ひっくり返したのではない。国家資本主義を社会主義への過渡期と強弁したレーニンの極端な政治主義に、その根があった。確かにレーニンとスターリンを単純に同一視することはできない。その異同と功罪は細かく精査する必要がある。しかし社会主義的変革に対する基本方針においては、差異よりも旧通性が目立つ。それは土台が上部構造を規定するという唯物史観の基本観点を忘却若しくは形骸化し、極端な政治主義を打ち出したことである。

 こうした傾向に陥ったのは、やはり彼らが曲がりなりにも現実に社会主義を実現し運営しようとしたからだろう。実際に革命に身を投じ、革命後の社会を運営しようとすれば、現実を理論で測るという本来の方向性ではなく、現実に合わせて理論を変え、現実を理想に導くためではなく現実を正当化するために理論を利用するようになりがちなのは否めない。

 しかしこうした理論のあり方は間違いなくマルクスが『ドイツ・イデオロギー』で批判したような、単なる上部構造一般ではなく虚偽意識という意味でのイデオロギーのあり方そのものである。この意味で、スターリンは勿論レーニンに対しても、マルクスの正当継承者という旧聞を相対化し、むしろマルクスの真意を歪曲したところが大だったという批判的観点から評価する必要がある。

 勿論このことはマルクスを無謬の聖典とすることを意味しない。しかしレーニン絶対視という旧来のマルクス主義のドグマを捨て去って冷静に分析すれば、ロシア革命もソ連という現実社会主義も、マルクスその人の共産主義構想の地上的実現とはとても言えないと判断せざるを得ないのである。

田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)