バター抜きは「ドライ」 第2回:世界の核とリミックス・カレー・ワンダーランド葛生賢治

ニューヨークはやはり大都会であってメガロポリスなわけで、いろんな人種、いろんな国籍の人々がごった煮状態で生活したり仕事したりしていた。

僕が通っていた大学院のそばにユニバーシティプレイス(University Place)という通りがあり、そこのワシントンスクエアに近いあたりに中華料理屋があった。正確に言うと中華&日本食のレストラン。日本人からすると「なんでまた中華と日本食が一緒の店に?」と思うかもしれないが、あの街では決して珍しくない。この場合の日本食とは「中国人が作る日本食」のことで、そもそも非アジア系アメリカ人には中国だろうと日本だろうと韓国だろうとそれほど差がないので、同じように顔の平べったい奴らが作る料理として、「日本食」がまかり通ってしまうのである。その店もご多分にもれず、中国人のレストランだった。中国人が出す日本料理。どんなものだろう。ニューヨークに越して少し経ち、そろそろジャンクフードにも飽きた僕は、とにかく白米が食べたいという理由で入ってみた。

メニューは英語と中国語で書かれていた。英語と中国語が読める人向けである。その段階で日本人をほとんど相手にしていない。ちょっと不安になる。料理は中華料理コーナーと日本食コーナーに分かれてメニューに記載されていた。ふむふむ。日本食。。

「カツカレー」とあった。あ、こういうところでカツカレーなんてあるのか。かなり現代的というか、スシ、テンプラ、フジヤマ、ゲイシャの世界ではなく、結構「今」のものを取り入れている。よし、これにしよう。

出て来たのはこんな料理。
かれー
千切りにされたキャベツが添えられた皿の中央に普通のトンカツ。最初から細く切ってあって、その上にわずかにソースのようにカレーのルーがかかっている。脇にはコーヒーカップ並みの小さな皿にインディカ米のようなパラパラご飯。それがカツカレー。まさかカツカレー。万が一カツカレー。

作った人間は明らかに本物のカツカレーを食べたことがない。「カツカレーの作り方」を伝言ゲームで伝えていって最後に出来上がったものがこれ、というような代物。味は、トンカツにカレーのルーがかかった味だった。想像と1ミリも変わらない。なるほどお。カツカレー。妙に広い店内に客は僕の他に3人くらいしかいなかった。宜なるかな。

面白いので、学校にも近いしその店には何回か通ってみた。「うな重」を頼んだ時には鰻の下にあるご飯が酢飯だった。酢飯に鰻の蒲焼のタレがかかったご飯がどれだけマズイかを知る日本人は少ないだろう。アナゴ寿司のシャリの味を想像してはいけない。お重にぎっちぎちに詰まった量なのだ。多勢に無勢。そして逃げ道が無い。ああ、食べたさ。食べ切ったさ。根性で。

そんな経験が出来るのもこの街ならではだなあと思った次第で。もちろん東アジア文化に詳しいニューヨーカーもたくさんいるけれど、多くの人は中国人だろうが日本人だろうが韓国人だろうが、目が細くて奇妙な言葉を使う人たち、と見ているので、「トンカツ」だろうが「うな重」だろうが、「本物」である必要はそれほど無い。その街に住む人たちに受け入れられたらそれが「正解」だし、受け入れられなければ「不正解」。それだけである。

そしてさらには、これはニューヨークという大都市の問題だけではなく、ルール無用の外食ビジネスの問題だけでもなく、人の営み一般の問題でもあると思う。そもそも、日本人が食べる「カツカレー」は「正解」なのか?カレーとは、誰もが知るようにインドのスパイスを使った料理である。インド生まれインド育ちで日本文化を全く知らずに育ったインド人にいきなりココイチのカツカレーを出して、果たしてそれが「カレー」と認識してもらえるだろうか?イタリア人はたらこスパゲティを「スパゲティ」と認めるだろうか?オムライスをヨーロッパ人に食べさせて「洋食」と認めさせることができるだろうか?

オリジナルとは何なのか。本質、核、定義、起源、言葉は違えど、要するにモノゴトがモノゴトたる所以、その物のアイデンティティーとなっているもの。それは実際のところ、「本物」なのか?

ニューヨークの地下鉄の駅でアフリカ系アメリカ人の学生数人に「おい見ろよ、ジャッキー・チェンがいるぜ!」ってからかわれたことがある。別の日には、道ばたでいきなり同じくアフリカ系アメリカ人に「ルーシー・リュー!」って叫ばれたことも。そもそも僕は男性だし、チャーリーズ・エンジェルに主演していない。黒縁の丸メガネをかけて髪はちょんまげにしてる僕は、どう見てもジャッキーに見えない。

彼らにとってそんなことはどうでも良いのである。要するに、チャイニーズな奴、チャイナマンなのだ。

そんなステレオタイプ的差別の経験を持ち出して「オリジナルなんてあいまいだ」と乱暴なこと言うな、と思われるかもしれない。確かに、そこで僕が経験したことは「誤解」であって、「モノゴトのアイデンティティーがあいまいである」というのとは別次元かもしれない。

でも、である。

そもそも僕は16歳でハイデガーに出会って形而上学的なものの見方、そしてその見方の「裏」のようなものに魅了され、10代20代をアイデンティティー・クライシスの中で過ごし、28歳で渡米して大学院で哲学科の学生に対面して生まれて初めて「仲間」を発見した。母国語は日本語だけど、複雑な考えを巡らす時には英語を使う。多くの日本人と基本的に話が合わないし、いまだに「先輩・後輩関係」というものに全く馴染めない。誰も口に出して言わないけどこの国でいまだに憲法のように守られている「30代の独身女性を見たらどこかおかしいと思わなければいけない」という暗黙のルールにも従えない。Dr.ペッパーが好きである。

僕は何をもって日本人なんだろう?国籍を日本国に置いているという社会的手続き以外に、何か「日本人としての核」のようなものが僕の中に存在しているのだろうか。それどころか、お向かいの渡辺さんや行きつけのデニーズのウェイトレス三田さんの中にも、お客さんを見ると必ず「しゃせー」って言う駅前のセブンイレブンの橋本さんの中にも、日本人としての「核」が存在しているのだろうか。

ジョン・デューイというアメリカの哲学者はモノゴトの核になっている「存在そのもの」を機能だとした。「機能」って何だろう?目の前にあるコーヒーメーカーはコーヒー豆と水を入れるとコーヒーを作ってくれるという機能がある。ペンには文字や絵を紙に記す機能があるし、男性用ネクタイはそれを身につけることで服装をフォーマルにするという機能がある。機能とは、モノがもたらす効果、と言い換えてもいいだろう。

では、機能はどこに存在しているのか?「コーヒーを作る機能」はコーヒーメーカーの「中」に存在しているのか?どら焼きの中にあんこが存在するように、コーヒーメーカーを分解したらそのプラスチックやコードやフィルターなどの部品の「中」に機能があるのだろうか。ペンを分解したらそこに「機能」があるのか。そうではない。機能とは、モノが他のモノと関わるときの、その関わり方のことなのである。コーヒーメーカーがコーヒーを作るというのは、その物体が「水」「コーヒー豆」という他のモノと関わって、それらを違った形態にする作用のことなのである。ペンが紙に文字を記すのは、その長細い物体(ペン)と「白紙」「インク」との関係に変化が生まれた、ということだ。ネクタイも、それを身につけた人とそれを見た人の間にある種の関係を演出するその作用は、あくまでネクタイとそれ以外のもので決まるのだ。

モノの「中」にないのだから、機能とはモノとモノの関わり方の中にあるわけで、ひとつのモノに絶対的にひとつの機能ががあるわけではない。コーヒーメーカーに茶葉を入れてお茶を淹れたら、それはその瞬間「お茶メーカー」となり、ペンでもって唐揚げを刺して食べたら、それはもはや「インク内蔵でちょっと太めの唐揚げ用串」である。ネクタイを頭に巻いたら「とてもカッコ悪いサラリーマンの余興を演出するパフォーマンスアイテム」だ。全ては、そのモノが他のモノとどういう関係を結ぶか、文脈と状況で決まるのである。

コーヒーメーカーは、コーヒーメーカーとしての「本質」「アイデンティティー」を、それ自体に含んでいるわけではなく、それはコーヒーを作る機能を果たす限り、今のところ、コーヒーメーカーである、ということになる。一定の期間にこれこれという作用をもたらしている限り、それが「とりあえずはそういうモノである」とアイデンティティーを保つのである。または、保っていると周りから認められるのである。デューイは言う。「This is red.(これは赤い)という文章は、This reddens.(これは赤いという機能をもたらす)という文章と同じことを意味する」と。目の前にある赤い物体、例えば林檎は、「赤い」という特徴をそのモノに含んでいるのではなく、それを見た者に「これは赤い」という印象を与える機能を果たしているのである。赤い林檎を見て、ある人は故郷の青森県に残してきた幼馴染の明美ちゃんの頬を思い出すかもしれないし、ある人は「この林檎は熟しているな」という知識を得て、それを食べようという判断を下すかもしれない。ある人は白雪姫の物語を思い出すかもしれない。それら全て、「赤い」という「機能」なのである。「赤い」は林檎に含まれない。「赤い」が他のモノにもたらす効果のすべて、それが「赤い」なのだ。突き詰めると、世界はモノで成り立っていなくて、モノとモノが互いに作用しあう関係から成り立っているのである。その関係は網の目のように張り巡らされ、常に違う風に張り直される可能性を含んだ機能のネットワークなのだ。つまり、「世界」とは「世界する」という、「機能」のなのである。存在は存在するという機能のことである、というのがデューイの機能主義のエッセンスだ。カツカレーはそもそも絶対的にひとつの「カツカレー・アイデンティティー」をその「中」に備えているわけではない。ネクタイが、頭に巻かれた瞬間にその機能を「フォーマルファッションのシンボル」から「メートルの上がったオヤジのシンボル」にリミックスするように、カツカレーは食べる者、受けとめる社会によって無限にリミックスされる「カツカレー機能」の可能性の束なのである。

僕が通った大学院はクリティカルな伝統が徹底されていて、哲学科の教授たちはみな「絶対的にひとつの核を探し当てようとする考え」には距離を置き、多くの場合それを批判していた。僕が理性の奥底まで吸収して我がものとしたのもそういう態度だった。ニューヨークという、人種のるつぼで文化の寄せ鍋(というか闇鍋)でカオスで究極に結果主義な街に生活することは、デューイの機能主義を理解するのにとても役立った。ニューヨークという街もまた、無限にリミックスされる可能性の束なのだ。

1ヶ月後、例の中華屋の前を通ったら、その店はつぶれて無くなっていた。そりゃあそうだろうなあ。いくらなんでもあのカツカレーは無いわ。

葛生賢治(くずう けんじ)
1970年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒用後、サラリーマン生活を経て渡米。2000年ボストンカレッジ大学院哲学科修士課程終了。2007年ニュースクール大学院哲学科博士課程終了。ニューヨーク市立大学哲学科非常勤講師を経て、現在東京にて執筆活動中。フリーウェブ雑誌「OUR」チーフエディター。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。趣味は駄洒落づくり。代表作は「オジー・オズボーンの叔父におスボーン履かせてちょうだい」。