十分でわかる日本古典文学のキモ 第八回 『日本永代蔵』(上) 助川幸逸郎

まだ「江戸時代」になりきらない世の中で育った西鶴

 今回の主役・井原西鶴が生まれたのは寛永19年(1642?)です。天下分け目の関ケ原の戦いが慶長5年(1600)、豊臣家が滅びた大坂夏の陣が慶長20年(1615)。西鶴が育ったのは、このふたつの戦いの記憶を宿した人びとがまだ生きている環境でした(たとえば、関ケ原と大坂の陣、双方に参戦した細川忠興は、正保2年(1646)まで生きながらえています)。

 わたしたちがイメージする「江戸時代」には、時代劇の影響が絶大です。そして、時代劇に描かれる「江戸風俗」は、文化・文政期(1804~1830)のそれを基盤にしています。『水戸黄門』や『忠臣蔵』など、元禄のころ(1688~1704)を舞台とする作品の場合でもそうです。

 けれども、江戸時代はじめの世の中は、さまざまな点で幕末とはことなっていました。

 「衣」に目をむけるなら、庶民は木綿ではなく、麻やカラムシで織られた服を着ていました。元禄時代はちょうど、木綿が普及していった時期にあたります。新しいもの好きの若者は、木綿に飛びついたでしょうが、麻やカラムシを着た保守的な高齢者も元禄の世にはいたはずです。

 「食」についていえば、庶民が一日二食から三食に移行しはじめたのが元禄期でした。また、「元禄都市住民」は、酒を呑むときは「はかり売りで買ってテイクアウト」がデフォルト。文化・文政期にひろまっていた「外呑み」の習慣は、まだ一般化していません。

 「住」の点でも、元禄時代は過渡期でした。菜種油が照明にもちいられるようになり、夜の明るさが劇的に改善されたのです(この結果、庶民の「宵っぱり化」がすすみました。食事の回数が二食から三食に増えたのも、「だれもが夜おそくまで起きているようになったから」といわれています)。

 江戸時代が江戸時代になる。そのうごきが本格化したのは、元禄以降のことです。西鶴の成長期は、「それ以前」の環境にありました。

赤穂事件は「かぶき者の叛乱」だった?

 社会にただよう空気も、江戸時代のはじめは殺伐としていたようです。捨て子や子殺しが横行し、辻斬りや放火も頻発。水戸黄門・徳川光圀でさえ、若き日に辻斬りをしたことがあったといいます。もめごとは暴力で解決、という戦国時代の遺風は、それだけ深く根をはっていたのです。

 とりわけ、「実戦要員」だった下級武士は、いくさで発散すべきエネルギーをもてあましていました。異様な髪型や服装をして、奇行・蛮行をくりかえす。刹那の衝動に身をまかせ、破滅的にふるまうことをよしとする――彼らの多くはそういうありかたを選び、世間から「かぶき者」と呼ばれました。「かぶき者」たちの生きざまは、上級武士や町人にも浸透。命をかえりみない「反・社会的行為」に走る風潮が蔓延し、その取りしまりは幕府にとって大きな悩みのたねでした。

「かぶき者」たちを懐柔することは不可能です(何せ、「死刑上等」と考えているわけですから)。そこで、口実をもうけてかたっぱしから捕縛し、極刑に処する。同時に、武士に儒教道徳と漢文を仕こみ、「戦闘員気質」を排して「文民官僚化」する(西鶴の生まれたころまでは、漢籍は僧侶のような「世捨て人」が読むもので、「武家男子」の必須科目ではありませんでした)。こうした「かぶき者」対策が実をむすび、元禄時代になると、犯罪率がいちじるしく低下していきます。

 もちろん「かぶき者」たちも、おとなしく弾圧されていたわけではありません。

『忠臣蔵』に描かれた赤穂の浪人たちは、二派にわかれていました。いっぽうは主家の再興が最優先。もういっぽうは「吉良の首をとって、主君の恨みを晴らす」というのが至上命題でした。これらふたつのグループは、軸となる階層がわかれています。「お家再興派」には藩の首脳が多く、「急進仇討ち派」の中心は下級藩士です。平和になりつつある世に永らえても、じぶんたちの居場所はない――そのことを見切って、討ちいりに「死に場所」をもとめた赤穂の「かぶき者」たち。彼らの存在がなければ、赤穂事件はおこらなかったと見られています。

 いくつかの偶然にもたすけられ、吉良邸襲撃は成功し、「急進仇討ち派」は本懐を遂げます。元禄15年春のできごとでした。駆除されつつある「かぶき者」たちが試みた「最後の抵抗」。そういう側面が、この騒動には隠されているのです。

西鶴の「かぶき者」気質かたぎ

 西鶴は、四十七士の討入を指揮した大石内蔵助よりも17?歳齢上でした。「かぶき者」の気風に染まっていた可能性は、生まれた時代を勘案すれば十分あります。

 散文フィクションを手がける以前、西鶴は商いで身を立てながら、俳諧師の看板を掲げていました。奇抜な作を好んで詠んだことから、「阿蘭陀流おらんだりゅう」と揶揄されたそうです。34歳のときに妻と死別すると、早々に頭をまるめ、隠居します。寿命のみじかかった当時でも、四十の坂も越えずにそんな真似をするのは常識にはずれています。このタイミングでの隠居は、まぎれもない「奇行」です。商人をやめたあとは俳諧に没頭するのですが、その没頭のしかたがまた変わっていました。短時間でどれだけたくさん句をつくれるか、という「矢数俳諧」に何度も挑戦。最終的には、一昼夜で23500句という大レコードを打ちたてています。おどろくべきエネルギーですが、それだけの数を詠むとなると、粗製濫造にならざるをえなかったでしょう。おそらくそのせいで、このときの23500句は、ひとつとして後世につたわっていません。

 周囲を挑発するかのような悪めだちする句をつくる。健全な市民としての生活を、はたらきざかりの年齢で放りだす。「大家」として歴史に名を刻むことに背をむけて、矢数俳諧の記録樹立に情熱を燃やす――こうした西鶴のありように、わたしは「かぶき者」精神のあらわれをみます。

 41歳で『好色一代男』を刊行し、西鶴は散文作家となりました。このデビュー作のタイトルには、ふたつの意味が同時にこめられています。「好色な男の一代記」であると同時に、「好色ゆえに一代で家を絶やした男の物語」とも解釈できるのです。破滅をおそれず刹那の衝動に身をゆだねる。そういう「かぶき者」の精神を、一代男・世之介は、生涯の行動規範としていました。

 さらに、『一代男』の4?年後の作である『好色一代女』について、詩人の富岡多惠子はつぎのようにいっています。

「自分の美貌に自信をもつ一代女の、変った髪型や若衆姿の女の子にあこがれるようなカブキ(異風)好きというキャラクタアが、その後の運命にかかわるような気がしてならない。(中略)近松の女たちの悲劇は、「親子」であること、「家族」のあることによって「好色=エロス」はつぶされ、また「好色」によって「親子」や「家族」が破壊される劇でもある。(中略)しかし「家族」をもたぬ、またもとうともせぬ一代女は、「姙振」や「出産」からは自由でも「生殖」(血筋をつなぐ)からは自由ではありえなかった男よりも個的な人生を送ったともいえる。」(『西鶴の感情』)

一代女には「かぶき者」気質があった。だから、「家族」や「生殖」にからめとられず、「好色=エロス的衝動」のおもむくままに生きた。そう、富岡はいっています。そして、みずからも「かぶき者」に深く共感していたからこそ、一代女のようなキャラクターを西鶴は生みだせた。「かぶき者」気質は、西鶴を考えるうえでのキーワードなのです。

「金などどうでもいい人間」が、なぜ「金もうけの話」を書いたか

 すでにみたとおり、34歳で西鶴は商人をやめました。こんな男が、「金もうけ」にほんきで心ひかれていたとは思えません。たっぷり蓄財し、老後の安逸をむさぼる――そんな「豚の幸福」とは正反対のものを、「かぶき者」を愛する作家ならもとめるはずです。

 では芭蕉のように、漢詩文に範をあおぎ、歴史にのこる文人をめざすのはどうか。これにも西鶴は抵抗があったでしょう。いかなる権威にも寄りかからない。それが「かぶき者」の真骨頂だからです。

となると、「よき組織人」たることを推奨する「武士道」的なものにもなじみようもありません。「かぶき者」気質だった赤穂浪人たちも、「死んだ主君」に対してだから忠義をつくしたのです。生きている主君、つぶれていない藩。そんなものに義理を立てるのは、くだらない「保身」である。「かぶき者」なら、そう考えるのが当然です。

『日本永代蔵』は、「長者経=お金もちバイブル」という副題をかかげます。そしてたしかに、「勤勉にはたらき、しぶとく財をなした人間」のことも語られる。けれども西鶴の筆がほんとうに冴えるのは、そのたぐいの面々を描くときでありません。権威にたよることなく、才覚と胆力で財をなした風雲児。逆に、夢やぶれて赤貧に転落した負け犬。『永代蔵』がスポットをあてるのは、「太平の時代」の枠からはみでるタイプの人間たちです。

わたしのみるところ、この作品でもあいかわらず、西鶴は「かぶき者」に同情をよせています。社会が安定してしまったいま、敷かれたレールからはみだして生きるのがすっかりむずかしくなった。「逸脱」が起こりうる「場」としては、色恋と銭の世界がのこるばかりである。そう考えた西鶴が、あえて挑んだ「金もうけの話」。おそらく『永代蔵』は、そのように読まれるべきなのです。

助川 幸逸郎(すけがわ こういちろう
1967年生まれ。東海大学文化社会学部文芸創作学科教授・岐阜女子大学非常勤講師。おもな著書に『文学理論の冒険』・『光源氏になってはいけない』・『謎の村上春樹』・『小泉今日子はなぜいつも旬なのか』・『教養としての芥川賞』(共著)・『文学授業のカンドコロ』(共著)などがある。