社会主義入門 第六回 マルクスの社会主義思想(その3)田上孝一

 さて、マルクスの社会主義(共産主義)に対する代表的な言及としては、『経済学・哲学草稿』や『ドイツ・イデオロギー』という初期著作におけるものと『資本論』での有名な文章、そして最終的な完成形としての『ゴータ綱領批判』のゲノッセンシャフト論がある。

 これらが全て一貫した視座に基いて展開されているということが、これらの議論を理解する前提となる。言うまでもなくそれは疎外の止揚による人間の実現として社会主義を位置付けているということである。そのためマルクスの社会主義論は内在的な一貫性が貫かれていて、旧説の否定による更新ではなくて、以前の議論を継承して発展させるという形になっている。『ゴータ綱領批判』は、30年以上前の『経済学・哲学草稿』の継承発展なのである。読者には、この前提を踏まえて、以下の議論を追うようにして欲しい。

 マルクスが社会主義論を最初に展開したのは『経済学・哲学草稿』で、その社会主義(共産主義)論は先に述べたように、「粗野な共産主義」のようなあるべきではない共産主義を類型化した上で、あるべき共産主義を明確化するという形を取っている。そして粗野な共産主義があるべきではないのはいうまでもなく、それが疎外の止揚ではなく、この当時のマルクスが「国民経済学的状態」と言い表していた資本主義における疎外の形を変えた再生産に過ぎないからだ。

 このためマルクスが望む共産主義は、「人間の自己疎外としての私的所有の積極的な止揚としての共産主義」ということになる。従ってその目標は、人間の自己実現である。

 この際マルクスは、共産主義によって実現されるべき人間を「社会的な人間」と言っている。ここで社会的というのは、「人間は社会的存在である」という場合のように、事実としての人間の基本的性格を説明するための記述的概念ではない。同じ『経済学・哲学草稿』で「人間的な人間」というような表現が多用されているように、人間がそうなるべきあり方になって本来の人間らしさを実現できているような、そういう理想的な人間のあり方を指示する規範的概念である。

 人間の理想を指し示す規範的概念が社会的人間ということは、人間は人間に相応しい形で組織化された社会の中に生きてこそ、そのアレテー(アリストテレスの用語で、そのもの本来のよさを意味する。マルクスははっきりとアリストテレスを意識して理論を展開している。)を発揮できる存在だということである。それだから社会主義や共産主義という理想的な社会形態が望まれるのである。

 社会主義なり共産主義というような、人間の社会的存在としての面を十全に発揮できる社会のあり方が理想として希求されるのは、そのような社会でなければ人間性が開花できないとマルクスが考えていたということである。それは人間が根本的に社会的存在なためであり、社会性を否定して、他者と隔絶して一人のみでいるのでは、人間は個人としても自己の可能性を実現できないということである。

 マルクスは資本主義において労働者の生産物は労働者から疎外され、疎外された労働生産物は労働者ではない人間である資本家という他者に私的に所有され、私的に所有された労働生産物は資本に転化し、その創造主である労働者自身を労働者の意図に反して支配するとした。こうした資本主義のシステムそれ自体が、人間関係が人間に相応しくなく歪められて組織されることから生じる。それだから個人の疎外を取り除くためには社会を無視して個人のあり方だけを考えても駄目で、個人が疎外されずに自己実現できるためには社会のあり方が変わらなければいけないとした。

 しかしこうした思考方法が意味するのは、目的は社会ではなく個人だということだ。個々人が自己実現できることこそが目的なのであって、社会主義や共産主義というのはそのための手段でしかない。

 こうした意見は伝統的なマルクス主義文献に慣れている人々からすれば歪曲だと思われるかもしれない。なぜならマルクス主義とは「ブルジョア個人主義」の対極にある思想だというのが通念だからだ。ところが『共産党宣言』には「各人の自由な発展が万人の自由な発展のための条件であるようなアソシエーション」という有名な言葉がある。

 この言葉は理想社会である共産主義の基本性格の概念規定として人口に膾炙されている。しかしこれまでのマルクス主義文献では自明なスローガンのように受け取られ、この言葉の理論内容それ自体は顧みられることが稀だった。

 この言葉を素直に読めば、共産主義であるアソシエーションの目的は「万人の自由な発展」ということになる。全ての人が自らの可能性を十全に開花できることが目的なのだ。それは各人が遍く自己実現できるということであり、個人の自己実現が目的だということだ。つまり目的は個人なのである。この「万人の自由な発展」が何か個人と対立する全体や集団を模範としたものでないことは、それが「各人の自由な発展」を前提条件にしていることからも明らかである。かつての現実社会主義諸国では全体のために滅私奉公できるような人間像を新たな理想社会の人間類型のように宣伝していたが、滅私奉公では各人が自己実現して自由に発展などできないのである。

 要するにマルクスの理想は旧来のイメージとは反対に、個人を目的とした、その意味では「個人主義」的なものなのである。

 しかしそうすると、ではマルクスはブルジョア個人主義者なのかという非難の声も出てくる。

 確かにマルクスは決してブルジョア個人主義者ではなく、ブルジョア個人主義が体現しているような、通俗的な意味での個人主義者でもない。

 マルクスといわゆる個人主義との異同は、個人を目的にしている点では同じだが、そうした個人を社会とは切り離さず、個人の自己実現と社会全体の向上を相即的に捉えるという点にある。まさに各人が自己実現できることが前提条件となって万人が自己実現できるのである。個人さえよければ全体はどうでもいいということもなければ、全体のためには個人的な欲は捨てよというスターリン時代のソ連に典型的に見られたようなプロパガンダでもない。

 これに対してブルジョア個人主義は、その名の通りブルジョア社会のイデオロギー的表現のため、資本の論理原則と軌を一にする思想となる。資本が社会全体の調和的発展など考えることなしにひたすらに利潤追求をするように、ブルジョア個人主義は社会全体のあり方など考慮せずに、自分さえよければいいという閉鎖的な思考様式に陥る。同じように個人を重視しているといっても、マルクスと異なるのは明らかだろう。

 しかしこのことはまた、マルクスの求める共産主義的理想が、非常に高邁でユートピア的な困難さを伴わざるを得ないものであることも意味する。

 なにしろ全員の自己実現が、誰の自己実現も犠牲にすることなしに可能となるような未来像だからだ。人類社会の前史に生きる我々には、こうした理想は突拍子もない空想のように思える。なぜなら我々は、夢とは限られた一部の者のみが実現できる奇貨だと思い込んでいるからだ。

 我々の社会では、富は貧困と裏腹である。競争に勝ち抜いて成功した者の裏には必ず敗者がいる。勝者は希少な資源を独り占めするか存分に受け取り、敗者は全てを失うか僅かしか受け取れない。人類の前史での自己実現とは一般に、他者の自己実現を犠牲にして成し遂げることができるものになっている。

 こうした社会に生きる我々からすれば確かにマルクスの理想が高邁に過ぎるように見えるし、実際マルクスの構想にユートピア的な夢想性があるのは、素直に認めておく必要がある。しかしだからと言って、マルクスの理想がフーリエ的な突拍子もない空想というのは当たらない。

 マルクスの求める理想社会では搾取が無くなり、各人が必要最小限に自ら求めて労働するだけで豊かな生活が保障されている。こうなった場合、そうした社会に生きる人が求める夢のあり方は、人類前史の人々の思考とは大きく変わっていると考えるのが自然だ。

 前史に生きる我々の夢は、その多くが経済的成功と関連している。地位と名誉は、常に経済的成功と結び付き、それだからこそ求められる。だからそうした社会的地位は、それを求めても得られなかった敗者の犠牲を前提とする。しかし共産主義的な理想社会では、各人の生活は既に高い水準で保障されている。我々の社会でのように他と比べて秀でることに傾注する意味がなくなる。頑張って受験勉強していい大学に入り、一流企業に就職して安定した高収入を求めたり、はたまた一発逆転を狙って起業してブルジョアになることを夢見るというような思考パターンは消失するのである。

 そうなると人々は基本的にゆったりと自分なりのペースで自己の可能性を開花させることができる。他者と競争して人より秀で、地位を独占するというようなブルジョア的な夢の実現方法を取る必要がなくなる。個人の自己実現が他者の自己実現の妨げになるような競争原理は克服されている。

 全員の生活が保障され、貧困が完全に消失した共産主義では、こういう豊かで余裕のある生活原理に社会全体が包まれている。こうした社会にあっては個人の発展と全体の発展がブルジョア社会や現実社会主義のように排他的に敵対することなく、相互前提的な調和関係にあるはずだろう。だとしたら『共産党宣言』のスローガンは、空疎な題目でも突拍子もない夢想でもなく、まさに共産主義的な理想の本質を宣言したものだと言える。

 こうしてマルクスの目指した理想である共産主義は、それ自体が目的として目指されるものではなく、個人の自己実現という目的が容易に達成できるような社会的条件としての手段として求められたのである。

 このことはまた、マルクスが資本の本質を疎外された生産手段であり、資本は生産手段として生産された生産物が生産の主体である労働者自身から疎外されて、労働者自身の産物として労働者が獲得できない結果として生じるとしていることと深く結び付いている。資本の原因が疎外なのだから、資本主義の否定としての共産主義の核心もまた「疎外の止揚」にならざるを得ない。そしてこのことはまさに、労働者である個々人が自己の疎外を克服できているか、個人が疎外されることなく労働を行い、その結果として自己実現ができるかということに共産主義の核心があることによる。

 マルクスがこのようなに理想社会を「疎外の止揚」という文脈に位置付けるのは、その若き日から晩年に至るまで一貫している。マルクスの社会主義論とは、彼が社会主義=共産主義者になった最初期の論考である『経済学・哲学草稿』から、彼の理想社会構想の最終形である『ゴータ綱領批判』まで、マルクスは一貫して個々人が自己の生産物から疎外されて自己実現が妨げられないような社会条件として来るべき理想社会を提起していたこと。そのためマルクスの社会主義論を理解するためには、全議論の前提となる疎外論が最も具体的に打ち出された『経済学・哲学草稿』の社会主義及び共産主義論を改めて理解しておく必要がある。

 『経済学・哲学草稿』の共産主義論については「粗野な共産主義」の説明で、あるべきではない共産主義の否定形として望ましい理想社会が提起されていることを触れておいた。それは「私的所有の積極的な止揚」としての共産主義だが、望まれる共産主義がなぜ私的所有の否定なのかといえば、私的所有が疎外の結果として生じるからである。

 この場合の疎外とは労働の疎外であり、労働の疎外とは労働者の生産物が労働者自身に獲得(Aneignung)されずに、労働者にとって疎遠(fremd)なものになることである。こうしてマルクスは常に獲得(Aneignung)と疎外(Entfremdung)を対概念として用いて、獲得が疎外されることによって、疎外された生産物は労働者以外の他者によって所有されるとした、この所有のあり方が私的所有であり、疎外された生産物を私的所有する資本家が今度は労働者自身の労働力を買い入れて所有することによって、労働者を生産のための手段として客体化し、客体化された労働過程を用いて資本蓄積を行う社会が資本主義だとした。

 この際マルクスが、労働とはその抽象的な意味において労働者自身の本質の対象化だとしたことに、彼の議論全体の基本性格を決定するような重要な意味がある。

 労働はその具体的なあり方においては労働者が自らの労働力を支出して使用価値を形成する過程である。そうした労働が同時に人間の本質の対象化だということは、それが疎外されることによって労働者はその人間性それ自体をも疎外されてしまうということを意味する。ということは、資本主義とは労働者が自らの人間性が奪い取られることを前提にして成立しているシステムということになる。ここから、そうした人間性を奪い去るシステムは許されないし、そうしたシステムは悪として批判され、実践的に転覆されるべきだという価値判断に導かれるのはごく自然なことである。

 これが、マルクスが資本主義を批判した理由である。マルクスが資本主義を批判したのは、単に貧富の格差を産み出すからではない。それだけならば、資本主義のままで事後的に分配を調節すればいい。既にマルクスは『経済学・哲学草稿』でも、所有を批判しながら実際には市場と私的企業を容認するプルードンの社会主義政策を「給料の平等」と位置付け、そうした給料の平等は労働者を「抽象的な資本家」にするだけで、労働者を真に解放することはないと喝破していた。

 つまり、求められるのは単なる物質的な富裕だけではなく、物質的な豊かさを前提にした上での人間性の自己実現である。それだから、資本主義を否定する運動としての共産主義は、労働者の自己疎外の積極的止揚になるのである。

 ということは、マルクスにあって社会主義とは、その本質において経済システム以上のものである。その目的はむしろ個々人の自己実現なのだから、個々人が実現できるための条件として求められるのが社会主義なのである。

 ここから、仮に資本主義のような搾取がなくなり、個々人が等しく物質的富裕を享受している社会であっても、そこにおいて個々人の自由が悉く抑圧されているような社会は、マルクスにあっては社会主義とは言えないことになる。

 こうしてマルクスはその若き日から一貫して彼の求める理想社会を、個人の自己実現という観点、しかしその個人はブルジョア個人主義のように孤立した個人ではなく、アソシエーティヴに連帯した諸個人がお互いを目的にしてそれぞれが自己実現できるようなユートピア状況として展望した。

 そのためマルクスは、既にそうした社会主義への基本観点の確立した『経済学・哲学草稿』で、個人の五感や意志や愛といった人間的感覚を解放させることをも求めている。

 「五感の形成はこれまでの全世界史の一つの事業である」と若きマルクスは言う。これは一体何を意味しているのか?

 五感というのは身体の性質であり、身体の性質である限り、世界史を超越した普遍性を持っているはずだ。世界史が始まって一万年も経っていないが、一万年前の祖先も現在の我々も身体の基本構造は同じである。この意味では五感というのは世界史の事業ではない。しかし人間は常に特定の時代と社会の中に生きていて、自然的身体の感覚もその属する社会によって強く影響されざるを得ない。

 例えば我々は走る際に腕を交互に大きく振って体をよじらせるが、こうした動きは近代以前の日本では一般的ではなかったとされる。江戸時代の庶民は我々が普通にできる単純な動作を、しかし我々のようにごく自然にできなかったというのだ。考えてみれば我々も小学校で走り方を習ったのであり、周りの大人も子供も普通に走っているので、そうした環境の中で自然に走り方を身に着けたのである。

 同じように我々は自然に音楽を楽しむことができるが、これは西洋音階をやはり幼児期から聞かされ教え込まれているからである。やはり小学校で、ピアノの音と共に起立して礼をさせられたが、これまた西洋音階を刷り込ませる一つの方法だったのだろう。また音楽というのも、その趣味は多様である。ミリオンセラーが連発されるジャンルの音楽は比較的馴染みやすい音作りがなされているが、モダンジャズなどは聴き込まないとその良さが分からなかったりすることも多い。高度なアドリブを楽しむためには、ある程度は耳が肥える必要があるわけだ。

 当時にジャズはなかったので何らかのクラシック音楽を念頭に置いてのことだと思うが、マルクスも「非音楽的な耳にはどんなに美しい音楽でも何らの意味もなく、何らの対象でもない」と言っている。対象というのは人間的本質を発現させる契機なので、対象ではないというのはそこにおいて人間の本質が実現できないということである。つまり音楽を楽しめるように陶冶されていない耳には、音楽という契機において人間らしい楽しみが実現できていないため、音楽が対象になっていないのである。

 当然これは音楽や走ることのような身体操作だけではなく、人間の感覚全般において言えることである。人間の身体自体が、社会的に形成されるのである。それだからマルクスは、「社会的人間の諸感覚は、非社会的人間のそれとは別の感覚なのだ」という。

 人間は社会的存在であるため、人間にふさわしい感覚は社会的感覚であり、非社会的感覚は人間にふさわしくない。この場合、社会的感覚にいう「社会」を、事実として存在する社会としてのみとらえたら、「非社会」は直ちに非人間ということになる。こうなるとここでマルクスは、人間の感覚は人間以外の存在とは異なるという当たり前のことを言っているに過ぎなくなる。

 だからマルクスが使う社会という概念は単に事実を示すのみではなく、事実がそうなるべき理想としての規範を指し示す規範的概念としても使われる。そのためここでいう社会的人間はむしろ「人間にふさわしい社会における人間」というような意味の規範的概念であり、共産主義的な人間である。それだから非社会的人間とは人間にふさわしくない社会における人間であり、我々のような現行の資本主義社会に生きる人間である。だから社会的人間の諸感覚が非社会的人間のそれとは別の感覚だという時、それは共産主義に生きる人間は資本主義に生きる人間とは違った感覚になっているということを意味する。

 労働という人間の本質的な活動における対象化が、資本主義においては疎外されるからである。本質の対象化が疎外されるから、感覚も疎外され、ひいては人間性全体が疎外される。だからマルクスは、資本主義を脱して、対象化が疎外されることなく実現する社会になることを望むのである。「人間的本質の対象化」が「人間の諸感覚を人間化する」ために必要なのである。

 こうしてマルクスにとって、社会主義や共産主義というのは単なる社会システムの問題ではない。社会としてのあり方はむしろ手段で、目的は「人間的本質の対象化」、つまり個々人が疎外されることなく自己実現されることである。

 このため、マルクスの社会主義論の延長線上である社会が社会主義であるかどうかを判定するためには、システムのあり方という形式のみならず、そこで生きる人々が人間にふさわしい生を生きられているかということが決定的な基準になる。当然現実社会主義はシステムの問題だけではなく、むしろ目的としての個々人の生を決定的に疎外する社会であり、マルクスの理論からすれば本質的に社会主義ではない社会だった。

 こうしてマルクスの社会主義論は、その出発点である『経済学・哲学草稿』から最終形の『ゴータ綱領批判』まで、一貫して個々人の自己実現を目的として設定し、資本主義的な桎梏から人間が解放される条件として構想されていた。マルクスは『経済学・哲学草稿』に先立つ「ユダヤ人問題に寄せて」で、ラディカル(根源的)な解放としての人間の「普遍的解放」を求めていた。この「ユダヤ人問題に寄せて」におけるラディカルで普遍的な解放の具体的な社会条件として構想されたのが、『経済学・哲学草稿』の共産主義論だった。

 しかし『経済学・哲学草稿』での理想社会論には決定的な不足があった。労働を疎外する資本主義の否定である共産主義が「疎外の止揚」となるのは論理的に導き出せる。では何をもってすれば労働の疎外が克服されたと言えるのか?

 問題を解決するためには問題の原因を解明しないといけない。労働の疎外が資本を産み出すのならば、労働が疎外されないようにすればいい。しかしそのためには疎外の原因が分からないといけない。『経済学・哲学草稿』ではその原因は分からなかったのである。

 だが、すぐ続く『ドイツ・イデオロギー』で、疎外の原因は「分業」だと明言されることになる。しかしこのことは、その後のマルクス研究において大きな課題をもたらすことになる。

 分業というのが人間社会にとって重要な意味を持つのは言うまでもないだろう。分業というのは一般に作業工程を分割することであり、細分化が進むほど生産効率は向上する。その意味で分業は文明社会の基本である。そのためアダム・スミスは『国富論』の冒頭でピン製造を例に取り、文明発展の基本が分業にあるのを強調したことは有名である。

 マルクスははっきりとスミスの認識を継承し、分業を「これまでの社会発展の主要契機」(『ドイツ・イデオロギー』)とまで高く評価する。

 しかし分業は作業を細分化するという点では、細分化された工程は単純作業になり、単純作業に従事する労働者の人間性は蝕まれる。この点はスミスも意識して、既に分業の否定面を指摘していた。しかしスミスにあっては分業それ自体を否定するという観点はなく、分業によって強制される単純作業によって精神的発達が妨げられる労働者を教育で救うという弥繕策しか示せなかった。マルクスからすれば労働は人間的本質の対象化なのだから、労働の結果として起きる疎外現象は、労働のあり方自体を変えない限り解決できないのである。

 だからマルクスは分業そのものの廃止を求めたのである。それだから、疎外の止揚として求められる共産主義社会は、疎外の原因である分業のない社会として展望される。

 この場合の分業は、作業場内部の肯定分割という意味のみならず、社会全体の規模で生産が分断されている状態全般にまで広く考えられている。そのためマルクスが想定する分業には都市と農村の対立も含まれるし、肉体労働と精神労働の対立は、代表的な分業の弊害になる。

 こうして分業によって労働が疎外され、疎外された労働の具体的展開の中で、都市が農村を搾取するような社会大的規模の分裂が生まれたり、本来は精神と肉体の両面を全面的に発達させる手段であるはずの労働が、どちらか一方に偏ることを強制されることによって逆に人間性を蝕む契機に転化してしまう。だから分業を無くして疎外を克服するというのが、マルクスの基本方針となる。

 しかしそうすると、疎外が無くなると共にそもそも生産力も喪失して、文明自体もなくなってしまうのではないか?なぜなら分業とは生産力の前提であり、これまでの文明発展の主要契機のはずだからだ。

 実際『ドイツ・イデオロギー』では、分業の否定が文明自体の放棄の意味するかのような、有名な文章がある。

 労働が分割され始めるや否や、各人は一つの特定の排他的な活動範囲に押しつけられるようになり、そこから出ることができなくなる。彼は猟師、漁夫、または牧夫、あるいは批判的批判家のいずれかであり、そして彼が生きるための手段を失ないたくないならば、彼はいずれかであり続けなければならない。──これに対して共産主義社会の中では、各人はどこまでも排他的な活動範囲を持たず、好みにかなうどの分野においても自已形成をすることができるのであり、社会が生産全般を統制しているのである。そして私にとっては、まさに生産の社会的統制によって、今日はこれをし、明日はあれをすること、朝には狩りをし、昼には釣りをし、夕には家畜を追い、そして食後には批判をすることが可能になり、私は猟師・漁夫・牧夫、あるいは批判家にならないという率直な欲望を持つことができるようになる。

 この文章については『99%のためのマルクス入門』や『マルクス哲学入門』等の拙著で解説してるので、細かな議論は割愛するが、要点は一読してここで描かれる共産主義社会が文明を否定した牧歌的な田園コミューンのように描かれているかのような印象を与えるというのが、問題の焦点である。

 それは分業が否定された共産主義で行う労働が、狩りや釣り、それに牧羊のような、いかにも田園的なイメージで描写されているからである。ところがこの箇所は実は、いったん「靴屋」、「庭師」、「俳優」と書いた後で抹消して書き直したのである。もしここの個所を抹消せずに、朝には靴屋になり、昼には庭師になり、夕べには俳優になるのままだったのなら、誰もこれを田園幻想のように思いこみはしなかっただろう。そうではなくて、ここで言いたいのはただ多面的な活動ができるようになるということだと、誤解なく伝わっただろう。

 実際これは田園共産主義宣言でも何でもない。なぜならこの共産主義は「社会が生産全般を統制している」ような高生産力社会だからである。この生産力の社会的統制という前提条件が強調されているのに、なおここでマルクスとエンゲルスが低生産力の田園コミューンを描いていたと勘違いされたのは、「分業の否定」ということと、一日に色々なことができるということの真意が後世の解釈者に伝わらなかったからである。

 それはマルクスやエンゲルスのような19世紀ヨーロッパの知識人と現代の我々との基礎的な教養の違いである。

 当時の知識人にとっての前提的な教養は古代ギリシアとローマの古典である、そして古代ギリシア人が思い描いた理想も、当然のように一般常識として知られていた。それは「カロカガティア」という、日本風に言えば文武両道に優れた普遍人である。同じ日本の伝統で言えば、「一芸に秀でる」とか「その道を究める」というのは、決して理想としてイメージされていないのである。

 そうすると、この文章でのマルクスそしてエンゲルスにとっては、真面目に田園コミューンを描こうという意識などなかったということになる。彼らからすれば、共産主義は資本主義の発展的解消なのだから、それが資本主義よりも物質的に豊かな世界なのは当然の前提で、その上で彼ら及び同時代人にとって馴染み深い古典的理想を言おうとしたに過ぎない。その際に、まさか後世の解釈者に誤解されるなどとは思わずに、軽いユーモアとして、狩りや釣りのような牧歌的イメージを利用したに過ぎないというのが真相だろう。

 従って「朝には狩りをし、昼には釣りをし、夕には家畜を追い」というのは、ただ色々なことができるということを言いたいだけで、その実例はどうでもいいのである。マルクスもエンゲルスも、軽い気持ちで書いたところが大真面目に受け取られてあらぬ誤解を与えると分かっていたら、決して一旦書いたものを書き直したりはしなかっただろう。

 しかしそうすると、「分業の廃止」というのは、決して「作業工程細分化の禁止」を意味しないということになる。なぜならばそういう普通の意味での分業の禁止ならば、まさに「生産の社会的統制」のような高生産力社会は維持できないからであり、資本主義文明の高次止揚という、唯物史観の大前提と矛盾するからだ。

 だからマルクスの言う分業の否定は、通常の意味での分業の否定ではなく、その結果として労働の疎外を生み出さないような労働の組織化のあり方である。

 この点でもマルクスは迂闊だった。マルクスからすれば、「分業の廃止」といっても、作業工程の細分化とか効率的な工程の組織化というような、生産力の前提となるような意味での分業を辞めると言ってると受け取られるとは思ってもみなかっただろう。しかし古典的普遍人の理想が常識化されていない後世の解釈者には、通じなかったのである。

 こうしてマルクスの分業否定論の主旨が明確になった。それは疎外の止揚である共産主義で実現される人間性の理想が、全体的な普遍人だということである。共産主義で実現される人間が、資本主義のように分業によって一面化されることのない人間であることが、マルクスの議論の核心なのである。

 そしてこれは初期マルクスに固有の理想ではなく、『資本論』の全面発達論に直結するマルクスの一貫した理想的人間像である。

 それだから、資本の原因が疎外であることを明確にした『経済学・哲学草稿』で、では疎外されない労働とは何になっているのかという話になるのだ。

 マルクスの言う疎外はEntfremdungの訳であり、反対概念はAneignungである。Aneignungは労働生産物が疎外されることなく我がものとできるという意味での「獲得」である。そしてマルクスは一貫してこの両概念を対にして使っている。ところが、これまでのマルクス研究者の殆どがこの事実をつかむことができなかったため、翻訳においては初期著作では獲得だが、『資本論』やその準備草稿では「領有」や「取得」と訳されるのが通例だった。しかし同じ言葉であり、その用法も一貫して、疎外されずに、奪われて他者の物となることなく我がものとできるという意味である。

 『資本論』第一巻第二十二章第一節のタイトルにあるUmschlag der Eigentumgesetze der Warenproduktion in Gesetze der kapitalistischen Aneignungは一般には「商品生産の所有法則の資本主義的領有(取得)法則への転回」と訳されるが、見られるようにここで領有または取得と訳される言葉の原語はAneignungであり、これを初期マルクス文献と統一させて「獲得法則」と訳しても何ら問題ない。

 実際この法則の核心を伝える文章の中で、この転回により資本家と労働者の交換関係は、流通過程で労働者が資本家に労働を提供して賃金を受け取るという外見的な形式に過ぎないものとされている。一見したところ単なる商品交換一般としての等価交換が行われているに過ぎず、そこには何らの不正もないように見える。しかしこうした形式的な外観は真実ではなく「仮象」に過ぎない。仮象的形式ではなく本質的内容は、流通過程ではなく生産過程で行われている労働力の搾取である。こうした真実が隠蔽されていることをマルクスは「内容そのものとは疎遠になった、内容を神秘化するに過ぎない単なる形式」と言っている。内容そのものから疎外されることによって内容が形骸化され、真実が隠蔽されるのである。つまりここでマルクスが、労働が自分自身から疎外されて、対象化した自己の本質である労働生産物が獲得できなくなりむしろ資本家のものとなってしまうという『経済学・哲学草稿』の疎外論を、等価交換という形式的な正義の下に行われる労働力の搾取という実質的不正の告発という形で、より洗練して深める形で再論しているのである。

 こうして疎外論は労働力搾取の批判というマルクスの経済理論それ自体の前提的枠組みである。それだから労働力の搾取によって成り立つ資本主義を否定する社会主義の本質は、それが疎外を止揚して行く過程にあるということである。そしてそうした疎外の原因が分業なのだから、社会主義の前提は分業の廃止し、分業に囚われない人間のあり方を実現する社会ということになる。しかし社会主義は現実的な社会のあり方としては資本主義によってもたらされた文明化作用としての高次生産力を継承して一層発展させることだから、ここにいう言う分業は生産力の前提である作業分割一般ではなく、疎外を生み出すような特殊な分業のありかたである。その正確な定義はマルクスによってなされなかったが、マルクスが例示する肉体労働と精神労働の対立のような、まさに個々人の自己実現を妨げるような労働の組織化の様々な具体層が、疎外の原因として退けるべき分業のあり方ということになろう。

 このようにマルクスの社会主義論は『ドイツ・イデオロギー』以降は常に分業批判を前提し、分業否定を出発点にして議論が展開されるのである。それだからマルクス社会主義論の最終到達点である『ゴータ綱領批判』でも、分業の克服は変わらず前提されているのである。

田上孝一(たがみ こういち)
[出身]東京都
[学歴]法政大学文学部哲学科卒業、立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
[学位]博士(文学)(立正大学)
[現職]立正大学非常勤講師・立正大学人文科学研究所研究員
[専攻]哲学・倫理学
[主要著書]
『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判──』(時潮社、2000年)
『実践の環境倫理学──肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ──』(時潮社、2006年)
『フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる倫理学』(日本実業出版社、2010年)
『マルクス疎外論の諸相』(時潮社、2013年)
『マルクス疎外論の視座』(本の泉社、2015年)