バター抜きは「ドライ」 第6回 落下するクジラと、濁流の向こう岸と葛生賢治

世界があるとき突然、全く別の顔を持つものとして現れる。

そんな経験は、「別の世界が現れる」というより、自分がそれまでと全く違う世界にいることに後から気づく、というのに近い。気づいてみて初めて、ああ自分は少し前からもう別の世界に存在していたんだ、と分かる。それまでいた世界から今の世界へ、移動した瞬間には気づかない。どうやって移動したのかも分からない。境界線を一歩越え、二歩三歩越えた時点で、初めて「あれ、何かおかしい」と気づく。そこにはもう別の世界が広がっている。それまでの世界がどうであったか、もうぼんやりとしか思い出せない。そんな経験。

2001年は、その時ニューヨークに住んでいた僕にとって、そして世界にとってとても大きなことが起きた年だった。

9月11日。早朝に一本の電話で目が覚める。出てみると日本にいる母からだった。開口一番「けんじ、そっちは大丈夫なの?」と狼狽した声。

「大丈夫って、何が?」
「何言ってるの!いまニューヨークが大変なことになってるんだから!」

何のことか分からず、とりあえずテレビをつける。が、どのチャンネルもつかない。画面はどれも砂の嵐。当時、貧乏学生だった僕はケーブルを引いていなかったのでアンテナで受像できる局しかテレビ番組が見れなかった。世界貿易センターはテレビアンテナの役目を担っていたらしい。

三大ネットワーク局の中、唯一映る局があった。画面を見て絶句。ツインタワーのひとつが無くなっている。残った塔からはどす黒い煙が上り続けている。

ことの重大さに気づいた僕は母親に無事を知らせ(僕はマンハッタンから電車で15分ぐらい、イーストリバーをはさんで川向こうのクイーンズに住んでいた)、電話を切る。すぐさまニューヨークで働く日本人の友人から電話がかかってきた。

「葛生、だいじょうぶか?」
「うん、僕は平気だけど。それにしても、なんだこれ。どうなってるの?」
「よく分からない。」
「とにかくえらいことになっ、、うわ!」

電話してる最中にもう一つのタワーが倒れた。なぜか一瞬、水面から高く飛び上がったザトウクジラがその巨体を水に叩きつける姿が脳裏に浮かんだ。巨大な物体が驚くほどゆっくりと、場違いなくらい穏やかに落ちていく。その落下が意味することなどお構いなしに、穏やかに落ちていく。

電話をくれた友人とお互いの安全を確認し、電話を切る。さあどうしよう。どうしようもないけど、どうしよう。

翌日から、マンハッタンは厳戒態勢に入った。14丁目以南にある学校はすべて休校。僕の通うニュースクールも14丁目にあったため、全講義が休講。

数週間して学校が再開した。当時哲学科のディーンをしていたリチャード・バーンスタイン教授のセミナーに参加すると教授はまずこう始めた。

「いまこの教室の外で起きていることは分かっている。我々は議論を続けるべきだ。」

セミナーのタイトルは「プラトン哲学における愛について」だった。

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あの日、突然のウェイクアップ・コールで起こされると僕は別の世界にいた。正確に言うと、すでにかなり前から世界は別の世界へと変貌を遂げてしまい、それに気づかないで日々の暮らしを送っていた僕が、いきなり本当の世界の姿を目の当たりした、ということなのだろう。

それからテレビではジョージ・ブッシュが全ての言葉にスタンディングオベーションを浴びる演説をし、戦争が始まり、マイケル・ムーアのドキュメンタリー「華氏911」が作られ、様々な議論が様々な方向へと乱反射していった。乱反射がさらなる乱反射を生む中、リーマンショックが起き、バラク・オバマが大統領に就任し、オキュパイ・ウォールストリート運動が起き、世界はますますそれまでと異なる顔を見せていった。

もはや現実味を帯びなくなった現実が劇場の舞台の上でチャカチャカと現れては消えるのを繰り返すような光景。世界はフェイクとリアルが渾然一体となって押し寄せる濁流のようなものへと変貌してしまった。その世界の始まりは、僕にとって2001年のあの時だったのかもしれない。

2001年、僕はもう一つ、世界が違うものとして現れる経験をする。

春学期に、ニュースクールでセス・ベナルデティ教授による「プラトンの『パルメニデス』」講義に参加した。ベナルデティはニューヨーク大学でも教鞭を取るギリシャ古典専門の教授。ギリシャ古典のみならず、詩学や哲学の分野でも多くの著作を残し、その分野ではアメリカを代表する存在。我がニュースクールともつながりがあって、僕も彼の講義に参加できることになった。

参加してみて、とても後悔した。

講義の内容が信じられないくらい難しかったのだ。このコースはプラトンの著作「パルメニデス」を精読するというもの。そもそも「パルメニデス」という本自体、プラトンの書き残した対話編の中でも「もっとも謎めいた本」「人によっては単なる冗談でしかない」とまで言われる難書。存在(being)に関する形而上学的議論が8つの仮定を通じて展開していく。ベナルデティはギリシャ古典の専門家でもあるので、講義では古代ギリシャ語の詳細な分析が連続する。この段落に入るとこの名詞がいきなり登場しなくなる、これはつまりこういう議論に入ったからであって、この英訳を読む限りでは本質的な部分は見えてこないのだ、という具合。

渡米してわずか3年ほどで、今ほど英語がうまくなくて古代ギリシャ語もそれほど理解できない僕はもちろんのこと、教室にいた他のどの学生も音を上げていた。教授の講義が終わるとすぐさま一番前の席に座っていた学生(もちろんアメリカ人)が立ち上がり、後ろを振り返って、

“This is impossible!”(これ、無理!)

と言っていたのを今でも覚えている。

困った。とんでもないセミナーに参加してしまった。大学院博士課程の講義なわけで、落とすわけにはいかない。それどころか、悪い成績を取るわけにもいかない。アメリカの他の大学院、日本の大学院がどうかは知らないけれど、院でもってB以下の成績を取ることは「どうかしてしまった」と見られる。優秀な成績を取れて当たり前、取れなかったら「かわいそう」と見られる世界。

うーん。どうするか。どうすることも出来ない。ひたすら集中して講義を聞き、家に持ち帰ってテキストを読み返し、何度も思索するしかない。教室、図書館、家、の三角形を行き来する毎日が続く。

一人でうんうんとうなっているだけでは埒が明かないので、教授の研究室に質問に行くことにした。アメリカの大学院では教授が生徒の質問に答えるためのオフィスアワーを設けている。事前にアポイントを取っていれば直接いろいろ質問することができる。教授のオフィスはニューヨーク大のビルにあった。アポイントを取った日に行くと、教授はオフィスで僕を見るなり、ちょっと驚いたような顔をしていた。

「ん?君は昨日来る予定じゃなかったのかね?」
「え?あ、いえ、アポイントは今日という風に申し上げましたけど。」
「いや違う。予定は昨日だった。それは確かだ。私は昨日ずっと待っていたんだ。」
「あ、いえ、今日のはずでしたが、、、」
「いや、昨日だ。」
「、、、。」

やばい。教授の機嫌が悪い。僕としては電話で確実にその日だと言った覚えがあったんだが。今となっては僕が緊張から間違えたのか教授が聞き間違えたのか、分からずじまい。

さらに困ったことに、ベナルデティ教授、僕が一対一で細かく質問をしても、答えが講義と同じレベルで難しい。

「あの講義の中でこれこれこういう風におっしゃってましたけど、どういう意味なんでしょうか?」
「それは君、&%#$”*ということだよ(きっぱり)。」

ほとんど理解不能。うーん。

「あ、すみません。えっと、それはつまり、これこれこういうことですか?」
「だから君、%#&$+*なんだよ(きっぱり)。」
「、、、、。あ、申し訳ないのですが、ちょっと理解できません。」
「はぁぁぁ(ため息)。」

最悪である。こんなに理解できない説明をするのみならず、こんなにコミュニケーションが取りづらい教授も珍しい。ってお世話になった教授を悪く言うようで申し訳ないけれど。超一流の学者ではあっても、人としてかなり難があるような印象だった。

これはやはり僕が理解の遅い、出来の悪い学生だから、ましてや英語もネイティブより劣るアジア人学生だからなのか、と思っていたら、同じ講義を取っていたイギリス人のラファエルがこう言ってきた。

「ケンジ、聞いてくれよ。この前ベナルデティ教授の研究室に質問に行ったんだけど、まったくアクセス不可能だったんだ。」

マジでかー。イギリス人でもダメかー。

もはや出口の無い迷路に迷い込んだアリス。しょうがないから、黙々とテキストを読み、講義では教授の言葉を一字一句逃さないように集中し、出来るだけノートに様々書き残して家に持って帰っては思索を続ける。

結局のところ、その学期内では理解することは出来なかった。アメリカの大学院では学期末の課題をIncompleteという形でペンディングし、熟考して高いクオリティーのものに仕上げてから提出してよい、という制度がある。それだけ、低い価値のものを提出することは許されないというシステムなのだ。しょうがなく、この講義は屈辱のインコンプリート。僕は夏休みになってもパルメニデスと格闘することを余儀なくされた。

夏が終わると、例の同時多発テロが起きた。

マンハッタン中、アメリカ中が騒然とする中、僕は未提出の課題を抱え、机に向かう。毎日向かう。休校になっていた学校が再開し、他の教授の講義に出ながらパルメニデス。出口の見えないトンネルを、どちらの方向に進んでいるのかも分からず進む感覚。

すると11月になり、突然ベナルデティ教授が亡くなってしまった。

学校から通知が来たときには本当に驚いた。肺の病気だったと記憶している。こんなことってあるのか。この課題はどうなるんだろう。学校に問い合わせると、「しょうがないからニュースクールの古代哲学専門の教授が採点することになる」とのこと。

果たして、これは良いことなのか悪いことなのか。今まで難攻不落の壁であったベナルデティ教授の「最後の審判」は消滅したものの、他の教授が採点するとなると、今度はその教授の理解やら解釈やらが入ってくる。場合によっては僕が今まで積み上げてきたことが「すべて間違い」なんてことにもなりかねない。それだけ哲学者の立場とは多様であって、なおかつパルメニデスは様々な議論を呼ぶマテリアルなのだ。

締め切りはクリスマス前まで。もはや悩んでいる場合ではない。やるしかない。さらに思索を重ねる。

僕に残されたのは、セミナーの中で書き残したノート、それとプラトンの「パルメニデス」というテキスト。もちろん、古今様々な哲学者がこのテキストを論じているから、参考になる文献は多数存在する。でも、ベナルデティ教授の論点はとてもユニークで、それを踏まえた議論をしなればならない。幹がブレた議論は、議論しないことより始末が悪い。

セミナーを受けていた中で、僕にはとても気になる教授の言葉があった。

「プラトンはここで彼のイデア論を擁護しているけど、その擁護は、○○と××を例に出さなければ不可能なのだ。」(もちろん教授は「○○」と「××」なんて言わなかったけど、ここで細かい説明をすると膨大な量になってしまうので端折ります。)

イデア論というのはプラトン哲学の根幹に位置するもので、物質的なこの世界を超えたところに真の世界が存在する、というもの。要するにこの世を超越した「あっちの世界」があるよ、と。彼の残した膨大な対話編にはこれが多く登場する。このパルメニデスというテキストは、それに対する批判が提出され、その批判に対するプラトンからの反論が展開されている。

擁護には○○と××を例に出さないと、とベナルデティが言うのは、プラトンからの反論の中に、「例えば○○ってあるでしょ?ほらごらん。」「例えば××ってあるよね?ほらね。」という部分があり、「だからイデアは存在するのだ」といった具合に論が展開する。その「だから」がこのテキストのターニングポイントになっている、との教授の説明だった。

これが常に僕の頭に引っかかっていた。どういう意味なのだろう。何かこう、これが鍵となっているに違いない。僕は教授の生前、オフィスに質問に行ったときもこれについて質問し、教授からの答えを自分なりにあいまいに理解していたが、いまいち掴めなかった。もう一度ノートを見返す。テキストに戻る。またノートを見返す。そしてテキスト。記憶の中にある教授の言葉を一つ一つ思いだし、出来る限り正確に並べ、それらをバラバラにしてはまた再構築を繰り返す。どこかしっくり合点がいかないのは、どこかのパズルのピースがはみ出ていたり、足りなかったりしているからだ。どこが出ているのか?足りないのか?うーん。。

寒さを増すニューヨーク。街のショーウィンドウにはサンタクロースの装飾が並び出す。僕は学校と図書館と家のバミューダトライアングルに深く入りこむ。うーん。。

その時は突然やってきた。

頭の中でパズルのピースが全てつながった。大きな像が浮かび上がる。僕は大学の図書館にいて、閲覧室で机に向かっていた。目の前に、いや頭の中に、突然大きな像が広がった。思わず声を出しそうなほど衝撃を受けた。

うわ!そうだったのか!!

ここでは細かい議論を全て書くことは出来ないけれど、要するにプラトンの展開するイデア論の中に潜む矛盾点が浮かび上がった、ということ。もちろん、僕が考えたのではくて、ベナルデティの残した言葉を一つ一つ丁寧につなぎ合わせると、そういう議論が浮かび上がる。

イデアとはこの世の物理的現象を越えた領域の話であるが、それを「そんなものある訳ないじゃん」という批判に対して反論するとき、プラトンは「だって○○と××はあるでしょ。そして正しいでしょ、だから、イデアなんです」と言う。

しかし、○○も××も、それらが正しいとするなら、それはイデアなんて無いということの証明になる、という具合に隠し玉というか、地雷になっているのだ。自分の論を証明するための決め球が、実はそれを投げようとする自らの手を爆破してしまう手榴弾になっている、というわけ。

例えて言うなら、「あの森の中には人食い怪獣がいて、入って来た者すべてを食べてしまうんだよ。あの森に入ったら最後、誰も生きて帰ってこれない。生きて帰って来た者は今まで一人もいない」とすると、「じゃあそもそもなんで森の中に人食い怪獣がいるなんて言えるのか?」という疑問が出てくる。

ここまでパズルが繋がってみて、その矛盾ポイントが明らかになってみて、ベナルデティ教授とオフィスで話したときのある光景を思い出した。○○と××の部分について質問した僕に教授が答え、困惑した僕は、

「じゃあ、プラトンは結局イデアを証明できない、ということじゃないですか?」

教授は黙ってニヤリと笑った。

その笑顔を僕はその時まで、パズルが繋がるまで忘れていたのだ。我ながら迂闊だった。

かくして像は結ばれた。壁は越えられた。後は自分なりの意見と批判を盛り込み、一気に論を組み立てていく。完成したペーパーをニュースクールの教授に提出。評価はAだったと記憶している。

世界が全く違った姿で立ち上がる体験を2度したという意味で、2001年は僕にとって特別な年となった。文字通りウェイクアップ・コールで起こされて見た世界貿易センターが燃え上がる世界は、もはや僕の知らない世界へと変貌していた。いや、変貌した世界に知らずに入り込んでいた僕に、世界がその本当の姿を見せたのだろう。

死去してしまった教授の残した言葉と議論が浮かび上がった経験は、単に隠された答えが表に現れた以上の意味を持っている。図書館で孤独な格闘を続ける中で、僕の中に何かしらの変化が訪れていたに違いない。僕自身も何かしらの変貌を遂げていたのだ。

そしてそれは、今まで見えなかったものが見えた、点と点が線で結べた、という次元のものだけでもない。

迷宮に入り込んでいた僕は、教授の言葉を再構築しながら、自らの世界観を再構築した。と同時に、とても奇妙な言い方だけれど、僕が世界観を作り変えるのと「世界そのもの」が本当に姿を変えるのとが、同時に起きたのである。

単に「僕だけの世界」が変わった、僕が勝手に自分の世界観を変えた、ということだろうか?そうではない。僕は確かにベナルデティの世界観を共有したのだ。もちろん、その全てでは無いとしても。

何故そう言えるのか?像が浮かび上がった瞬間の驚きは、世界を再発見する喜びというレベルを超えて、自分が新しいモノとして世界に存在する喜びだったからだ。僕が「わかった」のは、単なる知識でもデータの組み合わせでもなかった。もはや二度と同じように世界を見ることは出来ない視点の移動。新しい世界を手に入れた開放感。充実感。「わかった」と言うより、「掴んだ」という感覚。「成った」と言ってもいい。それはすなわち、僕が別の世界に入ったこと、世界が僕にとって違うものとなったことを意味していた。その時の衝撃は昨日のことのように思い出せるし、いま僕が住んでいる世界は、その時に入り口が開かれたものなのである。プラトンの議論は、そこへ身を投じる者に世界の再構築を促す扉だったのかもしれない。

ツインタワーが黒煙を上げてゆるやかに崩れ落ち、世界に不安と混沌の穴が開いたその年、僕は形而上理論の濁流に飲み込まれながら、静かに次の世界へと移行した。

図書館を出ると12月のマンハッタンの刺すような空気が頬に痛かった。街にはジングルベルが流れていた。

葛生賢治(くずう けんじ)
1970年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒用後、サラリーマン生活を経て渡米。2000年ボストンカレッジ大学院哲学科修士課程終了。2007年ニュースクール大学院哲学科博士課程終了。ニューヨーク市立大学哲学科非常勤講師を経て、現在東京にて執筆活動中。フリーウェブ雑誌「OUR」チーフエディター。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。趣味は駄洒落づくり。代表作は「オジー・オズボーンの叔父におスボーン履かせてちょうだい」。